ACT.2
広瀬氏が妻の菜穂子を疑い始めたのは、本当にごく些細なきっかけだった。娘や息子が小学校の時から親しくしている近所の奥さんに、
”ラ・ブランシュ”に連れて行って貰ってからだという。
最初は”味が美味しい”とか”値段が安い”とか、そんな当たり前の話しかしなかったのに、そのうちに次第に店のことは話さなくなった。
『少し立ち入ったことを聞かせて頂いて構いませんか?』
俺の言葉に、広瀬氏は覚悟していたように、大きく頷いた。
『奥さんとの夜の生活の方には、何か変化はありましたか?』
『妻は元々淡泊な方でしたし、私も仕事が忙しかったものですから・・・・それでも週に一回くらいは必ずありました』
今でもそれは同じなのだが・・・・と、そこで少し言葉を濁した。
『でも、奥さんの態度が明らかに違う。でしょ?』
俺の言葉に、彼は否定することなく、そうだと答えた。
自分が求めても、応じてくれはするのだが、どこかうわの空のようなところがあり、心の中は何か別の所に飛んでしまっているような、そんな感じだという。
『妻はとても優しい、私や子供たちに対しても十分に尽くしてくれました。その彼女がああなってしまったのは、何かきっと訳があるに違いありません。お願いします。どうかそれを突き止めてくれませんか?』
俺は彼の表情をじっと見つめた。何か思いつめたようなものがあるな。そう思った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
のっけから
菜穂子が毎週通い詰めているその”ラ・ブランシュ”というフレンチレストランは、水曜日は何故か開店から午後8時の閉店に至るまで、男子禁制、つまりはどんな理由であれ、”女性客以外はお断り”というわけだ。
一度試しに突撃してみたものの、カマキリ顔のギャルソンから、慇懃に断られた。
それだけじゃない。
女性客からも、まるでゴキブリでも見るような目で見られてしまった。
男だというだけで、客は店の前にも立つことは許されない。
それほど警戒は厳重なのだ。
これでは
仕方ないな。
車の運転と電脳関係以外は、出来れば人の手は借りたくなかったが、やむを得まい。
『へぇ、あんたが私に頼み事って、珍しいわね。探偵さん』
彼女はドレッシングルームの鏡に向かって、熱心に化粧をしながら、ドアの直ぐ脇に寄りかかって立っている俺を覗き込むようにして言った。
ここは横浜にあるショーパブ。
そして、ここはその楽屋、今俺の目の前にいるのは、ダンサーの
”ベル”こと、イザベル・タキガワ・マルティネスその人だ。
(*彼女について知りたければ『恋するマリー』参照のこと)
『まあ、いいわ、丁度こっちも新型ナントカウィルスのお陰で商売あがったりだったし、それに私の可愛い人、マリーからの紹介とあれば、無下にも出来ないしね。』
”私の可愛い人、マリー”とは、当然ながら俺とは浅からぬ因縁の、あの
切れ者、警視庁外事課特殊捜査班主任の五十嵐真理警視その人だ。
初め俺はマリーその人に頼むつもりだったが、彼女は現在別の仕事で忙しく、手が離せない。
そこで”彼女なら大丈夫なんじゃない?”と、マリーに声をかけてくれたという訳だ。
”可愛い人”とは、意味深な呼び方だが、知っている人は知っているだろう。
ベルとマリーは恋人同士・・・・どちらもバイセクシュアルなのだ。
『引き受けて貰って助かる。何しろ男じゃどうにも手が出しにくい”女の園”だからな』
俺はシナモンスティックを咥え、ほっとしたような表情で彼女に言った。
『危険なことはないと思うが、もし万が一何かあったら・・・・』
『大丈夫よ。私だってこう見えてアブナイ橋を度ってきた女ですからね。その代わり報酬は弾んでもらうわよ』
彼女は悪戯っぽく微笑み、ウィンクをしてみせた。
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