その坂の名
四谷軒
小澤原の戦い
――その坂の名は、今はまだ無い。
その坂の上から見下ろすと、眼前には多摩の川原が広がり、そこから向こうはどこまで行っても夏草の茂る武蔵野だった。
坂の上に寝そべり、草を
時は享禄三年(一五三〇年)六月。
所は武蔵、小澤原。
後年、川崎市となる多摩川の南のあたりは、当時は武蔵国に属していた。
「
少年は誰に言うでもなく、ひとりごちた。それを聞いた脇に侍す少年が反駁した。
「何の、まだ緒戦。決めつけるのは早うございますぞ」
「小太郎、飾るな。敗けたんじゃ。この北条新九郎氏康の初陣は、敗けと相成った」
北条氏康、当年取って十五歳の少年は、ふてくされたように言った。
「新九郎……」
氏康の乳兄弟・清水小太郎吉政は主君にそれ以上、何も言えなくなった。
「すまぬ、小太郎。だが、これは父上の命どおりやれたということでもある」
新九郎と小太郎は、先刻の戦を脳裏によみがえらせた。
「上杉、何するものぞ!」
武蔵野奪還を期す、足利幕府の名門・
渡河時の襲撃は兵法の常道だが、いかんせん衆寡敵せず、氏康は見事に敗退した。
従来、臆病な少年として知られていた氏康だったが、この時は珍しく陣頭に立ち、朝興目掛けて
「氏康? 氏綱の小倅か! しゃらくさい!」
六年前、朝興は氏康の父・氏綱相手に高縄原の戦いで敗北して以来、北条家に苦杯をなめさせられていたが、今こそ恥を
「……して、
「万事、手筈通り」
場に三人目の登場人物が現れた。このあたりの土地に在を持つ地侍、中島隼人正である。
「……では、上杉の荷駄は?」
「全壊とはいかないが、半壊」
隼人正は簡潔に答えて、腰を下ろした。座る椅子は無く、三人とも当然、夏草の上に直に座った。
「重畳」
氏綱は氏康の初陣にあたり、仔細は任せるが、時間を稼ぐよう
「しかし、若殿」
小太郎は隼人正がいるので、口使いを公的なものに戻す。
「これで善うござるか?」
「
あの時、無謀ともいえる突撃の渦中、氏康率いる本隊が朝興にむしゃぶりついている最中、小太郎と隼人正の別動隊は荷駄隊を襲撃した。時間稼ぎという命題を、氏康なりに考えた答えがこれだ。
初陣で敵将を討ち果たすなど、軍記物語でもなければ不可能。ならば、自らは囮となり、主力の小太郎と隼人正で戦闘力の低い荷駄隊を衝く。
その結果、兵糧を調達する必要に駆られた上杉軍は、止まる。止まったところを、また荷駄隊を襲ってやれば良い。
「大軍であるが故の弱点よ。そのうち、父上が来ればこの役目も終わる」
「だから、それでいいのか、と聞いておるのじゃ、新九郎!」
小太郎の大声に、隼人正の方が
「
氏康は本心から言うと勝ちたかった。しかし、兵数の差から言って、まともに戦っては勝てないということは理解していた。その上で、主君であり父である氏綱は、仔細を任せるが時間を稼げば良い、と
「大体だな、小太郎。あの父上の命に背いて、ただで済むと思うておるのか?」
「うっ」
祖父・宗瑞は氏康と小太郎には甘かったが、その分、父の氏綱は厳しかった。
「……下らん騒ぎにつき合わせてすまんの、隼人正」
「……いえ」
隼人正は羨ましそうに氏康と小太郎を見ていたが、厳かに沈黙を守っていた。
「すまないついでに隼人正、上杉の行方を探ってきてくれ。上杉の足が早いのなら、追っかけるからの」
「承知」
隼人正は一礼して、駆けていく。小太郎はその背を見送り、氏康はまた地面に寝転んだ。
*
「今宵はこの地に留まる。明日か明後日には、小倅ではない、北条の親玉を迎え撃つことも有り得る。万全を期す」
氏康の籠る小澤城を望みながら、上杉朝興は全軍に触れを出した。北条氏綱には六年前、武蔵高縄原で激突し、ぎりぎりまで競り合った挙句、調略により敗走を余儀なくされた苦い経験がある。小澤城の小倅など恐るるに足らず。問題は氏綱への対処であり、宿願である雪辱を果たすのは、今これからなのだ。
陣営を設けている最中、家臣から具申があった。
「殿。荷駄がやられたので、兵糧がいけません」
「承知しておる。だが、そんなものは調達すれば良い」
「調達……近隣の村からですな」
「そうよ。たしか年貢が四公六民とかいう分けなのだろう? なら、その六民の方から奪ってやれ」
「御意」
家臣は腕を振るって、何人かを引き連れ、
*
「上杉め! 四公六民はお前らの腹を満たすためのものではないぞ! 穀潰しが!」
小太郎の憤りを
「父上の襲来に備え、今夜はこの小澤原に留まると、そう言うたのだな」
「左様」
「しめた」
氏康は小躍りした。
「では隼人正、金銭はこちらで出す。近隣の者に上杉に酒食を供するよう、頼んでくれぬか」
「…………」
「おい新九郎、いくら時間稼ぎが出来るとはいえ、やり過ぎではないか?」
流石の隼人正も面食らっているので、小太郎が発言した。
「いいんだよ、小太郎。たっぷり食って、たっぷり飲んで、そしたらやることは何だ?」
「小便か?」
「面白い! だがちがう、これだ!」
氏康はまた大地に寝転ぶ。
「さあ今から寝るぞ! 隼人正、酒食を供させたら、そのまま手勢を連れて、上杉の陣近くに伏せてくれ。小太郎、お前は夕刻になったら俺を起こせ。交代で寝ておくぞ」
言うが早いが、氏康は
*
夜の武蔵野。
満天の星。
梟の啼く声。
群舞する蛍。
虫の鳴く声は途絶えることなく、むしろ昼よりもうるさいほどだ。
「…………」
氏康と小太郎は手勢を引き連れ、上杉軍の陣地を目指している。鎧兜は外し、音を立てずに、忍びやかに向かう。さながら蛇のように、ぬるりぬるりと草原を這いずるように移動する。
氏康が無言で手を挙げる。小太郎は兵たちに止まるよう合図をする。
氏康の視線の先には、
上杉軍の陣地は、酒宴を終え、寝るものは寝て、飲み食いしたいものは飲み食いをしていた。
つまり弛緩しきっていた。
「夜討ちして下さいと云っているようなものだ」
「したが新九郎、われらは小勢。撃退されるやもしれぬぞ?」
「そうなる前に朝興を討ちたいが……策はある。行くぞ」
氏康は抜刀する。小太郎も配下に命じ、全員抜刀させた。
「…………」
無音かつ素早く氏康は篝火の向こうへ移動し、ちょうど見回りに来た上杉兵を斬った。
「……ひっ」
「つづけ!」
血刀を振り上げ、氏康は陣中へ突入した。
「……兵らの騒ぎは何か。酒を過ごしたにしても、
朝興は寝所から近侍に問うた。だが、近侍から応えの前に、どよめきが響いた。
「北条氏綱……見参!」
「上杉朝興! 我こそは北条氏綱……いざ尋常に立ち会え!」
「なっ、何事!」
最後の叫び声は朝興自身のものである。仇敵と定めた氏綱が来たのは良いが、いくら何でも早過ぎる。しかし、機略縦横の氏綱なら、それぐらいのこと、あり得るとしか言いようがない。
少なくとも、朝興は、そう思ってしまった。
「太刀を取れ! 馬引けい! このままでは危うい!」
朝興は甲冑をろくに身に着けず、最低限の格好で馬に乗り、そのまま退陣を始めた。
「殿! いずこへ!」
「知れたこと! 退くのじゃ! 敵は深大寺の砦を調略してるやもしれぬ!」
浮足立って撤退する朝興の前方に、新たな軍勢が現れた。その旗印は三つ鱗。
「ほっ、北条!」
「どこへ逃げる上杉! いざ勝負!」
動揺しているところへ、後方から先ほどの敵軍が襲い掛かり、主将の朝興を含め、上杉軍は総崩れとなって潰走し、前進基地である深大寺砦ではなく、本拠地である河越城まで逃げ込んだという。
*
夜明け前。
北条三つ鱗の旗を背にした騎馬武者たちが、小澤原を駆け巡る。
「……やはり、朝興はいないか?」
「これでは最早、逃げおおせたとしか……」
「追撃は流石に無理かと」
氏康は馬を労うように撫でる。
「敵将討ち取ったり、とまではいかぬか」
「すりゃ、出来過ぎだ、新九郎」
「欲はかかぬ方が身のためかと」
小太郎と隼人正は下馬し、それぞれの愛馬を休ませる。
「しかしまあ新九郎」
「何じゃ小太郎」
「よくあんなことを思いついたな」
「賭けじゃ、賭け。駄目だったらそれこそ逃げるつもりだった」
「大殿の名前がここまで効くとは」
「朝興は、高縄原で父上に負けて以来、気にし過ぎなのだ、父上を。だから父上の名を使えば、仰天するだろうと思ってな。それに、嘘は言ってないぞ。ちゃんと北条氏綱嫡男氏康と言ったからな」
「嫡男氏康のところだけ小さかったぞ」
「うるさいぞ、それが兵法というものだ」
そこまで言ったところで、三人の東にある坂の上から、朝日が差し始めた。
そして朝となり、日輪は氏康の勝利を
氏康は今更ながら、勝利の興奮がこみ上げ、抑えきれなくなった。
気が付いたら氏康は、朝日に向かって、坂を駆け上っていた。
「勝った! 勝った!」
――以来、その坂を勝坂と云う。
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