森のブランコ

へろりん

森のブランコ

 木洩れ日の中、僕はブランコに揺られていた。

 鬱蒼とした森にある歳経た大きな椎木シイノキ

 僕は、その太い枝にしつらえられた二台のブランコの片一方かたいっぽうで揺られていた。

 俯いたまま木立ちを渡る涼風に吹かれて、ゆらり、ゆらり。

 ブランコの金具が軋んでキィと鳴る。

 いつもなら、もう片方にはあいつがいるのだけれど、今は誰もいなかった。

 物心ついてからずっと一緒だった幼馴染のあいつが。


「学生さん」


 顔を上げると、空だったブランコに年老いた男の人がいた。

 何処か見覚えのある人だった。


「今日は一人なんですね」


 皺の刻まれた口から、しわがれた声が溢れる。


「いつものお嬢さんは、どうされました?」


 老人の問いに僕は一瞬目を見開いた。


「知っているんですか? 僕達のこと」

「知っていますとも」


 柔らかな笑顔で老人が答える。


「ほんの小さな頃からね」

「そんな前から?」

「時の流れは速いものですな。もう、高校生ですか」


 木漏れ日の中で老人の笑顔は、気のせいか悲しげに見えた。


「そうそう。其処そこれを拾いましてね」


 老人は黄色いリボンを見せた。


「あのお嬢さんのでしょ?」


 それは、確かにあいつの物に違いなかった。


「丁度よかった。貴方から返していただけませんか」


 あいつとの現状を考えるに老人の依頼を受けるのは憚られたけれど、半ば強引に押し付けられて仕方なく受け取る。

 余程に困った顔をしていたのか、老人が聞いた。


「喧嘩でもされましたか? いつも仲がいいのに」


 図星だった。

 まさにあいつと言い合いをして、気まずくなっていたところだった。


一時いっときの感情に任せて仲違いしてしまうのは感心しませんな。取り返しのつかないことになってから後悔したのでは遅いのですから」


 老人の目が僕を見た。


「何年も、何十年も後悔することになってはね」


 深い皺が刻まれた目は真剣で、淋しげで、老人は曖昧に笑った。


「ひとつ昔話をしましょうか」


 僕を見つめたまま、曖昧に。


「これから後悔しないように」


 淡い木洩れ日の中、そして、老人は話し始めた。




 僕には幼馴染のが居ましてね。

 引っ込み思案で、怖がりで、一見大人しそうに見えて、その実こうと決めたら曲げない我の強いところのあるでした。

 僕らは幼い頃から一緒に大きくなったんです。

 お二人と同じように。

 彼女はこのブランコが好きでね、怖がりの癖に思いっきり押してやると、きゃっきゃ言って喜ぶんです。

 小学校に上がる前のほんの小さいときの話ですよ。

 僕は彼女がそうやって喜ぶのが好きで、それが嬉しくて。押すたびにもっとっもっとって、空まで届くかってぐらいにブランコが揺れて。


「私、大きくなったら、トモ君のお嫁さんになる!」


 なんて彼女が言うんです。

 ほら、女の子って早熟で、そういうことを言いたがるものでしょ?

 僕はそれが気恥ずかしくて、でも、嬉しくて。

 森のブランコが大好きでした。




 大きくなり思春期を迎えた頃、僕らの距離は少し遠のいていました。でも、森のブランコが好きなのは変わらなくて、示し合わせた訳でもないのにしばしば並んで揺られていました。

 森のブランコが僕らを繋いでくれました。

 二人揃って同じ高校に入ると、僕らはまた幼馴染に戻りました。

 一緒に登校して、同じ校舎で勉強し、下校時間になると一緒に帰りました。

 時々寄り道して、繁華街で買い物したり、図書館で勉強したり、ブランコに乗りに森へ行ったりしました。

 相変わらず彼女はブランコが好きで、でも小さい頃みたく無茶な乗り方はしませんでした。

 木漏れ日の中、並んでブランコに揺られていると、あっと言う間に時間が過ぎて行きました。

 入学して一年が過ぎ、二年に進級して暫く経った頃のことです。

 僕と彼女はいつものように並んでブランコに揺られていました。

 でも、雰囲気というか、空気感というか、何かが違っていて、なんとなく息苦しさを感じていました。

 無言のまま一時間経った頃、彼女が重い口を開きました。

 曰く、同級生の袴田君から恋文ラブレターを貰ったのだと。

 袴田君は、見てくれがいいので女子には人気がありましたが、駅前にある大病院の跡取り息子で、時々それを鼻に掛けるところがあって、僕は余り彼のことが好きではありませんでした。


「どうしたらいいと思う?」


 生まれて初めて貰った恋文ラブレターに彼女は途方に暮れていました。

 でも、僕はまともな心持ちでいられず、


「チエちゃんの好きにすればいいよ」


 なんて、答えることしか出来ませんでした。


「トモ君は、私が袴田君と付き合っても平気なの?」


 本当はそんなこと言うはずじゃなかったのに、言いたくはなかったのに。


「僕がとやかく言うことじゃない」


 他人行儀な答えに、彼女は珍しく本気で怒りました。


「もういい!」


 それだけ残して行ってしまったのです。

 僕はどうしたらいいかわからず、ブランコでうな垂れていました。

 近くで事故があったのか、救急車のサイレンが聞こえました。




 次の日、彼女は学校を休みました。

 前の日に怪我をしたとかで、袴田君も学校に来ませんでした。

 僕が、二人揃って欠席した理由を知ったのは、ずっと後のことです。

 次の週になってようやく松葉杖で登校した袴田君の隣に、彼女がいました。

 彼女は、慣れない杖を突いた袴田君の鞄を持って付き従い、階段の昇り降りでは細い肩を貸して支えるのです。

 僕は彼女が袴田君の好意を受け入れたのだと理解しました。

 ただ、愛しい人と一緒にいるはずなのに、彼女の表情が沈んで見えたのが気がかりでした。

 一月ひとつきが経って松葉杖が取れても、彼女は常に袴田君の側で世話を焼いていました。彼女が一層沈んだ顔をするようになったのも、その頃からだったと思います。

 突然、彼女が学校に来なくなったのは、三ヶ月が経った頃でした。

 最初は風邪でも引いたのだろうと思ったのですが、一週間も続くと流石におかしいと思いました。

 その日の放課後、僕は彼女の家に向かいました。

 久しぶりに訪れた彼女の家で、彼女のお母さんに聞いてみると、彼女はまだ学校から帰っていないとのことでした。

 いやな予感がしました。

 僕はお母さんに、彼女の部屋で待たせてもらえないか頼んで、上げてもらいました。

 彼女の部屋に入るのは小学校以来です。

 見ると、机の上にノートを破いて四つ折りにした紙がありました。

 迷いましたが僕はその紙を手に取って開いてみました。

 それは僕宛の手紙でした。

 あの日、恋文ラブレターのことで揉めて僕と別れた後、彼女は偶然袴田君に遭ったのです。そこで彼女ははっきりと袴田君の申し出を断りました。

 断られた袴田君は力尽くで自分の物にしようと、彼女と揉み合っているうちに階段を踏み外してしまいました。

 全治一ヶ月の怪我を負った袴田君は、しかし、彼女には一生歩けないかも知れないと嘘をついて彼女を責めたのです。

 怪我をさせた責任を感じた彼女は言いなりになるより他、しようがありませんでした。

 袴田君に強いられるまま、彼女は少女でなくなりました。

 その日から毎日、彼女は自分の女を使って、袴田君を満足させなければなりませんでした。

 ギプスが取れて一月ひとつきが経ち、袴田君が元通りに歩けるようになって、ようやく騙されていたことに気がついたときには遅過ぎました。

 もう彼女は、袴田君に逆らうことが出来なくなっていたのです。

 そして、つい二週間前のことでした。

 彼女は自分の身体の異変に気づきます。

 袴田君のお父さんの病院で診て貰うと、結果は恐れていた通りでした。

 お腹の子は六週目に入っていました。

 思い当たる節はあり過ぎる程にあります。

 手術するように袴田君は言いましたが、自分勝手な都合で小さな命を流すことに、どうしても決心がつきません。

 どうしてこんなことになってしまったんだろう。

 どうしてこんな目に遭うんだろう。

 どうして、どうして、どうして。

 ノートの上に戸惑いが、悲しみが、溢れています。

 そして最後に、走り書きがありました。


 ブランコに乗りたい。

 トモ君と二人で森のブランコに乗りたい。

 あの頃みたいに。


 彼女の部屋を飛び出して、僕は走りました。

 森のブランコへと走りました。

 走って、走って、走って、そして――

 僕は彼女を見つけました。

 森のブランコに彼女は居たのです。

 淡い木漏れ日の中で彼女は揺れていました。

 木々を渡る涼風に吹かれて、ゆっくりと。

 細い首に、紐が深く食い込んでいます。

 紐の先が太い椎木シイノキの枝に結ばれ、彼女はブランコと並んで揺れていました。

 急いで降ろしたけれど、彼女は息をしていません。心臓の音も聞こえません。

 僕は人工呼吸を試みました。

 初めて触れた彼女の唇は温かくて、でも、既に別のひとに奪われていました。

 僕は心臓マッサージを施しました。

 初めて触った彼女の胸は柔らかくて、でも、既に別のひとに嬲られた後でした。

 何度人工呼吸を試みても、幾ら心臓マッサージを施しても、彼女は目を覚ましません。

 僕は後悔しました。

 あの日、このブランコで、彼女と真剣に話せばよかった。初めて恋文ラブレターを貰って戸惑っている彼女に、胸の内を正直に言えばよかった。

 あの時、彼女を一人で帰さなければ、こんなことにはならなかったのに。

 仲違いした後、彼女が落としたリボンを持って、追いかければよかった。

 あれから何年も、何十年も、

 僕は、悔やんで、悔やんで、悔やんで、悔やんで――


「トモ君」


 呼ぶ声に、ふと我に返る。

 僕はブランコに乗っていて、老人はいなくて、目の前にあいつがいた。


「返して」


 顔を背けて、あいつは手を出した。


「お気に入りなんだから」


 僕は手の中にあるリボンを見た。

 あいつの誕生日に贈った黄色いリボン。

 木漏れ日の中、リボンの黄色をじっと見つめる。

 僕は意を決して口を開いた。


「チエちゃん」


 この先何年も、何十年も後悔しないために。


「話があるんだ」


 誰もいないもう一方のブランコが、風に吹かれてキィと鳴った。


 了

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