忘れられた夢

全方不注意

 私は全てを知りたかった。

 知ることは何よりも楽しかった。今朝見たあの花はなんなのか。あの鳥はなんなのか。あの人はどんな人なのか。身の回りでは何が起きているのか。世界はどれほど広いのか。どんな秘密が隠れているのか。それらを知ることは何よりの喜びだった。

 小さいころから見知らぬものを目にするたびに「あれなーに?」と訊ねては両親を困らせていたらしい。

 4歳の誕生日に図鑑を買ってもらうと寝食も忘れ齧りつくように四六時中覗き込み続けていたようだ。そして読み終わっては新しい図鑑をねだるような子だったという。

 両親からは半ば呆れられていたが、祖父からは頭のいい子だなあ将来は博士だなあなんておだてられては嬉しがっていたのを覚えている。思えばこれが原体験だったのだろう。


 小学生の時分には物知りな子として友人たちや周囲の大人たちにちやほやされて過ごした。好きでやっているだけの読書が大人から褒められ、結果として身についた知識で周りの尊敬を集める。優越感と自尊心とが満たされた幸福な日々だった。母親が欲をかいて中学受験なんてさせようと私を塾に押し込めたその時までは。

 塾という場所はあまりにも苦痛だった。私立中学に入ることにこれっぽっちも意欲はない上に、塾でやらされる問題集という書物には喜びを得られるような知識はなく、ひたすらに退屈で無為な時間を費やさせられるだけだった。

 こんなものよりも学校の図書室で興味の向くままに本を読んでいるほうが有意義だし、送り迎えの手間をかけるなら市立図書館に連れて行ってくれればいいのにとずっと考えていた。

 模試の結果が芳しくなかったことを知ると、母は、安くないお金を払ってるのに。だとか、蓮田さんのところのまこちゃんはA判定だったあの子のようになりなさい。だとか、知りたくもないことをぬけぬけと言ってくる。

 全部お母さんが勝手に決めて私に押しつけてきたことなのに、私が悪いみたいで理不尽だ。不条理だ。と脳内で不服の意を申し立てていて、ふとあることに気付いた。

 これまでの生涯で知るということは何であろうとも――友達のなるちゃんがみかんの皮を剥くときに最初に半分に割る癖でも、東京で起きた殺人事件のニュースであろうとも――快を伴うものだった。だったのに、“知りたくもない”なんて。“知ること”が理不尽、不条理だなんて。不快を伴う知があるなんて。と、その時初めて知ってしまった。


 母お望みの私立中学校にはなんとか入学できた。というのも、合格したらこれから先に絶対に塾に行かないし家庭教師も呼ばせない――つまり、私が自らの知識欲を満たす行為の邪魔をさせないという約束を取り付け、嫌々ながらも受験勉強なるものに耐え忍んだからだ。

 入学してから約束通り塾は辞めた。そして塾により喪われた時間を取り戻すかのように図書室に入り浸り、本を読み耽る日々を送った。さすがに中高一貫校だけあって小学校のそれとは比べ物にならない量と質の知識たちがここにあると思うと授業中ですらいてもたってもいられない気持ちだった。

 朝早く家を出て開校時間から一番に行く図書室は、司書さんすらまだ来ておらずまさに私と本だけしか存在しない静寂の世界で、何にも邪魔されず黙々と知識の探求に没頭できて素晴らしかった。

 閉校時間まで居続ける図書室は、だんだんと減ってゆく他人の気配に反するようにして集中力がが増してゆく感覚が気持ちよかった。やがて司書さんに声をかけられて我にかえり、途中になった本と次に読もうとしていた本、またその次に読もうとしていた本の3冊を借りて帰宅する。通学中の電車内でも読み、自宅で最低限の生活ルーチンを済ませた後は自然と眠りに落ちるまで読み続ける。そして週末は市立図書館に出掛けていき、朝から晩まで籠もる。そんな生活を送っていた。

 そんな生活だから自然と接点のある者は限られるし、その限られた人達とも二言三言交わすだけだった。ただ一人の例外、蓮田マコを除いては。


 蓮田さんはぱっちりした二重瞼、長いまつげ、肩甲骨あたりまで伸びたツヤツヤの黒髪、顔立ちも整っていて、たんぽぽの花のような朗らかな笑顔。愛嬌があり人当たりがよく、品のある雰囲気。そして学年トップクラスの成績で、非の打ち所のない完璧な美少女だった。

 新しい環境で知っている人がいない中で話しかけられたことがきっかけだった。

「鳥栖さんだよね?わたしのこと分かるかな。塾が一緒だった蓮田まこ」

「蓮田さん。ああ、お母さんがいつもあなたのこと褒めてたな」

「そうなんだ。確かにママ同士でいつも話してたね。わたしたちはロクに話したこともなかったのにね」

「それで、何か用なの?」

「お友達になろうよ。これから6年間一緒なんだし」

「わかった。でも、なんで私?今までロクに話したこともなかったのに」

「知ってる人だっていうのもあるけど、鳥栖さんのことはずっと気になってたんだ。他のひとたちとは雰囲気が違くて、合格することじゃなくてもっと先のことを見ているみたいだったから」

 キラキラした目で、眩しいくらいの笑顔で蓮田さんは言う。私はつい見とれてしまって、よろしくね!と手を握ってくる蓮田さんに、ただうなずくことしかできなかった。

 それから休み時間やグループを組む時はいつも蓮田さんと一緒に過ごした。勉強のことやクラスの噂、近くにある評判のお店のこと、私が読んでいる本のことなどの話をした。それと、お互いの夢の話。

「わたし、医者になりたいの」

 真っ暗になった帰り道で、真面目な調子で蓮田さんは言う。私はいつも通りの図書室帰りで、蓮田さんは生徒会の仕事で遅くなったようでこの日は偶然一緒に帰ることになった。

「医者か。一体どうして?」

「パパが医者だから医者になれって言われてるのもあるんだけど、人の命とか健康を守るのっていいことでしょ」

 そうだねと相槌をうつと、鳥栖さんの夢はなに?と尋ねられる。

「私は、世界の全部が知りたい」

 通りを行き交う車もなく、辺りは静寂に包まれた。

 3秒ののち、蓮田さんは何かに得心したような表情をしたあとで、至って普段通りの原っぱに吹くうららかな風のような声色で言う

「それでいっつもむつかしそうな本を読んでるんだね。すごいなあ。わたしは夢を叶えるためのこと、ぜんぜんやってないのに」

 ある程度成熟してからは自分でも現実味が薄いと気づき、他人に言うには恥ずかしく思っていた夢を受け入れてもらえたのが嬉しくて。だから、そんな蓮田さんに自信をつけてほしくなった。

「なに言ってるの。蓮田さんも勉強してこの学校に入って、テストでいい点とって、生徒会でもがんばってて、全部、夢を叶えるための大切な一歩だと思う」

 そうしたら、蓮田さんはありがとうと言ってはにかんだ。この時の蓮田さんは、彼女を照らす街灯よりも月よりも、ずっと明るく輝いて見えた。


 高校にはエスカレーター式に入学し、周りが大学受験のことを真剣に見据え始めたくらいの時期、私は見事に目の前のテストと補習課題の山しか見えないようになっていた。中学に入学した当時は勉強なんて蓄積した知識だけでなんとかなっていた。けれども今は複雑になってきた計算も文章の意図も英作文もからきしで、主要科目の成績は常時下り坂だった。それでも社会や理科は知識問題ばかりだったのでまだなんとかなっていた。

 一方で蓮田さんは相変わらず成績トップ層に居座り続けているし、周囲からの人望も厚いし、美貌にも磨きがかかっていた。単純な知識量だけではまだ私のほうが上かもしれないけど総合的には完全敗北を喫していて、正直彼女が妬ましかった。

 そんな蓮田さんはこの前のテスト結果のことで、

「生物と世界史は負けちゃったよー」

 なんて涼しい顔して私に言ってくる。

「負けたっていってもどっちもたった2点差でしょ?」

 他の科目は私より何十点もいいくせに、私がまだなんとかなるものでさえ上回ろうとしていることに腹が立つ。こっちは進級の危機だというのにあちらは進級なんて頭にもなくて有名私立大学の医学部に合格することを考えていると思うと心が黒く染まってゆくけれど、蓮田さんが勉強を教えてくれなければ再試験を乗り切ることはできない。

 勉強を教えてくれている間は勉強のことだけを話してればいいのに、

「最近鳥栖さんみんなからの評判よくないよ。手伝うからクラスになじめるようにちょっとがんばってみようよ」

 なんて余計なお世話を焼いてくる。

 評判がよくないのは、あなたが私に殊更お世話を焼くおかげで調子乗ってる呼ばわりされているのだと私は嫌になるほど承知している。

 距離を置けば少しはマシになるのだろうけども蓮田さんはそれを許さないだろうし、私だって蓮田さんに勉強を教えてもらえなくてただでさえ減った読書の時間がさらに減ってしまうのは避けたい。だから評判なんかは知らぬ振りを通し続けるしかなかった。

 私はただ知識を蓄積し続けたいだけなのに、年齢を重ねるたびに自由にできる時間は減っていくのに不快なものは増えていくばかりで嫌になる。


 結局私はギリギリの成績のまま高校を出て、地元のパッとしない大学に入った。最初は周りの人が出身高校のことを尋ねてくることもあったが、大体はなんでそんなすごいところからこんな大学に?という侮蔑を込めたものだったのですぐに大学図書館に籠もり誰とも喋らない快適な生活になった。

 高校までと違って昼間から図書館で読書に明け暮れることができるのは最高だったが、どれだけ本を読んでも苦しさばかりが積もっていった。

 ひとつを知るたびに分からないことがいくつも増えていく。昔ならば喜んで次の本にあたったものだが、今ここまで専門的な知識になったって、未だ知識の果ては、全てを知ることは遠ざかってゆくばかりで、いい加減徒労ではないかと思えてくる。

 今や進めば進むほどに苦しくなるばかりの見渡す限りの荒野のただ中におり、どれだけ行こうとも無限に荒野が広がるばかりであるようだった。

 でもここまでやってきて、今更やめるわけにはいかない。


 職に就いてからは時間という時間、体力という体力の全てを労働に奪われて知識を欲する心すらすり減っていた。

 仕事は最初こそは新しい知識がいくつかあったけども、ルーチンワークの繰り返しにすぎずひたすら退屈でただただ疲れるだけだった。

 書類を提出するたびに、ここ出来てないじゃないか分かってるのかと叱責され、分かってますと答えれば分かってるならちゃんとやれよと舌打ちされたし、分かりませんと答えれば前に教えただろと初めてのことを言いながら大きなため息をつかれた。

 そんな上司が、見るからにバカっぽい雰囲気の化粧の濃い距離感の近い高卒の女のミスだらけの書類を

「こっちで直しておくから先上がってな」

 と鼻の下を伸ばしながら素直に受け取る様を見ると虫唾が走った。

 私はこんなに知ろうと努力して苦しんでいるのに、知ろうとせず愚昧なままで、それでも幸せそうな人がいることが認められなかった。

 物心ついて以来信じ、必死で縋ってきた知そのものに裏切られたような感覚がして、絶望に打ちひしがれた。

 知らないほうが幸せだというのなら、いっそ知らない私になりたい。知れば知るほどに知らないことが増える苦しみを味わうのならば、何も知らなかった頃に戻りたい。全部、全部、片端から忘れ去ってしまえればいいのに。


 ある日のこと、仕事から帰ってきた私は玄関の壁にもたれかかり、靴も脱がないまま知識を求めてスマホを弄っていると、『嫌なことをきれいさっぱり忘れたいあなたに』という広告が気になって、ついタップしてしまう。無料会員登録を済ませると、早速メールが届き、記事を見る。どうやら忘れたいことを思い返した後で、ある言葉を唱えるといいようだ。

 試しに今日怒られたことを思い出して言葉を唱えると、確かに何かを忘れたことは分かるけど何だったかは思い出せなくなっていた。忘れた感覚が残っているのが気持ち悪くて、言葉を唱えることを思い浮かべながら、もう一度言葉を唱えた。すると目の前がまっくらになって、不思議と心地よい浮遊感に包まれた。慣れてくると遠くに小さな光の粒が見えて、まるで宇宙遊泳でもしているかのような気分だ。と思ったら目が覚めた。

 玄関でスマホ弄ったまま寝ちゃってたんだな。とうまく働かない頭で考え、靴を履きっぱなしなのに気づいて脱ぐ。改めて時計を見るといい時間になっていて、早く寝ないと明日に響く。

 あれ?スマホで何を見ていたんだっけ?と思った頃には既にまどろみの中で、それ以上考えることなく翌朝を迎えた。


 それからというもの、嫌なことがあっても全く思い出さないようになっていた。

 昨日はあんなにひどい怒られ方をしていたのによくケロっとしていられるねえと先輩に言われても何のことだか覚えがなくて、聞き返してギョッとされるようなことがたまにあった。次の日には先輩にそう言われたことすら忘れていた。


 宇宙遊泳する夢を時々見るようになった。夢で見る宇宙は相変わらず暗くて、静かで、ふわふわしていて、心地のいい場所だった。遠くの光が少しずつはっきりと見えるようになってきてキレイだった。

 

 私は仕事を辞めた。次の日にはどんな仕事をしていたかも思い出せなくて、ただ何らかの仕事をしていたことは覚えていた。少しは貯金があるので2,3ヶ月は無職のままでもなんとかなりそうだ。お金のかからない趣味でよかった。……何が趣味だったんだっけ?


 夢の中の宇宙の光から視線を感じる。それに、かすかに何か聞こえるような。

 

 思い出したものから全て忘れていった。何を忘れたかったのかを忘れた。好きだったけど嫌いだったヒトを忘れた。全てを知ろうとしていたことを忘れた。夢から醒めることを忘れた。考えることを忘れた。私が私であることを忘れた。


 あらゆるものごとを忘れたソレは、恍惚の中にあった。母の胎内にいるような、世界がまだ天と地とに分かたれる前の渾沌の泥の中にいるような、全てが満たされた感覚があった。どんなことでもできそうな全能感があった。


 ひとつだけ思い出したことがある。私はずっと、こうなりたかったんだ。


 鳥栖とすあざは永劫に覚めない夢の中で、あらゆる知を持たずして、しかし、ゼロになった世界で、今は全てを知っている。

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忘れられた夢 全方不注意 @zenpofutyuui

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