第12話 疑惑の出現。
ザイルの持った奇妙な感覚が目に見える形で現れ始めたのは、ゼイラルと、メラルニアの従者だという、ネリアスという名の男が言葉を交わすのを見てから二日後の事だった。
皇都から馬車で数時間の位置にある帝国領で公務に当たっていたザイルはその日、予定よりも早い時刻に仕事を終え、皇宮へと戻ってきていた。第二皇子に相応しいとされる態度や行動を示さなくてはならない国民向けの公務は、一時期とはいえ城下で育ったザイルにとって、延々と続く書類仕事よりも苦痛だったりする。そのため、外向きの公務は、周囲が許す限り早く終わらせるようにしているのだった。
皇宮の廊下を進み、自らの執務室へと向かっていた時、聞き慣れた、聞くだけで思わず表情さえも緩む声が聞こえて来た。ザイルは進行方向から道を逸れ、足を進め始める。自分の姿を目にして頭を下げてくる者たちの間をすり抜け、角を曲がった途端、思った通りの銀色の髪が目に入ったのだけれど。
ぴくりと、片方の眉が動く。またか、と思ったから。
あの日の、茶会の前もそうだったが……。また話してんのか、ゼイラルと。
視線の先には、自分の婚約者である銀髪の少女と、やけに顔の良い黒髪の従者が何やら話している姿があった。彼からラテルティアへの報告はすでに終わっているはずなので、おそらく偶然会ったのだろうと思い、ザイルは気にすることなく二人に声をかけた。その日は。
だが、だ。
「……さすがにここまでくると、偶然とは思えねぇな」
ラテルティアとゼイラルが、あの日、再び言葉を交わすのを目にしてから、すでに一週間が経っているのだけれど。その間、毎日のようにザイルは目にしていた。二人が言葉を交わし、親しそうに微笑み合う姿を。
今もまた、廊下を行くザイルの視線の先には、二人の姿があるのだ。
しかも、である。
「見張らせていた者の話では、昨日も会っていたようですよ。ゼイラル様。……メラルニア嬢と」
背後に控えていたジェイルの言葉に、ザイルは僅かに息を吐いた。
もしゼイラルがラテルティアを見初めたのだとして。頻繁に声をかけているのであれば、皇宮の出入りを禁止するなど、手の打ちようはいくらでもある。彼も言っていたが、自分は自分が思っていたよりも随分と狭量らしく、ラテルティアが他の男と頻繁に言葉を交わす姿を見るのが、気に食わない以外の何物でもないのだ。
だが、ゼイラルはメラルニアともまた、頻繁に顔を合わせているという。しかもこちらは、人目につかないように気を配った上で。ゼイラルとメラルニア、良くも悪くも二人に何らかの思惑があるとしか思えず、だからこそ下手に手を出すことも出来ず泳がせている状態なのだった。
「あいつは一体、何を考えてんだか……。まあ、何を考えているにしろ、気に食わねぇ以外の何物でもねぇがな……」
ぼそりと呟けば、ジェイルもまた何とも言えないような曖昧な笑みを浮かべていた。
視線の先でラテルティアと言葉を交わしていたゼイラルが、挨拶と共に曲がり角の向こう側へと去って行くのを見届けて、ザイルはラテルティアの方へと歩み寄る。「ラティ」と声をかければ、ラテルティアはいつも通りその愛らしい顔に笑みを浮かべて、「ザイル様」と応えた。
「ちょうど今、ゼイラル様と話しておりましたの。ゼイラル様は、ザイル様に会いにいらっしゃったのでしょう?」
「入れ違いでしたわね」と言う彼女の表情に他意はなく、思わずほっと息を吐いてしまった。そうして、ふと気付く。自分はどうやら、心配だったらしい。彼女の気持ちが自分から離れて、ゼイラルへと向かったのではないか、と。杞憂だったようだが。
心が狭い上に、気が小さいってわけか。……情けねぇな、全く。
思い、僅かに息を吐いたザイルに、ラテルティアは不思議そうに首を傾げる。「どうかされましたの? ザイル様」と訊ねてくる彼女に、ザイルは苦笑と共に「いいや、大したことじゃねぇよ」と告げた。
彼女の傍にいると、今まで知らなかった自分に気付かされるようだと、そんなことを考えながら。
「俺はゼイラルに用はねぇが、あいつはどうか分からねぇな。用があるなら、後で執務室に来るだろ。気にしなくて良い」
見上げてくるラテルティアの頭を撫でながら言えば、彼女は少し擽ったそうに目を細めた。しかし、すぐにまた、不思議そうな顔になる。「本当に、大したことではない、のですか?」と、彼女は呟いた。
「ザイル様、不安そうな顔をしてらっしゃいますわ。ゼイラル様と、何かありましたの?」
そう言う彼女の方が不安そうな表情になっていて、ザイルは知らず困ったような顔になりながら、何と言うべきかと頭の中で考えを巡らせた。悩んでいたことを、そのまま口にするのはあまりにも情けないと、そう思ってしまったものだから。
と、ふと気付く。彼女が聞きたいこととは違うだろうけれど、ゼイラルに関して、言っておくべきことを思い出した。
「まだ俺たちもどういうことか分かっちゃいねぇんだが、……ゼイラルが、メラルニアと話している所がこの一週間の内に何度か目撃されている」
僅かに周囲を気にして視線を巡らせながら、ザイルはその高い背を屈め、ラテルティアの耳元で囁く。ラテルティアはぎょっとしたように目を見開き、こちらを真っ直ぐに見つめていた。
「ゼイラルのことだ。情報収集の一環かもしれねぇんだが、俺に対して何の報告もねぇ。ゼイラルのことを信用しちゃいるんだが……。こうなると、メラルニアと二人で何か企んでいる可能性もないとは言い切れなくてな。もしかしたら、お前にも何か仕掛けてくるかもしれねぇ。気を付けろよ、ラティ」
そのようなことはないだろうと、そう思ってはいるけれど。最悪の事態を想定しておかねばならないのもまた事実。幼い頃からの、それこそ自分が、ただのザイルだった時からの付き合いであるゼイラルを疑わねばならないのは、決して気持ちの好いものではなかったけれど、可能性の一つとして起こり得ることであることは理解しておかねばならないと、ザイルはそう、自分に言い聞かせていた。
苦虫を噛み潰したような表情で話すザイルに、ラテルティアは躊躇うような間を置いた後、そっと寄り添うようにザイルの胸元に手を添え、鎖骨の辺りに額を押し付けてくる。「ザイル様が信用なさっている、ゼイラル様のことですもの。何か考えがあるのですわ」と言う彼女の言葉は、明らかにザイルの心情を思っての物だったけれど。
それでも、少しだけ救われたような心地になりながら、ザイルはそっと、彼女の背にその両腕を回した。
「なぁ、ラティ。あいつと何話してたか、聞いても良いか」
銀色の頭にすりと頬を寄せながら、ザイルはそう問いかける。気にするようなことではないと分かっていても、気になるのだから仕方がない。こうして自分を想いやってくれている彼女がまさか、なんて、有り得ないと分かってはいても。
ラテルティアは首を傾げながらこちらを見上げると、「大したお話はしておりませんわ」と口を開いた。
「ノイレス様が新しく作った睡眠薬のお話や、この国の社交界の流行、近頃飲んだ手作りの紅茶……、フェルネシア、という花で出来た物だそうですけれど、そんなお話をさせて頂きましたわ」
「異国の物のようで、初めて聞く名前のお花でしたわね」と、ラテルティアそう、ゼイラルとの会話を思い出しながら、ぽつぽつと教えてくれた。「睡眠薬の話に、フェルネシアの花の紅茶の話、か」と呟けば、彼女はこくりと頷き、楽しそうに微笑んでいた。
「身体に良い薬から、副作用の少ない薬まで生み出すことが出来、ノイレス様は本当に才能があるのだと、嬉しそうに仰っておられました。フェルネシアの紅茶は、ゼイラル様のお気に入りなのだそうです。ザイル様やジェイル様、ノイレス様も一緒に、美味しいお菓子も合わせてお茶会がしたい、と。何でも知り合いの別邸に沢山植えられているとかで、花が咲く時期に貰いに行くんだとか何とか……」
「……大量に、それも無許可でな」
苦笑交じりにぼそりと言えば、ラテルティアは驚いたように「ザイル様もお知り合いの方ですの?」と問いかけてくる。ザイルはくつくつと笑い、「まあ、そんな感じだ」と応えておいた。
「それにしても、本当に大した話はしてねぇんだな。……安心した」
気付けばほっと息を吐き出しつつ、そんなことを呟いていた。腕の中にいるラテルティアに笑いかければ、彼女はやはり意味が分からないというような顔になって。
ふと、何かに思い至ったように目を瞠った。「違いますわよ!」と、彼女にしては珍しく、少し大きな声を上げながら。
「わたくしが好きなのはザイル様だけですわ。他の方に、ゼイラル様に目移りなんてしておりません。……そんなこと、他でもないわたくしがするわけないですわ……」
ぽつりと、少しだけ怒ったような様子で付け加えられた言葉。それが何を示しているのか分からないはずもなく、ザイルはゆっくりと一つ瞬きをすると、「ああ、そうだろうな」と応えた。
ラテルティアに限って、相手を裏切るようなことをするわけがない。彼女自身が裏切られ、傷つき、その果てにこうして自分の腕の中にいるのだから。
「ここ最近、お前達が一緒にいることが多かったから、嫉妬しただけだ。弱気になって悪かった。……信じてる」
彼女を疑ってしまうのは、他ならぬ自分の弱さであり、怯えのため。素直にそう呟き、ザイルは真っ直ぐにラテルティアの目を見つめて微笑んだ。
信じている。ラテルティアを。自分を愛してくれる彼女を。彼女を愛している自分を。
だから、心配など、する必要がない。
「今度、ゼイラルも誘って茶でも飲むか」
言えば、ラテルティアはぱちぱちと数度瞬いた後、ふわりと柔らかく笑った。「楽しみですわ」と応える彼女にザイルもまた微笑んで、その額に一つ、口付けた。
皇宮の廊下で長話をするわけにもいかず、仕事をするためにラテルティアと別れて歩き出したザイルは、曲がり角を曲がった先で視界に入ったその姿に、思わず立ち止まる。すでに皇宮を出ているものだと、少なくとも、この場を立ち去っているものだと思っていたのに。
「ゼイラル」と、廊下の先に立つその男の名を、ザイルは口にする。周囲には、ザイルの傍らに控えるジェイルの他に、廊下を歩む数人の従者たちの姿。
ゼイラルはザイルの方を見て一度微笑むと、何も言わずに踵を返し、歩き出した。「ゼイラル様、ザイル殿下を無視するなど、不敬ですよ」と、ジェイルが唸るように低く言うのも聞こえているだろうに。彼はその速度を緩めることもなく、去って行った。
それは、長い付き合いであるザイルが見ても、明らかに様子がおかしいと感じる行動だった。
「……ジェイル。ゼイラルにつける監視を増やせ。兄上も帰ってきたことだ。不安材料は少ない方が良い。そろそろどこで何をやってんのか、教えてもらわねぇとな」
音量を落として言えば、ジェイルもまたそれに応えるように小さな声で、「はっ」とだけ答えた。
昨日、兄、エリルが視察から戻って来た。それはつまり、隣国の戦争問題に加担するキルナリス公爵を摘発する時が迫っているということ。ゼイラルはザイルの耳として動いていたため、情報を知り過ぎている。彼のことを信用しているとはいえ、今の時期に自分の把握していないところでおかしな動きをされては困るのだ。だから今の内に、探っておく必要がある。
「この一週間で全てが終わる。余計なことをしないよう、見張りだけでもつけておかねぇとな」
吐き出すように呟き、ザイルは再び歩き出した。自分の執務室へと向かうために。
そして、その三日後のことだった。ゼイラルと、メラルニアが、同じ日にそれぞれザイルとラテルティアの元へと訪れ、そして。
ラテルティアが、この皇宮から姿を消したのは。
強国の第二皇子は敬愛する兄の婚約者候補を振り落としたい。 蒼月ヤミ @yukinokakera
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