episode9.最適解を求め続ける

世界はまだ始まらない

 器の底に未練がましく残っていたナッツをスプーンで掬い上げ、そのまま口の中へと放り込んだ。ローストされたナッツの香ばしい味と、辛いスープの味が混じり合う。ソラはそのまま暫く考え込んでいたが、やがて意を決したかのように顔を上げた。


「ナッツは要らないんじゃないかな」

「やっぱりそうか」


 相手はやや大げさに嘆いてみせると、自らが立っている調理場から手を伸ばし、空になった器を移動させた。駅前の広場は今日も人で賑わっていて、そこに出ている屋台はどこも満席だった。しかし特に目立つのはソラの位置から十メートルほど離れた場所にある屋台で、そこには長蛇と表現しても良いような列が出来ていた。

 ソラの視線がそちらに向いていることに気がついた店主は、眉間に深い皺を刻む。


「やっぱり濃い味付けのほうが人気出るんだろうな。知ってるか? 昨日なんてあの店、日付変わるまで列が途切れなかったらしいぞ」

「揚げ物と香辛料って、かなり中毒性があるからな。でもあっちの真似して味付け変えても意味ねぇだろ」

「別に真似したわけじゃないさ」


 店主はそう言ったものの、嘘であることは視線の揺らぎから明らかだった。ソラはまだ口の中に残っているナッツとスープの不協和音を鎮めるため、グラスに入った水を飲み込んだ。


「気持ちはわかるけど、この店の米麺の売りはあっさりとした後味だろ。下手に変えたらそれこそ客足が途絶える」

「近くであれだけの差を見せられる身にもなれよ。焦りだって出てくる」

「大丈夫だよ。上層区の連中も、そのうち濃い味付けに飽きてくるし」


 行列を作っているのは、殆どが上層区の人間だった。なぜわかるかと言えば、列の並び方にある。真っ直ぐに背筋を伸ばし、等間隔に並ぶ様は、まるで出来の悪いオブジェのようにも見えた。不幸にもそこに紛れてしまった下層区の人間は、仕方なさそうに同じ格好で順番を待っている。


「上層区って呼び方もそのうちなくなるのかねぇ」

「それはこれから決めることだけど、暫くはこのままだな。急に何でもかんでも変えると混乱するし」

「……こんなことを言っても仕方ないことだとは思うんだが」


 店主は言いにくそうな表情で口を開いた。


「俺は別に前のままで良かったと思ってる。今までは上層区の政策に文句を言っていればいいだけだったしな。これからは皆で話し合って決めましょう、なんて言われても困る」

「困る?」

「何て言うんだ? その、責任って言うのかね。自分の意志や言葉で世界が変わる可能性があるってことだろ。それって怖いことだと思うんだよ」

「あぁ、なるほどね」


 ソラは納得したように呟いた。

 あの日から早くも一ヶ月が経過しようとしていた。政策はたった一度だけ、アオの手で施行された。「今後のことは全員で考えて決める」という極めてシンプルなそれを、すぐに理解出来た者は少なかっただろう。いつもの意味のわからない政策と同じだと、聞き流した者が大半だったに違いない。事実、上層区の人間がちらほらと下層区に現れるようになってから、何事かと驚いて管理区に駆け込んできたのも一人や二人ではない。


「今までがおかしかったんだよ。上層区が下層区を見もしないで政策を行うって構図が。この世界は俺たちのものなんだから、全員が責任を持つべきなんだ。ハレルヤや上層区に任せっきりにしてたら、多分そのうち世界は滅んでいたと思う」

「なんで断言できるんだ」

「ハレルヤのサーバとしての寿命は終わりかけてたんだよ」


 この世界を守り、統率してきた筈のハレルヤ。下層区のエンジニア達によって調査された結果わかったのは、「動いているのが奇跡」という事実だった。どれか一つの部品でも喪われれば、ハレルヤはまともに機能しなくなる。否、イグノールにおける政策の適用判断システムについては、もう何年も前から正常に機能していなかったらしい。

 それを知らされた時のミスターやミスの呆けた顔を、ソラは今でも明瞭に思い出せる。


「きっとこの世界を作った旧世界の人たちは、俺たちが何の苦労もなく過ごせるようにしたかったんだろうな。それでハレルヤを作った。でもそれに頼り切ってしまったから、俺たちの世界はどんどんおかしくなって、そしてそれに誰も気がつかなかった」

「……それでもいいじゃないか。少なくとも俺は世界がおかしいなんて思わなかったし、今だってそんなこと考えてない」

「わかるよ。でもそれじゃ駄目なんだ」

「何が」

「それを今から見つけるんだよ」


 ソラは「お勘定」と言ったが、相手は首を左右に振った。


「試作品を食ってもらっただけだ。金はいらない」

「そう。じゃあ遠慮無く」


 笑顔で答えたソラは、屋台から数歩離れてから溜息をついた。暫く此処には近づかない方がいいかもしれない。あの店主からしたら、今の状況は望んでいないことだろうし、その原因であるソラのことも内心では好ましく思っていない筈だった。

 それでも慣れてもらうしかない。既に世界は変わってしまった。勿論、誰かに自分の意志を丸投げして、今までのように生きていく術もあるだろう。そうした方が楽だと言うことを下層区の人間はよく知っている。だが今まではその「誰か」は上層区のことを指していた。特定の個人では無く、顔も知らない人々に委ねるだけ。これからはそうは行かない。自分自身でその「誰か」を探す必要がある。


「まぁ……、これからだよな。これから」


 自分自身に言い聞かせるようにして、ソラは足をただ前へと運ぶ。

 大通りを抜けて辿り着いた先は管理区の前にある広場だった。そこは駅前と違い、殆ど人が居なかった。あの日から開け放たれたままの扉には大きなひび割れが出来ている。下層区に初めて出てきた上層区の少女が、その有様に驚いて転んで割ってしまったものだった。今は応急措置に紙とテープが使われているが、早めに直さないといけないだろう。

 ソラがそんなことを考えていると、丁度その扉から砂色の髪が現れた。


「あ、丁度良かった」


 同じ顔がソラを見て微笑む。上層区の白い服の上に派手な赤い上衣を羽織った姿は、お世辞にもあまり趣味が良いとは言えなかった。


「探しに行こうと思ってたんだ」

「何かあったっけ?」


 ソラが問い返すと、アオはやや大げさに眉を寄せて見せた。本人的には呆れた表情を作っているつもりなのだろう。だがあまり慣れていないためか滑稽な印象のほうが勝る。


「自分で言い出したくせに、もう忘れたの? こっちは頑張って人を集めたのにさ」

「冗談だよ。そんな怒るなって」

「ソラの冗談はつまらない」


 辛辣な評価をソラは笑って受け流した。


「何人集まった?」

「ミスターが六人、ミスが三人、それと有志が五人ってところかな」

「結構多いな」

「法令を作り直すって言ったら、結構興味持った人が多かったんだよね」


 ハレルヤによって定められていた決まり事の多くは、上層区と下層区の境をなくす上での障害となっている。だがそれらを全て破棄してしまえば、混乱や反発が生まれる可能性が高い。残すべき物と変えるべき物を決めようとソラが提唱したのが先日のことだった。


「あんまり人数多いと意見がまとまらないんだよな。大丈夫か?」

「うーん……どうだろうね。こっちの人たちは自分で意見を言うことに慣れてないから」

「ミス・エシカは?」


 特定の名前を口にしたソラに、アオは首を傾げた。


「何?」

「いや、どうしてるかと思って」

「あぁ、そういう意味か。まだ自室から出てこないよ。といっても彼女だけじゃないけどね」


 変化を素直に受け入れた者もいれば、受け入れられない者もいる。下層区でも上層区でも変化に対する拒絶反応は似通っていた。


「僕たちが砂のお城を壊しちゃったからね。悲しい人も怒っている人もいる」

「恨まれても仕方ないかもな」

「そうだね。でもそうやって感情を操れる人は幸せだと思う」


 アオは少しだけ表情を曇らせる。ソラはその横顔を見ながら口を開いた。


「特別カリキュラムを受けた人は、元には戻らないのか?」

「難しいね。脳の一部を切除しちゃってるから。少しでも元の自分を取り戻せればいいんだけど」


 悲しそうに言ったアオだったが、ソラに見つめられていることに気がつくと、ややぎこちない笑顔を作った。


「でも諦めないよ。きっとアカネだったら「出来るかもしれないじゃない」って言うだろうし」

「いいこと言うな」

「うん。きっとソラと話が合うと思うよ」


 明るい声でそう言うと、アオは気を取り直すかのように「さてと」と呟いた。


「ミドリたちも来るんでしょ?」

「どうだろうな。スオウは来るかもしれないけど、ミドリは自由気ままだし」

「ソラに言われたら本物だね」

「どういう意味だよ」


 じゃれ合うように軽口を叩きながら、二人は管理区の中へと入った。あまりに多くの人が行き交ったためだろう。これまで汚れなどついたことのなかった床は、沢山の足跡のために酷く汚れてしまっていた。

 だがその中には小さな足跡も多く混じっている。管理区で育てられている十歳以下の子供達も、最近は外に出るようになっていた。その子供達は下層区でも上層区でもない。どちらか決める必要がなくなった世界で、彼らが幸せになれるかどうかは未知数だったが、それが少しでも良い結果になるようにするのが目下の課題でもあった。


「そういえばシータ地区のゴミ集積所の問題もあったな。それに海岸の護岸工事もしないと」

「護岸工事の前に、大通りの外灯をどうにかしなきゃ。あれじゃ意味ないよ。道路の真ん中にいくつも建ってるんだもの」

「上層区がやったんだろうが。あー、やることありすぎて混乱する」

「色々考えるのは楽しいんだけどね」


 アオは少し苦笑いして言ったが、すぐに「大丈夫だよ」と続けた。


「今度は一人じゃないからね。僕が間違えそうになったらソラが止めてくれるし、ソラが間違えそうになったら僕が止める」

「二人で間違えそうになったら?」

「皆が止めてくれるよ、きっと」


 二つの笑い声が入り交じって建物の中に響く。

 砂の城のように崩れてしまった世界と常識。再び作り直されるまで、どれほどの時間がかかるかはわからない。だが二人にとってはそれは大した問題ではなかった。幼い頃のように一緒にいられることが大事だった。


「一緒に作ろうね、ソラ」

「今度は壊さないようにしろよ、アオ」


 二人は顔を見合わせて笑う。

 新しい世界はまだ、始まってすらいなかった。


END.

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

砂の城 淡島かりす @karisu_A

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ