後編


 『◆◆』には姉が二人いて、その姉たちはいつも美しかった。


 小柄で柔らかな体つきで、二人が微笑めばみんなが笑って、二人が泣けばみんなが泣き出して、ただ指一つを動かすだけで周囲を変えてしまう、偶像アイドルとはまさしくこの二人のことを言うのだろうと、いつも思っていた。

 きっと、姉二人がお願いをすれば世界の全ての人間が喜んで頷いてしまうような、それ故に世界のすべてを見下しているような、傲慢さと可憐さを併せ持つ人たちだった。


『あら、◆◆。また泣いているの?』


 上の姉が、◆◆にそう問いかける。

 美しい姉二人をいつも見ていた◆◆は、いつもいつも背中を丸めて、目元を隠して、口をきつく結んでいた。

 女の子なのに男の子と同じぐらい背が高くて、そんなつもりもないのに睨みつけているようだと言われるような鋭い目つきをしていて、◆◆が笑ってもみんなが喜んでるわけがないと思って口を開くことがなかった。

 今日も男女と笑われて、言い返す強さもない弱虫な◆◆は泣いていた。

 そんな◆◆を見て、姉たちはいつも不愉快そうに顔を歪めるのだ。

 なのに、◆◆はと言えば、大好きな美しい姉たちのそんな顔を見るのが哀しくて、また泣いてしまうのだ。

 そして、姉たちはまたつまらなそうにため息をついてしまう。

 悪循環という言葉の意味を、◆◆は生まれたときから知っていた。


『うじうじ泣かないの、泣いてばっかりの女は可愛くないわよ』


 下の姉が侮蔑するように、そう口にする。

 生まれつき絶世の美貌を持っていた姉たちは言葉遣いも辛辣で、『オブラートに包む』という比喩を理解できない強者だった。

 ◆◆はそんな姉たち二人がかっこよく思えて、でも、そんな姉のようになれない自分がみっともなくて、また泣いてしまった。

 泣き虫で弱虫の負け犬。

 それが◆◆だった。


『まったく、仕方ないわね』

『そこで待っていなさい』


 そう言って、姉二人は台所へと消えていく。

 置いていかれたと思って、◆◆は大きな身体を小さく縮こませて、肩を震わせて泣き出してしまう。

 哀しくて、悲しくて。

 いっぱい泣いたのに涙は枯れてくれることもなくて、ついに心が先に耐えられなくなりそうな時。

 すっ、と。

 口の中になにかが放り込まれて、同時に甘い味わいが広がっていく。


『はい、べっこう飴よ』

『あなた、これが好きでしょう? 私たちがバカな男たちからもらってきてあげたのよ?』


 口の中に広がる、少しだけ硬くて、すごく甘くて、それ以上に優しい味わいを感じると、自然と涙が止まり、頬が緩んでいく。


『ふふ、そうよ。

 そうやって、ずっと、ずぅっと、素敵に笑い続けなさい?

 あなたが望むのなら、いくらでもそのお菓子をあげるわ。

 かわいい私の、かわいい◆◆。なんでも言ってね?

 あなたがずっと笑っていられるようにしてあげるわ』

『甘やかしすぎよ。甘いのはこのお菓子だけで十分。

 ◆◆。あなたも、人に笑わせてもらうんじゃなくて、自分から笑えるようになりなさい?』


 その厳しい言葉に、先程まで収まっていた涙が溢れ出そうになる。

 でも、ぐっと顔を引き締める。

 大好きな姉の言葉。

 ずっと笑っていなさい。

 自分から笑いなさい。

 必死に考えて、無理矢理に頬に手を当て、不細工になってしまうほどに、無理矢理に頬を持ち上げる。


『ぷっ……ふふ、ふふふ! なぁに、それ!』

『せっかくの大人っぽい美人顔が台無しよ、ふふふ』


 それを見て、二人の姉は笑い出した。

 とても、とてもきれいな笑顔だった。

 子供の頃から大人になっても変わらない、美しい笑顔だった。

 だから。



『ひぃ! ひぃ! すごい、すごいよぉ! メドゥーサだよぉ!』



 ────だから、きっと神様も二人に恋をしてしまったのだろう。



 誰からも愛されていた美しい二人の姉は、その美しさが神様に気に入られて、交通事故でその膝下まで運ばれていってしまったのだ。

 そして、醜い◆◆だけが生き延びてしまった。

 その日から◆◆は、笑えなくなってしまった。

 それは、本人に自覚はないものの、姉二人とは種類は違うが同じぐらいに美しいと言われた美貌が事故による怪我で損なわれたことが原因ではない。

 だって、笑っても褒めてくれる姉はもう居ない。

 泣き虫で弱虫で負け犬な◆◆が、そんな悲しい現実の中で笑えるわけがなかった。


『本当に、本当にいいんだねぇ! ふひひぃ! ああ、うんうん! 大丈夫だよぉ、僕にかかればそんな手術、朝飯前さぁ!

 むしろ、それ以上の美しさにしてあげるよぉ!

 うん、うん!

 この日本中の男たちが君のことを信仰してしまうような! 

 エーゲ海の人々が美の女神として崇めた、かつての女王の姿に戻してあげるよぉ!』


 本当は、そんなことはしたくなかった。

 大好きな姉たちが褒めてくれた顔にメスを入れるようなことは、死んでもしたくなかった。

 大嫌いな男の人がつける整髪料の臭いをぷんぷんとさせた医師とは、会話することも嫌だった。


 でも。


『いいわ、素敵よ。泣いている姿よりもずっと愛らしいもの。

 女の武器は涙────そんな言葉、不細工が考えた恨み言よ。

 涙なんてものを使わなきゃ構ってもらえない、弱々しい姿を晒さなければ相手に勝てない負け犬なのよ』

『いいかしら、◆◆。

 女の武器は……ううん、人間の本当の武器は、笑顔よ。

 ずっと、ずっと笑っていなさい。あなたは、それだけで世界で一番かわいい女の子だもの。

 私たちはね、あなたの、そのお日様みたいな笑顔が大好きなのよ。

 だからね、◆◆。あなたにはずっと笑っていて欲しいのよ』


 もう、◆◆は笑えないのだ。

 大好きな二人が居ない世界で、◆◆はもう笑うことが出来ないのだ。

 大好きな二人は、自分に笑っていなさいと言ったのに。

 もう、◆◆は笑えないのだ。


 だから、◆◆は整形手術を受けた。


『……人類史の発展に犠牲はつきものだねぇ』

『反転してしまいましたね』

『食べられちゃう前に逃げちゃうよ!』

『怪物として突き詰めないんですか?』

『僕は人間を神様にしたいのであって、化け物を作ることに興味はないよぉ!』



 ────だから、悪かったのは◆◆なのだ。



 二人の姉は神様に招かれたのではない。

 ◆◆は決して神様に見逃されたのではない。

 それは唐突に起こり得て、なにも、いつ、どこで、誰に起こっても不思議ではない、ありふれた悲劇なのだ。

 それでも、その悲劇の中でも。

 二人の姉がその小さな身体で覆いかぶさるように守ってくれたことで生き延びた命こそが、◆◆の命だったのに。


 美しい姉が、◆◆にはずっと笑っていて欲しいと言ったのは、心の話だったのに。

 美しい姉が、なによりも大事に思っていたのは、◆◆の幸せな人生だったのに。

 それを全部、◆◆自身が勘違いしてしまった。

 自身の形だけの笑顔を、二人の姉の望みだと間違えてしまった。


 その誤りが。

 誰よりも愛していた姉たちが誰よりも愛していた己を卑下する歪んだ心が生んだ、当然のような結末。

 それは、遠い日の思い出。

 その大きな口を大きく開くことでこぼれ落ちた出来事。



 ────もう、なんの意味もなくなってしまった話。



「ふぅ……ふぅ……」


 頭部と、胴と、右腕と、左腕と、右脚と、左脚がそれぞれ別方向に跳び散らかっている惨殺死体を見下ろしながら、肩で息をする口裂け女。

 そう、口裂け女だ。

 この怪物はもはや◆◆ではない、口裂け女なのだ。

 教師というかつての職務に囚われて子供を狙い、美しさという姉に語りかけられたものに捕らわれて美しい子供を狙い、怪人めいたポマード医師によって怪異という事象に捉われて未来の象徴である子供を狙う、口裂け女なのだ。


「ふ……ふ、ふ……ふ、ふ、ふ……」


 自身を変質させたポマード医師への怒りという、人であった名残は、警備員が息を絶えても十数分近くもその遺体を弄ぶことでようやく収まった。

 血だらけの鎌を口元まで持ってきて、大きな口を大きく開く。


「はぁぁ……むぅ」


 唇と頬の肉で鎌の刃をくわえ込み、ゆっくりと横へスライドさせていく。

 鎌にこびりついていたどす黒い血と肉が、口裂け女の常人の倍、いや、三倍はある異形の唇によって取れていく。

 その艷やかな唇はもちろん、裂けた頬の肉にまでついた警備員の血がいびつな化粧を施した。

 ふらりふらり、と。

 ゆったりとした足取りで、階段へと伸びていく血を追っていく。

 そこに獲物がいる。

 逃げられたかもしれないが、深い推察を行えるほどの知性が口裂け女には残されていないのだ。


「あら……あら……あらあら……」


 階段を一弾ずつ上り、廊下に出る。

 誰も居ない校舎、かろうじて残っている夕暮れの日差しだけが差し込む廊下に出ると、一人の少年が立っていた。

 やはり、上半身を裸にして、左肩から血を流して、それなのに顔を真っ赤に染めて、強くこちらを睨みつけてくる勇ましい少年。


「勝負だ、口裂け女……!」


 東条朝陽だ。

 口裂け女は先程の警備員に向けたような怒りは見せない。

 ただ、笑い、笑い、笑い。


「ぶっ倒してやるから、さっさとかかってこい!」


 しかし、怪物として変質した魂のもと。

 当然のように、口裂け女は『幸せな子供』に殺意をもって突進をした。


「ふぅんっ!」

「なっ、う、うぉぉ!?」


 口裂け女は右手に持った鎌を、まるでブーメランのように投げつける。

 プロ野球選手の投げるボールのようなスピードで朝陽の顔に迫っていく。

 それを驚愕の顔を浮かべ、それでも尻もちをつくようにしゃがみこんで、かろうじて避けることに成功する朝陽。

 しかし、口裂け女は車よりも速く走れる脚力を使って、朝陽の目前に迫る。

 がくん、と。

 二つ脚で走っていた口裂け女は、まるで四足獣のように低い体勢になり、朝陽の首元へと目掛けて、その大きな口を大きく開いた。

 猪の牙のような鋭い歯が、今、まさに朝陽の首へと刺さらんとするその瞬間。


「────ッッッ!?!?!?!?!?!?」



 ────口裂け女の顔面に、激しい熱と衝撃が襲いかかった。



 ◆



「俺とお前で、あの口裂け女を退治するんだよ!」


 誰も居ない教室の、消えようとする夕焼けだけが光となる黄昏時。

 東条朝陽と西野日奈の二人は、その光からすらも逃げるように、長いカーテンの中にくるまっていた。

 狂気とも取れる、しかし、人間が持つ闘争本能に満ちた瞳で日奈を見つめる朝陽は狂ってなどいない。

 朝陽が口にしたその言葉は、恐怖のあまりに出た自暴自棄の言葉ではなかった。

 明確なる怒りをもって口にされた、決意の言葉だった。


「それは……!」

「日奈、お前が居ないと出来ないんだよっ!」


 ぎゅっ、と。

 朝陽が右手で日奈の右手を握る。

 夏の熱気に負けないほどに熱い手のひらから、なにかが伝わってくる。

 そのなにかとは、怒りだ。

 義憤や正義とも呼ばれる、理不尽を許すことが出来ない怒りだ。

 日奈はその熱に当てられ、朝陽と日奈の視線が合わせる。

 炎を宿したその瞳と見つめ合うと、日奈の中の心が引っ張られていく。

 どくどく、と。

 体の中にある、今まで動いたことのなかった場所が高鳴る。

 なぜ高鳴っているのかなんて、さっぱりわからない。

 わからないが。


「………わか、った」


 こくり、と。

 日奈の首を縦に動かさせる力が、今の朝陽にはあった。

 にっかり、と。

 嬉しそうに笑われると、その太陽のような熱い笑顔でなんだか身体が熱くなる。


「で、でも……どうするの?」


 それを誤魔化すように日奈は革新について尋ねる。

 許せないという気持ちは、朝陽ほど強くなくとも、日奈の中にだってある。

 子供らしい正義感をもって、殺人鬼である口裂け女を成敗したいという気持ちがある程度に、日奈はまっとうな人間だった。

 しかし、その方法が全く浮かばない。

 日奈では到底思いつかないことを思いついた朝陽は、自信満々に、やはり燃え盛る瞳を日奈に向けたまま口を開く。


「バットでぶん殴るんだ」

「……………はぁ?」


 単純明快にして、理解不能な戯言。

 疑問と侮蔑の混じった言葉が日奈の口から漏れ出るのもおかしなことではない言葉だった。


「朝陽っ、あいつは金属バットを頭に叩きつけても死なないよ! 絶対に! それぐらいはわかるっ!」

「普通のバットならな」


日奈の叫びに朝陽はなんの問題もないと言わんばかりに答える。

だが、その答えもやはり日奈にとっては答えになどなっていなかった。

このバットは日奈のバットで、普通の金属バットに過ぎないことを日奈の方がよく知っているからだ。


「今、朝陽が持ってるのは普通のバットだよ! 税込で七千六百九十八円!

 あたしがスポーツASKAで買った普通の金属バットだろっ!」


 日奈の口から出る当然の否定の言葉に対して、その全てをクリアする考えがあると、朝陽は返答する。


「口裂け女は、お経が弱点だ」

「……」

「お経が書かれたTシャツ越しに殴ったら、ものすごく痛がった」

「……ま、まさか。

 いや、そんな、本気なの、朝陽っ!?」


 その先の言葉を、日奈は理解してしまう。

 それでも理解できないと言わんばかりに、朝陽へと問いかける。

 だが、朝陽はやはり瞳を一切揺るがさずに、日奈をじっと見つめる。

 その強い視線を受けて、日奈は思わず言葉をなくし。


「この金属バットに、俺がお経を書く。お前がフルスイングするんだ、日奈」


 その馬鹿げた言葉を受けて。

 バカバカしいと怒るべきはずだというのに。

 自身の考えを一切疑うことをしない真っ直ぐな瞳と言葉を受けて。

 ドクン、と。

 日奈の『心』は確かに昂ぶってしまった。


「お、お経、書けるの……お手本とかもないんだよ……?」

「俺は坊主の孫だぜ。それに、今まで何回同じ文を書いてきたと思ってんだ」


 はっきりと言い切る朝陽に、日奈は頷くしか出来なかった。


「ただ……それでも、本気のフルスイングじゃないとダメだ。

 後ろからこっそり近づいて、腕の力だけで殴るんじゃ、口裂け女を倒しきれずに反撃を受けちまう」

「……そ、そうかも」

「だから、日奈、お前が必要なんだ。

 俺は今、左腕が……めちゃめちゃ痛い。うまく動かせない。フルスイングが出来ない。

 だから、日奈がフルスイングするしかないんだ」


 珍しい泣き言であった。

 変なところが強がりで意地っ張りな朝陽らしくない言葉を聞くことで、日奈はその傷の深さを知る。

 ごくり、と。

 思わず、息を呑んだ。


「……それと、その……これは……言いにくいんだけど……」


 そして、一転して端切れが悪くなる朝陽。

 不思議そうな顔で朝陽の顔を覗き込む日奈を見て、余計に『うぅ~ん……』と端切れが悪くなる始末だ。

 考えて、ちらりと日奈を見て、また考えて、またやっぱり日奈を見てうなる。


「なんなんだよっ、朝陽っ。

 もう……あたしは決めた、朝陽にノる! だから、勝てる作戦があるなら言ってくれよ!」


 そんなことを繰り返しているうちに、日奈のほうがしびれを切らした。

 その言葉に、顔を伏せ、よく見ると短い髪型で露出されていた耳が真っ赤にしている朝陽が言葉を漏らした。


「お前の身体に……お経を書く……」


 通気性ゼロであるカーテンの中の熱気に当てられたものではないことは、簡単にわかるほどに顔を紅潮させて。

 朝陽は小さな小さな言葉でそんなことを言った。


「……………………は? えっ、へっ? はぁ!?」

「み、見えなくなるんだよ、それで! あいつはこのTシャツが見えてなかった!

 だから、体中にお経を書けば、口裂け女はお前が見えなくなるんだ!」

「いや、でも、ええっ!?」


 今度は日奈が真っ赤になる番だった。

 だって、そうだ。

 体中にお経を書くってことは、普段は見せることなんてない、お腹や、もっと上の部位も見せる必要がある。

 目をつぶって書けるほど、お経を書くというのも簡単ではないはずで。


「も、もちろん、日奈にはこのTシャツを着てもらう!

 だから、本当に書くのは顔と、腕と、脚だけだ!」

「へっ、あ、ああ、うん、そうだよね……い、いや、それでもっ!」

「じゃなきゃ、絶対倒せない!

 口裂け女から見えちまう俺が囮になって、見えない日奈が待ち構える!

 これじゃないと絶対フルスイングなんて出来ないんだよ!」


 恥じらいを捨てて、真剣な顔で日奈を見つめる朝陽。

 今までは見ることのなかった、あるいは意識することのなかった幼馴染の真剣な表情に、日奈の心中はハチャメチャに散らかっていた。

 朝陽が放つ見たことのない勢いに呑まれそうになり、それでも喉から唸り声を上げ、しかし、結局は。


「わかった……」


 こくり、と。

 小さく頷いた。


「………………」

「うぅ……」


 同じカーテンの中、背中を向けあって、朝陽は金属バットへと教室に備えられている水性ペンで般若心経を書き、日奈は朝陽の脱いだお経Tシャツへと袖を通していく。

 朝陽は飽きるほどに書き慣れているその文章を、すいすいときれいな字で書いていく一方で、日奈は恥ずかしそうに顔を染めながらゆっくりと服を脱いで、朝陽のシャツを纏う。

 相変わらず自分よりも美しい文字を書く朝陽を眺めながら、背中合わせで着替えを行う。

 いつの間にか自分よりも大きくなった幼馴染のシャツは日奈にとってだいぶ大きくて、そのお経が書かれたTシャツの裾が、ちょうど太ももの付け根より少し下の位置に来るほどのサイズ差があった。


「……大きいな」


 袖元の大きさも、自分が持つどの服よりも大きい。

 そのまま、余計な肉がついていないきゅっと締まった脇と、少しだけ膨らんできた乳房が見えてしまいそうなほどだった。

 肩幅もサイズがあっておらず、気を抜くと片側の肩がずるりとズレて丸見えになってしまいそうで、鎖骨も丸見えになっている。


 そんな、差をつけられた悔しさと、やっぱり肉体的な男女差は大きいという事実の再確認よる虚しさと、それらを上回る、『東条朝陽の匂いが染み込んだTシャツ』を着ていることによる不可思議な感覚が日奈の心中を駆け巡っていた。

 少し、少しだけと思い。

 ぶかっとした襟元を鼻先まで引っ張ろうとした、その時。


「……よしっ」

「うひゃぁ!」


 まるで見計らったかのように、朝陽が金属バットへの写経を終えた。

 少しだけブレている文字があるにはあるが、それでも立派なお経が刻まれていた。

 ご丁寧にテーピングを剥がしてグリップ部分まで刻まれたお経は、愛用のバットであるというのにどこかおどろおどろしい物騒なものに見えてしまう。

 ぎゅっ、と。

 テーピングの粘着が取り切れていないグリップ部分を強く握り込む。

 それは決意の証のようにも、この後に待つ羞恥の体験を忘れようとする行為のようにも見えた。

 恐らく、それはどっちも正解である。


「……じゃ、じゃあ、書くからな」

「う、うん。まずは、脚からお願い」


 そう言って、日奈は朝陽へと右足を差し出す。

 よく日に焼けた、それなのにシミ一つない瑞々しい肌。

 朝陽はその折れそうなほどに細い足を見て、大根のような太い自身の脚との違いに、幼馴染の『女性』を意識してしまう。

 そう、男勝りで初恋もしているかどうか怪しい日奈は、体つきはすでに女のそれだった。

 好きな女の子の、細くて柔らかくて長い脚が差し出されて、朝陽は頭がどうにかなりそうになってしまう。

 それでも、口裂け女へと抱く怒りを思い出して、あるいは般若心経を頭の中で唱えながら、差し出された脚へと手をのばす。


「んっ……」

「わ、悪い……」

「いや、謝らなくていいって……なんか、変な感じなだけだし……」


 触れられたのかくすぐったいのか、わずかに息を漏らす日奈。

 その日奈に対して、自分の触れ方が悪かったのかと考えて思わず謝ってしまう朝陽。

 死が迫ろうとしているというのに、お互いに変な気持ちになりはじめていた。


「じゃあ、書くぞ……」

「うん……」


 日に焼けた、それでも美しい脚に触れながら水性ペンでお経を書いていく。

 ペンで押し付けると少しだけ沈んで、すぐに弾き返す瑞々しい肉の感触。

 なによりも、少しでも顔を上げたら、その腿の奥にある下着が見えてしまいそうだ。


(観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空……!)


 卑猥な考えが頭の中を支配しようとする中で、必死に口裂け女のことと般若心経のことだけを考える朝陽。

 そんな真剣な表情の朝陽を見る日奈。

 朝陽は、太もも、脛、足の甲と順に書いていき、続いて同じく右足も抱えて書いていく。


「つ、次は……裏、書くから」

「わ、わかった……」


 くるり、と。

 そう言って、反対を向く日奈。

 こぶりなお尻が向けられて、嫌でもその丸い肉を意識してしまう。

考えるなと視線を落としてみても、きゅっとくびれたアキレス腱すらもなんだか艷やかだ。

 これぐらいなら普段も見ているはずなのに、なんだか奇妙なほどに興奮をしてしまう。

 脳内でより強く般若心経を唱えながら、その太もも裏とふくらはぎへとお経を書いていき。


「ふひゃぁ!」

「っ!」

(度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空……! 色即是空……!)


 足裏にペンを伸ばすと、さすがにくすぐったかったのか甲高い声が漏れる。

 普段はあまり出てこない、勝ち気な幼馴染の『女の子』な声に思わず唱えていた般若心経が飛んでしまいそうになる。


「すっげ……すべすべしてる……」

「な、なに……? なんか言った……?」

「い、いや、なんもでないっ! とりあえず……脚はオーケー。腕だ、腕に行こう!」

「そう、だねっ! 腕に!」


 腕ならばこのようなこともないだろう、と。

 朝陽も日奈も考えて、少しだけ声を無理矢理に明るくする。

 だが、それは大きな過ちだった。

 正確に言えば、日奈はそのまま気にもしていない。

 だが、朝陽は日奈が腕を伸ばし、横から眺めることで見えてしまう『それ』に気づいてしまった。


「うっ……ぅぅう……」

(空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相……!)


 胸が、胸が見える。

 一回り大きいサイズのシャツのために、裾も大きいのか腕を伸ばすとその隙間から僅かではあるが、膨らみ始めている胸が見えてしまうのだ。

 胸だけではなく肉付きの薄い脇腹も見えてしまい、それは直接的な女性らしい魅力的な箇所であるために、朝陽が心中で唱えていた般若心経がより強くなる。

 そんな誘惑、というよりも自身の邪な心に襲われながら、なんとか書き切る。

 残りは、顔であった。


「……悪いな」

「気にするなって、おとぉさん」


 恥ずかしさを隠すために少しおどける日奈は、顎を少しだけ突き出して目を閉じる。

 それが、ダメだった。


「っぅ!?」

(不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中……!)


 それはまるで唇と唇を合わせることを待つようで、朝陽の胸が今までにないぐらい高鳴ってしまう。

 真っ赤な顔を見られないことを幸いに思いながら、日奈のびっくりするぐらい小さな顔にお経を書いていく。

 さらさらの肌にペンを通していくのが、なんだか不思議な気持ちになって。

 ずっとそうしていたいのに、気恥ずかしくて早く終わって欲しいという矛盾した気持ちを抱きながら、もちろん、どこかのお話のように耳にだけお経を書き忘れるだなんてこともなく。


「終わりだ……!」


 自分に言い聞かせるようにそう口にして、朝陽は日奈にお経を書ききった。

 こんな奇妙で、おぞましいとも言える姿なのに、それでも日奈は可愛らしい。

 緊張が解けると、途端に左肩が痛みだす。

 顔をしかめながら、じっと日奈と視線を合わせる。


「いいか、やることは簡単だ……俺があの階段前の廊下で待ち受ける。

 お前はその前に立って、口裂け女を待ち構えて……フルスイングだ!」

「……うん」

「ピッチャーとボールは口裂け女で、俺がキャッチャーで……お前がバッターだ」


 そう言いながら、朝陽は静かに教室を出ていき、日奈がその後ろに続く。

 本当は、怖くてたまらない。

 日奈に書いたお経がなんの意味もなければ、どうしよう。

 バットに書いたお経がなんの意味もなければ、どうしよう。

 口裂け女が目からビームを出してきたら、どうしよう。

 むしろ巨大化して校舎を踏み潰してきたら、どうしよう。

 思い描けば、突拍子もないことも含めて様々な疑問が吹き出す。


 だが、そんな膨大な不安もすぐに消えてしまった。


「あら……あら……あらあら……」


 コツンコツン、と。

 赤いヒールで廊下を叩きながら、その怪物は現れた。

 口元には、真っ赤なルージュが引かれている。

 子供である朝陽でも、わかる。

 それはただの口紅ではない。

 それは、血だ。

 誰の血だ?

 決まっている、先程現れた、警備員の血だ。

 当たり前のように生きていて、趣味もきっとあって、家族だって居たはずの、普通の人間であった警備員の血なのだ。

 殺したのだ、この怪物は。

 朝陽の心に、激しい怒りが燃え盛る。

 こんな怪物のせいで、多くの人が死んで、多くの人が泣くことになる。


「勝負だ、口裂け女……!」


 この口裂け女は、多くの人を殺して、多くの人を泣かせて、朝陽の大切な人を奪っていって、朝陽の大切な人を哀しませていって。

 それでいて、まだ朝陽の大切な人を、西野日奈を殺そうとしている。

 許せる、はずがない。


「朝陽……」

「ぶっとばせ、日奈……レフトスタンド最上段、あの日のホームランだぜ」


 その朝陽の怒りに燃える顔に、言葉に、日奈はぎゅっと強くバットを握った。

 イメージするものは、レフトスタンド最上段にボールを運ぶ自分。

 あの日のホームランを打つ、西野日奈だ。

 そのイメージを、東條朝陽は、西野日奈自身よりも信じてくれている。

 それがなによりも嬉しくて、なによりも力になって。

 日奈は、バットを構えた。


「ぶっ倒してやるから、さっさとかかってこい!」


 激しい叫びと同時に、口裂け女はその大きな口を大きく歪めて、薄気味の悪い笑みを浮かべながら走ってくる。

 激しい叫びと同時に、日奈はバットを強く握って、その顔へと目掛けてスイングを行おうとする。


「ふぅんっ!」

「なっ、う、うぉぉ!?」


 だが、計算違いが起こった。

 口裂け女が鎌を大きく投げつけてきたのだ。

 朝陽が危険だ。

 それでも日奈は後ろを見ず、朝陽も尻餅をつくように必死に鎌を回避する。


「……っ!」


 そして、一つの計算違いは、別の計算違いを誘発する。

 朝陽が地面にしゃがみこむことによって、口裂け女の顔の位置がさらに低くなったのだ。

 今までは前のめりになってちょうど日奈の胸元の高さだったのに。

 がくっ、と。

 大きく顔の位置が下がり、膝下まで落ちていった。

 打てるだろうか。

 いや。


 ────ぶっとばせ、日奈……レフトスタンド最上段、あの日のホームランだぜ。


 イメージするのはあの日。

 夢にまで見て、あの大打者のスイングをイメージしていつも素振りをしていたあの日のホームラン。

 夢にまで見て、諦めることが泣くほど悔しかったあの日のホームランだ。

 今が、その時なのだ。

 来るはずのなかった、その時なのだ。

 日奈は、バットスイングを開始する。


「すぅ……!」


 まずは、左足が少しだけ前に出る。

 それでも、身体の軸は動いていない。

 続いて、軸足である右足を回転し始める。

 しかし、左足は壁があるように動かさない。

 そこから、腰を回し始める。

 まだ、バットは耳元まで残していく。

 ギリギリまで、ギリギリまでバットを出さない。


 ぐぐっ、と。

 沈んでいく口裂け女の顔を狙いすまして。

 口裂け女の顔がちょうど日奈の左膝まで来た瞬間。

 弾けるように。


「……ナイスバッティングッ」



 ─────日奈はバットを振った。



「飛んでけぇぇぇぇぇぇ!!!!!」


 ガツン、と。

 日奈の振った人生最高のスイングは、口裂け女の顔にジャストミートする。


「────ッッッ!?!?!?!?」


 声にならない叫びを上げて、口裂け女の身体が後ろへと飛んでいく。

 朝陽の言葉の通り、やはりお経には口裂け女の弱点のようだ。

 顔が、焼けている。

 美しかったであろう顔が焼け、大きな口を大きく開いて、言葉にならない獣の叫びを撒き散らしていく。


「あ、あが……はがぁ……!」


 くぐもった声ならぬ音を出しながら、床でうずくまる口裂け女。

 血を流しながら、それでいて身体の端、いや、赤いコートからなんだか不思議な光のようなものが放ち始めている。

 違う。

 光っているのではない。

 全身が光になって、溶け始めているのだ。


「うっ……うぅぅ……!」


 ただ、それを冷静に見ていられるのも少しの間だけだった。

 口裂け女、つまりは人間と同等と思われる質量を持った物体が、車よりも速く動いている状態を叩いた反動が日奈の手首にも襲いかかったのだ。

 もちろん、口裂け女という不可思議な存在をお経という弱点を刻み込んだバットで叩いたために、単純な算数による衝撃が襲いかかったわけではない。

 それでも、日奈がバットを思わず床へと落としてしまうほどにはじんじんとしびれているのも確かであった。


「……貸せ、日奈」


 尻もちをついていた朝陽が立ち上がり、その落ちたバットを拾う。

 そして、痛む左肩を無視して両手でしっかりと握り、口裂け女のもとへと近づいていく。

 朝陽は、お経を刻み込んだバットを思い切り振りかざして。


「ふんっ!」


 ドンッ、と。

 勢いよく、口裂け女の首へと向けて振り下ろした。

 ただでさえ、光となって身体を消えようとしていた口裂け女のトドメになったようで、その一撃とともに口裂け女は消え去ってしまった


「ふぅ……ふぅ……」


 肩で息をしながら、朝陽はその光を見つめている。

 朝陽はそれをじっと見つめた後に、再び尻もちをついた。

 そして、日奈へと語りかける。


「日奈ぁ……」

「な、なに……?」

「あいつを殺したの、俺だから」


 ぽかん、と。

 その言葉に日奈は間抜けな表情で朝陽を見つめる。

 それでも朝陽は言葉を続ける。


「日奈は、殺してなんてないから」

「…………ぷっ、ふははっ、なに、それ!」


 つまり、だ。

 朝陽は日奈が殺人の重荷を抱いてしまうのではないかと思っているのだ。

 それを代わりになろうとしているのだ。

 奇妙な気配りがなんだか面白くて、そして、恐怖が去ったことを実感してしまって、日奈は笑い転げてしまう。


「……警備員さんは死んじまったけど、俺が呼んだせいだけどさ。

 頭がカッとなって、どうしても許せなくて、日奈にこういう残酷なことさせちゃったけどさ。

 だから、こんなこと言うべきじゃないんだろうけど、それでもさ」


 よっ、と声をかけて朝陽は立ち上がる。

 日奈に近づいて、肩を貸して立たせる。


「日奈が無事で、俺はそれだけでも良かった」

「なんだよぅ、そういうこと言われたら……」

「言われたら?」

「……なんでもないよっ!」


 身体の中にあるのに今まで動いたことのない場所が、動いた気がした。


『かっこいいとか、かわいいとか……そういうふうに感じるのって、なにも顔や身体を見て、理屈で決める話じゃないでしょう?』


 ふと、母の言葉を思い出し、それに納得した。

 朝陽よりも整った顔をした同級生は、何人か知っている。

 朝陽よりもスタイルのいい体つきの同級生は、何人か知っている。

 でも、きっと、そういうのは関係のないことだ。


「ほら……洗うぞ、日奈。そんな格好で人前出れないだろ」

「おっけー」


 東条朝陽、十二歳。

 口裂け女を金属バットで退治する。

 西野日奈、十二歳。

 初恋はまだ────だった。



 ◆




 それから、一週間。

 あれから大変なことだった。

 警備員の惨殺事件によって八雲町は戦々恐々だし、世間的に不審者というよりもシリアルキラーである口裂け女は消息不明のため学校の夏休みは伸びたし、事件現場で肩から血を流していた朝陽とびしょ濡れになっていた日奈はカウンセリングを受けることになるし、とにかく、子供は当分外で遊ぶことも許されなかった。

 もちろん、口裂け女の話は誰にも言っていない。

 証拠もないし、下手をすれば精神病院に入院させられてしまうからだ。

 ただ、小泉寺近くの墓地で、朝陽と日奈が揃って祖父の墓へと戦勝の報告をしただけだ。

 祖父は喜んでくれただろうか、それともなんて危ないことをしたんだと怒るだろうか。

 死人の気持ちはわからない。

 墓の前でなにかを言っても変わることはない。

 それでも、朝陽と日奈は祖父にだけ、こんな誰も信じてくれないおかしな話を説明したのだ。 


「さあ、どうよぉっ!」

「おお、かっこよっ!」


 ようやく、日中で人通りの多いところだけならという条件で外に出れるようになった二人は、小泉寺の前で叫び合っていた。

 叫びの原因は、あの事件のせいで壊れてしまった朝陽の自転車の代わりとなる、新しい自転車だ。

 中学に上がる前に買ってもらう、中学校の通学にも使う自転車を前倒しで手に入れたのだ。

 真っ白で、フレームが重々しい、今までの子供用の自転車とは少し違う、大人っぽい自転車であった。


「このでかいタイヤ、柔らかいサドル、頑丈なフレームに真っ白なボディ……どうよ、これが俺の新しい相棒だよ」

「『タラリア』の代わりかぁ……名前は決めた?」

「つけねえよ! 来年は中学生なんだぞ!」


 朝陽はかつて二年生の頃、自分の自転車に名前をつけるという痛々しい過去があった。

 それをこの腐れ縁の幼馴染である日奈はいちいちからかってくるのだ。

 ちなみにタラリアの由来は、その自転車にプリントされていたイラストの名称である。


「で、今日はどこまで行く?」

「東の方」

「アバウト! その心は?」

「太陽の昇る方向だから、かな」


 なんだそりゃ、って言いながら朝陽は自転車にまたがる。

 そこでこらえきれなくなったのは、日奈だった。


「……っていうか、なんかないの?」

「なにが?」

「ほら、あたしの服とかさぁ……!」


 早速と言わんばかりに自転車へまたがる朝陽にストップをかける日奈。

 朝陽は何が言いたいのかわからず、真剣に眉を寄せて首をひねり、日奈が少し恥ずかしそうに自身の服装について尋ねる。

 今の日奈は、普段のブカブカのシャツとピッチリしたズボンに機能性重視のスニーカーと野球帽とは全然違う。

 白い膝丈のワンピースに薄い色合いのサンダルといった、どこの避暑地のお嬢様なのか、と言った服装である。

 元の顔立ちと体型が優れているためにそれが絵になっているが、突然そんな服装で現れたことで、日奈としては朝陽に笑われるのではないかといった不安もあった。

 なのに、朝陽ときたら一向に服装に尋ねてこないのだ。

 しびれを切らして自分から問いかけた日奈に対して、朝陽は『ああ』とだけ返した。


「スカートだな」

「そうそう! 一年ぶりぐらいのスカートなんだよっ!」

「おう。いつもはかっこいいのが、今日はかわいくてびっくりしたぜ。でも、似合ってるぞ」

「お、おう……」

「顔がいいもんなぁ、日奈は。

 ユニフォーム着てもワンピース着ても似合って、羨ましいよ、ホント」


 きっぱりとかっこいいだのかわいいだのの言葉を口にする朝陽に対して、逆に日奈のほうが小恥ずかしくなってしまう。

 朝陽はどうやら、日奈自身に『東条朝陽は西野日奈のことが好き』と知られることを嫌がっているが、日奈の容姿を褒めることはたいして抵抗がないようであった。

 あるいは、この二年間で『かわいい』や『かっこいいな』を心のなかで言い過ぎてそういった面が麻痺してしまったのかもしれない。


「……ねえ、朝陽」

「なんだ?」

「その新しい自転車の後ろに乗せてよ」

「ええ……二人乗りかぁ。まあ、いいぞ。途中で交代だからな」

「やったね!」


 そう言いながら、朝陽の新しい自転車の荷台へと日奈はまたがる。

 そのいつの間にか大きくなってしまった背中を、ぎゅっと握った。

 朝陽はその感触を覚えて、ゆっくりと漕ぎ出す。

 行き先らしい行き先なんてない、この八雲町を一周するだけの自転車での可愛らしいドライブみたいなものだった。


『ねえ、お父さん』

『おう、なんだぁ?』


 朝陽の後ろで自転車の振動に揺れながら、日奈はある夜のことを思い出す。

 日奈はナイターを見ながら晩酌をする、今の時代なら漫画にも居ないと言える、古臭さを形にしたような父へと問いかけた。

 ずっと、胸に引っかかっていることがあったからだ。

 すなわち、朝陽が今見ている夢のこと。


『男の子が思春期になるとみんな見る夢って……なんなの?』

『あん、思春期のガキの夢ぇ……ああ、そんなもん一つだけだよ』


 ぐいっ、と。

 ビールを喉に流し込み、贔屓チームのエースが三振を奪ったことに笑みを深めて、上機嫌に日奈へと視線を向ける父親。

 そして、嬉しそうに口を開いた。


『その年頃のガキの考えてることなんて、好きな女の子と恋人になりたいってことだけだよ』


 ぎゅ、っと。

 父の言葉を思い出しながら、日奈は朝陽の背中に耳をつけるほどに強くひっついた。

 身体と身体を一つにしたいと思いながら、朝陽の背中に身体を強くくっつける。

 横を眺めると、お辞儀をしている向日葵が並んでいて、それがキラキラ輝いているように見えて、なんだかきれいで。

 不満そうなことを言いながらも、日奈を後ろに乗せて自転車を漕ぐ朝陽の姿も、なんだか嬉しくて。


「朝陽ぃ!」

「なんだよぉ!」


 なんだか、気持ちが昂ぶってしまって。


「朝陽がさぁ、あたしの代わりに……大人になって外野席の最上段に届く特大のホームランを打つっていう夢を叶えてくれるならさっ!」

「無茶言うなよっ!?」


 叫びながら、それでも朝陽は自転車を漕いでいく。

 それに甘えるように、日奈は朝陽の背中に強くひっつける。

 そして、真っ赤になった顔を見られないことをいいことに、思い切り叫ぶのだ。



「あたしもさ、朝陽の夢を叶えてあげるよっ!」



 日奈は、この町のことが嫌いではなかった。

 ただ、不満はいっぱいあった。

 週刊漫画雑誌は一日遅れで、漫画の単行本は二日遅れで入荷される。

 かっこよかったり、可愛かったりするおしゃれな服も売っていない。

 大好きな回転寿司は車で三十分以上かけて隣の街にまで行かないと食べれない。

 プロ野球チームのホームグラウンドなわけもなければ、Jリーグに参戦しているサッカーチームすらない。

 あるのは一軒だけのコンビニと、大型の総合スーパーと、かろうじてシャッター商店街を免れている商店街だけ。

 決して嫌いではないが、もっと、もっと便利なら良いのにと思うことならば尽きることはない。

 だけど、その不満も霞んでしまうほどの大きなものが、この町には残っていることに気づいてしまった。

 それは、とても簡単な、近すぎて気づいていなかったものだ。



「そのために、あたしも頑張るからさ……!」



 小泉寺の裏手に湧いている泉では、朝陽と一緒に水遊びをした。

 深夜に長距離バスが来るために広大なコンビニの駐車場では、朝陽と一緒にジュースを片手に漫画雑誌を広げて読んでいた。

 人通りもなければ車も通らないくせに二車線もある広い道路では、朝陽と一緒に自転車に乗る練習をした。

 野球グラウンドが五面ほど並んでいる河川敷では、朝陽と一緒に野球の練習をした。



「朝陽の夢を裏切らない、朝陽が夢を変えちゃわない、素敵な大人になるから……!」



 なにもない場所なのに、どこを見ても朝陽がいる。

 この町で生まれて、この町で育たなければ、東条朝陽と出会うことはなかった。

 たったそれだけの、言葉にしてしまえば馬鹿らしくなるほどの、当たり前のことなのに。

 それだけで、日奈はこの町のことを好きになってしまった。

 そして、もっともっと、これからこの町を好きになってしまう自信がある。


『かっこいいとか、かわいいとか……そういうふうに感じるのって、なにも顔や身体を見て、数値とかで決める話じゃないでしょう?

 かっこいいなぁって思うことや、かわいいなぁって感じることは、ハートが教えてくれるのよ』


 これがどういうことなのか、日奈は知っている。

 いつかの母の言葉の意味を、日奈は知ってしまった。



「────一緒に夢を叶えようなっ!」



 ああ、そうだ。

 西野日奈は、あの日の東条朝陽に、ハートの場所を教えられてしまったのだ。

 だから、今、日奈ははっきりと言える。




 東条朝陽は、かっこいい。

 東条朝陽は、クラスで一番、いや、学年で一番、いやいや、学校で一番かっこいい。

 ううん。

 必ず、間違いなく、絶対に、世界で一番────。




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僕らは金属バットで口裂け女と対峙する さすらいのヒモ @sasurainohimo

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