中編


『ああ……ああ……! ペルセウスだ! ペルセウスだよぉ!』

『落ち着いてください、先生』

『これが落ち着けるものかいっ、ペルセウスなんだよっ!』


 それは小学校四年生の夏。

 ちょうど、東条朝陽と西野日奈がスポーツ少年団に入って野球をし始めてすぐのこと。

 練習中に頭を打った朝陽は、途中で練習を抜け出して祖父とともに整形外科である『天空病院』にて診察を行っていた。

 この町に新しく出来たその外科病院はあまり人の入りが少なく、しかし、練習を行っていた学校からは近いということで訪れた病院だった。

 頭ということもあるしなるべく早くに見てもらったほうが良いだろう、という祖父の判断に一度は納得したが、すぐにその納得は消え失せて、代わりに大きな不満が押し寄せてきた。

 とにかく、臭いのだ。

 この黒髪をパリッパリに硬めた、朝陽の父と同年代に見える医師は、その髪を固めている整髪料、ポマードの臭いによって異常なまでに不快な臭いを発しているのだ。

 今にも鼻を摘んでしまいたいほどの強烈な臭いであったが、さすがにそれは失礼であると判断できる程度にしつけられている朝陽は、必死に顔をしかめて我慢をしていた。


『はぁ……はぁ……! まさかこんな町でペルセウスの素体と会えるなんてなぁ……!』

『先生、治療を』

『わかってるよぉ!』


 息を荒くしながら朝陽の目を覗き込んでくるポマード医師を気味悪く思って視線をずらすと、美しい顔立ちの看護師が目に入る。

 冷たい美貌をしているその看護師は、ピクリとも表情も身体も動かさずにポマード医師に診察を促すだけだ。

 その言葉に促され、ポマード医師は口を開いて問診を開始する。


『じゃ、じゃあ、まず、君の名前は……?』

『と、東条朝陽です……』

『東から昇る朝の太陽! ペルシア神話のミトラだぁ!』

『先生』

『わかってるよぉ! でもやっぱり……名前は大事だろぉ!?』

『先生、治療をしましょう』


 一向に進まない治療に嫌気がさしながら、それでも帰るわけにもいかずに椅子に座っている。

 背後の祖父の顔が引きつっていることが、顔を見なくてもなんとなくわかってしまうほどにポマード医師は大人から見ても子供から見ても異様だった。


『ふん、ふん。じゃあ、この光を見て……この光を追うように目を動かして……傷の方は……うん、うん。異常はないねぇ』


 ただ、その変人ぶりとは対称的に治療は特段変わったことを行わなかった。

 少しだけほっとするが、そうするとやはり今度は強烈なポマードの臭いが気になってくる。

 だけど、そんな朝陽の不快感に気づかなかったのか、ポマード医師は診察書を書きながら上機嫌で話しかけてくる。


『僕はねぇ、二十年前かなぁ。メドゥーサと出会ったんだ』

『先生、三十九年前です』

『ええっ!? 八十年って二十年前だろう!?』

『二十年前は九十八年です』

『ええっ……なんだか変な感じだなぁ。まあ、いいや。とにかく、僕はメドゥーサに出会ったんだ。

 お姉さんにコンプレックスを抱く、真面目だけど可愛らしい子でねえ……ああ、こんな子がアイドルになるんだろうなぁって思ったものだよ。教師だったんだけどね。

 それでいて母性っていうのかなぁ……包容力もあって、なるほどデメテルと同一視されるのもわかるって感じだったなぁ。

 君は知ってるかな、ギリシャ神話っていうのはいろんな地中海の神話をあとから来た古代ギリシャ人が一纏めにした神話で、怪物と言われているものも本当は敵対部族の神様だったりするんだよ。

 かの有名なミノタウロスの個性である牛頭だって、クレタ神話では神聖なものとして扱われていたわけだからねぇ。

 ヘラクレスにしたって、本当は人間が文字を使うその前から崇められていたマチズモ的な強者信仰を物語として落とし込んだものだって異説もないわけじゃないしねぇ』


 ペラペラペラペラ、と。

 楽しそうに話すが、おっさんの自分語りに付き合って楽しい小学生などいるわけもなく、もちろん、朝陽も例外ではない。

 神話オタクの語りとしか思えないものが小学生が理解できるわけないのだから当たり前だろう。

 それに、ポマード医師はアラフォー世代。

 三十八年前など、生まれていたかも怪しいではないか。

 朝陽は、『この医師は整形外科としての腕はあっても、頭は精神科医にかかったほうが良いのではないか』などと思い始めた。

 そう思って、つまらない話にため息をつきそうになってしまっていた。



『まあ、失敗しちゃってゴルゴンになったけどね』



 だが、あっけらかんと続いたその言葉に、思わず下腹部がひゅんと縮こまった。

 悪びれる様子もなく、失敗を口にするポマード医師。

 それを咎める気配もない美人看護師。


『人類の歴史に失敗はつきものだからねぇ。仕方ないよねぇ。

 多分、、彼女に僕は謝ってたって伝えといてよ』


 異様な空間で、ポマード医師は嗤った。

 そして、すぐにそんなことどうでもいいと言わんばかりに身を乗り出してくる。


『うん……そんなことよりも、次の治療だけどねぇ!

 時間を少し置いたらまた来てねぇ! 三日後ぐらいがいいかなぁ……!

 ま、まだわからないからねぇ……! 判断が出来ないからねぇ……! いいかい、また、必ず来るんだよぉ!』


 結局、その病院には二度と行かなかった。

 あの美人の看護師さんはともかくあのポマード医師のことを好きになれそうになかったし、なによりも医業ミスをケラケラと笑って話す医者を信じれるわけもない。

 なによりも、普段は落ち着いた祖父が見たこともない顔をして朝日に『あそこに近づいちゃいけない』と言ったからだ。

 ただ。


『朝陽、怒ってはいけないよ。許す心が大切なんだよ』


 あの日から、祖父は朝陽の怒りを許容しなくなった。

 怒りも悪いことではない、と言っていたのに。

 その怒りがいつか朝陽を殺すのだと心配しているかのように、祖父は朝陽に我慢を強いるようになった。

 少しだけ窮屈だったけど、それでも朝陽はそのこわばった言葉に祖父の愛を感じたから、何も言わずに従った。

 そんな、なんでもない日の話。



 ◆



「ひっぃぃぃいぃぃぃぃぃぃっぃぃぃぃ!!!!!」



 朝陽の背後から日奈の悲鳴が聞こえる。

 真っ赤に裂けた大きな口が大きく開けば、そこからは見えるはずのないものが見えてしまう。

 本来は唇と頬で隠されているはずの歯と歯茎がむき出しになっている。

 鼻から上と、顎から下は普通の女性なのに、ただ、口元だけが大きく人間から逸脱している。

 ただ口を閉じているだけで笑って見えてしまうその醜悪な傷口は、感受性豊かな年頃である日奈を恐怖させるのに十分なものであった。

 ひゅーひゅー、と。

 マスクを取ったことで晒された頬の傷跡から呼吸が抜ける音が聞こえてくるのが、妙に耳障りだった。


「ふ、ふ、ふ……ふ、ふ……ふ……」


 にたぁ、と。

 響き渡る日奈の悲鳴とともにいやらしく笑う口の裂けた女、すなわち『口裂け女』の笑みに、朝陽は湧き上がる恐怖と急に蘇る記憶によって混乱していた頭がハッと元に戻る。


「どうしたの、かしら……? 女の子は、笑顔がいちばんよ……?

 わたしもよく、二人のお姉ちゃんから言われたわ……

 小さいころ、泣いてばかりで……うっとうしいから泣くのをやめなさいって……わらいなさいって……でも、なんだか哀しくて……笑えなくて……だから、お姉ちゃんたちは、私の顔をつかまえて、台所から────」 

「くそぉ!」


 先程まで抱いていた恐怖を誤魔化すように、背後にいる女の子を守らなければという義務感に突き動かされて、朝陽は口裂け女へと向かった思い切り軟球ボールを投げつける。

 小学生の投げる軟球ボールと言えども、まともに顔へとぶち当たれば怯むのは確かだ。

 その目論見で投げつけたボールは見事にストライク、口裂け女の口元以外は美しい顔にぶち当たった。


「んん……ふ、ふ、ふ……悪い子……」


 だが、口裂け女はなんの怯みも見せない。

 むしろ、その抵抗を可愛いものだとやはり目元は艷やかに、口元は醜悪に笑いながら、喉からクスクスと音を漏らす。

 そして、ポンポンと地面に弾む軟球ボールを拾い、やはり、あの大きな口を大きく開き、手に握ったボールを口元まで運ぶ。

 そして。


「あぁぁ~…………んっ!!!」


 がばぁ、と。

 大きく口を開いた口裂け女の口に軟球ボールは飛び込み。

 ぱぁん、と。

 勢いよく閉じられた口の中からでも聞こえてくる破裂音が響き渡った。

 むしゃむしゃ、と。

 怪人女はその口の中にあるものを咀嚼していく。


「ふぅ……んんっ……」


 ありえない。

 もちろん硬球ではない軟式の野球ボールといえども、それなりの硬さがあるものだ。

 それを、まさか。


「んんぅ……ぺっ!」


 ぺしゃり、と。

 地面に吐き捨てられたものがどろどろの唾液とともにアスファルト舗装された道路に転がる。

 朝陽の手ほどの大きさだった軟球ボールは、朝陽の爪ほどの大きさにいくつも噛み砕かれていた。

 ぞくり、と。

 背筋に恐怖が走る。


「ふ、ふ、ふ……服も着てないし……わんぱくなのね……

 でも……ダメよ。野球ボールは……人に投げるものじゃないわ……

 わるい子……わるい子……ふ、ふ、ふ……ふ、ふ……ふ……」


 口裂け女は楽しそうに笑いながら、まるで教師のように朝陽を咎める。

 その奇妙な容姿が異様な雰囲気がなければ思わず謝ってしまいそうな言葉だった。

 だが、大きく裂けた口を『にたぁ』と開きながら、その投げつけたボールを粉々に噛み砕いた後では恐怖しか抱けない。

 しかし、それでも。


「あ、朝陽……」


 ぎゅっ、と。

 自分のセンスの悪いお経Tシャツを握った日奈のことを思うと、すぐに恐怖が収まった。

 この死が差し迫ってくる状況で、人が抱く感情はいくつかある。

 そのうちのもっとも代表的な感情は、恐怖。

 先程まで朝陽が抱いていて、今まさに日奈が震える原因となる感情だ。

 他にも諦めや逃避などがあるが、朝陽の裡から湧き上がってきたものそのどれでもなかった。


「ダメよ……女の子は泣くものじゃないわ……女の子の武器は……笑顔だものねぇ……」

「……ッ!」

「私もね……小さいころは泣いてばかりで……上のお姉ちゃんよく怒られたの……うじうじ泣いて、みっともないって……でも私は……怒られるのが悲しくて……また泣いちゃうのよ……」


 ふつふつ、と。

 朝陽の胸に、怒りが遅れて湧き上がってきた。


 この女はきっと殺す。

 自分を、東条朝陽を殺す。

 彼女を、西野日奈を殺す。

 そんなこと、許せるわけがない。


 異常とも言える、敵対心と怒りが朝陽の胸に湧き上がるのだ。


「だから、お姉ちゃんは余計に怒って、ずっと笑っていられるようにしてあげるって言って────」

「いけっ、幽霊自転車!」


 その怒りに突き動かされるように、朝陽は自分のボロの自転車を思い切り投げつける。

 人間を乗せずにしゅるしゅると地面を走って口裂け女へと向かっていく朝陽の自転車。

 だが、それも当然片手だけで抑えられる。

 朝陽にだって出来ることなのだから、もはや見なくなってしまったヒーロー番組に出るような怪人である口裂け女に止められないわけがない。

 そして、口裂け女は片手だけで、子ども用とはいえ自転車一台を軽々と頭上まで持ち上げる。

 そのまま、勢いよく地面へと叩きつけ、止めとばかりに大きく足を上げて踏みつけにする。

 それだけで自転車のフレームは無惨に曲がり、タイヤも飛び散っていく。


「…………?」


 だが、その間に朝陽は日奈の手を強く握って逃げていく。

 ちょうど校門の前だったから外に逃げることは出来ず、校舎を挟んだ奥にある校庭へと向かっていく。


「ふ……ふ、ふ……ふ、ふ、ふ……」


 とぎれとぎれに、不気味に笑い声が漏れる。

 口裂け女は顔を伏せてしばらく楽しそうに笑い、ゆっくりと顔を上げた。

 そして、ぴょん、と。

 塀に手をかけることもなく、ただ脚の力だけでジャンプして自身の首元まである学校の塀をたやすく飛び越えた。


「ふ、ふ、ふ……ふ、ふ……ふ……」


 口裂け女は学校の敷地内に脚を踏み込んでも、相変わらず不気味に笑う。

 そして、その笑い声に誘われるように、暗雲が不自然なほどに簡単に校舎の上へと広がっていく。

 危険の多い山や海は天候が変わりやすく、先程まではお日様がキレイに輝いていたのに、急に天候が崩れてどす黒い暗雲が広がったりする。

 昔の人間は、それを超自然的な存在である神様の気まぐれだと考えた。

 だから、海と山は神様の住処であり、そこは敬って畏れられた。

 逆説的に言えば、神様のいる場所には、不自然な暗雲が漂う。

 この学校は、神様の居場所となった。

 言うまでもなく、人をいたずらに弄ぶ悪神の居場所へと。


「はぁ……はぁ……!」


 そんなことを知らず、ただ、自身の気持ちを表すように荒い息とともに走り続ける、朝陽と日奈。


「日奈ぁ……スマホとか、持ってるか!?」

「う、ううん……もって、ない……」


 朝陽の問いかけに、震えながら答える日奈。

 その震えが、握った手から嫌でも伝わってくる。

 義務感と正義感が混じった奇妙な感覚を抱きながら、朝陽は必死に考える。

 そして、その考えを思いつくままに実行を行う。


「たぁっ!」


 その一つとして、校舎の窓を一つ、外側からバットで割ってみせる。

 格子状ガラスのそれは安全を維持するために小さく砕けていく。

 じりりりりり、と。

 不快な警戒音が校内に鳴り響いていく。


「なに、してんの!?」

「音がうるさかったら、誰か気づくかも! それであいつも諦めるかも! あとこれで警備さんが多分来るかもっ! それまで逃げるぞっ!」


 朝陽は早口で奇妙な言葉遣いになりながらも説明していく。

 器物損壊や無理矢理に校舎に侵入された形跡があれば、警備会社に連絡が来る。

 遅かれ早かれ誰かが来ると睨んだのだ。

 目指すは校庭の奥、裏門の方角。

 騒ぎ倒せば、あの口裂け女もどこかへ立ち去っていく可能性も高い。


「だめねぇ……がっこうのものを、こわしたらぁ……」


 なのに。

 なのに、必死に走っていたのに、息を切らすほどだったのに。

 口裂け女はいつの間にか、学校のグラウンドへとたどり着くよりも早く、校舎の影から現れた。


「うわぁっ!」

「ふりょうねぇ、不良はいけないわぁ……わるい子は、たべられちゃうのよぉ……いい子にしなきゃ、ねぇ……」

「ひぃぇぇっ……」


 ききっ、と。

 急ブレーキをかけて、急いで引き返そうとする朝陽と日奈。

 しかし、一度止まってしまえばすぐに動き出せるわけはなく。

 がしりっ、と。

 日奈を引っ張るように先に走っていた朝陽は左腕を掴まれる。


「うう、くそ、くそぉ!」


 ぐっぐっ、と。

 朝陽は抵抗をするが、まるで万力で挟まれてしまったように動かない。

 ぎしぎし、と。

 腕が軋む音が聞こえてくる。

 小学校二年生の頃に四年生二人からボコボコのリンチにあった時よりも。

 小学校三年生の頃にうっかり階段から落ちてしまって骨折をしてしまった時よりも。

 今まで感じたどの『痛み』よりも痛い感覚が左腕に広がっていく。


「あぁぁ、んっ……」


 その強烈な痛みに襲われながら、ともすれば、朝陽のまだ目覚めていない男性性を目覚めさせてしまうような官能的な声を口裂け女は出しながら、グロテスクなまでに大きく口を開く。

 それで、朝陽の左肩に狙いを定めて。


「はむぅ……!」


 がじり、と。

 大きく食いついた。

 一瞬。

 ほんの一瞬のことだが、口裂け女の牙が朝陽のお経が描かれたTシャツを突き破る。

 ぐしゅっ、と。

 小泉寺の脇にある『泉』で泳ぎ遊ぶ朝陽の、よく日に焼けた、それでも痛みのない子供らしい瑞々しさを持った肩の肌が裂かれる。

 悲鳴が、溢れる。


「ぅぅぅぅぅうっぅぅうっぅぅぅ!!!」

「んんっぅっぅ!?!?」


 だが、悲鳴が湧き出たのは朝陽だけではなかった。

 ぼたぼた、と。

 赤い血を肩から流しながら傷跡を抑えこむ朝陽と、口元から必死にその肉を吐き出そうとする口裂け女の二人から悲鳴が飛び出たのだ。


「お、おい……日奈、いくぞ!」

「あ、朝陽、それ、血が……!」

「行くぞっ!」


 朝陽は無理矢理に右腕で日奈の手を引っ張り、駆け出す。

 最初は怯えていた日奈も、ぎゅっと目をつぶり、開き直すとすぐに走り出した。

 向かう先は、校舎の中。

 ドアノブをバットで壊して、思い切りドアを蹴りつけ、校舎の中へと向かう。


「いってぇ……!」

「……!」


 怖い思いでいっぱいだけど、痛い思いをしている朝陽が助かろうと頑張ってくれている。

 そんな状況で、なにもしていない自分が足を引っ張るわけにはいかない。

 それは健気な思い、というよりも、『幼馴染に負けてたまるか』という、どこか現実離れした思いからだった。

 この状況に頭が追いつかないため、ただ、恐怖に怯えながらも日常の延長として必死に感情を処理しているのだ。


「あー、くっそ……痛ぅ……」

「ど、どうする? 保健室に行くか」

「ばか、職員室だよ。誰も居ないけど電話はある……だいたい、保健室に行っても先生が居なきゃ治療なんてできないだろ」

「でも、血が……血って、流れ過ぎたら死ぬだろ!

 それに、保健室にも電話ぐらいあるよ、バカ!」

「む、むぅ……」


 小声で怒鳴るという器用な真似をしながら、相も変わらず『じりり』と警報音を鳴らしている校舎の中を二人は歩いていく。

 目指す場所は、まずは保健室。

 ぽたぽたと血が流れ落ちる様を見て、逃げることは難しそうだなと考える朝陽。

 血を流しすぎて怒りが少し弱まったのか、それとも痛みで現実を逃避しはじめたのか。

 なんだか、自分の好きな女の子が自分を気にかけてくれていることが嬉しいなんて、この状況で頭がおかしいとしか思えないことを考え始めていた。


「鍵……かかってるよぉ」

「そりゃ、そうだな……」

「うちの教室みたいに開かないか?」

「えっと、うん、無理……」


 保健室まで来たものの、当然のように鍵がかかっている。

 がっくりとした中、その時だった。

 保健室の正面、ちょうど六年生の下駄箱がある、壁がガラス窓として張られた玄関の奥から、ものすごいスピードで走ってくる口裂け女を見た。


「なぁ、あっ、えぇ!?」


 日奈の喉から、言葉にならない音が漏れ出す。

 速い。

 ひょっとすると、車と同じかそれ以上に。

 そして、口裂け女はその勢いのままガラス窓に向かって突っ込んできて。


 ぱしゃぁん、と。


 激しい音が響いた。


「ふ、ふ、ふ……ふ、ふ……ふ……」

「きゃぁぁぁっっ!!」

「うわぁぁ!?」

「ふ……ふ、ふ……ふ、ふ、ふ……」


 やはり、特徴的で不気味な笑い声とともに、ガラスをぶち破って口裂け女が現れた。

 ガラスを突き破って現れたのに、皮膚にガラスが刺さっているはずなのに、血の一滴も流れていない。

 流れているのは、朝陽の血だけだった。


「あつぅいわ……ひどいものを持ってたのね、ぼく……」


 真っ赤な唇を触りながら、口裂け女はゆっくりと語りかける。

 朝陽は、緊張と恐怖と怒りで痛みが麻痺しており、なのに、なんだか頭はぼんやりとし始める。

 そのときに、今度は日奈が動いた。

 恐怖に震えながら、保健室の前に備えられた、花瓶がおかれた机を両手で掴んで。


「怖くても辛くても、泣いちゃダメよ、お嬢ちゃん……私も、泣いてばっかりでね……下のお姉ちゃんを怒らせてしまって……大好きなお姉ちゃんを怒らせて慌てた私は、どうしたらいいんだろうって必死にかんがえて……笑えないこの顔がわるいんだって……そうやって、自分で頬を掴んで────」

「えいっ!」


 口裂け女へと向かって投げつけた。

 ぱりん、と。

 地面に落ちた花瓶が割れて。

 がんがん、と。

 机が廊下を弾みながら口裂け女へと飛んでいく。


「だめ……だめよぉ……がっこうのものをこわしちゃ……」


 もちろん、口裂け女はその机の投的に対してなんの痛みも感じない。

 がつん、と。

 ぶつかった机を拾い上げ、自分は玄関のガラス窓をぶち破って現れたというのに学校の備品を壊すななんて、やはり教師のようなことを言う。

 そして、肩から下げていた女性用の小さなバッグを開き、なにかを取り出した。

 最初は、それがなにかわからなかった。

 学校の授業で行った田植えと稲刈の授業で使ったことがあるものだから、それがなにか朝陽にも日奈にもわかるはずだった。

 だけど、普通はそれは女性用のバッグに入っているわけがないのだ。

 遅れて、やっと理解できた。

 それは、鎌だった。

 鎌といえば農作物を刈り取る際に扱われるため、命を刈り取るものとして死神が持っているものとされる。

 つまり、口裂け女の持つ鎌とはそういうものであった。


「ふ、ふ、ふ……ふ、ふ……ふ……」


 やはり特徴的に笑いながら、机を片手に持ち、空いた手で鎌を握り、そのまま机へと鎌を振り下ろした。

 がこん、と。

 すごい音を出して、鎌は一切刃が欠けることもなく、机は真っ二つに割れてしまった。

 その奇っ怪で恐ろしい有り様を見て、尿を漏らさなかったことは朝陽も日奈も褒められてしかるべきだろう。

 しかし、その明確な『真っ二つに殺されてしまうかもしれない』という感情が恐怖を呼び起こした。

 ぶるぶる、と。

 思わず足が震えてしまう。


「お、おい……なにやってんだ!」


 そんな中で、朝陽でも日奈でも、もちろん口裂け女でもない声が響いた。

 まだ声変わりが完全に終わっていない朝陽では出せない、低い声。

 全員の視線がその方向へと向かうと。そこには外からやってきた警備員の姿があった。

 警備会社の制服に身を包んで、恐らく、警報が鳴ったために訪れたのだろう。

 帽子を被っているが、その黒髪を社会人らしく、ピシッ、と整髪料で固めた男だった。


「あ、あ、あ……ああ……!」


 ぷるぷる、と。

 その瞬間、口裂け女の身体が震えだす。

 その震えは、朝陽や日奈の震えと同じ物────すなわち、恐怖から生じるものであった。

 男性に怯えている、と朝陽は理解し、淡い期待が湧き上がる。

 しかし、それも一瞬。


「ああああああああああああ!!!!!」


 大きな口を大きく開いて、まるで獣のように慟哭し、その猪の牙のような歯を剥いて警備員へと襲いかかる。


「へっ、あ、へぁ!?」


 ぐさり、と。

 突然の行動に身動きを取れなかった、整髪料で髪を整えている警備員の胸元に鎌が振り下ろされる。

 勢いよく振り下ろされたその刃は、たやすく警備員の胸を貫き、口裂け女の常識はずれな膂力によって刃が背中から見えるほどに深く差し込まれた。


「あぁ! はぁ! あああああ!」


 だが、口裂け女はそれで終わらない。

 目を血走らせて、憎いものを見るように、怒りをむき出しにして、鎌を引き抜いて、もう一度突き刺す。

 警備員も暴れる。

 激しく暴れる手足が口裂け女の身体を叩くが、一切効果はない。


「やめろ、よぉ!」


 見ず知らずの警備員。

 だが、それを呼んだのは間違いなく自分だ、学校の窓を壊して、鍵を壊して、扉を壊して警報を鳴らしたのは朝陽なのだ。

 そんな後ろめたい正義感と、それを遥かに超える怒りが湧き上がる。

 惨殺、人を殺そうとする化け物。

 なにか理由があるわけでもなく、朝陽はそれを許すことが出来なかった。

 朝陽はTシャツを脱ぎ、右手にぐるぐる巻きにする。

 闘犬の練習を行う調教師が装着する、牙が腕に食い込まないようにするための防護布によく似た状態だ。


「いい加減にぃ……しろぉ!」


 その右拳を、思い切り、口裂け女の裂けた頬に振り下ろした。


「ひぃぃぃぃぃぃっぃっ!!!??」


 そのパンチをくらって、口裂け女は大きく身悶えた。

 そして、鎌から手を離すほどに激しく、痛みを訴えるように暴れまわる。

 その暴れまわっているうちに、口裂け女の肘が朝陽の腹部に突き刺さる。


「うぐぅ!」

「朝陽っ!」


 常識はずれのパワーに支えられたその無自覚な肘打ちは、早熟で小学生にしては体重も身長もある朝陽の腹部に突き刺さり、後方へと向かって大きく吹っ飛ばす。

 くぐもった声とともに倒れ込む朝陽と、それを支える日奈。

 ぎろり、と。

 口裂け女は朝陽を睨み、まるで獣のように激しく息を吐いて威嚇する。

 そう、まさしくケダモノだった。

 朝陽と日奈を追いかけ回していた先程までは、かろうじて『怪人』と呼べるような、どこか人間らしい姿があったが、今の口裂け女は警備員に怒りを向けるケダモノだった。


 びくり、と。

 日奈は震える身体を押して、朝陽の身体を支えながら口裂け女から逃げるように二階へと向かう。

 それを口裂け女は睨み続け。


「ああああああああ!!!」


 それでも、憎しみを抑えられないと言わんばかりに二人から視線を外し、とうに息の根を止めている警備員へと鎌を突き立てた。



 ◆



「はぁ……くっそぉ……」

「大丈夫、大丈夫!?」


 朝陽と日奈は、自分たちの教室である六年三組の教室の片隅でカーテンにくるまって隠れていた。

 保健室と同じように鍵がかかっているはずのその扉は、しかし、古くなりすぎてしまったあまり、扉を少し持ち上げるように動かせば鍵が外れることをこのクラスの生徒ならば誰もが知っていた。

 通気性ゼロであるカーテンの中、真夏の暑さすらも気にならずに、ただ痛みをこらえる朝陽と、それを泣きそうな目で見つめる日奈。


「ど、どうする……朝陽……どうしたらいいんだろう……?」

「……なぁ、日奈……気づいてるか……?」

「な、なにが……?」


 息も絶え絶えに、それでも朝陽は目をぎらつかせて日奈に問いかける。

 幼馴染のめったに見ない姿に気圧されながら、日奈はただおろおろとして朝陽の言葉を待つ。

 朝陽はそんな日奈を見て、男勝りな普段とはひどい違いだと思いつつ、むしろこんな状況でギラついている自分がおかしいのかと気づく。

 だけど、そんな自覚ではこの感情は収まらない。


「あいつ、俺の服が見えてないんだよ」

「……え?」

「あいつには仏様の言葉っていうお経が見えなくて……それで、仏様のお経の大っきらいなんだ。おれがTシャツぐるぐる巻いて右手でパンチしたら、めちゃめちゃ効いてたし」


 それは確信だった。

 明らかに口裂け女はこのお経Tシャツが見えていないし、お経が書かれた布を嫌がっていた。


「俺のことを裸とかいってたし、お経が弱点なら普通このTシャツ越しに噛まないだろ……!」


 ぽつぽつ、と。

 日奈に言い聞かせるというよりも、朝陽自身が情報を整理するためといった様子で言葉を漏らしていく。


「警備員さんは整髪料の臭いがきつくて、あいつを怒らせた。だから多分、あいつは警備員さんの死体をぐじゃぐじゃにする……!」

「そんなことって……」

「そういうやつなんだよ、なんとなく、俺にはわかる。あいつはきっと、警備員さんのことを許せないんだ。ただ、髪の匂いが嫌いだってだけで」


 ポマードの臭いをさせた警備員さんに対して、一瞬だけ怯んだもののすぐに怒り狂って襲いかかった。

 そして、鎌で胸を強く突き刺したのに、そこで死んでいるはずなのに、何度も何度も鎌を突き刺した。

 その怒りは激しいもので、簡単に収まるものとは思えなかった。

 まだ、口裂け女は警備員の死体を怒りのままに弄んでいるだろう。

 もちろん、すべてが『希望的観測』だが、朝陽には確信に近い思いがあった。


「じゃ、じゃあ……このまま、ここで、誰か助けてくれるのを待つの?

 お父さんたちが帰ってこないあたしたちを不思議に思って、警察が来てくれるかも……あ、あたしたち、さっきまでグラウンドで遊んでたのはみんな知ってるし!

 お、お経が見えないんなら、カーテンにお経を書いて隠れてたら大丈夫なんじゃないかな!」

「……警察だって、あいつに勝てるかわからないだろ。

 あの女は……口裂け女は、化け物だぞ」

「ば、化け物って」

「それに血の痕を追って、こっちに来るかもしれない。見えないけど、カーテン越しに鎌を振り下ろしてくるかもしれない」


 ごくり、と。

 息を呑んだ。

 それは日奈だけではなく、朝陽もそうだった。

 意を決して、朝陽は言葉を振り絞る。


「だから、日奈……お願いがあるんだ」


 その言葉の意味を、日奈は察した。

 いや、常識というよりも、道徳的に考えれば、その後に続く言葉はなんとなく想像できる。

 なによりも、日奈は『東条朝陽はいいやつだ』ということを誰よりも知っている。


「い、嫌だよ……!」


 だから、飛び出た言葉は拒絶の言葉だった。

 それに対して、朝陽は落胆の顔を浮かべる。


「……そこを、なんとか」

「あたしだけ逃げるなんてごめんだよっ! 逃げるなら二人一緒だ!」

「えっ……? …………ああ、そうか」


 日奈の言葉に、虚をつかれたような表情を取る朝陽。

 まさしく、日奈の言葉が意外だったと言わんばかりの顔であった。


「そう、だな……俺が囮になれば、そうか……そうなんだよな」


 そして、その行動が利にかなっていることの意味を噛み砕いていき、次第に顔を苦しげに歪めた。

 それをするべきなのかもしれない、大好きな女の子は、間違いなく守ることが出来る。

 朝陽は、考えて、考えて、考えて。


 ────あたしはね、ホームランバッターになりたかったんだ。


 ふと、夕焼けの下で泣きそうな顔をしていた日奈の顔を思い出した。


 ────おかしなことじゃないんだって。女の子は、ホームランバッターになれないんだって。


 あのときにこの世の終わりみたいな顔をしていた日奈を思い出し、きっと、一生その辛いことを諦めたまま終わるんだと思い。

 大好きな女の子がそんな人生を送ることなんて、朝陽は許すことが出来なかった。

 だから、朝陽はたやすくそのラインを踏み込めることを決めた。

 未成熟で傲慢な少年特有の、万能感に溢れたバカな考えである。

 だがそれでも、朝陽は確かに覚悟を決めたのだ。


「でもな、日奈……俺は逃げないぞ」

「朝陽っ」

「だから、日奈。お前も逃げないでくれ。すっごい怖いけど、頑張ってくれ」

「……どういう、こと」


 それは非難の言葉ではなかった。

 朝陽を信じて、なにか考えがあって、一緒に死んでくれなんて泣き言ではないと知っていたから。

 同じ日に同じ病院で生まれて、このなにもない町で一緒に暮らしてきた幼馴染が、きっと突拍子もない事を考えているとわかって。

 日奈は朝陽に、どういうことなのか、と尋ねたのだ。


「あいつはな……『おかしなこと』なんだよ、日奈」

「……」

「人が死ぬことはおかしなことじゃない、女子がホームランを打てないのはおかしなことじゃない……ばあちゃんの言ったとおり、この世界に『おかしなこと』なんてない、みんなその中で頑張って生きてたんだよ。

 でもな……あいつは、あいつだけは『おかしなこと』なんだよっ!」


 ついに、言葉を荒げ始める朝陽。

 少し気圧されながら、それでもじっと朝陽を見つめる日奈。


「ボールを噛み砕いて、自転車を踏み潰して、鎌で机を切り裂いて、走ったら車よりも速い!

 そんな人間、いるわけないだろう!」


 朝陽は胸のうちにふつふつと湧く『怒り』を口から吐き出していく。

 もしも、それが人間の範疇だというのならば、女の子だってホームランバッターになれる────日奈は、あんなにも辛い表情をすることもなかった。

 だから、朝陽は口裂け女が人間だと、『あいつもおかしなことじゃないんだ』と認めるわけにはいかなかった。


 ────ペルセウスだよぉ! ペルセウスだよぉ!


 じくり、と。

 思い出せない記憶が湧き上がろうとして、すぐに消え去る。

 不思議なことに、あの病院に診察を受けたことは覚えていても、診察の内容は覚えていないのだ。


 それでも、朝陽の怒りは本物だった。

 植え付けられたものなどでは、もちろんない。

 祖父が最後まで気にかけていた、朝陽の自身も焼き尽くすような怒りは生来のものだ。

 その怒りこそが朝陽の個性と呼べるもので、分かつことの出来ないものだった。


「俺にはわかる……あいつは普通じゃないんだ、『おかしなこと』になってるんだよ!」


 そんな朝陽の、初めて見る姿に────いや、違う。日奈は朝陽のこんな姿を、何度か見たことがあった。


 例えば、小学校二年の時。

 一人の一年生の頭を叩いて笑い転げる二人の四年生を見て、ぷつん、と音がするように表情を変えた朝陽。

 ランドセルを振り回しながらそのまま三年生の顔へと向けて投げつけ、きょとんとしている残った一人の背中へと飛び蹴りをかましてしまったのだ。

 とは言っても、小学生の間で一年の差というものは大きいのに、相手は二年違いの四年生なのだ。

 最初は威勢よく戦っていたものの、不意をつかれて倒れ込んだ一人が立ち上がり、朝陽は羽交い締めにされて抑え込まれると、腹部と顔を何度も何度も叩いた。

 それでも鋭く睨みつけて口汚く吠えていた朝陽だが、ついに膝をついて倒れ込んでしまった。

 その時になると、大人を呼んできた日奈の気配に気づいた二人は逃げ出し、なんならとうの昔にいじめられていた一年生は居なくなっていたし、結果として残ったのはボコボコに叩かれた朝陽だけだった。

 でも、朝陽はその結果に対して『そっか』とだけ言って、悔しそうに四年生が帰っていったほうを見て、憮然とした表情で帰路についた。


 例えば、小学校三年生の時。

 階段の踊り場でじゃらついている同級生の男子によって、小柄な男子がどんと肩を押されて落ちそうになったところを小柄な男子の腕を掴んで無理矢理に引っ張って助けようとしたら、勢い余って自分が落ちてしまったこともあった。

 ただバランスを崩して落ちるだけでなく、男子の手を引っ張ったことで落ちるというなんとも起こりにくい体勢で落ちてしまったことで、見るからに右腕が真っ赤になって痛々しさを感じさせる姿だった。

 だけど、朝陽が最初に行ったことは、痛みに耐えながらも踊り場のほうを見て、『危ないからやめとけよぉ!』だなんて、そんな、怪我の度合いに比べるとあまりにも軽い怒りと注意の言葉だけを残して保健室へと自分の足で向かっていった。


 つまるところ、東条朝陽とはそういう少年なのだ。

 勝てる勝てないを考えるよりも、安全か危険かを考えるよりも、なにかを『頭』で判断するよりも先に。

 まず始めに、『心』と『体』が動き出してしまう性質なのだ。


 ────朝陽は怒りっぽいからねぇ、日奈ちゃんがあの子のことを止めてあげてくれるかな。


 日奈は唐突に、亡くなった朝陽の祖父のことを思い出す。

 その時はみかんを食べながら、なんでもないことのように頷いたが、まさかここまでだとは思わなかった。

 そんな日奈の動揺を尻目に、朝陽は湧き上がる正義と怒りが綯い交ぜになった言葉を吐き出していく。


「おかしなことだったんだよ、日奈……!」

「な、なにが……?」

「じいちゃんの葬式のときに、ばあちゃんは『おかしなことじゃない』って泣いてたんだよっ!

 人が死ぬのはおかしなことじゃない、人が生きてたら当たり前みたいにたどり着くゴールなんだって、諦めて泣いてたんだよ!」


 それは正しい。

 永遠に生きられる人間など居ないと、この世に永遠などどこにもないのだと、祖父が死ぬことで朝陽は初めて知った。

 永遠の不在と折り合いをつけて生きることが人間の道なのだと、それでも強く人生を歩むことが人間の在り方なのだと、朝陽は祖母の言葉と簡単に死んでしまった祖父から教わった。


「でもな、おかしなことだったんだよっ!」


 だが、それは当たり前のことではなかった。

 軟式ボールを簡単に噛み砕き、自転車を思いきり踏みつけにしただけで粉々にし、鎌を使って片手で机を切り裂き、あまつさえ走れば車を追い抜いてしまう怪物。

 警備員が思いきり殴りつけてもけろっとして耐えた化け物は、お経が描かれたこの服を拳に巻いて殴りつければ、小学生のパンチだというのに大きく怯んだ。

 そんなものが、おかしな存在でないわけがない。

 普通ではないのだ。

 あるべきではないのだ。


 ────そんなものに、祖父は、あの時の中学生は、警備員さんは殺されてしまったのだ。


「普通に生きてたら、あんな化け物とは出会わないんだよ……!

 いいや、違うよなっ!

 普通なら、あんな化け物は生まれないんだよっ!

 なにか、おかしなことが起こってたんだ……!

 じいちゃんが死んだことは、おかしなことだったんだっ!

 おかしなことでじいちゃんは死んで、あのときの中学生も死んで、ばあちゃんは泣いて、中学生の親や友達も泣いてたんだよっ!」


 ふつふつ、と。

 化け物に出会ってしまった恐怖を簡単に覆してしまう、腕からぼたぼたと流れる血すらも忘れてしまうような、強い、強い、怒りが湧き上がっていた。

 それが朝陽の本質だった。

 朝陽は我慢は出来ても許すことは出来ない、怒りの人だった。

 それはとっても尊いことだけど、とても危険なことだからと、仏の道を進む坊主である祖父によって制御をするようと努められた本質。


「そんなおかしなことのせいで、死んじゃう人と泣いてる人がいるんだぞ……?

 そんなこと、許せるか……?

 許せねえよなぁ、そんなこと!」


 だけど、『落ち着いて怒る』、だなんて。

 そんな器用な真似をするための制御方法も、朝陽の言葉を借りるならば『普通じゃない』『おかしなこと』の前では無意味だった。

 許すことなんて出来ない。

 色んなものを理不尽に奪っていく、この世の仕組みに組み込まれていない当たり前じゃない出来事を、朝陽は許すことが出来ないのだ。


「だから、日奈……!」


 ぐっと、日奈の目を見据える朝陽。

 その目には爛々と輝く炎がきらめいていた。

 闘争を司る原初の炎が、その瞳の奥に燃えている。

 あるいは、日奈自身も焼き尽くしてしまうような、朝陽の本質である怒りの人の証明。

 本当なら、そこは、朝陽のおじいちゃんの言葉の通り、ブレーキになるべきだった。

 なんとか逃げよう、逃げ出して生き延びよう、と。

 でも、その時、初めて日奈は気づこうとしていた。

 その予兆を感じてしまえば、止めることは出来なかった。

 ごくり、と。

 息を呑んで、その後に続く狂気的だが正義的な言葉を待った。

 そして、そのときにようやく気づくのだ。


「俺とお前で、あの口裂け女を退治するんだよ!」



 ────ひょっとして朝陽って、すごくかっこいい男なんじゃないかって。



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