僕らは金属バットで口裂け女と対峙する

さすらいのヒモ

前編

 東条朝陽が生まれてから十二年の時間を過ごしてきた『八雲町』には、なにもない。

 全国チェーンの牛丼屋や中華料理屋、イタリアンレストランはない。

 目立ったお祭りもなければ、郷土愛すらもない。

 あるものと言えば、全国展開されている総合スーパーと、シャッター商店街手前の寂れた商店街と、コンビニが一軒だけだ。

 田舎と呼ぶには本物の田舎には失礼ではあるものの、『街』とは決して呼べないような『町』だった。



 ────大人にとってはなにもない退屈な町じゃけど、子供にとってはそうじゃないだろう?



 去年の秋に亡くなった母方の祖父はそんなことを言っていたが、それだって詭弁だ。

 子供にだって物の有る無しはわかるし、その差異が幸福度に影響があることもわかっている。

 月曜に発売されるはずの週刊漫画雑誌は火曜日に店舗に並ぶし、単行本に至っては二日遅れ。

 そのせいで発売日の当日には裕福なクラスメイトの家に集まって電子書籍を回し詠みをする羽目になる。

 そのくせ本屋のオヤジは閉店のピンチだと言っているのだから、子供ながらに笑わせる。

 営業努力が足りないのだ、と。

 あまりにも消費者目線が過ぎる意見が、朝陽たち八雲小学校の全生徒の揺るがない総意であった。



 ────今年もよく来たねぇ、ゆっくりしておいき。



 盆明けの一週間、朝陽は母方の実家である『小泉寺』に預けられるのが通例であった。

 珍しいことではないが、朝陽の両親はともに共働きであり、お盆までの間は祖母の家で暮らすこととなるのだ。

 地元の子供たちからは『こいずみでら』と呼ばれる『しょうせんじ』は、朝陽の家と同じ県の同じ市の、いや、それどころか同じ学区にあるお寺である。

 そんな、なんにもない八雲町の平凡なお寺に過ぎないのに、日差しを遮るように生い茂った樹木と物々しい寺の雰囲気は、朝陽にとって異世界にトリップしたような奇妙な感覚を抱かせてくれる。

 だから、この小泉寺での一週間の生活を、朝陽は嫌ってはいなかった。


 そんな祖父母の家で暮らす一週間を嫌っていないのと同じように、実のところ、朝陽はこのなにもない街のことを嫌ってはいなかった。

 祖父の言葉を思い出す。

 この街は大人には退屈かもしれないけれど、子供にとってはそうでもないだろう。

 詭弁だとは思うけど、同時に納得できる言葉ではあった。



「おぉ~い、朝陽ぃ~! あ~そ~びましょ~!」



 所属している軟式野球チームの野球帽を被り、うなじに多少かかるだけに揃えた髪と、ブカブカとした薄手のシャツと、ぴっちりとした膝丈のズボンを早々に汗で濡らしながら、愛用の十二段階ギアの自転車にまたがって。

 一人の友達が小泉寺の裏手までやってきて、朝陽の名を呼んだ。


「おぉー! 今、行くぅー!」


 朝陽はその言葉に窓から答え、テーブルの上に広げた写経の用具を急いで片付けていく。

 『写経』。

 それは朝陽の数少ない趣味、というよりも習慣というべきものであった。


『朝陽は怒りっぽいからねぇ』


 夏休みは学校の言いつけどおり、十時までは外に遊びに行ってはいけない。

 無気力そうな顔つきの割に根が真面目な朝陽は、八月も下旬を迎える現在ですでに宿題を終了させていた。

 ならば、十時までの間なにをするかと言うと、すなわち、『写経』を行うのだ。


『俺、そんなに怒りっぽくないと思うんだけど』

『うん、朝陽は我慢が出来る子だよ。でも、朝陽は許せない子だからねぇ。

 そういう時のために、お釈迦様の教えを覚えておくといいんだよ。

 ずっと怒っちゃうと疲れちゃうし、間違えちゃうからね。

 本当に怒らなきゃいけない時に、怒れなくなっちゃうかもしれないだろう?』

『怒らなきゃいけない時なんてあるの?』

『あるさ。菩薩様ももちろん優しいお方だけど、悪いことを叱る役目の明王様だって、本当は優しいお方なんだよ。

 むしろ、優しい人だから、怒っちゃうのさ。朝陽にはそういう人に、なってほしいな』


 去年までは祖父と一緒にやっていた、『般若心経』の『写経』。

 朝陽にはこの難しい内容はよくわからないが、祖父からは『この世には確かなものなど何も存在しない』ということだと捉えておけばいいと言っている。


 それでも無理に理解しようと思って考えるならば、朝陽は確かに存在するが朝陽の身体は幽霊となんの違いもなく、バットでボールを叩いた時に感じる気持ちのいい感触すらも実在しないということだ。

 正直なところ、自分もバットもボールも存在するのだから嘘だろうと思うし、なにより難しい話はわからない。

 ただ、難しい文字を集中して書くことは気持ちが良かった。

 前日のそれとの変化を見比べるのも成長や怠けを感じられるし、嫌いではないと祖父に伝えると、嬉しそうに笑うのだ。

 朝陽は、祖父のその笑顔が好きだった。


 こんなものが心を健やかにする効果があるのだろうかと思いながらも、大好きな祖父の言葉と笑顔と、あとご褒美のお小遣いに釣られた朝陽は黙々と続け、事実として落ち着いた性格へと徐々に変わっていった。

 祖父が亡くなってからは、書き上げたものを褒めてくれる祖父がもう居ないという事実が辛くて一時期は辞めてしまっていたが、苛々と募る気持ちが気持ち悪くて、一ヶ月後には再開していた。


 朝陽はそんな思い入れのある写経で使っていた習字用具を片付けて、居間へと向かう。

 そこには勝手知ったる人の家、と言わんばかりに瑞々しいスイカを貪る『少女』が居た。


「おはよー、朝陽」

「おはよ……ばあちゃん、俺の分もある?」

「はいはい、よいしょっと……」


 西野日奈。

 男子みたいな気安い言葉使いをして、男子みたいな活動的な服装を好む、びっくりするぐらい整った顔立ちをした女の子。

 東条朝陽と同じ日に同じ病院で生まれた、幼馴染。

 小さい顔には不釣り合いとも思える大きな目を嬉しそうに細めて、やはり小さな口を大きく開けて、その高い鼻を押し付けるように前のめりでスイカを貪っている。

 口元からスイカの薄いピンク色の果汁が垂れて、その細い首を通ってぶかぶかのシャツの中に落ちていく。


「あらら、ひなちゃん……口元汚れてるわよ」

「んっ……ありがとう、おばあちゃん」

「元気なのはいいけど、少しはお行儀よくしないとねぇ」


 それを見咎めた祖母の美沙子が、困ったように笑いながら日奈の口元をタオルで拭う。

 甘え上手というのか、可愛がられることに慣れているのか、日奈は抵抗せずに顎を差し出して美沙子の差し出す柔らかなタオルの感触を味わう。

 朝陽はスイカにかじりつきながら、そんな日奈の様子を眺めて、改めて思う。


 西野日奈は、かわいい。

 西野日奈は、クラスで一番、いや、学年で一番、いやいや、学校で一番かわいい。

 ううん。

 きっと、恐らく、多分だけど、世界で一番────。


「……朝陽、お前のシャツ、なに、それ」


 そんな中、日奈は朝陽を見てポツリと漏らした。

 少し、居心地が悪くなる。

 朝陽が身にまとっている服は、ズボンはただの黒のハーフパンツだ。

 しかし、上にまとっているTシャツは前面、背面、袖に脇下と布地一面に『お経』がプリントされた、あまり趣味のよろしくないものであった。

 通気性がいいため、部屋着としては好んできているが、本音を言えば好きなものではない。

 それもこれも、現住職である叔父から押し付けられた小泉寺の物販品に過ぎない。


「ああ、これか。叔父さんが────」

「すっごいイカしてるじゃん!」

「叔父さんが持ってたからもらったんだよ、イカしてるだろ?」

「すっげー、やばいね。『真日』の『地獄堂芳一』みたい」


 だが、プロレス団体『真・日本プロレスリング』の花形ヒールレスラー、『地獄堂芳一』のようだと、日奈がその名前の通りお日様のような笑顔で笑った今この瞬間から、この趣味の悪いTシャツは朝陽のお気に入りの一着となった。

 散々不満を垂れていたが、今日の夜には叔父から着回せるように余り物を二着ほど回してもらおうと心に決める。


「朝陽なのになんか強そうに見える、あたしも欲しい」

「じゃあ、Sサイズを叔父さんにお願いしてみる」

「絶対だよ?」


 ペアルックだ、と朝陽は心で思いながら、日奈の言葉に頷いてスイカを食べに行く。

 そして、朝陽がスイカを食べ終わるとそれを待ち構えていた日奈が勢いよく立ち上がる。


「よしっ! 遊びに行こう!」


 やっぱり、楽しそうに笑う日奈を見て、朝陽ものんびりと腰を上げた。

 平凡な夏の一日である。

 これから、朝陽は日奈と昼まで遊んで、昼食を食べて、その後にまた日奈と遊んで、陽が沈むと家に帰っていく。

 祖父が死んでも変わらない、なんでもない一日。

 きっと、どこにでもあるような特別じゃない一日。


「遅いよぉ、朝陽ぃ!」

「しょうがないだろ。ボロいんだから、この自転車」


 朝は自転車で走り回って、本当になんの意味もなく自転車に乗るだけで二時間駆け回る。

 朝陽は来年の中学入学と同時に自転車を買ってもらう予定のために、すでに四年近く使っているすっかり古くなった自転車をせっせと漕いでいく。

 それでも身体が大きくなり始めた朝陽の筋力なら、最新の自転車である日奈にも追いつける。


「あっ、ここの病院、潰れたんだ」

「ああ……だろうなぁ」

「なんか知ってるの?」

「一回、打撲でこの病院に来たんだけどさ……ここの先生がすごい臭いんだよ」

「えっ、まさかお風呂に入ってないのか?」

「というより……整髪料っていうのかな? ああいうのきつい、嫌な臭いだよ。

 多分、香水ではないと思うんだけど」


 そんなとりとめのない会話を続けながら、ひたすらに自転車に乗って散策するだけの時間。

 午後からは夏までで引退したスポーツ少年団の軟式野球チームの久志や達也や活樹といった面々と遊ぶ。

 学校に忍び込んで軟式ボールで野球をするだけだ。

 それでも人数が少ないので、野球というよりもホームラン競争のような、誰が一番遠くにボールを飛ばせるかといった遊びだ。

 一番ボールを遠くに飛ばせたのは朝陽で、二番目は久志、三番目が日奈だった。

 日が沈み始めると残りの三人が帰って、それでも朝陽と日奈は車の通らない道の真ん中で、バットを学校の塀に立て掛けて、のんびりとキャッチボールをしていた。


「今日も楽しかったねぇ」

「そうだな」

「こんな日がずっと続いたら良いのになぁ……」

「ずっと夏休みってのはいいよな」

「いや、そうじゃなくて……もっと、明日にならないような、さ……」

「あぁん?」


 言葉を交わすと同時にボールを投げる。

 チームで一番コントロールの良い日奈と、三番目にコントロールの良い朝陽のキャッチボールはその場から動くことがなかった。


「おっ……自転車だ」

「寄ろっか」


 来年、朝陽と日奈たちも入学することになる八雲中学校の制服を着た、男子と女子の二人組が自転車で側を通っていく。

 それは去年までは同じ八雲小学校の中で見たことのある顔で、でも、制服を着ているとなんだがずっと大人に見えた。


「……スカートだ」

「ああ、制服だもんな。来年から、俺たちも着ることになる服だ」

「やだなぁ、あたし、スカートあんま好きじゃないんだよねぇ」

「去年まではスカートもよく履いてただろ?」

「……最近、なんか女の子って感じで嫌になったんだよね」


 お年頃か。

 そう思いながら朝陽はキャッチボールを続ける。


「知ってる? 中学になると休日でも部活の時は制服で登校しなきゃいけないんだよ」

「おお、それで更衣室でユニフォームに着替えるんだよな。面倒くさい、ユニフォームのまま学校に行けたら楽なのにさ」

「なんだか、男女の差をわからせられるんだよね、制服って……」

「あんまりそういう意図はないと思うけどな……それに今は女子でも男子の制服着ていいらしいぞ」

「コンポン的な解決じゃないんだよねぇ、あたしの場合は」


 パンッ、パンッと。

 朝陽と日奈の会話の間間に、ボールがグローブへ収まる音が響く。


「朝陽は、中学に入ったらやっぱり野球部に入るの?」

「みんなそうだろう。キューちゃんも、タツヤも、カツキも。

 少年団のやつらはみんな野球部に入るんじゃないか?」


 会話をしながら、キャッチボールを続ける。

 もうすぐ、日が沈んでしまうような時間帯だった。


「そっか、みんな、野球部かぁ」

「うちからシニアの硬式チームに入るような『ガチ』なやつは居ないし、そういうやつはトウマみたいに小学校の時からリトルリーグのチームに入ってるって」


 パシン、と。

 グローブをボールが叩く音が、植えられた街路樹にいるセミや遠くの田んぼにいるカエルの鳴き声に混じって響き渡る。

 先程のように自転車通らず、車も通らず、当直の教師も帰ってしまい、感じ取れるのは人間ではないセミとカエルの存在だけ。

 まるで、朝陽と日奈しか世界には居ないようだった。

 それが、朝陽には心地よかった。


 この町にはなにもない。

 大人気漫画雑誌は一日遅れで入荷される。

 大好きな回転寿司を食べたいと思っても、車で三十分の街中まで出なければいけない。

 あると言えるのは全国のどこにでもある総合スーパーと、シャッター商店街目前の商店街と、コンビニが一軒だけ。

 田舎と呼ぶには中途半端なこの町だが、でも、立派な都会にはないものが確かにあった。



 この八雲町には、西野日奈がいる。

 だから、東条朝陽はこの町のことが好きだった。



「あたしは、ちょっと迷ってる」

「…………は?」


 だからだろうか。

 ぽろっ、と。

 その日奈らしくない突然の言葉を受け止められなかったように掴み損なったボールが、地面に転がった。

 日奈が大好きなはずの野球は、一緒の時間を過ごせる、朝陽にとっても大事なものであった。

 なのに、日奈は野球部には入らないと言うではないか。


「な、なんで?」

「……覚えてる? 四年生の時に見た、オールスターの試合」

「あ、ああ、もちろんだろ」


 朝陽は急いでボールを拾って、日奈へと投げ返す。

 日奈の言う試合とは、朝陽と日奈が初めて見たプロ野球の試合のことで、二人が野球を始める原因となった出来事のことであった。

 地元球団など持たない辺鄙な田舎県、そんな田舎にある新しく作られた不釣り合いな野球スタジアムが、プロ野球ファンの投票で選ばれた一流選手たちが集まる『オールスターゲーム』が開かれた。

 野球人気が下火になったとは言え、人気スポーツでもあるプロ野球のオールスターゲームとなれば県外から訪れた人々も含めてひどい賑わいで、お祭りと呼べるようなものも街中へと行かなければ味わえない朝陽や日奈にとって、その試合は生まれて初めてとも言える本当の『お祭り』だった。

 やっと取れた外野席の一角で、わざわざ購入してもらった双眼鏡を片手に覗き込みながら、ルールもよく知らない野球を、周囲の熱気に当てられて興奮して見ていた。


「覚えてるさ、俺達が野球を始めたきっかけなんだから」

「朝陽も知ってるだろうけど、あたしは、ホームランが打ちたかったんだ」

「……ああ、知ってるよ」


 日奈の心をつかんだのは、国民的なスターで来年には海外のリーグに行くことが確実視させられていたホームランバッターの打席だった。

 相手のピッチャーも超一流。

 目にも止まらないような速度のストレートと、そのストレートとの違いが少ない切れ味鋭いフォークが持ち味の本格派。

 だけど、そのホームランバッターは、その決め球であるフォークボールを狙いすまして、外野席へとボールを運んでみせた。

 その試合は両チームの投手陣の調子が非常によく、両チームともに点の入らない緊迫感のある試合だった。

 そんな試合を見ていたから、朝陽も日奈も、バットで打ち返されたボールが、まさか自分たちのいる外野席まで届くなんて思いもしなかった。

 知識としてホームランという存在は知っていても、実際に見るまではそんなことが出来るわけがないと心のどこかで思っていたのだ。


 ────か、かっこいいぃ……!


 朝陽と日奈の常識を破壊するような爽快なホームラン。

 超満員のスタジアムの中、試合を止めて光り輝くダイアモンドをゆっくりと走るそのホームランバッター。

 日奈は目を輝かせて、そのホームランバッターを見つめていた。


 ────なあ、朝陽。あたしも野球やる……それで、あんなホームランを打つ!


 そう言って、日奈は同年代の久志や達也たちに遅れてスポーツ少年団に入り、朝陽もまた一緒についていった。

 別に、野球に魅せられたわけではない。

 楽しかったが、それは周囲の熱気に当てられただけで、野球というスポーツの魅力は、その頃はまだわかっていなかった。

 もちろん、二年も練習と試合をし続けた今となっては、嫌でもその魅力に気づいてしまったが、少なくとも、朝陽が野球を始めた理由は野球に魅せられたからではなかった。

 日奈が初めて見るホームランに魅せられたように、朝陽もまた初めて見るものに魅せられてしまったからだ。

 ただ、朝陽が目を奪われたものは、日奈と同じホームランバッターではなかった。

 朝陽が目を奪われたのは。

 見たこともない輝くような目でグラウンドを眺めている、西野日奈という女の子だった。

 そうだ。

 十年間も一緒に過ごしていたというのに、その日、その場所で、ようやく朝陽は気づいたのだ。


 ────あれ、日奈って、めちゃめちゃかわいいんじゃないか……?


 小さな目と、高い鼻と、薄い唇が、小さな顔の中で奇跡的なバランスで配置されている。

 普段はうなじにかかる髪を、暑さのために一つにまとめている女の子が、思えば実際に見てきた女の子の中で一番かわいいということに、朝陽は気づいてしまったのだ。

 そして、胸がときめくという感覚も初めて味わった。

 東条朝陽は西野日奈によって、『心』という実在しないはずの器官が身体のどこにあるかを知らされてしまったのだ。

 東条朝陽にとって、西野日奈こそが初恋だった。

 だから、朝陽が野球を行うのは、『日奈と一緒に居たい』という淡い感情と、あるいは『自分もホームランを打てるような男になれば日奈に憧れの目を向けてもらえるのではないか』という打算によるものだった。


「じゃあ、これは知ってるかな……女の子はさ、ホームランが打てないんだって」

「……そんなこと、ないだろ。女子プロ野球リーグだって今はあるじゃないか」

「それは、野球選手としての話でしょう? あたしがなりたいのはさ、プロ野球選手じゃないんだ」


 パンッ、と。

 ボールを掴み取る。

 口にしなかったその言葉の後に続く言葉が、なんとなく理解できてしまった。


「あたしと朝陽は、おんなじ日におんなじ病院で生まれて、お母さんたちがおかずを交換し合うぐらい仲の良い家庭で育って、お父さんたちの身長や体重も、そんなに変わらない」

「……そうだな、ずっと一緒だった」


 朝陽はボールは返さず、日奈の言葉を待った。

 初恋の女の子である日奈は少しだけ笑ったのに、全然胸はときめかなかった。


「なのに、あたしは朝陽とのホームラン競争に勝てない。おんなじ日に、野球を始めたのにね」

「……明日は、お前の勝ちかもしれないだろ」


 なんとか、言葉を返してボールを投げる。

 日奈はそれを受け止めるけど、もう投げ返してこなかった。


「ううん……きっと、今日からもう勝てないんだと思う。

 身長だっていつの間にか朝陽のほうが大きくなっちゃった。小学生の頃は女の子のほうが大きいって言うのにね」

「……身体の大きさだけじゃないだろ、野球って」

「そうだね、ボールを速く投げたり、遠くに飛ばしたり、速く走ったりするだけが野球じゃないよ」


 そこで、日奈はやっぱり哀しそうに笑った。


「でもね、あたしは、ホームランバッターになりたかったんだ」


 それは夢の話。

 日奈が魅せられたのは野球の奥深さではなく、ホームランの爽快さだった。

 そして、それが決して届かない魅力であることに、そんな現実に日奈は気づいてしまった。


「外野席の上段にボールを強く叩き込んで、試合中なのに一人だけゆっくりとベースを回れるような、そんなホームランバッターになりたかったんだよ」

「……」


 届かない夢を諦めることは、つらい。

 それを認めることも、とてもつらい。


「おかしなことじゃないんだって……女の子がホームランを打てないのは」


 おかしなことじゃない。

 その言葉に、胸が痛んだ。

 祖母の美沙子も言っていた。

 おかしなことではない、人はいつか死ぬ。

 それが病気だったり、事故だったり、理由が違うだけでいつか死ぬ。

 おかしなことではない、なんの不思議でもない、当たり前のように起こり得ることなんだと祖母は言っていた。

 祖父の死を前にして泣いてしまった朝陽を慰めるように、ずっと一緒に過ごしていた祖母のほうが辛いはずなのに。

 諦めるように、その言葉を口にしていた。


「ホームランだけじゃない。きっと、いろんな出来ないことに気づいていくんだと思う」


 日奈はボールを握りしめて、睨みつけるような鋭い瞳でボールを見つめていた。


「ずっと夢を見ていられたら良かったのにね……お母さんが言うには、いろんなことを諦めて大人になっていくんだってさ。

 ……それなら、あたしはずっと子供のままがいい」

「……そんなの」


 ズカズカと歩いていって、朝陽は日奈の目の前で立つ。

 日奈の言葉の通り、ちょうど日奈の頭の天辺が朝陽の目線に当たるぐらいには身長に差が現れていた。

 自身の早熟な身体が好きな女の子を苦しめているのかと思うと、少しだけ自分のことが憎らしかった。

 日奈がうつむいていた顔を上げると、そのきれいな顔が朝陽の眼前に広がる。


「……朝陽?」

「そんなの、大人じゃなくてもそうだろ」


 至近距離で日奈と見つめ合うような状態が照れくさくて、朝陽は日奈からボールを奪い取った。

 きょとんとした顔になる日奈を尻目に、先程までいた場所に戻っていく。

 そして、無理矢理に顔を引き締めて、ボールを投げつけた。


「ウルトラマン!」

「……はぁ?」

「おら、返せよ」


 ヒーローの名前を口にしながら勢いよくボールを投げてくる朝陽を、理解不能と言わんばかりの顔で見つめる日奈。

 それを無視して、ボールを返すように要求する朝陽。

 戸惑ったまま、日奈はボールを山なりで投げ返す。


「仮面ライダー!」

「……」

「一年の時は世界最強の男……で!」

「……」

「二年の時は石油王!」

「……」

「三年の時は、歌舞伎町No.1のホスト!」

「……………なんなの?」


 そこで、日奈は不貞腐れたようにボールを掴んで、投げ返すことをやめた。

 朝陽はなにが気に入らないのか、怒りを隠しきれずに強い口調で声を出す。


「俺が五歳の時からなりたかったものの一覧。

 ウルトラマンは宇宙人だから地球人の俺では難しいことに気づいて諦めて。

 仮面ライダーは自転車の練習が辛くてその最中に諦めて。

 世界最強の男はキューちゃんに喧嘩で負けて諦めて。

 石油王は世の中は金だけが全てじゃないと悟って。

 歌舞伎町No.1ホストは歌舞伎町ホストの特番を見たの翌日の朝に鏡を見て爆笑して、半泣きになりながら誰にも言わずに諦めた」

「……ガチじゃないやつじゃん」

「俺はいつだってガチだった」

「あたしのホームランバッターの夢も、そんなバカな夢と一緒だって言いたいの?」

「俺はいつだって本気だった。今も本気だ」


 強く、ボールが投げ返される。

 それでもそのボールをしっかりと掴んだ。


「でも、俺は大人になりたくないなんて思わない。

 今の夢は、大人にならないと叶わないこともあるからな」

「……」

「父さんは母さんと一緒で幸せそうだし、ばあちゃんはじいちゃんが死んだときにすごい哀しそうだった。

 きっと、あれは大人にならないと味わえない『本気』なんだろ」

「……何が言いたいの」

「俺はお前と一緒に大人になるのも悪くないって思うってことだよ!」


 照れ隠しのように、ボールを投げ返す。

 きょとんとした顔で日奈は朝陽を見つめている。

 朝陽は朝陽でなんだか無性に恥ずかしくなり、どんどんと早口になっていく。


「子供のままだとずっと楽しいかもしれないだろうけど……でも、俺はお前と大人になりたいぞ。

 いろんなことを諦めるだろうけど、いろんな大人じゃないとできないことが体験できるんだ。

 きっと、こんななにもない町じゃ味わえないことも……大人になったら味わえるんだ」

「……」

「その中には、ホームランよりも楽しいことがあるに決まってる」

「ぷっ……」


 そんな朝陽の顔が真っ赤になっていくさまに、先程まで思いつめた顔をしていた日奈はこらえきれないと言わんばかりに笑い出した。

 そんな姿を見て、朝陽は余計に顔を真っ赤にする。


「ぷっ……あは、あはははは! なにそれ、慰めてんの?」

「な、なんだよ……お前がマジでバカなこと言うから、ちょっと久々にマジに怒ったのに……!」

「はは、ははは! あー……! そうだな、朝陽が本気の顔になるの、なんか久々だな……いつの間にか、朝陽は大人になってたような気がする」

「どうせまだまだ子供だよ、俺は」

「……そうだね、あたしたちはまだ子供なんだね」


 よっ、と。

 日奈はボールを空に向けて投げて、それを掴んだ。

 そして、幾分かスッとした顔で朝陽を見つめる。

 それは、なんだかとても大人っぽくて、朝陽の胸を高鳴らせる。


「帰ろっか」

「おう」


 そう言って、塀に立て掛けていたバットを手に取り、校門前に止めていた自転車へと向かっていく。

 そのさなかに、世間話のように日奈が朝陽へと語りかけてくる。


「そう言えば、朝陽の四年生からの夢ってなんなの?」

「…………………」


 日奈が、朝陽にとって痛いところをついてきた。

 なんだか本気で説教じみたことをしてしまった手前、はぐらかすのも決まりが悪い。

 朝陽は精一杯、拙い脳みそを使って精一杯考え、なんとか言葉を振り絞った。


「……カツキと同じ夢だよ」


 水谷活樹というぼんやりとした同級生の名前を使って、なんとか誤魔化す。

 しかし、それで日奈は納得はしない。

 それでもまさか朝陽は言えるわけもない。

 今の夢は『西野日奈と恋人になること』だなんて、まさか本人に言えるわけもないのだから。


「あたし、カツキの夢は知らない」

「小学生の高学年男子はみんなその夢を見るんだよ、思春期ってやつだ」

「思春期って……なにそれ、大人ぶってんの?」

「うるさい、デリケートな夢なんだ」


 少し騒がしく、でも、いつものようなやり取りを行う二人。

 きっと、こんな日々を繰り返して大人になっていくんだろう。

 校門の前にたどり着き、二人は自転車にまたがる。

 まさに、その時だった。



「……………ねえ、僕たち」



 学校の前だというのに人通りの少ない中で、ある一人の女が現れた。


「…………なんですか」


 少し訝しげに、朝陽は問いかける。

 無意識に日奈をかばうように前に立つ。

 それぐらいに、女は怪しい女だった。

 まずなにが怪しいかと言えば、とにかく服装が怪しい。

 真夏だと言うのに女のすねまであるような長い長い、そして、赤い赤いコートをまとっている。

 見るだけで熱くなるようなそのコートを着た女は、顔の周辺も奇妙であった。

 真夏だと言うのに、顔の半分を覆い尽くすような大きな白いマスクをつけている。

 その白いマスクとは対照的な、くるぶしまで届くほどの長く艷やかな黒髪。

 あまりにも印象的な女だった。


「私……きれいかしら……?」


 そんな不気味な女は、そんな不気味な言葉を口にする。

 どう見ても不審者だ。

 朝陽はすぐに無視をしようと決めた、自転車に乗れば振り切れるだろう。


「あの、キレイだと思うよ」


 なのに、よせばいいのに、日奈は真面目にその問いに答えた。

 少し、朝陽は苛立ちを抱いてしまう。


「おい、日奈っ」

「いや、でも、髪もきれいだし……目元とかかっこいいし、マスク越しの鼻とか高そうだし……」

「そうじゃないだろう……!」


 確かに、日奈の言葉は正しい。

 マスク越しでもわかるほどに、女は美しかった。

 コードでよく見えないが顔立ちや首元の細さからして太っていることはないだろう。

 まともな服を着て、マスクを外せば見事な美人であるだろう。

 だが、美人だろうが醜女であろうが、不審者は不審者だ。

 不審者は無視をして通報するに限る。


「日奈はベル持ってるか?」

「えっ、ああ……あれはランドセルにつけっぱだから夏休みは持ってないなぁ」


 えへへ、と笑う日奈は可愛かった。

 ではなく。

 不審者にあったというのに緊迫感に、どくどくと心臓が高鳴り始める。


「うふ……ふふ……そう、きれいだと思うのね……」


 一方で、不審者の女はけらけらと笑い始めた。

 鈴がなるような、心地の良い笑い声だった。

 なのに、その声を聞くと妙に頭が痛む。

 そんな朝陽を無視して、女は耳元にかかったマスクの紐に手をかけた。

 そして、マスクを外す。

 その瞬間だった。



「これでもぉ…………?」



 ひぃっ、と。

 朝陽の喉か、日奈の喉か、あるいは、二人の喉から同時にか。

 悲鳴が漏れた。

 出来も趣味も悪いメイクのように、唇の端から耳の穴までかけて、長い線が走っている。

 その線が、ゆっくりと開く。

 本来ならば目尻のラインと同じまでしか開かないはずの口が、大きく、大きく開いていく。

 正面から見ているというの、両の奥歯の側面が見えてしまう。

 いいや、それどころか真っ赤な歯茎が見せつけられる。

 そうだ、その女は────。




『なんも、おかしなことなんてないからねぇ』




 朝陽は一年前のことを思い出していた。

 いいや、思い出してしまっていた。

 蓋をされたはずの記憶が、蘇っていた。

 一年前の、祖父が死んだその日の出来事が。


『落ち着いて……いいね、落ち着くんだ……無理に思い出す必要はないからね……』


 祖父が、去年の秋に亡くなった。

 他殺事件であった。

 夏休み終わったばかりなのに真っ赤なコートを着て、まだ息苦しいほどの暑さなのに鼻先から顎まで覆う大きな白いマスクをつけた、足元まで届くほどに長い黒髪の女に殺されたのだと言う。

 祖父は中学生の男のことを庇って、そして、その男の子と一緒に殺されたのだ。

 それを目撃したのは、他ならぬ朝陽であった。

 祖父と男子中学生の腹から、どくどく、と赤くて臭い血が流れて混じり合っていく。


 そこからは、よく覚えていない。

 ただ、真っ赤なコートの長い黒髪の女が、ものすごい速さで走り去っていくのを見送っていたことを覚えている。

 二本の脚で三台の車を抜き去っていったことを警察に伝えたが、それは精神が錯乱していたために、止まっていた車を抜いた姿を見て混乱して覚えてしまっただけだろうと言われた。

 朝陽はそういうものなのだろ、と納得していた。

 確かに、そんな人間が居るわけがないのだから。


 だから、忘れていた。

 あまりにも強烈で、衝撃的だったあまり、記憶に蓋をしていた。

 だが、今ならばはっきりと思い出せる。

 その女の最大の特徴は。

 長く赤いコートでもない。

 顔の半分を覆うような白いマスクでもない。

 足元まで届くような長くてきれいな髪でもない。



 そう、その女の。

 嬉しそうに笑うと、見えるはずのない肉が見えてしまうその女の最大の特徴は。



「ひっぃぃぃいぃぃぃぃぃぃっぃぃぃぃ!!!!!」




 ────口が、裂けていたんだ。



.



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