帰るべきところへ

岡本紗矢子

帰るべきところへ

 玄関横にえさを置き始めてもう4日になるが、脱走した猫が帰っている様子はなかった。帰宅して覗き込んだ皿の中身の変化といえば、土ぼこりを被った程度だ。

 奈々はため息をついて、新しいえさを盛り直した。逃げた猫は近くにいるからえさを置いて様子見を、とネットの記事にあったので試しているけれど、何だかただ虫を誘っているだけの気もする。何せこのへんは「東京」なる地名のイメージに似合わず土と緑が豊かで、奈々が住むアパートのすぐ目の前にも、畑が広がっているくらいだ。何が寄ってきてもおかしくない。

 ……というか、いちばん来そうなのはゴキブリだけど。

 奈々は恐ろしい想像を振り払うように頭を振り、中に戻って扉を閉めた。1Kしかないアパートは、玄関を上がるとすぐキッチン。夕食作りを始める前に、期待はせず、でも外の変化に気づきたくて、シンク上の窓を少しだけ開けた。5月初めの夜気と一緒に、低周波のような虫の声が入ってきた。

 料理をしながら、奈々は思うともなく飼い猫のネネを思っていた。ネネは茶色の長毛で、顔の真ん中がぼかしたように黒い、美しい雌猫だった。「え、この子、純血種?」と呟いた奈々に、譲渡会のスタッフは「いえ、由緒正しい野良猫で、れっきとした雑種です」と笑った。聞けば、動物除けのネットを突破しては回収前のゴミを荒らし、カラスに堂々と喧嘩を挑む、猛獣みたいな猫だったとか。見かけによらぬ武勇伝に惹かれ、奈々は彼女を家に迎えることにしたのだった。

 奈々は学生時代から東京に住んでいる。ちゃんと卒業し就職もし、きちんと生活基盤は築いているが、時々なぜか浮草のような所在なさを覚えることがあった。ペット可物件を探しまくって猫との暮らしを実現させたのは、もちろん猫が好きだからだけど、何か家に帰ってくる理由が欲しいという気持ちも少しはあったのかもしれない。

 実際、ネネは奈々の生活の軸になった。ネネの食費と医療費は働く理由になったし、いつも全身で「奈々大好き!」と甘えてくるネネが愛しくて、家にいる時間が楽しかった。

 カギをかけ忘れた窓が細く開いていて、部屋がカラになっていたあの日――奈々は動揺し、不注意を悔いつつも、心のどこかではすぐ戻ってきてくれると信じていたと思う。ネネと私には絆がある、だから大丈夫、と。

 けれど、それきりネネは帰らない。

 野菜を切る手が少し震える。もしかしてネネは、私の前では文字通り猫をかぶっていたのか。私と眠り、出されたえさをかじっていたけど、本当は私より空の下が恋しかったのだろうか――


 ――カサ。


 外で小さな音がしたのはそのときだった。

 奈々ははっとした。包丁を静かに置いて、扉に近づき、耳をすます。カサ、カリカリ、また音がした。間違いない、置いたえさを何かが食べている。


 ネネ!?

 

 脅かさないよう、そっと静かに――わかってはいたのだが、奈々はつい勢い込んで扉を開けてしまった。

 玄関横の皿に鼻を突っ込んでいたそれが、ビクッと顔を上げた。目が一瞬光った。顔は黒く身体もふさふさに見えたが、光が届かない暗みに飛びのかれてしまって、よくわからない。

 ネネ、か? 見定めようとしたせつな、それは身を翻し、全速力で走り始めた。

「あ! 待って!」

 奈々は玄関から飛び出した。どっち? どこにいった? 一瞬とはいえ目を離してしまったのだが、幸い畑と道を分ける低い網がゆさっと揺れたので、その下でごそごそしている動物の動きを捉えることができた。網を抜けたそれは、キャベツ畑を突っ切っていく。向かう方向には、星々を遮るようにひときわ黒く、森の木々が影絵を描いているのが見えた。

 腰ぐらいの網を前に、奈々は束の間ためらった。このへんにはかつて農家の所有だった屋敷森を整備した公園がたくさんあるが、向こうに見える森はこの畑と敷地を同じくする、現役の屋敷森だ。要するに、網の向こうはよその庭――だが、ひと呼吸のあと、奈々は覚悟を決めてそこを越えた。

 畑は向こうまで40メートルほどか。ネネらしい影は向こう側に到達し、用具置き場のような小屋の横を通って森にすべり込んでいく。奈々はそれを追視しながらキャベツの畝の間を進んだが、育った作物をひっかけないよう走るのは大変な難業だった。失敗した、畑のへりを回り込めばよかった。やっと森の前についたときは、追っていた影の気配はとうになかった。

 覗き込んだ木々の奥は、光が死んだかのように暗かった。枝葉を大きく広げた広葉樹が、月明かりを遮っているのだ。でも、行かなければと奈々は思った。もしかしたらこの奥に、猫が根城にするような場所があるのかもしれない。

 足を踏み出す。乾燥しきった古い葉がカサカサと音をたてる。樹海に分け入るような感覚に、鼓動が大きくなった。

 落ち着け。屋敷森である以上、広くはないんだ。

 幹を探り、低い枝を手で押し分けるうちにどっちに進んでいるのかわからなくなったが、とにかく奈々は進んだ。と、ふっと木々の重なりが薄くなり、唐突にほの明るい場所に出た。

 顔を上向かせると、木々にふち取られた狭い星空が見えた。小さな空き地のような場所で、向かって左に古い小さな平屋があり、その窓から光が漏れおちている。

 平屋の前に回り込もうとした奈々は、そこではっとすくんだ。縁側……とも呼べないが、空き地に面する大きな窓を開け放って、人が腰かけていたのだ。灰色になった髪を結い、ゆるっとした上下の上に割烹着のようなものを着ている。年配の女の人のようだ。

 気配を感じたのか、彼女がふとこちらを向き、驚いたような顔をした。

「どちらさん?」

「――あの、ええと――」

 自分が立派な不法侵入者なのを知っている奈々は、立ちつくす。なんと言おう、後が続かない。だが戸惑う奈々はどうやら無害に見えたのだろう。女の人はすぐ落ち着いた様子になって、座り直した。

「どうしてここに?」

「か、勝手にすみません。私、近所の者で、うちの猫を探して……。さっき森に駆けこむのを見て、追ってきたらここに出たんです」

「追ってきた……もしかして、あれ?」

 彼女は前方を顎で示す。そちらを見やった奈々は、窓からの光が届くか届かないかのところで、ふがふがと地面をあさっている動物に気づいた。

 小さな体を覆う、長いふさふさの茶色の毛。真ん中が黒い顔。

 ネネの特徴と同じ。だが、それは――

「……タヌキ……」

「そう。この森に住み着いていてね」

 ネネじゃなかった――。

 知らず、奈々は深く息を吐いていた。落胆と一緒に全身の力が抜ける気がした。ネネじゃなかった――ネネじゃなかった。

「このへんは農地がどんどん家に変わって、屋敷森も公園になっちゃってるでしょ。だから、ここみたいな昔のままの屋敷森にタヌキが住むの。貴重な居場所だよ」

「そうなんです、ね……」

 どこか遠くから聞こえる彼女の声に、奈々はぼんやりと相槌を打つ。

 ふと、女の人の声が柔らかくなった。

「なんだか、あんたも居場所を探してるって顔をしているね。その猫は、どういう猫なの?」

「……タヌキに似てます」

「そうじゃなくて、あんたにとって、どういう猫?」


 ――ネネ。


 問いかけられた瞬間、こみあげてくるものがあった。

「ネネは、私の……」

 東京に暮らして数年。でも、どこにいっても、奈々は今ひとつ満たされなかった。華やかで便利で、磨き上げたようにお洒落な人々が闊歩する町は、なぜか自分を拒絶しているように感じることがあった。

 でも、猫と住める物件を手あたり次第に探すうちに、奈々は心和む風景に出会えたのだった。森と小川と畑と――昔、この一帯は広い野で、森もまた人が造ったものだということは後で知ったが、それでもこの緑豊かな地は、わずかに自分を受け入れてくれるように思えた。

 そしてネネが家族になり、今いる場所は、やっと本当に――


「私の、故郷です。ネネがいたから、私にも居場所ができたんです」


 でも、ネネは出ていった――。


 女の人が、柔らかく微笑んで奈々を手招いた。吸い寄せられるように隣に座ると、彼女は奈々の肩をぎゅっと抱いた。

「今のを猫が聞いたら喜ぶね。大丈夫、その子は少し外に出てみたかっただけ。きっと帰るよ……その猫にとっても、あんたは故郷なのだから」


**


 次の日の仕事後、奈々は昨日の屋敷林の母屋に、菓子折りを持って出向いた。もちろん「不法侵入」のお詫びに行ったのだが、そこから自宅までのわずかな距離を、奈々はキツネにつままれたような、いやタヌキに化かされたような、ふわふわした気持ちで帰ることになった。


――森の中の家で人に会ったって、あなた、それは勘違いじゃないですか? あの離れ家には、もう誰もいませんよ。

――え? でも昨日、確かに女の方に……

――本当に誰もいないです。そもそも電気も通ってない。光なんてあるはずないです――

 

 この森はタヌキの居場所だと言っていた、あの女の人は誰だったのだろう。

 まさか、彼女こそタヌキだったのだろうか。

 

 混乱したまま、ぼんやりと歩みを進める。アパートの玄関先に灯る明かりが身を包んだ。

 今日で最後と玄関横に置いたえさには、確かめると少しだけいじられた形跡があった。でも、きっと昨日のタヌキだろう。いい餌場を見つけたと、彼らは思ったのに違いない。

 そのときだった。ふくらはぎにふわっと、何か柔らかいものが触れたのは。そして、「にゃぁ」という小さい声。

 視線を落とす。光る眼がこちらを見ている。ふさふさの茶色の毛。鼻まわりをぼかしたような黒い顔。

 タヌキ――じゃない。


「ネネ――」


 ネネがもう一度、にゃあ、と鳴いた。

 その子は外に出てみたかっただけ、きっと帰るよ、女の人の言葉が脳裏をかすめる。思えばまるでネネを代弁したかのような言葉だったけれど、あの人はタヌキではなくて、もしかしてネネ自身だったのか。


 わからない。わからないけど、彼女がネネならそれもいい。


 奈々はネネを抱き上げた。「私の居場所」を、しっかりしっかり、抱きしめた。

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