船上の晩餐
外海の航海というものは、常に緊張を
幸い彼の船には優秀な航海士や船員が多い。それもまた、彼が長い間培った経験から荒くれ者の多い海の男たちから一応
目の前の男は、この航海で初めて彼の船に乗せた人間だが、優秀なのは間違いない。それなりに長い付き合いの別の船の船長からの紹介だから、人柄が信頼できるのは元より、まだ若いが腕は立つし、何より海への知識が豊富で頼りになる。
できればずっと手元に置いておきたいのだが、とそんな話をしたところで、いやに怪訝そうな顔を向けられた。それが、先日の一件のせいだと気づいて、苦笑して肩を竦める。
「そういう意味じゃねえよ、もちろん。そんな怖い顔をするなよ、ジェイク」
「……別に、疑ってたわけじゃねえが」
「ジャンはどうしてる?」
「あっちからこっちから声をかけられて戸惑ってるようだ。あんたからもちょっと言ってやってくれないか? 無茶や無理をするような奴はいないと信じちゃあいるが、あの世間知らずはホイホイついていきかねない」
話題に上がっているのは、十日ほど前に寄った港で乗せた子供のことだった。
夜明けの
「……あんた、まだ諦めてないのか? まだ子供だし……その……男だぞ?」
思わずうっとりとそう思い出した彼に、ジェイクが呆れと警戒が半々くらいの眼差しを向けてくる。どうやら彼にとって、あの少年はもう守るべき対象となっているらしい。
「別にどうこうしようってわけじゃないさ。ただ綺麗なものは眺めてるだけでもいいもんだろ」
「あんたのことだから、あんまり信用ならねえなあ」
率直にそう疑義を口にしたジェイクに、思わず彼は声を上げて笑う。そうそう大っぴらにすることではないが、確かに彼らの故国においては、年若い相手とのその手の関係はさほど珍しいことでもなかったのだ。もちろん合意の上で、どちらかといえば年長者の庇護の延長のようなものではあったが。
「わかったわかった、航海中に信用を失うような真似は俺の名と海に誓ってしねえよ。他の連中にも釘を刺しておく。だがまあ、こんな干からびるような海の上だ。多少の潤いくらいは多めに見てくれよ」
「多少のって……」
「うまいものを食わせてやって、可愛い笑顔を見るくらいはいいだろ」
「……結局、そうくるのか」
いずれにしても彼はこの船の船長だ。全ての権限は彼の下にあるし、一介の航海士がそれに逆らうことはできない。何なら、彼が命じればこの男を海に放り投げることもできるのだ。もちろん、そんなことは余程のことがなければすることはないが。
彼の眼差しをどう受け取ったのか、しばらく何かを考え込むようにしていたジェイクは、それでも深いため息をついてから頷いた。
「絶対に、無理や無茶はしないな?」
「男に二言はない」
「口先と腕っ節の両方で海と陸を渡ってきたあんたの言うことだが、まあ信用しておく。いつだ?」
「別に急ぎじゃねえが、今夜の夕食に招待させてもらおうか」
「……わかった」
どうせなら早く済ませてしまえとでも思ったのだろう。ジェイクはもう一度これ見よがしに深いため息をつくと、代わりの駄賃だとでも言うように、棚からワインを一本引き抜いて船長室を出ていった。
一本くらいは、と思って棚を確認して、だが彼は思わず目を見開く。
「あの野郎、一番
どうやら航海士としての腕だけではなく、ワインの目利きもできるのかと苦笑するより他なかった。
日が沈んで間もない頃、船長室の扉を叩く音が聞こえた。立ち上がり、戸を開けると、意外なことにそこに立っていたのはジャン一人きりだった。てっきりあの男が保護者よろしくついてくるかと思っていたのだが。
目を丸くした彼に、ジャンが不思議そうに首を傾げる。
「どうかしましたか? 夕食にご招待いただいたと伺ったのですが、もしかして僕の勘違いだったでしょうか?」
声変わり前の柔らかい響きだけでなく、育ちの良さが窺える丁寧な口調が美しい顔から発せられるのはそれだけでもう何かそそるものがある。ごくりと思わず唾を飲み込んで、さりげなく背を押して中へと招き入れる。
「夕食ったって大したものがあるわけじゃねえが、むさ苦しい男どもに囲まれてばかりじゃ気が滅入るかと思ってな」
「そんなことはありませんが……船長室ってこんなに立派なんですね」
派手な飾りはないが、それなりに整えられた調度品と大きな寝台にジャンが目を丸くしている。
「一応、これでも船長だからな」
腰に回した手をそのままに、ひとまずはテーブルの前へと案内する。そこに並べられた料理に、ジャンがさらに目を大きく見開いた。
炙ったパンに、溶けたチーズ、干し肉の薄切りに、あとはワインと
席について、パンにチーズを載せて口に頬張ると、妖精のような顔がふわりと綻んだ。それはもう、極上の無防備な柔らかい表情で。
「美味しい……。ずっと固いパンと干し肉ばかりだったから、温めるだけでこんなに違うものなんですね」
船上では許可がなければ火は使えない。料理に使うことなどほとんどないから、干し肉と干からびたようなパン、それにワインがあればいい方だ。
「気に入ったか?」
「はい。ありがとうございます」
「よければこれも飲んでみろ。イスティスの一級品だ。飲み慣れていなくても飲めるくらい美味い」
カップにワインを注いで渡すと、ジャンは少し考え込むようだったが、拒むのも非礼にあたると考えたのか、小さく礼を言って受け取ると、口に含んだ。その目がまた丸くなる。
「美味いか?」
「ええ。もっと酸っぱかったりするのかと思っていました」
「言っただろう、一級品だと」
彼も笑いながら向かい合って食事を始める。警戒されない程度に、それとなく身の上について尋ねると、ジャンはワインのおかげもあるのか、普段よりは少し砕けた様子でそれなりに答えてくれる。
どうやら貴族の子息らしいこと、旅の目的らしい目的はあまりないこと。
「お坊ちゃんが一人でふらり旅、ってのは無謀にすぎるな」
「ジェイクにも言われました。幸運に感謝しろ、と。それからいつまでもそんなことが続くとも思うなとも」
そう言った顔はさらに屈託なく笑っていて、あまりの無防備な表情に彼らしくもなく動揺する。とはいえ相手はジェイクも言う通りまだどこか幼ささえ残る子供だ。ワインのカップを傾けながら、干し肉を
ジャンは見た目よりは活発で好奇心旺盛な性格らしく、彼の話が進むにつれてあれこれと問いを投げかけてくる。どうやら読書家でもあるようで、どこそこの海域の噂話は本当なのか、果てには海賊の様子などまで聞きたがる始末だった。
聞き上手で見目がよく、おまけに性格も可愛らしいとくれば話していて楽しくないわけがない。ジャンの方も、ゆっくりと食事をとりながら会話するというのは久しぶりだったのか、部屋に入ってきた時よりもはるかにくつろいで穏やかな表情をしている。
やがて、喋り疲れたのか、あるいはほんの数口しかつけていないワインの酔いが回ったのか、眠たげに目を擦り始めた。そんな様子は子供っぽいが、椅子からずり落ちそうになったのを慌てて抱き留めると、驚くほどその体は柔らかい。伝わる少し高い体温に、理性よりも先に男の本能が反応する。
軽々と抱き上げて、そのまま寝台へと押し倒す。相手は酔っているせいか、あるいはその手の経験がないせいか、ただ驚いたように見上げてくる。
「船長……さん?」
ちらりとジェイクとの約束が脳裏をよぎる。
——無理強いするようなことはしない。
眠気と酔いの入り混じったどこかぼんやりした眼差しに、頬を柔らかく撫でながらなるべく甘く見えるように笑いかける。相手はまだ子供だ。無体なことをするつもりはないが、快楽を与えて蕩けさせることはできる。
「何、無茶なことはしない。俺に任せておけ、気持ちよくしてやるから」
「な、な……に……?」
戸惑う顔さえ欲を煽るばかりで、ただ笑ったままゆっくりと首筋に唇を寄せようとした、その時。
不意に鋭く風を切る音が聞こえた。はらり、と目の前を黒く細いものが舞う。それが自分の髪だと気づいたのは、頬に熱にも似た痛みを感じて思わず身を起こし、あるはずのない強い風で寝台から吹き飛ばされて転げ落ちてからだった。
「せ、船長さん……⁉︎」
驚いて身を起こしたジャンを見つめながら、触れた頬にはぬるりとした感触。深くはないが、赤い色がはっきりと手のひらを濡らしていた。同時に、バン、と蹴り飛ばすかのような勢いで扉が開いた。
「おい、なんだ今の物音は⁉︎ てめえまさか……って、なんだその顔?」
血相を変えて飛び込んできたジェイクは、だが、彼の顔を見て呆気に取られたように口をぽかんと開けた。それから寝台の上のジャンに気づいて、すぐにまたその灰色の瞳が剣呑な光を浮かべる。
「あんた、約束はどうした」
「破っちゃいねえ、まだ何にもしちゃいねえよ」
「
「ジェイク、落ち着いて。わた……僕がちょっと食べすぎて、眠くなっちゃったから寝台に運んでくれただけ……だと思う」
場を取り成すつもりなのか、本気でそう思っているのかはわからなかったが、ジェイクの表情は揺らがない。そのまま大股に近づいてくる。
「ジェイク、ちょっと待て——」
この部屋には
しかし、何も起こらなかった。
「なんだ、ヴェッツィオ。化け物にでも会ったような顔して」
あからさまに不審そうな顔に、ただ首を振る。何を言っても理解してもらえるとは思えなかった。
「……ジャン、本当に変なことはされなかったんだな?」
ジェイクがそう尋ねると、抱き上げられたままの少年は首を傾げる。ちらりとこちらを見やってから、困ったように微笑んで、首を横に振った。
「美味しい夕飯を食べさせてもらって、いろんな話を聞かせてもらっただけだよ」
「……なら、いいが」
「言ったろう、俺はそんな真似はしねえって」
「どうだか」
ジェイクはそう言い捨てて、ジャンを抱えたまま船長室を出て行った。この分では二度目の晩餐会は無理そうだな、と彼は頬を押さえたまま苦笑する。
その時、ふっともう一度風が吹いた。窓も開いていないのに吹いたその風と共にまたぱらぱらと前髪が散って、残っていた酔いも冷めてしまう。
「わかったわかった、もう手は出さねえし、他の連中にもそう言っておく!」
半ばやけ気味に彼がそう言うと、今度は柔らかい風が頬を撫でていった。
海の王と風の娘 橘 紀里 @kiri_tachibana
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