雪を溶く熱 変わっていく好きの形

無月兄

第1話

 インターホンに急かされ玄関の扉を開けたとたん、外からヒヤリとした空気が一気に家の中へと入ってきた。今朝から急に下がった気温は、この地方では珍しい雪を降らせ、午後には見慣れた景色を白い世界へと変えていた。


 だけど、扉の向こうに立っていた彼を見たその瞬間、そんな凍てつくような寒さも、外に見える雪景色も、すぐに意識の外へと追いやられてしまった。


「あき…………佐藤くん?」


 出かかった言葉を一度飲み込み、改めて相手の名を呼ぶ。同じ中学のクラスメイトである佐藤くん。いや、クラスメイト『だった』と、過去形にするべきなのかもしれない。


「何か用?」


 一言放つと、口の中がやけに乾いている事に気づく。変なの。緊張なんて、する理由ないのに。

 だけど緊張しているのは、どうやら私だけじゃなかったようだ。


「いや、その……せっかくだから、最後に挨拶くらいはしておこうと思って。こんな風に会えるのも、今日で最後だから」


 そう話す彼の表情もどこか固い。しかもお互い、次の言葉がちっとも出てこなくて、ただ向き合うだけの無言の時が流れる。

 そんな、気まずい沈黙に耐えきれなくなったのだろう。


「じゃあ、急に来てゴメンな」


 それだけ言うと、もう話すことはないとばかりにクルリと背を向ける。実際、何を話せばいいのか分からないのだろう。それは私も同じで、何か言わなきゃと思っても、上手く言葉が出てこない。

 だけど、立ち去ろうとする彼の後ろ姿を見て、なんとか声を絞り出す。


「て……転校先でも、元気でね!」


 転校。そう口にしたとたん、胸の奥がチクリと痛んだ。

 彼が明日引っ越し、転校することなんて、とっくに知っていた。今日は学校で、みんなに向かってお別れの挨拶だってしていた。全部分かっていることだ。なのに今になって、こんなモヤモヤした気持ちになるのはなぜだろう。


 私の声が届くと、彼は足を止め、一度だけこっちを振り向いた。


「おう、ありがとな」


 この時私達が交わした言葉は、これで全てだ。あまりにも短いやり取りを終え、後は雪の中に消えていく姿を、ただ見送るだけだった。







「あら美冬。さっき来た人、誰だったの?」


 家の中に戻ると、晩御飯の後片付けを終えたお母さんが聞いてきた。


「佐藤くん。最後に挨拶しに来たんだって」

「ああ、秋人君ね。アンタ達ずっと一緒だったから、寂しくなるわね」


 ずっと一緒か。お母さん、いったいいつの話をしているんだろう。

 確かに私達は所謂幼馴染みで、物心つく前から一緒にいた。だけど今となっては、お互いただのクラスメイト。かつては「秋人」だった呼び方も、いつの間にか名字である「佐藤くん」へと変わっていた。


 いったいどこで距離が開いたんだろう。思い返してみると、それは多分、中学に上がったくらいからだった。







 まだ子供だった頃、私達はほとんど何をするにも二人一緒で、私は秋人の事が大好きだった。好きと言っても、それは家族や友達に対する好きと同じ。たまに男女で一緒にいるのをからかわれた事もあったけど、そんなのは雑音みたいなもので、まるで気にならなかった。

 多分、秋人もそうだったと思う。私達の間では男女はただの記号で、決してお互いを区別するものじゃなかった。そのはずだった。


 最初の変化は、中学の制服を着たことだったと思う。男女で分けられたそれは、どうしても性別の違いを意識させ、それまでほとんどはくことのなかったスカートが当たり前になったのは、まるで自分は女なんだと教え込まれているようだった。

 別にそれ自体が嫌だった訳じゃない。最初は慣れなかったスカートだけど、気がつけば普段着でも買うようになっていたし、ほぼ同時期に起こり始めた体の変化は、自然と服の好みまでも変えていったのかもしれない。


 だけど私が女になっていくことで、あるいは秋人が男になっていくことで、ただの記号に過ぎなかったはずの性別が、次第にその存在感を増していった。


 二人一緒にいることによる周りの雑音も、次第に大きくなっていく。そして私も、だんだんとそれを無視できなくなっていく。

 仲がいいと言われる度に、囃し立てられる度に、好奇心に満ちた質問をされる度に、それまで秋人に対して思っていた、家族や友達に対してと同じはずだった「好き」が、だんだんと形を変えていくような気がした。

 そして、そんな変化を受け止めるには、当時の私はあまりにも幼かった。

 以前はなにも気にせずやっていた登下校が、お互いの家への行き来が、近すぎる関係が、どうしようもなく恥ずかしくなって、気がつけばいつも隣にいたはずの秋人との距離は、遠く離れてしまっていた。


 あと少しで三年生という今、秋人とはもう、家が近いだけのただのクラスメイトになっていた。







 昨日から降り始めた雪は、一夜明けても止むことはなかった。

 家の中でも、ストーブを炊いた部屋から一歩出るととたんに体が震える。ましてや外に出たらなおさらだ。こんな日は、一歩だって家から出たくはない。

 なのに、どうして私は今ここにいるのだろう。


 私の家から目と鼻の先にある、秋人の家。いや、ここはもう、秋人の家じゃないか。

 覗き込むと窓から微かに見える、ガランとした室内が、ここにはもう誰もいないのだと物語っていた。


 遅かった。いつ出発するかなんて知らなかったけど、今ならまだ顔を見れると思ってた。けど、間に合わなかった。


「秋人……」


 気がつけば、いつ以来になるかも分からない彼の名前を呟き、暖かいものが頬を伝うのが分かる。


 いつの間にか形を変えていった、秋人に対する「好き」の気持ち。だけど私は、それを直視する事ができなかった。

 ちょうど、今目の前に広がる銀世界のように、新しく芽生えた「好き」の気持ちの上に、恥ずかしさや戸惑いという雪を積もらせ、覆い隠した。その「好き」がどんなものか、ハッキリ確かめようともしないまま。


 だけど最後に確かめたかった。覆っていた雪なんて全部溶かして、自分の本当の気持ちに向き合いたかった。

 何もかも、遅すぎたけど。


 だけどその時だった。ポケットに入れていたスマホが震え、着信を知らせたのは。

 こんな時に誰だろう。そう思いながらディスプレイに写った名前を見た次の瞬間、私は通話ボタンを押し、向こう側にいる彼の名を叫んでいた。


「あ、秋人!?」


 咄嗟に出てきたのは、今は言い慣れているはずの「佐藤くん」ではなかった。

 ううん。本当はずっと、心の中では「秋人」のままだったのかもしれない。


「突然電話してごめんな。ついさっき家を出たところなんだ……」


 知ってるよ。きっと秋人は、私が今どこにいるかなんて想像もしていないだろう。

 けれど私にだって分からないことはある。


「それで、何か話でもあるの?」


 思えば秋人は、昨日うちに来た時も、何か言いたげで、だけどそれをはぐらかしたまま帰っていった。

 だから私は、ずっとモヤモヤしていた。彼が本当は何を言いたかったのか、今度こそちゃんと聞きたかった。


「えっと、その……これからも、たまには電話していいか?」

「えっ?」

「いや、いきなり変なこと言ってるってのは分かってる。最近じゃ昔みたいに喋ることもあんまりなくなったし、今さら困るよな、ごめん」


 不安からか緊張からか、聞こえてくる秋人の声はどこか力なさげだ。確かに昔ならともかく、しばらく疎遠になっている今、改めてそんな事言われても戸惑うのが普通かもしれない。

 だけど、だけど私はそうじゃない。


「いいよ──」

「えっ?」

「だから、電話してきていいって言ってるの。その代わり、私からも電話すると思うけど、いい?」


 多分、秋人も私と同じだったんだろう。

 だからこそわかる。変わっていく周りと、そして自分の気持ちに上手くついていくことができなくて、その上に雪を被せて蓋をしたのだと。


「ねえ、どうなの? 電話していいかって聞いてるの」


 なかなか返事をくれない秋人に向かって、もう一度尋ねてみる。それでもすぐには返事はなくて、聞こえてきたのは焦ったような息づかい。それからようやく、ちゃんとした声が届く。


「いい。って言うか、そうしてくれると……う、嬉しい」

「ほんと? よかった」


 私は明るい声でそれに返した――つもりなんだけど、実際はどうだかわからない。だって緊張しているのは、私も同じだから。


 一度離れた距離と、昔とは少し変わった好きの形。それを受け止めるのは、やっぱり簡単な事じゃない。

 だけどこれからまた、少しずつ何かが変わっていく。そんな予感がした。


 秋人はどうだろう。一度は雪に埋もれたように、見えなくなっていた彼の気持ち。果たしてそれは、私と同じように形を変えているのだろうか。友達としての好きとは、少し違う何かに。


 その答えを知るのは、これからもう少し先の話だ。

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