第16話
横浜の街は、まだ空が真夜中と変わらぬ暗さなのに灯りがたくさん瞬いて明るかった。帆船のような形をライトで浮きあがらせたビルが遠くに見えた。暫く走り新山下口で高速を降りると、山下公園の近くのビルの地下の駐車場にゆっくりと僕は車を乗り入れた。
日曜日の朝の山下公園は、漸く海の向こうに昇りかけている陽の薄明りに照らされていたけれど人通りはまだ少なく犬と一緒に散歩をしている老婦人やジョギングを始めたばかりのような小太りの中年男性が時折、見え隠れするくらいだった。僕らはがらがらのベンチの一つに並んで腰をかけた。街灯の下で前髪をピンで留めた斎藤さんの束ねた長い髪の脇には綺麗な桜色の耳が覗いていた。
「どうしてここに?」
僕が尋ねても、斎藤さんは笑みを浮かべ、黙ったまま明るみ始めた海を眺めていた。やがて、海の向こうから光が海を黄色く染め始めた。さっきまで海面は油を流したかのように重く暗かった波の上で、まるで分光器に掛けたようにいろいろな光の色が輝き始めた。
「きれい」
斎藤さんがポツンと呟いた。その斎藤さんの横顔を僕はじっと眺める。斎藤さんの髪が海風に微かに靡いていた。
「西尾さんと母は夕焼けの海を一緒に見ただけでしょう」
斎藤さんは僕を初めて振り向いた。
「そうだよ」
僕は斎藤さんの眼を見て答えた。斎藤さんの眸は揺れていた。
「私とは朝焼けも一緒に見て欲しかったんです」
斎藤さんはそう言うとまた眼を海の方に戻した。
「夕焼けを一緒に見てそれでずっと会えなかったなんで、そんなことになってほしくないもの。私決めたんです。ちゃんとそして強く生きて行くって。病気になるかもしれないなんて考えなくていいんだって。それにもし病気になっても、私には家族もいるし、それに西尾さんだって私のことを見ていてくれるでしょう?」
僕は頷くとそのまま斎藤さんと並んで陽の昇っていく海を見ていた。遠くに大きな二隻の汽船のシルエットが見えた。白い水鳥が高い鳴き声を上げて、二羽三羽と、僕らの上を舞い上がっていく。太陽はもう水平線に半分以上顔を出し、凪いだ水面には光の束が舞っているようだった。
「西尾さん、どうして連絡してくれなかったんですか?」
「え?」
「五日間、全然連絡してくれなかったじゃないですか。私を見てくれている人なのに」
「だって、それは・・・」
君に僕がしてあげれることがすべて終わったから。
「西尾さんが連絡してくれないから、私、勘定していたんです。どの位会わないでも大丈夫なんだろう、平気でいられるんだろうって。その間に横浜にも行ってみたんですよ、西尾さんの教えてくれたお店に。でもちっとも連絡くれないし、私には五日が限度でした。もうすぐ学校も始まっちゃうし」
そう言うと、僕を振り向いて頬を膨らませて見せた。そんな顔を見たのは初めてだった。
「でも、叱られたんです。そんな人を試すようなことをしてはダメだって。西尾さんはできることをみんなしてくれたじゃないかって。後はお前がお礼をする番じゃないかって」
膨らませた頬を僕が人差し指で突っつくと、ぷっと息を吐き出して斎藤さんは笑った。
それから海を見詰めながらぽつりぽつりとサイトウが働いていた喫茶店に行った時のことを話し始めた。喫茶店の夫婦は斎藤さんが店に入った途端に駆け寄ってきて目を丸くしたまま斎藤さんの手を次々に握ったそうだ。
「来てくれたのね。まあ、本当にそっくりだこと」
「いやあ、びっくるするくらい似ているなあ」
口々にそう言ってから、斎藤さんを席に招くとサイトウが働いていたときのことを余すことなく話してくれたそうだ。時おり客がやってくるとご主人が目に見えて不機嫌になるものだから困ってしまいました、と斎藤さんは言った。
「でも耳は隠しておきましたけどね」
斎藤さんは悪戯っぽく笑って話を続けた。
奥さんはサイトウが昔使っていた綺麗にアイロンをかけてあるエプロンを出してきて斎藤さんに、つけてみて、と頼んだ。斎藤さんがそれを身につけると、
「ユキちゃんが戻って来てくれたら、また着てもらおうと思って取っておいたのにね」
と涙ぐんで、斎藤さんにそのエプロンを持たせてくれた。
昼過ぎに客がいなくなると夫婦は店を閉め、夫婦揃ってサイトウが住んでいたアパート(といっても下宿屋に近いものだったらしいが、)に連れて行ってくれた。そこは大学の事務員が話してくれた通りもう取り壊されて新しいマンションが建っていたそうだ。壊されてしまって残念だけどね、せっかくだからお母さんの暮らしていたところを見ておくといいよ、供養だものね、と喫茶店の奥さんは斎藤さんに言ったそうだ。ユキちゃんのいい供養になるよ、と。
帰りがてらユキちゃんはこのお店でもよく買い物をしていたよ、と連れて行ってくれた化粧品屋で、
「あらまあユキちゃん、ちっとも変わらないじゃない・・・?」
最初はサイトウ本人と勘違いして驚いていた化粧品屋のおばさんは斎藤さんがサイトウの娘だと聞いて懐かしがり、サイトウが死んだことを聞くと泣いてくれました、と斎藤さんは言った。
「みんな優しいですね」
そう言って斎藤さんは僕を見た。
「あ、そうだ。大叔父さんの手紙、何なんでしょうね」
「大叔父さん?」
ふふっと、斎藤さんは笑った。
「お父さんが見つかったから・・・大叔父さんって。そう呼ぶわってお父さんに言ったんです。ちょっと悲しそうな顔をしたわ」
「それはそうだよ。今まで父親として育ててくれたんだから」
「ですよね、冗談だって謝っておきました。それより手紙・・・私見ないから、読んでみますか」
そう言うと、斎藤さんは座っていたベンチから一つ向こうのベンチに席を移した。
「じゃあ、読むよ。」
「きっと、私のことですよね。あとでちょっとだけ聞かせてくださいね」
「聞かせていい話だったらね」
僕は封筒を破ると、中に入っていた手紙を読み始めた。
「西尾様。いずれお伝えする積りでしたがいい機会なので是非このお手紙をお読みください。聡子は本当に見違えるように明るい娘になりました。きっともう大丈夫でしょう。 実は聡子からあなたのお話を聞いた時、私は本当に驚いたのです。あなたには以前あなたのお名前を覚えていないと申しましたが、実は由紀子から聞いていたあなたの名前を私ははっきりと覚えておりました。
由紀子が亡くなる前、最後に会った時に私はあなたのお名前をもう一度、由紀子から聞いていたのです。由紀子は病床で、ああ、西尾君がいてくれたらなあ、と呟いておりました。その時由紀子は訴えかけるようなそんな眼をしていました。西尾君って、中学生の時の友達かい、あの東京に転校して行った、と私が聞くと由紀子は頷きました。そして、ねぇ西尾君はきっといつか私を探しに来てくれるからそれまで聡子を預かって、とか細い声で私に頼んだのです。私は最初から聡子を引き取るつもりでしたので、もちろんいいよと答えましたが、まさか西尾さんが本当に聡子に会いに来るとは思っていませんでした。
そんな聡子はすくすくと育ちましたが、本当の親を知らずに寂しげな子でした。私たちは本当に心配しました。聡子はどんなに私たちが愛情を注いでもどこか心が抜け殻のようなそんな感じがしたのです。このままではいけないと私は感じておりました。
そんな時、聡子から新潟に行きたいと言う話が突然出たのです。聡子の話の中で、あなたのお名前が出た時、ああ、由紀子の言ったのは本当だったのかもしれない、これは運命なのだ、と私は思ったのです。
それでも私は迷いました。由紀子と友達だったころのあなたがそのまま大人になられたのかは分からないと思いました。どんなお人柄なのか分からない方に聡子を託すのは育ててきた親としてできない相談でした。それであなたを調べさせていただいたのです。いい方だと言うのは分かりましたが、それでも私はまだ悩んでいました。
そんな時、聡子がぽつんと、ああ、西尾さんが一緒に行ってくれたらなぁ、と呟いたのです。その時の眼が、あの病床の由紀子と同じ眼だったのです。私は決心しました。一度、その方にお会いしよう。そして決めよう。
そんな訳でお呼びした時に、あなたは由紀子が見守っているような気がすると仰いました。私はそれを聞いて、本当に由紀子がこの世に心を残したまま逝ったのだ、その魂が聡子とあなたには感じられるのだと思いました。聡子はあなたなしでは生きていけないのかもしれない、そう思っています。ですから聡子をいつまでも見守ってやってください。聡子がどんな形であなたと一緒にいたいのかは分かりません。でも私の眼には聡子はあなたに特別な好意を持っているように思えます。もちろんそれは聡子次第ですし、あなた次第です。私たちはそれを見守るだけです。聡子のことを宜しくお願いします」
読み終わると、僕は丁寧に手紙を折りたたんで封筒に戻した。斎藤さんは心配そうな眼で僕の仕草を見ていた。
「何でした?」
「君が明るくなって嬉しいって。それと」
斎藤さんは眼で僕を促した。
「君のお母さんのこと」
「なんだ、そうですか。私のことじゃないんですね」
がっかりしたような、ほっとしたような顔をすると斎藤さんは座っていたベンチから僕の隣に戻ってきた。その姿が愛おしかった。
「喫茶店の人も、あの前田さんもみんな優しいですね。もちろん西尾さんも」
斎藤さんは僕の横に座るとそう言って僕を見た。
「斎藤さん、僕が君に優しいのは僕自身のためなんだよ」
斎藤さんは僕をじっと見つめたまま次の言葉を待っていた。
「誰か大切な人がいないと、僕のことも大切に思ってくれる人がいないと、僕はこれから生きて行けないような気がするんだ。僕は君のことを愛しく大切に思っている。聡子さんもそうだったらいいな、と思っている。それに・・・僕は五日も持たなかった。一日でだめになっちゃった。あとはゾンビみたいに暮らしていた」
斎藤さんはこくりと首を縦に振った。そうしてしばらく海を眺めながら不意に言った。
「西尾さん、私のこと、カタカナみたいに呼んでくれます」
「君のお母さんを呼んだみたいにということかな?」
斎藤さんは頷いた。
「サイトウサトコ」
僕がそう呼ぶと、斎藤さんは照れたように桜色に項を染めて僕の脇腹を優しく突いた。それはまるで中学の時のサイトウの仕草のようだった。
「でもねぇ」
斎藤さんは恥ずかしそうに呟いて僕を見た。長い睫が朝の光を受けて斎藤さんの瞳の上できらきらと瞬いた。
「母が日記に、西尾クン、好きだよ、たぶん、って書いていたでしょう」
斎藤さんは海を見詰め直すと穏やかに話し始めた。
「私もそうです。でもわたし母とは違う人間なんです。それでもいいのかなって。良く分かんない。でもいくじなしになりたくないから、ああ何を言っているんだろう、わたし」
斎藤さんは最後は消え入るようにそう言ってから、僕をもう一度横目で見ると真っ赤になって前に向きなおった。そして意を決したように小声で尋ねた。
「西尾さん、西尾さんにとって私は母の代わりですか?」
僕は首を振った。
「いや、サイトウサトコはサイトウユキコの代わりじゃないよ。僕にとって唯一の大切な人だ」
ふふふ、と斎藤さんは笑った。
「代わりでもいいんですよ。私。その代わり二人分愛してくれるなら」
「こんな年の僕でも・・・?」
「でも、まずはお父さんから・・・」
「お父さんから?」
びっくりしたように彼女を見ると、彼女は真面目な顔をして頷いた。
「ちっちゃなころ私にはお父さんがいなかった。その頃友達がお父さんのお嫁さんになるって言っていて、、、羨ましくて、悲しかったんです。でも今は育ててくれたお父さんがいて、死んじゃったけど母が愛したお父さんがいて、そして西尾さんがいる。私はお父さんのお嫁さんにもなれる」
斎藤さんは歌うように言った。そして包帯を巻いたままの僕の左手を包帯の上から撫でた。
「西尾さん・・・覚えています。弥彦に行った時のおばあちゃんのこと?」
「ああ・・・」
あのお梅のお漬物をくれたおばあちゃんのこと?そう答えると斎藤さんは頷いた。
「あの時、西尾さんに話したことは半分だけ。本当言うとあのおばあちゃんに、もしも私の方が連れの人を好きになったら、どうしたら良いんでしょうって聞いたんです。そしたらおばあちゃんは口をあんぐりとして・・・それからにこっ、て笑って言ったんです。そうなったら、あんた、ガーンって行きなさいって・・・」
ガーン、というところを腕を振って笑うと、斎藤さんはガーンって行きます、と言って僕を見つめた。
「わたし、西尾さんのことが大好きです。愛しています」
サイトウサトコ。
僕もだよ。
そういうかわりに僕は斎藤さんの手に指を伸ばした。サイトウサトコはその指をそっとつかんだ。
はつ恋(サイトウと僕と斎藤さんの夏) 西尾 諒 @RNishio
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