第15話

夏休みはもう終わりに近づいていた。

そこそこ大型の台風が関東地方にやってきて電車が止まった。ジャイアンツが六連勝をしたが景気と企業業績は少しも好転せず、大きな電機メーカーが一つ民事再生法を申請した。台風の後にやってきた熱波のせいで熱中症で多くの人が亡くなった。怠けていた子供たちの自由研究の助けのために特番がテレビで組まれた。国会議員の一人が汚職で逮捕された。

でも・・・。

あの日前田さんの店で会ってから斎藤さんから連絡はなかった。僕が彼女にしてあげられることは全て終わっていた。僕の部屋で僕の腕の中で柔らかくなって行った斎藤さんの体の感触と、前田さんの店で彼女の美しい耳を見たときになぜか激しく揺さぶられた心を持て余したまま僕はだらだらと日々を過ごしていた。夜、うまく寝つけずに昼夜が逆転したまま、暑くなりすぎたリビングで昼過ぎに眼を覚ます日もあった。

時おり散歩に外に出ることがあっても買い物もせず、書きかけていた小説は一行も進まなかった。僕は・・・飛び立つことに失敗し日がな何もせず海を見ている、心の折れたオオミズナギドリみたいだった。

 そうやって五日間が過ぎた。僕は五日ぶりに買い物に出かけることにした。食料が尽きたのだ。汗で饐えたような匂いを放ち始めたポロシャツとジーンズを洗濯機の中に突っ込むと、沸かし立ての風呂につかった。首の周りから温かく生きる力が体の中に注ぎ込まれていくような感じがした。時の流れと温かいお風呂はいつでも僕たちを少し癒し、生きる力を与えてくれるものかもしれない。ささくれ立っていた心は少し和んだような気がした。

 昼過ぎに家を出て近くのスーパーに行った。平日のこの時間は年配の二人連れが多い。仲良く買い物をしている老夫婦に混じり肉や干し魚や色彩の鮮やかな野菜や果物を次々に買い物籠に放り込んでいった。五千円も食料品やお酒を買ったのはいつ以来だろう。

一緒に年を重ねた仲のよさそうな夫婦を見てなんだか優しい気分になった。もし彼女とそんな人生を送れたら素敵だと思ったけど、でもこの短い夏、彼女と一緒に居られたことだけで充分人生の残りのいい思い出にできる、そんな気さえした。

家で買ってきたものを冷蔵庫や棚に分ける前に僕は音楽を掛けることにした。

 ティルオイレンシュピーゲルの愉快な冒険。

 昔、落ち込んだ時によく聞いていた曲だった。金管楽器が奏でるうきうきするような序奏を聞きながら、買った物を次々に整理し買い物袋を空にすると、今度はリビングの椅子に座り心を澄まして聞いてみた。主人公のティルっていうのは絶対に友達にしたくないような悪戯者で、悪戯がひどすぎて最後には死刑になってしまうのだ。悪戯を考えている時のわくわくするような昂揚感と死を前にした時の恐怖感のジェットコースターのようなそんな感じがとてもいい。短い曲だが聞くと気分がなんだかすっきりする。

久しぶりに苦い感情が僕の心から消えていた。ティルの死を告げる金管楽器の合奏を聞いていたその時に不意にスマートフォンがなった。

「西尾さん?あれ、何聞いているんですか?」

受話器の向こうから斎藤さんが屈託のない声で尋ねてきた。

「いやちょっと」

僕は慌ててスピーカーから携帯電話を遠ざけ、リモコンで音量を絞った。

「音楽を聴いていたんですね。お邪魔でした?すいません」

「いや、大丈夫だよ。どうしたの?」

「西尾さん、お願いがあるんですけど。西尾さんって車の運転しますよね」

「ああ、もちろん」

このところしばらく運転をしていなかったのは今のマンションに移った時に駐車場代が高すぎると車を売ってしまったせいだ。実家から職場に通っていた頃は毎週週末に車で走り回っていた。

「明日、横浜まで車で連れて行ってくださいんですけどお願いできますか」

「いいよ」

僕は迷わずに答えた。

「朝早くですよ」

「何時?」

「横浜に朝五時にいたいんです」

「何かあるの?」

「うーん、それはその時に話します」

斎藤さんは秘密めいた話し方をした。

「西尾さん、車の運転ほんとに大丈夫ですか?前行った時、車なかったけど」

「レンタカーを借りるさ。これでも昔は環八のスピード王と呼ばれていたんだ」

そう僕が言うと斎藤さんは本当ですか、と電話の向こうで笑った。

「環八でスピード違反で捕まったんですか?私、車に酔っちゃう人ですからゆっくりと運転してくださいね」

四時に迎えに行くと言ったが、斎藤さんは万一遅れたら困るから三時半に迎えに来てくださいと言い張った。玄関のところで待っています、家族には西尾さんと出かけるって話してあるから大丈夫、お話はその時にしましょうね、そう言って斎藤さんは電話を切った。


わがままを言われて嬉しいのは相手のことが愛おしいから。斎藤さんが僕にとってかけがえのない人になっていることにこの五日間で僕は身に染みるように気づいていた。切なくなるほどその人なしでは生きて行けない大切な人。そして彼女にとっても僕がそういう人でありたいと望んでいた。


 財布と免許証を手にすると、駅前の24時間開いているレンタカー屋に行って車の予約をした。夜中の三時に車を出したいと聞くと日焼けしたレンタカー屋のおやじさんが、カウンター越しに

「ずいぶんと早い時間だね。その時間に出すとなると割増料金になるよ」

それでいいか、と問いかけるような眼で僕を見あげた。

「構いません」

おやじさんはうーんと唸るような声を上げて

「まあ六時間で帰って来れるならそっちの方が安いけど、もし帰って来る時間が決まっていないなら十二時に車を取りに来てどこかのパーキングに停めておいた方が安いかもしれないよ。ほら、夜間は安くする駐車場があるからね」

と言った。

「確実に空いていますかね」

「それは分からないなあ。でも大丈夫なんじゃない?安くしているくらいだから。それにここらあたりは小さいけどたくさん駐車場があるし」

予約状況を確認するパソコンの画面を覗きながらそういうおやじさんの顔を見ながら、家のそばのコインパーキングがいつも夜は空っぽだったことを思い出した。じゃあそれで、と僕は答えるとレンタカー屋のおやじさんは満足そうに頷いた。

「うーん、その時間だと禁煙の小型車が一台とあとクラウンしか空いてないね」

小型車を選んだ。僕と斎藤さんがクラウンに乗るのはちぐはぐなような気がした。

「どこまで行くの?」

「横浜まで」

「十二時間で・・と。保険は免責、付けます?」

「そうしてください」

「免許証、コピー取るんでしばらく預からせてね」

免許証を持っておやじさんは奥の事務室に入っていきしばらくするとにこにこしながら出て来た。

「横浜、いいね。電車でも行けるけど、車だとなんだか別の街に行ったような気がするよね」

おやじさんは、顔の皺を広げるようにして僕に笑いかけた。

「自分もむかし、よくデートで横浜に車で行ったよ、ずいぶんと前だけど」

「デートということじゃないんですけど」

僕が言ってもおやじさんは、ははは、と笑いながら

「そんな早く出かけるなんてよほど大事なデートだね。気を付けてね。格好つけてスピード出し過ぎちゃだめだよ」

そう言って自分の左肩を右手で叩いていた。そんなに僕は分かりやすく表情が出てしまうのだろうか、不思議に思いながら帰り道で僕は斎藤さんに車を手配したからね、とメールを打った。


深夜に車を取りに行った時には幸いなことにあの勘の鋭いおやじさんはいなかった。若いアルバイトらしい男の子が僕の免許を確認したあと簡単に「事故があった場合」の説明をすると車をチェックし鍵を渡してくれた。久しぶりの運転なのでちょっと緊張した。以前乗っていた車とは鍵やカーナビの仕組みがまったく違っていたのだ。来るときに空いていることを確認しておいたコインパーキングに車を乗り入れ、携帯の目覚ましを三時に設定すると僕はそのまま車で音楽をかけた。メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」、あの有名な結婚行進曲の入っている曲だ。真夏の夜の夢。なんて素敵なタイトルだろう。そのままうとうととしていると朝三時に目覚まし時計が鳴った。辺りは真っ暗で静かだった。一度車から出て伸びをしてから、エンジンを掛けると斎藤さんの家の住所をカーナビに入力した。

 十分も立たずに斎藤さんの家の近くについた。ところどころ灯りがぼんやりと着いた家がある他は静かで暗い闇が覆っていた。

「近くに着いたみたい」

とメールを斎藤さんに送ると、玄関に灯りの点いていた一軒の家から斎藤さんが体を乗り出して車を探しているのが見えた。ライトを点滅させ車の居場所を伝えるとサマーカーディガンに白いパンツを履いて玄関から出てきた斎藤さんの後ろから斎藤さんのお父さんが顔を覗かせた。

「こんな時間に、申し訳ないですね。娘がわがままを言って」

斎藤さんのお父さんが車を降りて挨拶をした僕に頭を下げた。斎藤さんのお父さんはにこにこと笑っていた。

「じゃあ、行ってくるね」

 斎藤さんがお父さんに向かってひらひらと手を振った。

「気を付けるんだよ、あ、それから」

そう言うと、斎藤さんのお父さんは僕に懐から取り出した封筒を渡した。

「おひとりの時に読んでいただけますか」

「分かりました」

僕が受け取ると、斎藤さんは不思議そうな顔をしてその封筒を覗き込んだ。

「なに?」

斎藤さんのお父さんは、めっと叱るような眼で斎藤さんを見て、斎藤さんは首を竦めた。

「なんだか、やな感じだなあ」

そう言った斎藤さんにお父さんはもう一度気を付けていくんだよ、と優しい声で注意した。はい、と素直に答えて斎藤さんは助手席に乗りこんだ。二人は本物の家族にしか見えなかった。僕は車をゆっくりと出す。斎藤さんのお父さんが手を振りながらずっと僕らの車を見送っているのが見えた。

 夜の首都高には思ったより車が走っていた。時折、僕らを抜いていく車のオレンジの光が斎藤さんの頬を染めていた。僕は黙ったまま90キロのスピードを保って車を横浜に向け滑らせていった。斎藤さんも一言も喋らなかった。ちらりと見たその横顔はどことなく緊張しているような、それでいて満足げな表情だった。

「もうすぐ横浜のインターだけど、どうするの?」

浜川崎を過ぎてから僕は初めて斎藤さんに言葉を掛けた。

「山下公園の方に行ってください」

斎藤さんはまっすぐ前を向いたままそう答えた。


         

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