まるで明日が来ないかのように

帆多 丁

まるで明日が来ないかのように

 > 入院することになっちゃってさ。


 スマホのタスクバーにマンガのフキダシみたいな通知アイコンが張り付いて、そんな知らせが来た。

 

 > こないだ取った腫瘍が再発してるって。やだねー。


 文字列が不穏。


 昨年の夏、ごくごく平和な我が一家に訪れた一大事がまだ終わっていなかった。

 四歳下の弟の大腿動だいたいどうみゃく周りに見つかった正体不明の腫瘍。

 正体不明と言われると人面瘡か何かのようだけれど、これは単に「良性か悪性かわからない」という意味で、弟は途中から精密検査のために転院した。

 私はといえば「どうせ大したことないんだろ」と都合よく解釈しており、いちおう兄だし見舞いぐらい行ってやろうかと入院先を聞いたら「がんセンター」と言われて大いに慌てた覚えがある。

 名前のインパクトが強すぎる。あまりにインパクトのある転院先で、まず母が取り乱した。弟の手術そのものよりも、母を宥めることに私と姉と弟本人も腐心して、腫瘍は正体不明のまま切除されていった。

 それの再発。


 兄として、またいい年の大人として、今度は取り乱す訳には行かない。


< なにか頼みたい事あれば連絡してください。

< 雑誌の新刊買ってこいとか。


 > まあそんな長い入院じゃないから

 > 面会がこのご時世禁止されてるのよー


 ごもっともだ弟。

 弟は独身だ。私もだが。だから奥さんだの子どもだのの心配はない。かといって面会ダメかぁ仕方ないねというわけにはいかない、と対象不明の世間体を私は発揮した。


< Kindle貸そうか? マンガいっぱい入ってるよ。


 この程度が全力である。


< というか、もう入院始まってんの?


 > いやいや、来月だね。一週間ぐらいだよ。

 > キンドルどうしようかな。

 > 使ってないなら借りようかな。


 よし。と謎の達成感を得る。勢いにのって返信を打つ。お兄ちゃんに任せたまえ。

 

< 使ってない。結局スマホで読んじゃうんだ。

< 中身整理して、来週末に持ってくよ。


 > そう!?

 > 助かるー。ありがとう!


 ここで会話が一度切れて、私はKindleを探した。

 マンガ用に容量が増えたと聞いて買ったものの、いまいち使わないまま自室の隅に残置されたままのデバイスは、画面に電池のマークを表示して今もそこにあった。

 マイクロUSBをつないでLEDが光るのを確認し、なんとなくお湯を沸かしてスティックコーヒーを用意する。

 独り暮らしの、本やCDが積まれてごちゃっとした部屋の薄暗さにカーテンを開けたけれど、梅雨空も薄暗くて電気をつけた。


 なにがお兄ちゃんに任せたまえか。


 自分が兄らしい兄だったかと聞かれれば強く否定する。

 弟をいじめっ子から庇うような事は一度もなく、むしろいじめられがちだった兄である。

 薬学部をまじめにこなし、それでも単位を落とし留年して涙ながらに親に頭をさげた弟に対して、へらへらと文系の大学を二留した兄である。

 最初の就職先でやらかして五日間のプチ失踪をしでかしたあげく「ちょっといい加減にしてもらえるかな」と弟にたしなめられた兄である。

 なお、JRの鈍行を乗り継いで博多まで行った事を白状したら「それで僕たちになんの手土産もないわけ?」との指摘を受けたぐらいだから、やはり兄らしい兄ではなかったと思う。


 それでも大人にはなった。

 一人で暮らせて、Kindleのいいやつを買えるぐらいにはなった。


 ぶーんぶぶっ。


 スマホの通知を見れば、父だ。

 弟の再入院を知らせる文面と共に、治療には抗がん剤も併用される旨、記載がある。

 おそらくは、と私は考える。

 まもなく、母は心配を抑えきれなくなるだろう。そうなった時に、誰かは冷静でなければならない。事あるごとに「100パーセント絶対安全」を求める母を前にして、取り乱してはならない。それが前回の教訓だ。だから「抗がん剤」の文字列に慌ててはいけない。

 おそらくは。

 おそらくは、前回も正体不明だったから、今回も正体不明なのだ。悪性か良性かを切り分けるための抗がん剤投与なのだ。だいたい万にひとつ悪性だったとしても、それが全てを決定づけるわけではないのだ。

 私が声高に心配を主張したところで、それは誰も救わないのだ。


 父に返信する。


< わかりました。本人からも連絡を受けています。

< 何かあれば知らせます。


 おかしなもので、父とはどうやってもビジネスメールのようなやり取りになる。それがたとえ姉の飼ってるチワワの話だとしても。

 何十年も家族をやって、これがようやく見つけたお互いちょうどいい距離感だ。


 笛吹きヤカンが鳴き出したので、送信をタップしながら火を止めた。


 > 宜しく。


 往年のビジネスマンは返信が早い。

 

 入れ立てのインスタントコーヒーを啜りながらKindleを起こし、クラウドに同期させて、鬼狩りのマンガ、ヒーロー学校のマンガ、絵描きのマンガ、生徒会のマンガと、巻の抜けを確認してはダウンロードしていく。

 見栄を張るために、三ページ読んだだけのゲーテも落としておいた。

 それが済んだら、びっくりするほどいっぱいある成年向けコンテンツの削除だ。


 削除しますか?

 はい。

 削除しますか?

 はい。


 改めて羅列されれば、よくもまぁこんなに、と思う。

 向こうも大人で、うっかり消し忘れがあったとしても気にはしないと思うけれど、私の趣味は弟とは合わないだろう。


 削除しますか?

 はい。

 削除しますか?

 はい。


 来月弟が入院して、それからもう会えないということは、あるのだろうか。


 削除しますか?

 はい。

 削除しますか?

 はい。


 たとえばネットで見たやりきれないニュースのなかに私が立つような事はあるのだろうか。


 削除しますか?

 はい。

 削除しますか?

 はい。

 削除しますか?

 はい。

 削除しますか?

 はい。

 

 祖父母が亡くなった時以来、誰だってそりゃあ死ぬさ、と覚悟を決めたふりをして、だけどその可能性が目の前にほんの僅かにちらついた途端、焦っている。

 よろしくない。これはよろしくない。

 レナート・ルッソも歌っただろう。まるで明日がこないかのように人を愛さなければならない。

 それをいま突きつけられて、いまさら慌ててるんじゃない。


 どんなに慌てても、騒いでも、兄だといっても、大人になっても、できることなんてせいぜい──大量のマンガを積み込んだKindleに、多少の見栄を乗せて貸し出すぐらいだ。


 ぶーんぶぶっ。


 > ま、入院って言っても体調悪くないから気にせずに!


 弟よ。


 >  いま、アマプラでやってる電脳探偵の話、面白いよ!


 お前は本当に人間ができてるな。


 ゴリラガラスに指をすたすた滑らせて、返信を打った。


< ひと昔まえに話題になってたけど、まだ見てなかった。

< ちょっとみてみるかー。

< 前にもお勧めしたかもしれないけど

< 女子高生が南極いくやつ面白いよ。


 コーヒーはすっかり温くなって、飲み干すのにちょうどよかった。


”まるで明日が来ないかのように、人を愛さなければならない。

 だって考えるために立ち止まってしまえば、きっと本当に来ない”


 青春時代にあれほどハマったレナート・ルッソの代表曲なのに、いまだに後半部分にいいやくがわからない。わからないまま、レナートよりも年上になった。

 平和で平凡な人生に甘んじて私は、きっと明日も来ると期待する。

 明日も生きていてほしい、できれば明後日も、もう少し先も。何事もなかったかのように生きていて欲しい。私もなるべく死なないようにするから。

 だいたい私は来週末のためにせっせとデータを消しているのだ。


< まぁ、あれだ。

< 心配はしてないけど、協力はするよ。


 思いつく限り一番かっこいいと思って送った文面は「少しは心配もしよう」とごく真っ当に打ち返された。


 削除すべきデータの終わりは、まだ当分見えてこない。

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