はかない恋の花言葉

烏川 ハル

はかない恋の花言葉

   

「夏休みは毎日、アサガオの観察日記を書いてくださいね」

 いつものニコニコ顔で、担任のユキコ先生が宿題を発表した時。

 僕は心の中で「おお、本当にアサガオ来た!」と声を上げていた。姉や兄のいるやつらから、そういう宿題が出る、と聞かされていたのだ。

 同時に「毎日の観察なんて嫌だなあ」と思っていたら、隣の席の女の子――小笠原さん――が、僕の腕をチョンチョンと叩く。

 振り向くと、彼女は、ユキコ先生以上の笑顔を浮かべていた。いったい何がそんなに面白いのだろう。少し不思議に思いながら、僕は尋ねる。

「……何?」

「ねえ、阿部くん。アサガオの花言葉って、知ってる?」

「花言葉?」

「そう。はかない恋、っていうんだって」

 そもそも僕は『花言葉』という単語を知らなかったのだが。

 アサガオは朝に咲いて午後しぼんでしまうから、その短い花の命が、はかなさに繋がる……。そんな説明を、彼女は少し難しい言葉で語り始めた。

 なんだか百科事典を丸暗記したみたいな口調だ、と感じながらも、僕は彼女の言っていることを理解。同時に、なんとなく『花言葉』という言葉の意味もわかったような気になるのだった。


 小笠原さんは、六月にクラスへ加わったばかりの転校生で、愛嬌のある女の子。特徴的なのは、丸い顔立ちと、ふんわりした髪。当時の僕は知らなかったが、あれはボブカットという髪型だったのだろう。

 明るい性格の彼女は、クラスにもすぐ馴染んだくらいだ。クラスの人気者と言ったら大げさかもしれないが、そんな小笠原さんが僕の隣に座っていることは、嬉しいような誇らしいような、それでいて恥ずかしいような、ちょっと複雑な気分だった。


――――――――――――


 夏休み初日の朝。

 小学校で行われたラジオ体操に参加した後、まっすぐ家には帰らず、僕は近所の公園に立ち寄った。清々しい朝を、もう少し肌で感じていたい、と思ったのだ。

 その『公園』は、正確には公園ではなく、鬼子母神という名前のお寺。ただし『お寺』特有の辛気臭さはなく、敷地内には、小さな赤い鳥居――おそらく併設された神社のもの――がたくさん並んでいたり、駄菓子屋まで存在したりしていて、子供の僕には『公園』に思えていた。

 もちろん、公園らしき遊具があるわけではない。赤い鳥居の列は、ちょっと遊具っぽかったが、さすがに子供心でも「登って遊んだりするのはバチ当たり」とわかっていた。だから、せいぜい、大量にいる鳩たちと戯れるくらいしか遊び方のない公園だったのだが……。

 本殿前の、いつもは鳩たちがいる辺り。その朝、そこには鳩ではなく、一人の女の子が立っていた。お寺の建物を見上げるような格好で。

 後ろ姿に見覚えがあって、思わず僕は「あっ」と声を上げてしまう。

 すると。

「あら、阿部くんじゃないの。おはよう」

 ふんわり笑顔で振り返ったのは、昨日まで机を並べて勉強していた女の子、小笠原さんだった。


「おはよう、小笠原さん。そういえば、ラジオ体操では見なかったけど……」

 もちろん、ラジオ体操に来なかったやつも大勢いる。でも彼女は真面目なタイプであり、そういうイベントには参加するのが当然、と僕は勝手に思っていた。

「ああ、うん。ちょっと寝坊しちゃってね。それで、代わりに朝の散歩。そうしたら……」

 再び前を向いて、見上げる小笠原さん。

 彼女の視線の先には、建物の中央上部に掲げられた看板があった。お寺だから看板ではなく『寺額』と呼ぶそうだが、もちろん当時の僕は、そんな用語なんて知らない。「お寺の看板を見ている」という認識だった。

「……このお寺。鬼子母神っていうんだね」

「うん。だから、看板にも、そう書いてあるよね?」

 と、彼女に返す。

 正確には、『鬼』のツノを書き忘れたような、ちょっと間違った漢字が書かれていた。

「小笠原さんは知らないと思うけど。鬼子母神って、もともとは悪い神様で……」

 他人の子供を食べてしまう悪神だったのが、自分の子供を隠されて、子をなくす母の心を思い知り、悔い改めるようになった、というエピソード。

 初めて鬼子母神に来た際に聞いた話を、僕は得意げに語った。

「……だから、ここのシンボルマークは柘榴ザクロなんだよ。人肉の味に近いから、代わりに食べるようになったんだって」

「そうだね。その話なら、私も知ってる」

 こちらの話を最後まで聞いた後で、彼女が微笑みながら言うものだから、僕は少し拍子抜けしてしまった。

「……え? 知ってたの?」

「うん。だって、前に私が住んでいたところにも、鬼子母神あったから」

「へえ。ここ以外にも、同じ名前のお寺、あったんだ……」

「正確には、入谷鬼子母神という名前で……。そうだ、アサガオ!」

 急に話題が変わったように感じて、ポカンとする僕。なぜ夏休みの宿題の話を……?

 そんな僕の表情を見て、おかしそうに笑いながら、小笠原さんは説明する。

「入谷の鬼子母神は、七夕のアサガオ祭りで有名なの。たくさんのアサガオ屋さんが立ち並ぶ、凄いお祭り! ちょうど私がそこに住んでいたのも、その時期だったわ。もう感激の光景だった!」

 他の鬼子母神を誇らしげに語られても、あまり嬉しくなかった。なんだか、僕たちの地元が負けたような気分になるからだ。

 もちろん小笠原さんには、そんな優劣を競うような気持ちはなかったのだろうが……。

「でも、小笠原さん。ここの鬼子母神だって、十月には大きなお祭りがあるんだよ。御会式おえしきといってね。太鼓を乗せた車みたいなのを引いて、池袋まで練り歩くんだ!」

「太鼓を乗せた車……? ああ、山車だしのことね」

「そう、それ。屋台もたくさん出て、ここから都電の駅くらいまで、ずらりと並ぶんだから!」

 さすがに『都電の駅くらいまで』は、少し大げさだったが。

 僕たちが鬼子母神通りと呼んでいる、目白通りから鬼子母神を経て明治通りまで続く道。これは都電の線路を越えた辺りで、大きく二つに分岐していた。右へ行けば鬼子母神の正面、左へ行けば裏側の出入り口に通じる形だ。

 つまり、どちらも鬼子母神の参道なのだろう。

 だが、その分岐点から鬼子母神までの間には、民家や商店がたくさんあるので、お寺の参道というよりも、まだ一般道という感覚だった。それなのに縁日の出店は、だいたい分岐点の近くまで続くので、子供の僕には感動的な出来事だったのだ。

「あら、それは凄いわね。さぞかし、壮観な眺めでしょうねえ」

 少し大人っぽい言葉遣いの彼女に対して、僕は子供らしい勢いで畳み掛ける。

「一緒に行こうよ、色々と案内してあげるから!」

 言いながら、僕は、とても心が弾んでいた。自分でも、理由がわからないくらいに。

 興奮気味の僕は、この時、小笠原さんが「うん」とも「いいえ」とも言わなかったことを、あまり意識していなかった。


――――――――――――


 小笠原さんは結局、夏休みのラジオ体操には、一度も顔を出さなかった。

 でも。

 毎日アサガオを観察する度に、その花言葉やアサガオ祭りについて教えてくれた彼女の顔を、僕は自然と思い浮かべていた。

 今ごろ小笠原さんも同じように観察日記をつけているのだろう、と考えながら。


――――――――――――


 夏休みが明けて、二学期が始まると……。

 僕の隣の席には、もう誰も座っていなかった。

「残念なお知らせがあります。おともだちの小笠原さんですが、お父さんの仕事の都合で……」

 と切り出したユキコ先生は、さすがに、いつものニコニコ顔ではなかった。

 小笠原さんは、夏休みの間に遠くへ引っ越してしまい、また転校していったのだという。

「ええっ!」

「いなくなっちゃったの?」

「サヨナラも言わずに……」

 教室がざわめく中。

 僕は、鬼子母神の朝の小笠原さんを思い出していた。

 入谷の鬼子母神の辺りに住んでいた、という発言……。

 考えてみたら、一年以上同じ土地にいる者ならば、ああいう言い方にはならないはず。つまり、それだけ彼女は、引っ越しを繰り返す家庭環境だったのだ。

 同時に、もう一つ、僕は気づいてしまった。

 夏休みの間ずっと彼女のことが気になっていたのは、一種の初恋だったのだろう、と。

 そして、彼女が教えてくれた花言葉が頭に浮かぶ。

「はかない恋……」



 この一夏の思い出は、もう昔々のエピソードなのだが……。

 今でも僕は、アサガオを見かける度に、小笠原さんの笑顔を思い浮かべてしまう。




(「はかない恋の花言葉」完)

   

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

はかない恋の花言葉 烏川 ハル @haru_karasugawa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画