ゆめみぐさ

神山はる

ゆめみぐさ

 ひらり、と何かが目の前を通りすぎた。

 もうひとつ、ひらり。

 目を凝らしてみると、それは桜の花びらだった。窓の外を優雅に通り過ぎて、薄桃色の花弁は駐車場のアスファルトへと落ちていく。図書館のまわりに桜の木はないのに、どこから飛んできたのだろう。

 ふう。

 机に広げられた論文のコピーと辞書の上に、にぎっていたペンを放り出す。椅子に背を預けるふりをして、私はちらりと視線を横に向けた。

 今日は……拾遺集、かな。

 窓からのふんわりとした春の陽に、ハードカバーに箔押しされた金色のタイトルが光る。白くて細い手が本の背を支えていて、もう一方の手は一心にページを繰っていた。肩から滑り落ちた黒髪が、横顔を半分ほど隠している。ページへと注がれた真剣な瞳。長いまつげ。

 思わず漏れそうになった吐息を、慌ててせきとめる。そして、小さく唇を噛んだ。

 どう考えても気持ち悪いぞ、私。


 三月も下旬といえば、世間では春休みと呼ばれる時期。

 モラトリアム真っ最中の大学生ともなればなおさら、お楽しみ満載のバラ色ライフ強化シーズンだ。現にあちこちのアミューズメントパークが、春休み学割をかかげて私たちを誘惑してくるし、異国の景色をちりばめた格安旅行パックのビラが、駅前でしきりに手招きをする。

 きっとみんな、その誘惑に乗ってどこかへ行ってしまったんだろう。平日の昼下がり、大学図書館の中は閑古鳥が鳴いていた。

 都内でも一、二を争う歴史を持つ女子大。

 それが私の通っている大学だ。女性教育学者の草分けとして名高い創立者の「聡く美しき女子たらん」という言葉が好きで、わざわざ地元の福岡を飛び出して上京してきた。最初の頃は親から「なんでそんな遠いところに」「卒業したら地元に戻ってくるのか」「ご飯は食べているのか」「悪い男につかまっていないか」などと電話と愚痴の嵐だったが、四年目ともなるとさすがに落ち着いた。

 キャンパスは歴史を物語るような古い校舎が多くて、夏は暑いし冬は寒いけれど、明治や大正の頃にタイムスリップしたようで私は好きだった。中でもレンガ造りの図書館は、いつも少し暗くて、黴臭くて、けれど細長い窓から差し込む光がとりわけ美しい。

 問題は、図書館は好きでも、勉強が好きなわけではないということだ。

 目の前の机に広がっているのは、来月に開かれる英文学ゼミで発表に使う論文。もちろん全編英語、しかも押し花が作れそうな厚さ。

 自分で選んだゼミとはいえ、まさかこんなに大量の宿題が出るとは思わなかった。「みなさん、とっても優秀だからレベル上げちゃう」とおっとり笑う担当教授の顔が浮かぶ。あれは……かわいい顔をした鬼だ。

 おかげでここ数日、バイト以外の時間は朝から晩まで英語とにらめっこしている。

 私だって、できることなら遊びほうけたい。今年は暖冬だったから、もうすぐ桜も満開になるだろう。友人たちとのんびりお花見するのもいい。ショッピングモールのセールで春服を買い込みたいし、夢の国でネズミの耳をつけてはしゃぎたい。この論文が終わるまで、すべてはお預けだ。ああ、ほんとに残念。

 ……というのは、半分ほんとで、半分うそだ。

 私が図書館にいる理由は、他にもある。

 とても口にはできないけれど。だって、それは。

「しのぶれど」

 突然、左側から聞こえたささやき声に、どきりとした。

 思わずびく、と肩が震える。顔を動かさずに目線だけをそちらに向ける。隣に座る彼女はあいかわらず、真剣な目で手元の本を読みふけっていた。

 ……なんだ、独り言か。

 二階の一番奥、窓際の席。

 そこが私の、そして彼女の定位置だった。


 初めて彼女を見たときのことを、実はあまり覚えていない。

 飲食もおしゃべりも自由なゼミ室に入りびたることが多い他のゼミメンバーと違って、私はめずらしく図書館利用派で、課題をやるときにはたいていここを訪れていた。正直なところ、ゼミ室だと他のメンバーの進捗が気になってビクビクしてしまうから。こう見えて、けっこう小心者なのだ。そして、通ううちに何度か彼女を見かけた。

 ああ、またいるな。

 始めのうちはそう思っただけだった。

 何となく見おぼえがある。そういえば、学年共通の教養科目で、同じクラスだった気がする。ということは同級生か。

 それだけだった。年が明けるまでは。

 去年の年末、金欠で福岡の実家に帰らなかった私は、日中はひたすらカラオケのバイトに明け暮れ、残りを大学近くにある一人暮らしのアパートのこたつに溶かしていた。家族や友人どうしで楽しそうに熱唱する人々を横目に黙々と飲み物を運び、帰ったらくだらない年末年始の特番をぼんやりとながめる。友達はみんな実家暮らしか、帰省中で、年越しパーティなんて楽しいイベントはなかった。うつらうつらしているうちに気がついたら年越しが過ぎていて、妹から届いたあけましておめでとうメールの着信音で目が覚めた。

 そうして三が日を過ぎた四日目、ふいに図書館に行こうと思い立った。

 ちょうどよくその日はバイトがなく、気まぐれに見た図書館のホームページには「今日から再開します」と書かれていたのだ。

 そういえば連休明けに卒論の書類を提出しろって言われてたな。

 そう思ったのが直接の理由だったけれど、いいかげん繰り返しの毎日に飽きていたのだ。いまは図書館のカウンターに立つ不愛想な職員のおばさんでもいいから、カラオケの店長以外の人間と言葉を交わしたい。

 朝九時、私はいそいそとコートを着込んで、まだ開いたばかりの図書館へと向かった。空はどんよりと白っぽい雲に覆われて、風が吹くたびに朝の空気がちくちくと肌をさした。

「こんにちは」

「……こんにちは」

 いつもはしないくせに、自動ドアをくぐってすぐのカウンターの向こうに自分から挨拶をした。職員のおばさんがメガネをずりあげながら、怪訝そうに私を見た。

 あれ、この場合は「あけましておめでとうございます」だったかな?

 なんだか気恥ずかしくなって、静まり返った二階に上がり、卒論のテーマに関係ありそうな本をいくつか物色する。

 長めの眠りから目覚めた図書館は、ぶうんというエアコンの低い音をのぞいて何の音もなく、いつも以上に自分の一挙一動が黴臭い空気に響く。最新のポップスがエンドレスで垂れ流されているカラオケとは、同じ世界とも思えなかった。

ぺらぺらとページをめくる動作や呼吸さえ、こころもちゆっくりになる。自分の中のささくれだった部分が、徐々に凪いでいくのがわかった。

 何冊かを選び取り、貸出カウンターへと向かおうとしたときだった。

 ガシャン!

 突然、物音が響いた。

 え?

 誰もいないと思っていた私の心臓は、びくんと跳ねた。

 私はおそるおそる、物音の聞こえた二階の奥へと歩を進めた。

 誰かいる? 職員の人?

 それとも何かが勝手に倒れただけ?

 二階の一番奥には、古めかしい格子窓が並ぶ壁沿いの閲覧スペースがあった。本棚の間からそちらへと顔を出した私は、突然そこに見えた人影に、思わずあっと声をあげた。

 倒したらしい丸いパイプ椅子(高いところの本を取る用のものだ)を持ち上げ、人影は手に持った本の束を抱え直して立ち上げるところだった。

そして、その顔がゆっくりとこちらを向いた。

 あ、あの子。

 グレーのチェスターコートに、細身のジーンズとブーツ。ぐるぐる巻きにされた、白いニットのマフラー。まっすぐな黒髪にふちどられた聡明そうな顔立ち。見おぼえのある姿が、すぐそこに立っていた。百六十センチの私よりも、少しだけ背が低い。

 驚いたのか、大きな目がぱちぱちと瞬きをした。

 二人の間によくわからない間が流れて――そして、ふいに彼女がふわりと笑った。

「明けましておめでとうございます」

 少しハスキーな、大人っぽい声。

 笑ったとたん、幼い印象になった顔とは対照的だった。静かな図書館に反響して、鼓膜の奥まで染みこんでくる声。

「……あ、あけまして、おめでとうございます」

 対して私の声は、今年初めて交わした新年のあいさつだというのに、おどおどと頼りなかった。

「シェイクスピア、ですか」

 私の抱えている本を見て、彼女が尋ねた。

「あ、そう、ですね。卒論のために」

「すごい、勉強熱心ですね。お正月明けたばっかりなのに」

「でも、あなたもそうでしょう?」

 彼女の抱えている本に目をやる。分厚いハードカバーの本が三冊。

「いえ、私のは単なる読書用です」

 それが、読書用?

 彼女が胸のあたりに掲げた本のタイトルに目が吸い寄せられる。『伊勢集――同世代女流歌人との比較を通して』。さっぱり意味がわからなかった。

「ああ、よかった」

 次の瞬間、ほっとしたように彼女がつぶやいた。

「今日、なんだかむしょうに誰かと話したくて。でも年末年始はずっと一人で家にこもりっきりだったし、友達はみんな帰省中だし、結局図書館くらいしか行くところ思いつかなくて」

 恥ずかしそうに話したあと、あっと気がついたように彼女がいずまいを正した。

「やだ、ごめんなさい。私、知らない方にむかってベラベラと」

「あ、いえ、大丈夫です」

 それに、と私はぎこちない笑顔を浮かべて付け加える。

「私も、むしょうに誰かと話したい気分だったので」

 そのとき、急に窓の外でがるるると獣が鳴いた。

 正確には、低く獣めいた雷鳴だった。とっさに格子窓の外に目をこらす。さっきまで白っぽかった曇り空が、いつの間にか不穏な灰色に変わっていた。ほぼ同時に、ぽつ、と窓ガラスに丸い水滴が現れる。ひとつ、ふたつ、そしてあっという間にシャワーのような雨が降りだした。人けのないキャンパスが、みるみる霞がかかったように煙っていく。

 しまった、と思わず唇を噛んだ。

 傘なんて持ってこなかった。天気予報を見てくるべきだった。行きはともかく、帰りは本があるというのに。

「あの」

 そのとき、となりで遠慮がちな声がした。

「よければ、入っていきますか」

 どこに置いてあったのだろう。彼女が、いつの間にか手にしていた青い傘を持ち上げた。

 そして、くすっと妖精のように小さく笑った。

「相合傘になっちゃいますけど、それでもよければ」



 それ以来、気がつくと図書館で彼女の姿を探している自分に気づいた。

 今日はいるだろうか、と期待して、そんな自分が恥ずかしくなって、それでも彼女を見かけるとなんとなくその姿が見える席についてしまう。

 ほら、目の保養ってやつ。

 勉強で疲れたときに、きれいな子を見たらほっとするじゃない。

 彼女の後ろ姿に目をやるたび、自分にそう言い訳をした。

 たいてい見かけるのは二階奥の窓際――あの日言葉を交わしたあたりの席で、『宮廷と中世文学』とか『新注古今和歌集』とか趣味にしてはいささか学問的な、古典が苦手な私には面白いのかよくわからない本を読んでいる。

 そして、今日は『拾遺集』だ。もはや何に関する本だったろうか。

 一人分ごとに、半透明の仕切り板がついた閲覧スペース。その向こう側で、またページをめくる音がする。噛んだままの唇がいい加減痛くなってきたので、私は体を起こし、窓のほうに視線を戻して静かに息を吐きだした。

 こんなに近くに座ったのは、あの日以来初めてだった。

 今日は私のほうが先に来ていて、気づいたら隣に彼女が座っていたのだ。この空席だらけの日に、なぜ隣なのか。もしかして、とも思ったけれどすぐに打ち消した。あれ以来、すれ違っても目が合ったことすらないのだ。

 彼女は、たぶんあの日のことを覚えていない。正月明けの図書館で、少しだけ言葉を交わした人のことを。私の人生で初めての相合傘のことを。

 だから、これでいいのだ。私が行けるのは、半透明の仕切り板一枚が隔てる隣まで。それで十分。それ以上何も望んでいない。逆にこれ以上どうなるというんだろう。

 窓の外には、またどこからか飛んできた桜の花びらが舞い、風にあおられてふらりと遠のいたあと、吸い寄せられたようにぴたっと、私の目の前のガラスに張りついた。

 なぜか、あの日降り出した雨の最初の一粒を思い出す。未練がましいそれを追い出して、再び転がったペンを手に取って論文に目を落とした。

「しのぶれど」

 再び小さなつぶやきが聞こえる。あの日と同じ、ハスキーな声。

 また独り言だろうか。

「色に出でにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで」

 ……え?

 あまりにクリアな独り言。

 おそるおそる、顔を上げる。仕切り板の向こうの、左側。

「私の一番好きな和歌です」

 彼女が、開いた本を胸に抱いて、こちらを見ていた。大きな瞳。ゆっくりと上下する長いまつげ。聡明そうに通った鼻筋。白いおでこ。肩をすべる黒髪。小鳥のような唇。すべてが窓から差し込む春の陽に照らされて、柔らかく光る。

「……どんな、意味なんですか」

 ほろり、と口から言葉がこぼれた。

 彼女は答えずに、恥ずかしそうに目を伏せて、よかった、とつぶやく。

「今日、なんだかむしょうに」

 彼女の顔が持ち上がる。

 どうしてだろう。

 図書館のまわりに桜の木はないはずなのに。

「あなたと話したくて」

 私の中に、桜吹雪が舞う。

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