ナオキがいた日々

夜野うさぎ

ナオキがいた日々


 その年の8月7日は、2年目の結婚記念日。


 ヒロトとカオルコは、中目黒にあるフランス料理店で食事を楽しんで、今、その立派な門から出てきたところだった。

 元はとある国の大使公邸であるこのお店でのディナーは、表向き専業主婦のカオルコにとって夢のような時間だった。


 満ち足りた気持ちのままでゆっくりと坂を下り、少し高揚した気持ちのままで恵比寿駅を目指して歩いていく。いつもよりもお洒落をしているカオルコは、んふふ~と満足げな顔でヒロトの腕に寄りかかっていて、ヒロトの方も、そんなカオルコが愛しくて仕方がないという表情で目を細めていた。


 夕暮れを過ぎた時間帯。都会の真ん中であっても、目をこらせば星が瞬いているのが見える。通りを走っていく車や街の喧騒のなかにあって、2人は2人だけの世界にいた。


 とある路地を通りかかったとき、ヒロトが何かを見つけて少し眉をしかめた。様子が変わったことに気がついたカオルコが、ヒロトの顔を見上げる。彼の唇からつぶやきが漏れた。

「……こんな日なのに」


 夫が見ている方向に顔を向けると、そこには電信柱の陰に1人の地縛霊の男性が佇んでいて、陰鬱な目で2人を見つめていた。さほど強い霊ではないが、まとわりつくような怨念が伝わってきて気味が悪い。

 ヒロトは懐からそっと小瓶を取り出すと、蓋を開けて、霊水をピシャッとかけた。途端にその地縛霊は、白い煙を出しながら溶けるように消えていく。


 大都会東京には、地縛霊もあれば浮遊霊も多い。人に取り憑いているのもあれば、手や足などの身体の一部分だけが現世に残っている場合もある。

 低ランクとはいえ除霊師協会に所属している2人にとって、このような浄霊は日常のことだった。


 そんなこともあったけれど、すぐに気を取り直して2人は駅に向かった。大切な記念日だ。このまま良い雰囲気のまま家に帰りたい。


 しかし恵比寿駅に到着し、上りエスカレーターから降りて改札フロアに向かっている途中でふいっとカオルコの手を誰かが捕まえた。立ち止まって、誰だろうと顔を向けると、そこには見知らぬ1人の男の子がいた。

 4才くらいだろうか。もう9時を過ぎているのに迷子かなと、カオルコが思ったとき、男の子が「ねぇ。ママ。おうちに帰ろうよ」という。2人には子供はいない。当然、この男の子も別の誰かと間違っているのだろう。

 しかし何かに気がついたヒロトが、困ったような表情を浮かべてカオルコにささやいた。「……この子、霊だ」


 驚いたカオルコが改めて男の子を見ると、どういうわけか実体化しているけれど、確かに幽霊だった。まさか、実体化しているなんてことが……。


 そんな2人の様子に、男の子は首をかしげて見ている。

「どうしたの? パパ」


 この幼さで一体何があって霊になったのか。それを思うと、ヒロトもカオルコも胸が痛い。けれども本来ならば輪廻に帰るべき霊なのだからと、ヒロトは再び小瓶を取り出した。

 不思議そうな目で見上げているその男の子に向かって、霊水を振りかけると、男の子は、「きゃっ」と声を上げた。……しかし、どういうわけか浄化の力は寸とも発揮されなかった。


 困惑するヒロトとカオルコだったが、男の子はそんな2人に割り込んできて、右手でカオルコを、左手でヒロトの手を握る。にっこり笑顔になって、

「さ、おうちに帰ろ!」

と言う。


 霊水がまったく効かない。前代未聞の出来事にどうしようかと思案するも、気がつくと周囲の人々がちらちらと見ていることに気がついた。

 何をするにしてもここではマズいか。

 そう思い直したヒロトは、カオルコにとりあえずこのまま連れて行こうと言い、カオルコはうなずいた。


 やってきた電車に乗り、3人並んで座る。2人の間に座った男の子は、すぐに眠りこけてしまった。

「この子、ナオキっていうみたいね」

と、男の子が肩からかけているバッグについていた名札を見て、カオルコが言った。


「これからどうしたものか」と言うヒロト。

「う~ん。ぜんぜん邪気はないみたいなんだよね。さっきのが効かなかったのもそのせいじゃない?」

 霊がこの世に残るというのは、何かの執着があって、その執着が邪気となってしまうからだ。

 当然、邪気が無ければ普通はすぐに輪廻に戻っていくわけで、このナオキの場合はあり得ないほどの確率の、特殊なケースとなるのかもしれない。

 妙案など浮かばない。2人はナオキの顔を見ながら、しばらく黙り込んだ。


 結局、眠り込んでしまったナオキをヒロトが背負い、そのまま自宅まで連れて帰ってきてしまった。

 家に入ってなんとなくナオキの靴を脱がせて、そのまま畳の部屋に横にならせて毛布を掛けた。

 起きる様子が無いことを確認して、2人はリビングで向かい合って座る。


 さっそくカオルコが、

「あのさ。1つ提案」

「うん」

「このまましばらく一緒に暮らすってのはどう?」

「それは……」

「きっと執着があるにはあると思うんだ。霊水が効かない以上は、その執着が消えれば、自然と輪廻に戻るんじゃない?」


 理論上はそういうことになるのだろう。だが、実体化しているとはいえ、霊は霊であることには間違いない。男の子ではあるけれど、見知らぬ霊と一緒に暮らすのは気が引ける。


 なんと答えたものかと言いよどんでいるヒロトに、カオルコは続けた。

「それに、このままだと、何かの拍子で他の悪霊とかの影響を受けてしまうような気がするし、それも忍びないよ」

 それは納得だ。

「特に東京は多いからなぁ」と言いながら、ヒロトにはカオルコの本当の気持ちがわかっていた。


 カオルコも自分も子供が好きなのだ。だから、このままナオキを家から放り出すことはできそうにない。浄霊の方法があるにしても、ナオキが苦しむことが無いように、できれば執着をナオキ自身が無くしていく方向で、安らかに輪廻に戻ってほしいという気持ちがあった。


 カオルコもヒロトが自分の感情と、霊と暮らす不安との間で悩んでいることがわかっていた。なので、その背中を押すためにわざと茶化すように言うことにした。


「それにさ。子供ができたときの練習だと思えばどうかな?」


 それを聞いたヒロトは苦笑しながら、しばらくは男の子・ナオキの霊と暮らすことを了承したのだった。


 それから3人の、奇妙な、それでいて普通の家族のような生活が始まった。


 ヒロトが会社から帰ってくるのを見ると、ナオキは満面の笑みで「お帰りなさい」と言う。「ただいま」と言いながらナオキの頭を撫でる。

 いつしかヒロトは本当の自分の子供のように感じていた。


 一方のカオルコも、毎日、一緒にお風呂に入り、ぎゅっと目をつぶっているナオキの頭を洗ってやったり、集めた泡をふっと吹いたり、洗っている最中の自分の髪をぐいっと上に伸ばして「東京タワー」と言ってやったりしているうちに、親としての愛情を注ぐようになっていた。


 幼稚園などには当然行けないから、カオルコがパートに出るときにはナオキ1人の留守番となる。聞き分けの良い大人しい子供だったので留守番自体には問題はない。

 心配なのは漂う悪霊だ。だから、ナオキを守るためにも、自宅周辺には霊的な結界を常に張っていた。


 12月24日の夜。

 家の中にツリーを飾り立て、3人が紙で作ったとんがり帽子をかぶる。

 きらびやかな電飾に、食卓にはケーキ、チキン、サラダにピザ。そして子どもビール。もちろん大人は大人ビールで乾杯をする。


「うわぁ。夢みたい!」

とはしゃぐナオキ。カオルコがその頭を撫でて、

「知ってる? いい子にはサンタさんがプレゼントを持って来てくれるんだよ」

と言う。

「ホント? サンタさん来てくれるかな?」

「ナオキはいい子だからもちろんよ。寝ている間に枕元に置いてくれるんだって」

「へぇ」


 カオルコがちらちらとヒロトに視線を送りながら、ナオキに説明をしている。それを見ているヒロトも笑顔でピザをカットした。


「ほら。ナオキ。たくさん食べるんだぞ」

「うん! パパ、大好き! ママも大好き!」

「私も「俺もナオキが大好きだ」よ」


 カオルコが歌い出すと、ナオキもうろ覚えな歌詞で一緒に歌おうとする。それを聞いてヒロトが笑う。温かい家庭の光景がそこにはあった。


 はしゃいで疲れてしまったのか。お風呂から上がった途端、こてんと寝てしまったナオキ。起こさないように並べて敷いてある布団に移し、ヒロトは押し入れに隠してあったプレゼントをナオキの枕元に置いた。

 暗い寝室のなかでナオキが幸せそうな寝顔をしている。ヒロトとカオルコは、互いに視線を交わしてにっこりと微笑む。

 起こしてしまわないように、そっと寝室を出てリビングのソファに並んで座った。


 ヒロトがなんとはなしにテレビをつけると、カオルコが満足げに、

「あ~、楽しかった」

と言い、自分の分の発泡酒を開けた。ヒロトも新しい発泡酒を開けて、

「明日が楽しみだな」

「きっと凄く喜ぶよ」


 互いに発泡酒の缶を軽くぶつけ合って、それぞれ一口飲んだ。


「最近、思うんだ」と前置きをして、カオルコが言う。

「このまま3人で暮らせたら良いなって」


 彼女が見つめる先には、壁に掛けられた3人が映った写真があった。あの写真だけではない。すでに家族のアルバムにもナオキの写真が増えてきていた。


 くすぐってやった時の笑い顔。ヒロトの肩に乗っかっているところ。カオルコの料理のお手伝いをしているところ。列車の玩具で遊んでいるところ、動物園に出かけた時の写真などなど。


「俺もそう思う時があるよ。…………ただ、いつかは別れの時が来る。その時に、新たな執着にならないようにしてやらないといけないだろう。その覚悟だけは……、しておいた方が良い」


 自分たちとナオキの関係。この状況は普通ならばあり得ないことで、今の生活は奇跡のようなものだ。

 だからこそ。だからこそ、この幸せにもいつかは終わりが来る。ナオキのことを思うのならば、その時に執着が残らないように、自分たちはちゃんと見送ってやらねばならない。

 きっとその時は悲しいことだろう。それでも笑顔で送ってやりたかった。


「……日々の生活が、一番かけがえのない幸せなんだね」

 そう言ってカオルコは発泡酒の缶を傾けたのだった。



 年が明けて春が来た。

 とある日の夕方、カオルコはナオキと手を繋いで近所のスーパーに買い物に出かけた。休日なので家にはヒロトもいるけれど、今日は留守番をしているとのこと。年度の切り替わりで忙しい日が続いたので、疲れているのだろう。


「ナオキ、大好き」

「ママ、大好き」

「ナオキ、大好き」

「ママ、大好き」

 そんなことを言いながら公園のそばを通った時だった。何かに気がついたカオルコが、ふと公園を覗くと、滑り台のそばに1人の女性の幽霊がいた。

 陰鬱いんうつな空気を漂わせ、ゆっくりと何かを探すように視線をめぐらしている。


 濃い瘴気を漂わせている。近くにいる人間にも悪影響を与えるくらい強い悪霊だ。除霊師としては低ランクの自分では、1人で対峙するのは危険かもしれない。


 そう判断したカオルコは、見つからないようにそそくさとナオキと一緒にその場を離れ、スーパーに向かった。途中でヒロトにメールを送る。〝近所の公園に強い瘴気を持った悪霊が来てる〟

 しばらくすると〝わかった。俺もそっちに行くよ〟と返信が。それを見たカオルコは安堵して、カートにバスケットを載せてナオキと一緒に野菜売り場へと向かった。


「ナオキはお夕飯に何を食べたい?」

「う~んと。う~んと」

「ふふふ。う~んとね」

と言いながら、何にでも使えるジャガイモや玉ねぎをバスケットに入れていく。


「あ、そうだ。カレーが良い」

「カレー? オッケー。じゃあお肉売り場に行こっか」

「うん」


 夫婦の家計はそれほど裕福なわけではない。だからお肉一つとっても、値段を比べて買っている。幸いにオージービーフのステーキ肉で安いのがあったので、それを使うことにした。

 ナオキが好きなM&M'Sのチョコレートも忘れずにバスケットに入れてレジに並ぶ。お会計を済ませて、窓際で袋に詰め終えようとした時だった。


 視線を感じて前を向くと、ガラスの向こうに公園にいたはずの女性の幽霊が真っ直ぐにカオルコを見ていた。

 一瞬、体が立ちすくむ。


『……見つけた。私の、子ども。リョウスケを……返せぇぇぇぇぇ!』


 そう言って飛び込んでくる女性の幽霊。咄嗟とっさにナオキを抱えて横に倒れ込んだ。テーブルの上の買い物袋からジャガイモやらお菓子やらが転げ落ちる。


 その女性の幽霊をナオキも見たのだろう。「ひぃ」と息を飲んで震えているナオキを、カオルコは守るように背中に隠し、ポケットから小瓶を取り出した。


 こちらに向き直った女性の目がランランと輝いている。霊だから、その姿も声も周囲の人には見えていないはずだけれど、まったくもって狂気に取り憑かれた人間のようだ。まよわず小瓶を振りかざして霊水を掛けると、『ぎゃあぁぁぁぁ』とすさまじい叫び声を上げて、その幽霊は顔を押さえた。


「今のうちに!」

 ナオキを抱き上げ、何事かとこっちを見ている人々を無視して出口に走った。すぐに『私の、子どもを返せぇぇ!』と霊の声が聞こえてくる。

 悪霊化してしまったあの女性にも、きっと哀しい事情があるのだろうけれど、今はとにかくナオキを守ることしかカオルコの頭にはない。


「怖い。怖いよ。ママ」と言うナオキを抱えて必死に走るも、公園に差し掛かった頃には息を切らし、足がもつれそうになっていた。


 突然、横から吹っ飛ばされて公園の中へと倒れ込む。顔を上げると、追いついた悪霊が、ナオキに飛びかかろうとしているところだった。

 悪霊に捕まるナオキ。しかし泣きながら必死で抵抗している。


「ママ! 助けて! ママ!」

 ナオキの叫び声に、カオルコは必死で立ち上がって悪霊を押しのけて、ナオキとの間に割り込んだ。


「ナオキは私たちの子どもよ。貴方の子どもじゃない!」

『私の! 私のリョウスケ! 邪魔をするなぁ』


 カオルコと悪霊の声が重なる。小瓶に残った僅かな霊水を悪霊に掛けるも、その悪霊はひるまずにカオルコの首を絞めた。

 霊であるはずなのに、カオルコは息が苦しくなる。しかし必死で叫んだ。「ナオキ! 逃げて!」

「ママ!」


 その時、ヒロトが駆けつけた。すぐさま懐から一枚のお札を取り出すと、カオルコの首を絞めている悪霊に叩きつける。

「カオルコ!」


 霊験あらたかなお札だったのだろう。妄執に囚われたさしもの悪霊も、全身から白煙を上げながら苦しげに倒れ込んだ。

 少しずつその体が消えていくが、ナオキを真っ直ぐに見つめ、必死の形相で手を伸ばしている。

 怖がっているナオキを守るように、ヒロトがその前に立ちはだかり、どうにか立ち上がったカオルコがナオキを抱きかかえた。

「もう大丈夫よ。ママはここにいる。パパが来てくれたから、もう大丈夫」

 泣いているナオキをなだめすかすようにカオルコが言い続けた。


 その間にも、ヒロトの目の前で消えていく悪霊。浄化されて輪廻に帰るその瞬間まで、その悪霊はナオキに手を延ばしていた。


 完全に消え去ったのを確認してから、

「無事か?」

とヒロトが振り返った瞬間、緊張の糸が途切れたのか、カオルコはどさりと倒れ込んだ。「ママ!」とナオキが叫ぶ。

 あわててカオルコのそばに駆け寄ったヒロトは、驚きで目を見開いた。彼女の首には悪霊の手形がくっきりと残っており、明らかに霊障を受けていた。


 ヒロトはどうにかカオルコを背負い、ナオキと手を繋いで自宅に戻った。

 ソファにカオルコを座らせたところで、彼女が目を醒ませる。すぐにナオキを探し、その姿を見つけるとほっとしたように肩から力を抜いた。

 ヒロトは家にストックしてある霊水に包帯を浸し、それをカオルコの首に巻く。その間、ずっとナオキはカオルコのそばから離れなかった。


「ママ……」

「ナオキ。無事で良かった」

 そういって抱き合うカオルコとナオキ。


「すまん。もっと早く行けていればよかったんだが」

と言うヒロトに、カオルコはううんと首を横に振る。

「助かったわ。ありがとう」

 するとナオキは、今度はヒロトに抱きついて、

「パパ。ありがとう。守ってくれて」

と言う。微かに震えている。きっと、まだ怖いのだろう。ナオキの小さな体を抱きしめたヒロトは、

「ナオキ。大丈夫だ。大丈夫。俺とママがお前を守る。大丈夫。ここはもう家だし、大丈夫だよ」

と何度も何度も大丈夫と言い続けた。


 1時間もすると、カオルコの喉から手の跡も消えて霊障も解けた。しかし、しばらくナオキは2人の傍から離れることはなかった。



 悪霊の襲撃から、数ヶ月が経った。


 怖がっていたナオキも次第に元の様子を取り戻していき、2人は内心でほっと胸をなで下ろしていた。悪霊の影響が心配だったけれど、どうやら大丈夫そうだ。


 5月の連休では思い切って海に潮干狩りに行くなど、3人の時間は幸せに過ぎていった。

 そして3年目の結婚記念日。ナオキと出会った日が近づいて来た。


 何ヶ月も前から、カレンダーの8月7日の所に「結婚記念日&ナオキのたんじょうび」と書き込んである。生前の誕生日がわからなかったため、出会った日をナオキの誕生日にしたのだった。

 3人は、その日、都内の水族館にお出かけをすることにしていた。


 よく晴れた日。3人は意気揚々と自宅を出発し、駅に向かう。ナオキは少し前に買ってもらったお気に入りのリュックを背負ってうれしそうだ。

 水族館は多くの人で賑わっていたけれど、大きな水槽の向こうで泳いでいる魚たちを、ナオキがキラキラした目で見つめていた。ヒロトとカオルコはその小さな背中を見守り、時には抱っこをして一緒に館内を回った。


 お土産物コーナーで、ナオキが大きなペンギンのぬいぐるみを欲しがった。家計からすると少し厳しかったけれど、お願いというナオキに負けて、カオルコはついつい買ってしまう。

 値札を外したその人形をナオキは大切そうに抱きかかえる。満足げなその表情を見て、ヒロトとカオルコは苦笑い。2人の目は、まあしょうがないかと言っていた。


 ランチを近くのレストランで取り、映画を見て、夕刻が近づいた頃に3人は家路についた。


 まだまだ明るいけれど、どこか気だるい空気が漂っている駅のホーム。冷房の効いた車内からホームに降りた途端、もわっとした熱気に包まれる。


 一斉に歩いて行く人々に混じって3人も歩いて行く。その頃には、遊びつくしてすっかり眠くなっていたナオキが目をこすっていた。


 その腕の中からふいっと、抱きかかえていたペンギンの人形が落っこちる。「あ」と気がついたヒロトが、線路の方に行かないようにと慌ててそれを拾いあげた。

 眠そうなナオキの顔を見て「もう限界みたいだな」と言い、ヒロトはその人形をカオルコに手渡してナオキを抱き上げる。


 もう寝てしまいそうなナオキに、

「今日は楽しかった?」

と問いかけると、小さく「うん」と言う。

「そう。もう満足した?」

と重ねて問いかけると、また小さく「うん」と言う。

 随分と楽しかったみたいだ。そんなナオキを見て微笑むヒロトとカオルコ。


 電車から降りた人々が先に行ってしまい、静かになったホームを階段に向かう。そのまま駅の細い階段をのぼっている時に、ヒロトはふと気がついた。ナオキの体が軽くなっている。


 階段の踊り場で立ち止まって壁際に寄る。ヒロトの様子がおかしいのに気がついたカオルコが、

「ヒロト?」

と声を掛けた。しかし、ヒロトは真剣な表情で、

「ナオキ! しっかりしろ! ナオキ!」

と呼びかけだした。

 カオルコがはっとしてナオキを見ると、その体がゆっくりと透けていくように見えた。「待って!」と声を上げながら、カオルコもナオキを捕まえるように手を延ばした。


 お別れの時が来たのだった。

 あれだけ、その時はちゃんと見送ろうと言っていた2人だったけれど、いざその時が来ると、行かないでと願いながらナオキの名前を呼び続けていた。


 2人に抱きしめられながら、閉じていた目をうっすらと開けるナオキが少し笑った。その体の端っこから光が立ち上っていく。

 いつしか2人はぽろぽろと涙を流していた。


 泣きながら名前を呼び続ける。その2人の腕の中で、ナオキのぬくもりが少しずつ消えていく。

 ああ、あ……。

 その時、小さな声が聞こえた。


「パパ、ママ……。大好き」


 その言葉を残して、ナオキは光となって消えた。2人の手にはただ、ナオキが背負っていたリュックだけが残っていた。

 2人は、光が消え去った方向を見上げて静かに涙を流していた。


「俺たちも大好きだよ。ナオキ。愛してる」

「ああ……。ナオキ」


 涙を流している2人の表情は穏やかだった。ナオキがいた幸せな日々。胸が締めつけられるように悲しいけれど、あの幸せな日々に感謝する気持ちで一杯にもなっている。

 残されたリュックとペンギンを大切な宝もののように抱きかかえたまま、2人はしばらくそこに佇んでいた。



 それから一年が経った。

 リビングの片隅に、メリーをつけたベビーベッドがあった。中では女の子の赤ちゃんが静かに眠っている。


 初めての出産ということでバタバタしていたけれど、最近少しずつ生活のリズムができてきた。


 夜の静かなリビング。

 ベッドをのぞき込んでいたヒロトとカオルコは、音を立てないようにソファへと移動した。

 2人して、何となく壁に掛けてある写真に目が行ってしまう。今も変わらずに3人の写真がそこにはあった。


 願わくば、ナオキの生まれ行く先が幸せであって欲しい。


 あれから一年経った今でも、そう思っている。そしてまた、お兄ちゃんとしてこの子を見守って欲しいと、そう願っている。


「……いつか、この子に話してあげないとね。お兄ちゃんがいたんだよって」

「俺たちの最初の子どもだもんな」


 微笑んだ二人の視線の先。その写真の中で、ナオキがうれしそうに笑っていた。



 

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