盗み癖の無くならない水島さんの家の息子の手を落とす

浅賀ソルト

昔はよくやってた

「俺が子供の頃は、盗み癖が治らない奴は腕を切り落とされたもんだ」恩田さんの喋り方は『腕を切り落とす』の所にやたら力が入っていて、子供を脅すときの話し方そのものだった。「そろそろ切り落としてもいい頃だ」

 場は近所の人の集まり。話しているのは水島さんの家の瑞樹っていう高校生の息子のことだ。ここは岩手の田舎の一軒家で、僕は溝田和之という大学生。近所の楊さんの家で食事会があって、ここ何年も話題は水島瑞樹の話になった。グレた悪ではない。人を傷つけるといったタイプではない。僕も子供の頃から知っているけど、いつからか嘘しか言わない人間になっていた。なんだかよく分からないけど、口から出任せを言って物を盗んだことを誤魔化すのだ。これは借りたものなんだという言い訳を僕も何度聞いたことか。もはやこの町内でその言葉を信じる奴などいない。

 ついでに言うと、もう勘弁ならんといった時代がかったセリフも何度も聞いた。恥さらしとか面汚しとか、そういう罵倒がまだ現役で使われる土地柄である。それでも腕を落とすという話が出てきたのは初めてだ。

 僕は言った。「今晩、瑞樹が帰宅してきたら縛り上げよう。僕も手伝う。腕を切り落とした方が話は通じる」

 家の主人で町の顔でもある楊さんも認めた。「そうだな」

 そんなわけで、窃盗を重ねる水島瑞樹の手癖の悪さを治すために、その利き腕を落とすことが決まった。


 鉈の用意は恩田さんに決まった。縛るロープはナイロンロープで充分なのでうちの納屋にもある。一応、結束バンドも用意した。コードなどをまとめて縛るためのプラスチックのバンドである。輪を作って一方の穴に反対側を通すと抜けなくなり、ペンチとかちょっと丈夫なカッターでないと切れない。緩むことがないので指をまとめるだけで拘束できるし、暴れるほど締まることになる。血が止まっても元々切り落とすのでこういうときには便利だ。

 食事が終わった足で水島さんの家に行き、瑞樹は今日は何時頃に帰ってくると聞いた。あらあら溝田さんのところのカズちゃんなんて呼ばれて挨拶と世間話もしたけど、うちの息子がまた何か盗んだんですかなんてことは言わなかった。言わなかったが、どうせそういう話なんだろうなという顔だった。ビクビクして、やけに背を丸めている。こんな感じになったのも、瑞樹が小学二年あたりからの積み重ねによるものだ。

 僕は言った。「また盗んだって話じゃないんだよ。楊さんのところで会合があってさ。盗み癖を治すにはどうしたらいいって話になって、利き腕詰めた方がいいだろうってことになったんだ」

「あー」紀子さんは決定事項を無感動に受け入れた。「街に行ってるけど、夕食までには帰るぜ」語尾は方言である。

「じゃあ七時に迎えに来るわ」僕は言った。「逃げないようにしといてくれな」

 あまり顔を見ずに玄関から去った。返事も表情も見なくても雰囲気で分かる。息子の前でそういう演技を出来る人間じゃない。うちの息子がそんなことするわけないと自分を騙してきた人間だし、すぐにバレるだろう。それで瑞樹が逃げるかというと微妙なところで、僕は逃げないと思った。そういう、今回は本気だぞとか、二度目はないぞとか、他人のそういう限界の感情にとことんまで鈍感なのだ。感性というか、そういう人間にとって一番大事な部分が欠けてる。ここで逃げる瑞樹を僕は想像できなかった。

 瑞樹の帰宅時間をみんなにラインした。みんなスマホは持ってる。

 逃げてくれたら、まだ、今回だけは勘弁してやろうという流れになったかもしれない。追いかける方の熱が入ってしまうので、かえって逆効果だったかもしれないけど。

 っていうか、そこで頭に血が昇ってくれたら、もうちょっとスパっと腕が切れたと思うんだけど、本当に藪を刈るような鉈で腕を切り落とすのは大変だという話である。結論を先に書くと。なんだか縛り上げても鉈を振り上げても、瑞樹はギリギリまで、誤解なんだよ、俺は盗んでないんだよ、話を聞いてくれよと繰り返すので、本当に切れ味の悪い出来事になってしまった。そしてもちろん、いつも通り、誤解でもなんでもないんだけど。常に盗んでるし、その証拠も目撃者も何もかも揃っているのに、違う違うと繰り返すのだ。お陰でこっちも人を信じるという気持ちがどんどん磨り減ってしまった。

 ルーズな土地なので、僕が自分の家の玄関を出たのが七時の五分過ぎ。車に乗って音楽を再生して通りに出たときには十五分を回っていた。水島瑞樹の家に着いたのは七時半といったところだ。それでも僕が一番乗りだった。裏の砂利道から納屋の前の広い駐車スペースに止める。春先だったので田んぼに水は張ってたし、蛙の鳴き声もうるさかった。恩田さんと、あと年寄りの香取さんも来るはずだった。こういうのは指名や立候補が無くても、なんとなく役割が決まっている。自分が連絡したのもこの二人だけだ。楊さんにすらそこは連絡してない。もっとも、誰かに聞いているだろうけど。

 昼に来たときとは雰囲気が変わって夜の田舎になっていた。遠くの国道を車が走っている音が聞こえる。少し肌寒い。空にはやや雲がかかっていて星があまり見えなかった。納屋の闇が深く、母屋の方は明かりをつけてじっと僕が来るのを待っていた。助手席に乗せたナイロンロープを掴んで、ズボンのポケットには結束バンドを五本ばかり突っ込んで玄関に回った。ベルを鳴らすと、中で響く音が聞こえた。

 水島の家に来るときというのは瑞樹の窃盗絡みの用件がほとんどだったので、訪問する方としても憂鬱な思い出しかなかった。こうやってベルを鳴らしながら、今回で終わるかもしれないと明るい気持ちになっているのは久し振りだ。

 ここまで読んでも分からない人もいると思うけど、僕は、腕を落としても盗みを続けるかもなという気持ちがこのとき無かったと言えば嘘になる。瑞樹の盗み癖はそのくらい深刻だったのだ。だから正確には、これで駄目なら両腕を切ることになるのか。それはさすがに可哀想だな。というか、腕は二本しかないんだから、これがラストチャンスでワンチャンスでけどファーストチャンスでもあるんだなとかちょっと意味の分からないことを考えたりもしていた。

 別に返事や迎えが玄関に現れる前に勝手に僕は玄関を開けた。瑞樹の靴があることを確認する。紀子さんは廊下をこちらに歩いてくるところだった。

「瑞樹は?」

 彼女はなんとなく顔を上に向けた。

 二階か。「お邪魔します」

 靴を脱いで上がり込むと、勝手知ったる人の家といった感じで階段の方に向かった。ナイロンロープの巻いている部分をほどいて繰り出しやすいようにする。意味が分からないかもしれないけど、ナイロンロープはぐるぐる輪にしたあと、それを潰して、ぎゅっと結ぶのである。紀子さんが心配そうに後ろをついてきていた。

「じゃあ、ちょっと瑞樹を捕まえるよ」

 僕は階段の下まで来てからそう言った。

 紀子さんに顔の表情はほとんどなかった。ついてはきたものの心配しているわけではなかったようだ。何をしていいか分からないといった感じだった。

「恩田さんと香取さんも来るはずなので、お茶の用意をお願いします」

 僕が言うと彼女は台所に向かった。なるほど。役割を与えた方が落ち着くという奴だな。

 僕は階段を登った。農家の古い木造建築は我が家も含めてどこも同じ軋み方をする。一方で木のテカり方とか臭いはそれぞれ独特で、手入れの歴史がそれぞれの家にあった。東京に行ったような奴らは田舎の家の臭いと全部まとめて語りやがるが。

 階段の途中からはっきりと音楽が聞こえてきた。瑞樹は部屋で音楽を聞いているらしい。ヒップホップかな。詳しくないけど。

 二階の廊下もギシギシいった。僕は音のする方に足を進めて、襖をノックした。

「はーい」

 僕は襖を開けた。

 六畳の和室にベッドと学習机があり、瑞樹はベッドに仰向けになってスマホをいじっていた。乃木坂の誰かのポスターと黒人ヒップホップスターっぽい人のポスターが貼ってあった。瑞樹はスマホから目を逸らして横になったままこっちを見た。

 あまり思い出せないのだけど、なるべく詳しく説明する。というか、素人が、それなりに抵抗する素人を押さえつけて縛り上げるときというのは本当に必死で、何がどうなっているのかさっぱり覚えられないというのが実際のところだと思う。もしこの経験を人に伝えるとしたら、誰かを練習台に予行演習をしておいた方がいいよとアドバイスするところだ。

 もちろん、自分が逆の立場で、あの楊さんの家で、誰かが、じゃあ予行演習しよう、俺が瑞樹役をやる、などと言い出したとしたら、はははと愛想笑いして、いいよ、大丈夫、と、冗談ということでスルーしてしまうだろう。

 僕は仰向けになっている瑞樹の胸の辺りに片膝を乗せて体重をかけて抑えた。最初は遠慮してしまったのだけど逃げられそうになったのですぐに慌てて全体重を乗せた。反対側の床に着いていた足を浮かせたのである。

「ぐえっ」という呻きが出て瑞樹はすぐに体をよじった。

 僕は右手に持っていたナイロンロープをベッドの上に放って両手でよじられる瑞樹の両肩を押さえた。浮かせた反対側の足を持ち上げてその膝をベッドの上に乗せた。瑞樹の脇の下あたりの位置だったと思う。両肩を押さえられた瑞樹は手を必死に動かして、僕の両手の手首の上あたりに爪を立てて引っ掻き始めた。

「いてっ」

 僕は両肩から手をズラして肩の付け根あたりを掴んだ。膝を使った胸への圧迫は継続していた。引っ掻きは不可能になり、声を出すのも無理になり、瑞樹は手と足をバタバタと動かし始めた。動物のような必死さだった。足がベッドのどこかに当たり、何かペンか雑貨のようなものが僕の後ろで倒れた。プラスチックの音と床の木の音が大きく響いた。

 苛ついて、「うるせえ! おとなしくしろ」と怒鳴った。

 おとなしくはならなかった。この態勢だと出来ることは少ないわけだが、僕は頭をのけぞらせて、目の前の瑞樹の鼻の真ん中の位置を把握して、目を閉じて額を振り下ろした。瑞樹が顔をねじる気配はあった。構わないと思ったので勢いは殺さなかった。額の方が顔より固い自信があった。しかし頭突きの瞬間はわけが分からなかったし、どれだけのダメージになったのかもよく分からなかった。

 で、当たり前だけど、ベッドの上なのでそこには充分なクッションがあったのである。痛いことは痛いというか、顔とか額とかって割と敏感な場所で、痛いんだけど、打撃としてはたぶん大したことはなかった。暴れるのでとにかく膝の全体重を必死に続けた。で、すぐに、これは体力が続かないなと思った。すでに押さえつけている両手の力は抜けてきているし、瑞樹の胸の中央を逃がさないように膝に力を入れているとなんかもうあと五秒も保たないと分かった。こっちも頭のネジが外れて、頭突きを一回二回三回と繰り返した。必死だった。体力が無くなる前に動きを止めないとこっちがやられると思った。

 瑞樹の鼻血を見たところで腕を掴んだままベッドからひきずり下ろし、うつぶせに床に転がして暴れる背中にまた膝を乗せてやっと一息ついた。そこまでずっと息を止めていたかもしれない。ドラマで見たように瑞樹の腕を背中に捻ると完全に抵抗が止まり、僕はやっと息をついた。もう汗びっしょりでぜーはー息をしているし、膝や腕をどこかにぶつけた痺れがやっと自覚できた。

 一人で縛るのは無理だから、その態勢のまま恩田さんか香取さんが来るのを待つことにした。


「溝田さん、俺じゃないですよ。誤解です。俺じゃないんです」

「なるほど」

「本当なんですよ。俺じゃないんです」

「なるほど」

「鼻折れてるかもしれないです。とりあえず病院つれてってください。っていうか、普通に傷害ですよ。何考えてるんですか」

「何考えてるか、か。何考えてんだろうな。お前は俺が何考えてるか分かるか?」

 水島瑞樹は黙った。そんなに意外なことを言ったつもりは無かったが、明らかに彼は戸惑っていた。

「何考えてるんだろうなあ。考えるのってしんどいな」

 調子に乗って意味不明なことを言ってみた。意味不明なことを言って混乱する瑞樹を見るのは楽しかった。立場が逆で、瑞樹がただただ嘘を言い続けるのってこれが楽しいからやってるのかな。ふははははとか笑ってみようか。

 部屋に時計がなかったのでスマホで時刻を確かめると、家に来てから五分も経過していなかった。瑞樹の部屋に来てからは一分とか二分といったところだ。人間の体力ってひどいな。数秒でカラになる。もう体を動かせそうにないくらいの疲労だ。

 うつぶせの瑞樹はペッペッと口の血と唾を床に吐いた。畳の上に染みが広がる。相手の体力もほとんどカラであることが分かる。息は荒いし全身の汗もすごい。僕と同じような状態だ。

「何するんですか。誤解ですよ。何を聞いたか知りませんが全部誤解なんです」

「俺が聞いたのは、昔は盗み癖が治らない奴はその利き腕を切り落とされたってことだ。本当にそうだったんだろ」

「え、違いますよ。俺は盗み癖なんか無いです。誤解なんですって。違いますよ」

「誤解なのは分かったよ。腕が無ければ誤解もクソもなくなるだろ。いいことじゃないか」

「本当に誤解ですって。何も盗んでいません。ちゃんと借りるって言っていいよって言ったんですから」

「そうか」

 ちなみに瑞樹が何のことを言っているのか、僕はさっぱり分かっていない。瑞樹が具体的に何のことなのかを言ってないことからお察しの通り瑞樹本人も何のことか分からずに誤解だと言っている。最初に通じたからといって同じやり方を十年も続けてまだ通じると思っているんだからおめでたいものだが、逆に言うと十年は通じるのである。僕も含めて、このあたりの人間は本当にお人好しだ。

「嘘ですよ。俺は何も盗んでいません」

「さすがに何も盗んでないは嘘だろう」僕は言ってからしまったと思った。瑞樹の言うことを相手にしてしまった。「いや、なんだかうるせえな。何か言うたびに殴るからな。黙って待ってろ」

「違いますって」

 僕は背中に回した腕をねじりあげた。こうやって人を押さえている海外ニュースをよく見るが実際にやってみるとそれほど力を使わずに押さえることができるよいやり方だ。

「いてててて」瑞樹が呻く。

 僕はそこで瑞樹の後頭部の髪を掴んで持ち上げると畳に叩きつけた。畳だといまいち締まらないがノーダメージというわけにはいかない。ゴツッゴツッゴツッと三回叩きつけた。手近の固いもので叩く方がいいかと思い、そのあたりを見回した。ベッドのコンセントにスマホ用の充電ケーブルが付いていた。根本の変換コネクタの部分はせいぜい握り込むくらいの大きさしかないがそんな物でもマシだろうと思ってそれを引き抜いた。

 敷地に車が入ってくる音が聞こえた。砂利をタイヤが踏む音だ。

 時計を見ると五分が経過していた。

 玄関の挨拶の声が聞こえて、世間話のトーンでのやりとりが聞こえて、それから人が床に上がるミシっという音が聞こえた。そのまま二階に上がってくるようだった。僕は無言だった。瑞樹も黙っていた。

 瑞樹の部屋の襖は開けっ放しであった。最初に香取さんが顔を出し、その後ろに恩田さんもいた。

「お、もう押さえているのか」

「俺じゃないってまだ言ってますよ」僕は言った。「ベッドの上にロープあるんでそれで縛ってください」

「よしきた」

「香取さん、俺じゃないですって。本当に。誤解です」

「瑞樹、瑞樹よお。本当にどうしちまったんだ。水島さんはいい先生なんだぞ」

 香取さんはそう言いながら瑞樹をまたいでベッドの方に移動した。瑞樹の父親は教師なんである。

 香取さんは恩田さんより年上で八十近い。しかし大きな病気もせず要介護が一のままを維持していた。この辺りではレアなじいさんだ。髪はほぼほぼハゲてて、産毛のような白髪が生え際の方にちょろっと残るのみ。頭にも顔にもあちこちに染みが浮かんでいてイボと皺もすごいが、肌にまだ脂があった。全身から『暴力』の雰囲気が漂っているじいさんでもある。会合には顔を出さない。

 恩田さんは四捨五入すればまだ七十だったはずだが、もう脂もなく、くたくたの肌をしていた。香取さんが丸顔なのに対して恩田さんは下膨れである。声の張りも香取さんの方がある。

 香取さんは楊さんの会食にはいなかった。そういうところに出席する性格ではなかった。単に行動力があるのである。

 ほれと香取さんはナイロンロープを僕に渡してきた。瑞樹の腕を捻ってない方、USB変換端子を握った方の手でそれを受け取ると、「おとなしく両手を後ろに回せ」と言った。素直に従ったので両手首でぐるぐる巻きにした。ナイロンロープは巻きにくかった。きつめに縛ったので鬱血していた。

 僕は結束バンドのことを思い出し、瑞樹の左右の親指の根本を重ねてそれで固定した。穴を通すとチチチチという小さい音がした。これも親指を過剰に縛り上げたが、緩められる構造になっていないのでそのままだった。血が止まってきつそうだった。

「へー、それでやるのは便利だねー」と香取さんが感心した。

 瑞樹を二階から一階に歩かせ、さらに外に出すところは完全に捕虜の移動といった感じだった。両手を後ろに縛った高校生を小突きながら歩かせると、もう空想では機関銃を持っていた。こういうときに小突かずにただ離れて後ろをついていくというのは実際難しいんだなと思う。捕虜を後ろから小突くのは悪役と相場が決まっている。一方で縛られてたら歩くのが遅いのは当たり前。だけど、こういうときはついつい後ろから押してしまう。なんか本能みたいにやってしまう。映画だったらこういうのは相手が反撃してくるフラグみたいになってるけど、もちろんこいつは反撃するような奴ではないし、そもそも主人公ですらない。

「あ、どうも、奥さん。息子さん借りますよ」香取さんは明るく言った。

 紀子さんは不安そうな顔でじっと立っていた。

 勝手口の方が便利だけど、靴のある正面から出た。瑞樹にはつっかけを履かせ、僕は自分の靴を履いた。

 恩田さんが言った。「その辺の石がいいな」

 このあたりの家は玄関先や庭に小さくても生垣を作り、なんだかよく分からない岩を何個も転がしているのが普通である。庭石というほど立派なものではないけど、なぜかどこにでもある。石の大きさは小学生くらいの大きいものから、ヤカンくらいの小さいものまで様々である。水島の家にも当然そんな石があった。大小さまざまに転がっている。その中に、広い石が一つあった。幅が一五〇センチくらいあって、子供が上で横になれる大きさがあった。手水のように中央が窪んでいて水が溜まり変色していたが、瑞樹が手を広げても問題ないサイズだ。高さが腰くらいなのも丁度いい。押さえつけて腕を伸ばすのに丁度いい感じで、まな板がわりになりそうだ。

「あれにしよう」恩田さんが言った。

 僕は、「あれだ」と言った。

 瑞樹の足は素直にそちらに向かった。「本当に何をするんですか。やめてくださいよ。誤解ですよ」

 恩田さんは自分が乗ってきた車の方に向かっていった。運転席の横にでっかい鉈が立て掛けてあった。それを見て僕は納得してしまった。里山に入るための鉈はどこにでもあるけど、その中でもかなりの大物だ。我が家にもあるのかもしれないけど僕は見たことがないサイズだ。持って山に入っても疲れるだろう。刃の長さは三〇センチくらい。その厚さが見慣れない代物だった。刃厚が三センチ以上あるのではないだろうか。蛮刀という言葉が頭に浮かんだ。

 僕は後ろに縛った瑞樹の腕を掴んだ。石の方に向けて背中を押す。

「昔は盗み癖が直らない奴は腕を切ったんだと。さっきも言ったろ」

「おかしいですって。やめてくださいよ」

 瑞樹は目標の石のそばに立った。腰が石にあたる。僕は片手で腕を取りながら、もう一方の手で瑞樹の後頭部を押した。ぐぐっと抵抗があった。

「胸を岩に付けろ」僕は言った。

「いやです」

 僕は両手を縛ったナイロンロープを持ち上げた。肩甲骨が後ろに捻られ、限界の場所で止まった。

「胸を岩に付けろ」

「違うんですって」瑞樹の声は夜の暗い庭に虚しく響いた。

 いつの間にか香取さんが手拭いを取ってきていた。「カズ、押さえてろ」

「はい」

 香取さんはあっという間に瑞樹に猿ぐつわをかましてしまった。手拭いなので充分ではなく、涎まじりに唸る声は漏れるが、もう言葉にはならなかった。

 僕はもう一度瑞樹の後頭部を掴んで前に倒そうとしたけど、瑞樹は頑固に抵抗した。こっちがぐっと力を入れると同じ強さでぐっと突っ張ってきた。

 こういうときって痛めつければいいんだっけか?

「しょうがねえ。地面に転がせ」香取さんが聞いたことないようなドスの利いた声で言った。

「え、あ、はい」

 僕は瑞樹のロープを掴んで石から離すと、前後に振って転ばせようとした。結構激しく揺すったんだけど、両足をふんばるので転ばせることはできなかった。おまけに口に巻き付けた手拭いの結び目が緩んで解けてしまった。涎まみれのそれが地面に落ちると瑞樹は大声で、「わー!」と叫んだ。

 僕は無我夢中で瑞樹にしがみついて、一緒に地面に転がった。さっきの部屋の場面の再現だ。転がっているところで香取さんが瑞樹を何度も蹴り飛ばし、僕はそこに馬乗りになり、土まみれになって押さえることに成功した。瑞樹が大声をまた出すと香取さんがその顔面を容赦なく蹴り、三回目でもまだ叫ぶのでまた落ちた砂まみれの手拭いを口に噛ませた。きつく縛ろうとすると後頭部より首の後ろに結び目が移動してしまい、そうすると口から外れてしまうのでうまくいかなかった。

「香取さん、ガムテープか何かを持ってきてください」

「おお、車にあったはずだ」

 香取さんは自分の車の方に歩いていった。恩田さんはというと鉈を手に持ってこちらに歩いてくるところだった。

 僕は背中に乗った状態で手拭いを手に持つと後ろに引っぱった。馬の手綱を引いているような感じだった。うーっと瑞樹が暴れた。ガムテープと聞いて何かのスイッチが入ったみたいだった。両手をバタバタさせて、両足を浮かして全体重を乗せないと逃げられそうだった。両手を縛っていても体をよじることはできるので両足も縛っておけばよかったと思った。

 恩田さんがやってきて、「よし」と言った。

 近くで見るとやはりすごい鉈だった。刃の厚さが尋常じゃない。下草を刈りながら歩くときに使うもので、たまに太い枝に難儀することも多いので重い鉈が使い勝手としていいのは僕も知っているけど、これは頼り甲斐がある。枝だったら五センチくらいの太さでも一気にいけるんじゃないだろうか。ちょっと育った桑でも一撃だ。

 恩田さんは僕の正面に回って両膝を瑞樹の両肩に乗せた。

 僕は瑞樹の尻のあたりに腰を降ろして、そこから片膝を背中の真ん中に置く感じでいたので、これは本当に助かった。暴れる部分がほとんどなくなった。

 とはいえ、恩田さんは七十のじいさんなので高校生を押さえるには頼りない。実際、危ないので、「恩田さん、怪我すると危ないので任せてください」と僕は言った。「両足を縛ってくれませんか?」

「お? おお」

 恩田さんはよっこいせと立ち上がり、少し離れたところに鉈を転がした。ずしっと重い音が聞こえた。

「縛るもんはあるのか?」

「すみません。自分がもってきたのはこれだけです」僕は瑞樹の手首にあるナイロンロープを指した。

「なんだよ。しょうがねえな」

 恩田さんは水島さんの母屋の裏口へと向かった。「奥さん、なんか縛るもんある?」という声が小さく聞こえた。

 僕はそちらの方を見た。明かりの点いた家の中がよく見えた。勝手口に来ていた紀子さんがぱたぱたと奥へと歩いていくのが見えた。ハンコくださいと言われて取ってくる感じにそっくりだが、こっちが夜の闇の中で明るい家を覗いていると犯罪っぽかった。

 そんな風に待っていると香取さんの方がガムテープを手に戻ってきて、手頃な大きさに千切ると、噛ませていた手拭いを取って素早く口を塞いでしまった。瑞樹は鼻から悲鳴を上げたが、その音は本当に小さかった。僕はものすごく気分が楽になり、大声を出されるかもしれないという気持ちだけでも相当なストレスになるんだと思った。

 なにかの事件で、大声を出すので殺してしまったという記事をよく見るけど、あれはよく分かる。黙らせるためなら何でもしてやろうって気分になる。そんなつもりなくても殺したら静かになると思うと、黙らせるために殺すのもやむなしというか。

 っていうか、ひょっとしたらここでガムテープがなかったら僕たちは瑞樹を殺してた可能性もあったんじゃないかと思う。そのくらい気持ちはしんどかった。

「あー、ありがとうございます。香取さん。本当に楽になりました」僕は手拭いをその辺の岩の上に置いて言った。

「ああ、静かになったな」

 僕は瑞樹の背中に乗ったまま一息ついた。

 瑞樹は体の力は抜いていないが、諦めているように感じた。足を動かしたり肩を揺すったりしているけど、居心地のいいポジションを探しているだけで、逃げようとはしていなかった。突然全力を出されたら僕も転がっていたと思うけど、後ろ手に縛られたまま走る人間を逃がさない自信はあるわけで、それは瑞樹も分かっていたと思う。

「あの鉈すごいですね。香取さんの家の鉈ってどうですか?」

「ん、ああ。うちもじいさんが使ってたよ。探せばあるんじゃないか。最近じゃさすがに重いのを振り回すのはしんどくてねえ」

「香取さんならまだ大丈夫ですよ」

「そもそも藪を歩くことがなくなったな。楊さんはまだ山の手入れをサボってないが、あれはしんどい」

 香取さんはポケットから煙草を出した。ふーっと煙を吐く。簡単に書いたが、この年になるとほとんどの人は医者に止められてるか、言われなくても一度は入院して自主的に止めている。平気で吸える香取さんは選ばれた人である。

「これなら簡単だろ」

「香取さんが子供の頃はあったんですか? そういう、手を切るとかっていうのは」

「あったなあ。昔はどうしようもない奴がたくさんいたんだよ。こんな瑞樹みたいな奴は懐かしいくらいだ」

「どんな奴でした?」

「うーん。やっぱりどうしても止められない奴だったな。もう癖になってて、盗みが止められないんだな。手首を落とされてからは随分おとなしくなってたが」

「切るまでは止められないんですね」

「そうなんだな。みんなほとほと困ってたよ」香取さんは瑞樹を見下ろした。「こいつもそうだが、何を考えてるんだろうな。人のものを取ったらこうなることは分からんのかね」

 口を塞がれた瑞樹はうーうーと唸った。

「ただただその場をごまかすんだ。今度こそ心を入れ替えたかもしれないってみんな思うんだよ。で、最後にこうなる」

 僕は押さえている瑞樹が何か言おうとするのを見ていた。嫌悪感しかなかった。香取さんに言葉が通じないのは僕でも分かる。この香取さんに誤解ですとかもう二度としませんとか言っても意味がないことは分かる。何を言おうとしているんだろう。とりあえず話は切ったあとではなかろうか。それまでは黙っていればいいのに。

「おう、あったぞ」恩田さんがロープを持ってきた。添え木の固定用の紐だが、強さは充分だ。

 僕は瑞樹の上に乗ったまま膝の上からふくらはぎ、そして足首に至るまで面倒だけど何重にも巻き付けて固定した。足首の方を巻くときには背中から下りなくてはいけなかったが、足を持って縛るときに香取さんが瑞樹の背中を踏んでおいてくれた。抵抗はなかった。がっつり巻き終えると、両足まとめて一本の棒のようになった。

 ここまま地面で切り落とそうという話になり、両手のナイロンロープを解き、結束バンドを切った。結束バンドは鉈の刃を往復させて切った。両手が自由になると瑞樹は口のガムテープを外そうとしたので、僕は左手だけを背中にまわしてねじり上げ、右肩を地面に押さえつけた。これで右手だけが地面に伸びることになったが、瑞樹は肩や肘を曲げてなんとか伸ばすまいと努力していた。

「往生際が悪いな」香取さんが言った。

「まったく」恩田さんが返事をした。

 鉈は恩田さんのものだったが、香取さんが持った。刃を逆にして「よいしょ」と香取さんは鈍器のような鉈を肩のあたりに叩きつけた。鈍い音がした。ますます暴れるので香取さんはその峰打ちを抵抗が無くなるまで繰り返した。

 香取さんは言った。「腕を伸ばせ」

 瑞樹は肘を伸ばして、右の手首を体から離した。遂に瑞樹が協力的になった瞬間だった。

「痛み止めに酒とか飲ませたもんだがな」

「ありましたね。持ってきましょうか」恩田さんが言った。

 説明したが、香取さんの方が年上である。染みだらけのじいさんになっても先輩後輩はちゃんとあるようだった。

 僕は言った。「まだ未成年ですよ。このご時世じゃ問題になります」

「お、そうか。俺が子供の頃は中学で酒を覚えたもんだがな」

 香取さんは瑞樹の頭の側から立ち、左足で手を押さえた。ノコギリで板を切るのと構えは同じである。さすがに引いて切るわけでないと思うが。

 気がついたら僕の下にいる瑞樹はめそめそ泣いていた。何を言っているかは分からないがすすりあげていて鼻水を垂れ流している。

「香取さん、ガムテープ取っていいですか?」

「ん? ああ、苦しそうだな。取ってやっていいだろう」

 痛そうだった。

 瑞樹はぜーはーと荒い息をした。鼻水が出ると苦しかっただろう。

 泣き声で彼は言った。「違うんですよ。やめてください」

 香取さんは峰打ちを瑞樹の側頭部に無言でかました。ものすごい音がした。ゴッというやばそうな音だ。恩田さんが思わず「ひっ」と声を漏らした。

 瑞樹は腕を伸ばし、体から手首をできるだけ離した。

「よし、じゃあ動くなよ、瑞樹。一発で終わらせてやるからな」

 瑞樹は歯を食いしばった。うーという唸り声を上げた。肩、背中、首に力が入り、硬直した。僕は背中に乗ったまま息を止めた。

 香取さんが鉈を真っ直ぐ持ち上げた。傾きの無い、水平のギロチンのようだった。

 僕は、あ、そういう風に切るんだ、と思った。

 鉈自身の重さに香取さんは方向と力を加えて、そのまま地面に落としていった。瞬間の手首そのものは僕は見ずに目を逸らした。

「うー!」瑞樹の口から出た声は耳に残った。

 僕は手首を確認した。

 見事だった。

 下は石や板ではなく固いがただの地面だったので怪しかったのかもしれないが、香取さんは一撃で決めていた。手首から先が無い人間の体というのは異様で、暗かったが目に焼きついた。

「いてええ!」瑞樹は悲鳴を上げた。

「うるせえ! 我慢しろ!」

 瑞樹の体が逃げようとしたが、それでおとなしくなった。

 香取さんがナイロンロープを拾い、瑞樹の手首をグルグル巻きにして止血していた。だがスマートに後始末はできず、香取さんの服は血で汚れまくった。

 服は捨てるしかないなと僕は思った。

 どんなに固く結んでも血は止まらない。できるだけ固く結んでいた。人体に加える力としてそれはいいのという感じだった。トラックの荷物を固定する力の掛け方だった。

 瑞樹の手を切ろうと最初に会合で提案していた恩田さんは完全にビビっていて、なんか蒼白な顔でじっと見て動けないでいた。

 瑞樹の全身の力は抜けていて、今度は力を抜くことで何かをやり過ごそうとしていた。

 体から離れた右手は地面に落ちたままだった。

 拾ってみたいなと思った。まだあったかいんだろうか。

「香取さん、もう足をほどいていいですか?」

「ああ、いいぞ」

 僕はぐるぐる巻きにしたロープをほどいていった。端を持って瑞樹の方をぐるぐる回した方が楽だなと思った。さすがにしなかったけど。

 ロープは借り物なので切って解くことはできないなーとか考えていたのだ。

 足が自由になると瑞樹はフラフラと足を動かした。止血は終わったがまだ立ち上がれなかった。足をほぐすように揺らしながら、左手で無くなった右手首の付け根を握り締めている。座りこんで下を向いている。

 僕はそれからやっと落ちている瑞樹の手を拾いに行った。人間の手首だけというのはなんとも不思議なものだった。爪も指紋も手相も付いているのに、その根本から先が無いのだ。僕は指の先の方をつまんで持ち上げた。血が滴った。意外と重かった。肉も骨も付いた塊だから当たり前か。

「そんなもん。その辺に捨てとけ」香取さんが言った。

 この辺の家は勝手口を出たあたりに生ゴミを肥料にするコンポストを置いている。その辺と言ったときに香取さんはちらりと川島家のコンポストを見た。

「あそこですか?」

「ああ」

 僕はそれを指でつまんだままてくてくと歩き、引っくり返したバケツのようなコンポストに近づいた。蓋を開けると腐敗臭のするその中に瑞樹の手首を捨てた。どさっと音がした。すぐに肥料になるんだろう。

 なんとなく両手で埃を払うように叩いてから瑞樹のそばに戻った。

「救急車を呼びますか?」


 医者には事故と説明した。切れた手の場所を知らないかと聞かれたが分からないと答えた。瑞樹も事故だと答えた。


 瑞樹は盗みをしなくなった。違うんです、誤解です、といういつもの答弁も無くなった。左手で勉強し、地元の大学に進んだが、結局中退して百姓になった。

 会合にも顔を出すようになった。近所付き合いも普通にこなす普通の農民になっていた。冗談を言って人を笑わせたり、逆に人の冗談に笑ったりしていた。

 楊さん含めた地元の人々はその瑞樹を受け入れた。彼を褒め、やっと真っ当になってくれたと言い、これまでのことは水に流そうと言った。

 はい、ありがとうございます、と、瑞樹は無くなった右手首に触れながらお礼を言った。

 彼の母親の紀子さんも以前より明るくなった。いまでも瑞樹の盗みの被害者に嫌味を言われることはあり、その度に恐縮してはいるが、それでも以前よりはマシになった。堂々とするようになった。

 紀子さんには二人きりになったときに直接感謝されたことがある。スーパーの駐車場でのことだ。近づいてくる人がいるなと思ったら彼女だった。

「和之さん」彼女は言った。「その節は息子がご迷惑をおかけしました」

「いえいえ。その後はいかがですか?」

「息子もやっとおとなしくなって……みなさんにはどんなに感謝してもしきれません」

「大変でしたね。しかし、真っ当になってくれてよかった」

「はい」

「それじゃあまた。何かあったら遠慮なく相談してください」

「はい。ありがとうございます」

 僕が車に乗り駐車場を去るとき、彼女は改めて深々と頭を下げていた。

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盗み癖の無くならない水島さんの家の息子の手を落とす 浅賀ソルト @asaga-salt

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