千寿菊と散る —花ノ探偵•槐太門—

空草 うつを

千寿菊と散る

 佐柄竜善さがらりゅうぜんが画家を辞めるらしい。


 画廊を経営する噂好きの友人から聞いた井川繭子いがわまゆこは、家へ帰ると古い手帳を引っ張り出した。そこには、大学時代の友人達の電話番号が書かれている。

 竜善と繭子は、美術大学の同期であった。竜善は学生時代から天才の片鱗が光り、一目置かれる存在だった。竜善は女性画を得意とし、内面をも絵に落とし込み、光や影の表現は抜きん出ていた。

 繭子も画家を志し美大に進んだのだが、彼の天性の才能を前に自らの行く道を中学の美術教師へ転換したのだ。


 竜善の名を見つけると、受話器をとった。実家の番号だが、果たして今もそこで住んでいるのだろうか。美大を卒業して6年、1度も会っていなかったので、確証はなかった。

 呼び出し音が鳴っている間、繭子は、違う人が出たらどうしようとか、本人だったら何をどう話そうとか、まるで、今から告白をする時のような緊張感の中にいた。

 耳元で乱暴に受話器を取る音がし、


「……もしもし?」


と年老いた男の声がした。酒に溺れ、乾ききってしゃがれた声だ。竜善の父だろうか。竜善の家かと訊ねると、声はそうだと答えた。名乗ると、


「繭子ちゃん、かい?」


と、馴れ馴れしく下の名前で呼んだ。はて、竜善の父とは面識はあったろうかと記憶を探し回った。


「僕、竜善だ」


 繭子は仰天した。脳内に残っている竜善の声は、柔和で低く、少しくぐもったようなものだった。そのしゃがれた声はどうしたのかと訊ねると、


「声を出すのがいつぶりだったか……しばらく人と話していなくて」


と弁明した。


「話し相手ならご家族がいるでしょう?」


 受話器越しに、竜善が躊躇うように低くうなると、


「実は今はひとりなんだ」


と言った。


「ご両親は?」

「4年前に事故でふたりとも」


 声のトーンはそのままに告げた。昔から、竜善の声音からは感情を読み取ることができなかった。竜善が自分の感情を表現する唯一の手段が絵だったことを、繭子は思い出す。


「ごめんなさい。私、分からなくて」


 いいんだ、と竜善は言う。


「美咲さんはどうしたの?」


 聞いても良いか迷ったものの、気になってしまってつい訊ねてしまった。


 美咲とは、竜善の幼馴染みで妻だった。美大時代、美咲が絵のモデルになってくれたので、繭子もよく知っていた。まるで外国人形のような容姿端麗な彼女は、絵のモデルにはうってつけだった。

 だが、彼女の喜怒哀楽ところころ変わる激しい性格に、幼い頃から知っているであろう竜善でさえ苦戦していた。美咲が納得いくものを描かないと、二度とモデルなどやるものかと怒って出ていってしまうのだ。それでも、竜善が美咲を描き続けたのは、彼女こそが竜善が求める最高の美だったからだ。

 大学中に交際を始め、卒業後に竜善が天才画家ともてはやされるようになった頃、ふたりは結婚したと風の噂で聞いた。


「美咲は、出ていってしまったんだ」


 どこか歯切れが悪い。これは、何かあったのだ。竜善は、生まれてこの方美咲の絵しか描かなかった。ところが、美咲が家を出ていったことで描く対象がいなくなった。これが、竜善が引退を決意した原因ではないか。繭子が問いただすと、竜善は、長い話をする前触れか咳払いをし、記憶を手繰り寄せるように語り出した。


***


 竜善の家の畑には、美咲が植えた千寿菊マリーゴールドの群れが咲き誇っていた。それは、竜善の創作活動に多大なる良い影響を与えた。美しいものを見る喜びに、満ちていたのだ。

 

 春の麗らかな陽気の中、美咲は、5日程友人達と旅行に行くというので、家には竜善だけになっていた。

 アトリエで、竜善は時間が経つのも忘れて描画に没頭していた。集中しすぎて、呼び鈴が鳴っていることに気づかなかった。しびれを切らしたのか、訪問者が中に忍び入ってきた。

 背後から声をかけられ、驚きのあまり椅子から転げた。創作中に声をかける者は誰だと、半ば苛々した気持ちで訪問者を見上げ、はっと息を飲んだ。


 美しい女だった。陶器のような白い肌、頬だけは血色がよくほのかに赤みがかっている。こぼれ落ちそうな程に大きな瞳、通った鼻筋に紅色の薄い唇。豊かな黒髪は肩の辺りで上品に内側に巻かれていた。

 一目、彼女を見た瞬間に、この美貌を永遠に閉じ込めておきたいと思った。絵画の中で永久に生きるに耐える美しさだ。そして、どこか見覚えのある懐かしい思慕も奥底で渦巻いていた。


 彼女を描きたい。欲ともいえる衝動が竜善を支配した。彼女に申し出ると、恥じらいながらも了承した。

 今すぐに描きたい、と伝えると、少々困惑し、日を改めてと断りを入れてきた。だが、竜善が描きたいのは今の彼女なのだと力説すると、動揺しつつも椅子に腰を掛けた。

 美咲が絵のモデルになる時に座る椅子だ。美咲以外に座らせたことはない。気のせいなのか、一瞬、彼女の表情に誇らしげな笑みがあった。優越感に浸るようなものだ。だが、それは瞬時に消えて恥じらう少女の顔に戻っていた。


 竜善は、彼女の周りをゆっくりと動きながら、頭から爪先までをなぞるように見回した。対象をくまなく見つめ、奥に眠る感情を読みとくのだ。

 服の上から体を撫でるような熱い視線に耐えかねて、彼女は俯いてしまった。顎に手を添え、顔を持ち上げる。紅潮した頬が、彼女の色気を増幅させた。熱っぽく垂れる目と、視線が絡み合う。潤んだ瞳が光を集めて輝いている。少し開いた唇から吐息が漏れ聞こえた。

 体の全てを頭に入れ込み、佐柄はキャンバスの前に座り筆をとった。


「……庭の千寿菊がとても綺麗ですね」


 震える声で彼女は声を掛けた。普段なら、筆を走らせている時は会話等はしないのだが、彼女の緊張が痛いほど伝わってくる。和らげようと、会話に応じることにした。


「妻が植えたんだ。千寿菊が好きらしい。何でも、花言葉の中に悲哀が満ちているところがお気に入りらしい」

「花言葉?」


 どうやら、彼女は花言葉というものに疎いようだ。女性にしては珍しい。いや、花言葉を知っている方が珍しいのか、と、創作に没頭して、美咲以外の女性と話す機会のないことに今更ながら気づかされる。多様な人々が行き交い、情報交換が容易いものだった学生時代が、いかに有意義なものだったのかを思い知らされる。


「嫉妬、絶望、悲嘆だ」


 花言葉も美咲からの受け売りだった。無論、美咲が教えてくれたもの以外の花言葉は、竜善も知らない。


「こんなに美しい花なのに」


 彼女は呟いたが、竜善が凝視していることに気付き、口をつぐんで恥ずかしげに視線をそらした。ふたりは特段何も話さず、絵筆がキャンバスの上をなぞる音だけがこの空間を包んでいた。


 2日程、彼女を家に引き留めて昼夜通して絵に向き合い続けたが、3日目の朝、彼女は忽然と姿を消していた。竜善の心はぽっかりと穴が空き、中途半端な絵を寂しそうに眺めた。

 美咲が旅行先から帰ってくると、女の勘というものは恐ろしいほどよく働いた。留守中の女の気配を感じ、アトリエにあった自分以外の女の絵を探しだし、酷く憤慨して家を飛び出していってしまった。


***


「美咲を描きたいという情熱が失われ、彼女を描きたいと思ってしまった。これは立派な不貞行為だ」


 語り終えた竜善は、ため息をついた。


「でも、だからって画家を辞めなくても……」

「僕は彼女を描きたい。なのに、彼女は去ってしまった。彼女の絵を完成させたら、画家を辞める。描きたい対象がもういないから」


 竜善の気持ちは固く不変だった。久しく会っていない繭子にはどうすることもできず、力なく別れの挨拶をし、電話を切った。


 暫しの沈黙の後、繭子は肩をくすくすと震わせ、やがて高らかに笑った。


 奪ってやったのだ。繭子が失ったものと同じものを。

 鏡に映し出されたのは、あの春の日、竜善を訪ね、描きたいと欲したあの女の顔だった。


 何故私が生意気で幼稚な中学生相手に美術を教えなければならないの? 何故彼を愛しているのに、名声と金に飛び付いた性悪女と結婚なんかしたのよ! 全ては佐柄竜善、あなたが悪いのよ。私の画家になる夢を崩し、私の思いを踏みにじったから!

 ふつふつと腸が煮えくり返ってくる。


 恋をしていた。竜善に、そして彼の描く絵に。繭子は竜善に追い付きたくて、隣で一緒に描画していた。いつの間にか、美咲を見つめる熱い視線、描画する真剣な横顔に、心を奪われていた。

 その視線を独り占めする美咲が憎かった。それ以上に、平然と繭子の夢を打ち砕き、心を奪っていった竜善が憎かった。美咲という絵の対象も、画家としての地位も、全てを奪ってやる。繭子は、竜善好みの顔に整形し、復讐を成し遂げたのだ。繭子は、声を上げて笑い続けた。


***


 壁に飾られた1枚の絵画には白い布が被せてあり、少し距離をあけて大勢の人が詰めかけていた。

 学芸員が咳払いをすると、手元のマイクのスイッチを入れ、機械音が響いた。それが合図となり、人々は話をやめて学芸員の言葉に耳を傾けた。


「50年前に亡くなり、若き天才と称された佐柄竜善の遺作にして傑作と名高い作品を皆様にご覧頂きます。老朽化に伴って行われていた旧佐柄邸の解体作業中、屋根裏で発見されました。元妻の美咲をモデルに描いた美女画を数多く生み出してきましたが、この作品は唯一、美咲以外の名の知れぬ女性がモデルとなっています。作品と共に保管されていた自筆の手記には、 病を患っていた佐柄が死の直前までこの作品に筆を入れ続けたことが書かれており——」


 突然、肩を2度ほど叩かれ、振り向くとスーツ姿の若い男が立っていた。真ん中で分けられた黒髪は、流れる毛先だけが黒紫色に染まっており、整えられた顎髭に精悍な顔立ちをしていた。


「井川繭子さんですね? ご連絡差し上げたえんじゅ太門たもんと申します」


 男が名乗った。数日前、佐柄竜善回顧展に是非来てほしいと連絡を入れた人物だ。竜善の作品を収蔵している御法沢みのりさわ博物館の職員らしいが、本当に学芸員なのだろうかと疑問を感じた。繭子に向かって微笑むその瞳の奥の眼光は鋭く、まるで事件を追う刑事のようにも思えた。


「それで、ご用件はなんですの?」


繭子は、早くここから立ち去りたかった。用件が済んだら早々と撤収するつもりだった。槐は、胸ポケットから封筒を取り出し、繭子に手渡した。


「手記に挟まっておりました。あなたのお名前が書かれておりましたので」

「郵送していただければ良かったのに」


苦言を呈すると、


「直接手渡しの方がよろしいかと思いまして」


と答えた。何を企んでいるのか、槐の顔からは何も分からなかった。

 繭子は、封筒から便箋を取り出した。竜善の自筆のものらしい。辿々しい文字で手紙は埋まっていた。


『僕が今思っていることをつぶさに知ってもらうには手紙が良いだろうと思い、筆をとっている。どうか破り捨てないで最後まで読んでほしい。


 美しい女が部屋に現れた時、僕は懐かしさを覚えた。椅子に腰掛けた彼女を眺め、目があった時、昔、椅子を並べて無心で絵を描き比べていた繭子ちゃんを思い出した。


 僕がまだ学生だった頃、君のことを好いていた。恋をしていた。絵が好きで負けず嫌い、僕のことを敵対視している君が好きだった。美咲のことを一緒に描いているあの空間が、堪らなく好きだった。この時間が永遠に続いてほしいとも思った。臆病だった僕は、思いを伝えられないままにしてしまった。


  あの子が去った後、僕は繭子ちゃんを探しに行った。人伝に聞いた繭子ちゃんの勤務先だという中学校に行ったが、もうそこにはおらず、その後の行方も住居も分からないという。このまま探してまわろうとも思ったが、体が既に限界を迎えようとしていることを僕は悟った。


 僕は没頭するように絵を描き続けた。僕が最後まで思い慕っていた女性を描くために。僕の後悔が、千寿菊になって君の元で咲き乱れるように 』


 手紙を持つ皺が目立つ手が、わなわなと震えた。


「……本当は、復讐なんてどうでもよかった……。あなたの視線を独り占めしたかっただけなの。私だけを、見てほしかっただけなのよ……」


 その声はか細く、突如沸き上がった歓声によってくうに溶けていった。会場では白い布が外され、佐柄の遺作が露になっていた。

 白いワンピースを着て椅子に腰かけている女性の足元に、だいだい色の千寿菊が見事なまでに咲き誇っている。女性は、情熱的で真っ直ぐな眼差しを、鑑賞者達に向けている。

 その女性の顔は、整形前の、本来の繭子の顔そのものだった。

 学芸員の声が、鑑賞者の歓声に紛れて聞こえてくる。


「千寿菊にまつわる言い伝えの中にこのような話があります。昔、太陽神に恋をした妖精がいましたが、太陽神には恋人の王女がおりました。しかし、太陽神と恋人は、許されない恋でした。妖精は嫉妬し、王女の父王に告げ口をすると、怒った父王は王女を生き埋めにしてしまいました。自分のせいで人の命が失われたと後悔した妖精は、悲しみのあまりやがて1輪の花になりました。その花は千寿菊と名付けられ、嫉妬、絶望、悲嘆という花言葉がつけられたというのです」


 鑑賞者達の歓声やカメラのシャッターを切る音が止みならぬ中、会場の出入口付近で、華々しい会場とは不釣り合いなみすぼらしい身なりの老女が、大粒の涙を流して崩れていた。その姿を、誰も見てはいない。絵の中で、凛とした視線を投げている繭子を除いては。


***


 博物館の裏手、薄暗い細い路地には似つかわしくない黒光りした高級車が1台停まっていた。そこへえんじゅが近づいていく。不意に後部座席の扉が開き、疑いもなくそこへ吸い込まれるように乗り込んだ。直後、高級車はエンジン音を鳴らし、路地裏から表通りへと抜け出した。


 座り心地の良いシートに身を委ねていた槐に、隣に腰かけていた老婦人が声をかけた。黒一色のドレスに黒いジャケットを身に纏った落ち着いた装いだった。小振りな真珠のネックレスも上品に煌めいている。今年喜寿であるにも関わらず、肌はきめ細やかで若き日の美貌の面影が健在であった。


「お勤めご苦労様」


 老婦人が労いの言葉を述べると、槐は静かに頭を垂れた。この男、実は職業は探偵で、この老婦人に雇われていたのだった。


「御礼は口座の方に入れておきます」

「有難うございます」

「申し分ない働きぶりでした。感謝するのは私の方です」


 老婦人は満足そうな笑みを浮かべていた。


「ひとつ、お聞きしても宜しいですか?」


 槐が申し出ると、老婦人は許可をした。


「あの手紙、佐柄竜善のものではありませんよね? 御法沢美咲みのりさわみさきさん?」


 車内は一瞬のうちに、冷たい沈黙が生じた。老婦人は、大手自動車メーカーの御法沢自動車の創始者である、御法沢克郎みのりさわかつろう氏の妻であった。そして、佐柄竜善の元妻でもあった。心なしか、美咲の顔はややひきつっているようにも見えたが、まばたきの間にいつもの優雅で余裕のある面持ちへ戻っていた。


「あなた、奥様に何て無礼なことを!」


 運転手が槐に怒りをぶつけるのを、美咲は制した。


「あなたの家まで送り届ける道中の暇潰しに、聞かせてもらおうじゃない? 探偵さんの推理とやらを」


 それでは早速、と槐は咳払いをした。


「奥様から、竜善の最期の作品について調べてもらいたいことがあるとご連絡をいただいてから、色々と調べさせて頂きました。特に、井川繭子の所在や行動歴等は奥様がご所望だったので詳しく調べました。繭子に関する情報は、お喋りで噂好きな画廊がいらぬことまで細かく話して頂いたので、裏付けをするだけで事足りました。時間が余ったので、竜善や奥様のことも調べさせてもらいました」


「あなたって人は本当に無礼だ! 依頼主である奥様のことを調べるなど、失礼に値するぞ!」


 運転手は憤慨し、鼻息荒く槐を罵った。美咲はというと、平然と槐の話に耳を傾け、続きを聞きたいという態度であったので、槐は続けて話をした。


「手紙には、竜善は繭子を探して歩いたとありましたが、手記を見てもそのようなことは載っていなかったと記憶しています。私は、一度見たものは忘れないのでこれは確かです。竜善は、日記を書くのが日課だったのでしょう、その日にあった出来事が詳細に書かれていました。手記にあったのは、あの日訪ねてきた美しい女性が繭子を彷彿とさせたこと、描いているうちに繭子との思い出が甦ってきたこと位でした。竜善は、あの絵を描いている最中どこかへ出掛けた様子がありません。つまり、あの手紙の中の、繭子を探して歩いたという記述は嘘になります」


「手記に書かなかっただけなのではないでしょうか? 私という妻がありながら、他の女の所へ行くなどといったことを書いては、佐柄の名に汚点を残すことになりかねませんからね」


 美咲が持論を述べたが、槐はすぐに否定した。


「しかし、絵の中に繭子を描いている時点で、絵のモデルは必ず奥様だったという竜善が何故違う女性を描いたのかと世間は疑問に思うでしょう。あらぬ憶測をするのが、世間の人々は好きですからね。それに、絵と手記は誰にも見つからないように屋根裏に厳重に隠されておりました。現に、取り壊すまで誰にも気づかれなかったのですから。そこまでして隠しておくつもりだったのなら、本当の思いを手記にしたためたはずです」


「仮に手紙に嘘が書かれていたとしても、手紙を竜善が書いていない確固たる証拠にはなりませんわ」


「おっしゃる通りです、奥様。ですが、根本的なことが違っていました」


 槐は深く頷き、顎髭を擦った。美咲は片眉をつり上げている。


「手紙に記されていた字は、佐柄竜善の字体とは異なっていたのです」

「それは、竜善が手紙を書いていたのが死期迫った頃でしたので、力が入っていなかったり震えたりして字体が変わることだってあるでしょう?」

「しかし奥様、人それぞれ書き癖というものはやはりありまして。例えば平仮名の『そ』という字。手記には一筆書きの『そ』で書かれていましたが、手紙には上部が分かれて二筆で書く『そ』が使われていました。そして、二筆で書く『そ』を使っている人物が、近くにいたことが分かりました」


 美咲は、黙ったまま前を見ていた。それを構わず、槐は懐から1枚の紙を取り出して、美咲の顔の前に広げた。


「奥様から頂いたメモです。私に調べてもらいたいことが書かれております。この中に、二筆で書かれた『そ』があるんです」


 美咲は顔色ひとつ変えず、


「二筆で書く『そ』なんて、私でなくても使っている人はいるはずよ」


と反論した。


「もちろんです。ですが、旧佐柄邸の屋根裏から見つかった手記や絵は、即座に奥様の所へと渡り、以降は奥様の管理下にありました。更に、御法沢博物館は奥様が会長を務められていますから、寄贈された後も奥様の許しがなければ、学芸員達も手を出すことはできなかったでしょう。手記に手紙がはさまってあったと奥様が言えば誰でも信じます。誰よりも早く手記を読み、事の顛末を知った奥様しか、手紙を書けなかったと私は思っています」


 美咲は、ふっと吹き出して静かに笑った。


「それならば、どうして私があんな手紙を書かなければならなかったのか、あなたの妄想ではどうなっているのかしら?」


 妄想と言われ、槐は少しばかり不愉快になったが、ここまで来たならすべてを聞かせようと口を開いた。


「奥様は、実にしたたかでどんなピンチもチャンスに変えるお人です。そして、欲しいと思ったものは何としてでも手に入れる、それを邪魔する者は許さない。学生時代、奥様は幼馴染みで才能溢れる竜善の絵のモデルとして、自らの美貌を知らしめていました。竜善自身も奥様に恋心を抱かれて、絵のモデルを頼んでいたのでしょう。ですが、竜善の視線はいつしか、椅子を並べて奥様を描画する井川繭子に向けられていることに気がついたのです。女性というものは、恋心や心の移ろいというものにとかく敏感な方が多いようですから。奥様は焦りました。竜善が繭子に恋をしている、絵のモデルが自分から繭子に変わってしまうのではないか、と。そこで、奥様は竜善を自分のものにすべく結婚を決めるのです。その頃、竜善は若き天才画家だと世間が騒いでおりましたので、迂闊に繭子に手を出すような不貞行為があれば世間の風当たりは強くなるだろうと踏んだのです。奥様は、売れっ子画家の妻として何不自由なく過ごしていました。が、竜善が不治の病に冒されていることが分かります。亭主に先を逝かれては、未亡人として路頭に迷ってしまう。奥様は慌てたことでしょう。そこへ、何というタイミングか、美女が竜善を訪ねてきたのです。自分の留守を狙ったかのようにやって来た美女の噂を近所の人から聞いた奥様は、その美女が何者か知ろうとなさった。恐らく、竜善は絵を描いているに違いないと踏んだ奥様は、アトリエに自分ではない別の女性の絵の下書きを見つけます。その女性の顔は、他でもなく繭子でした。余命少ない竜善が、繭子に再び心を動かされている。奥様は怒りに震えました。ですが、これは活かさない手はないと思い立ちます。竜善は、自らが重い病に冒されていることを世間には公表しておりませんでしたので、病死すれば、『病気の事など知らなかった、どうして一言も告げずに死んでしまったの』と同情をかうことができます。それに、竜善が浮気をして苦しかったと涙を流せば、美しい未亡人を放ってはおけない男が言い寄ってくるでしょう。そして、御法沢氏と出会い再婚をしたのです」


「あなたの妄想力には、恐れ入るわ」


 美咲は呆れたようにわざとらしくため息をついた。だが、槐の話を遮る様子はなかったので、このまま続けた。


「50年後、竜善の最期の作品が見つかりました。奥様は絵を見てこう思ったのでしょう。何て美しいんだと。自分を描いたものよりも、遥かに美しく可憐なその絵に、そして、この絵のモデルになった繭子に嫉妬したのです。そこで、繭子に復讐をすることを思い立ちました。私を使って繭子がどのような人生を歩んできたのか事細かに調べさせ、それを踏まえて竜善からの手紙だと言い、自らが書いたものを繭子に手渡すのです。それも、佐柄竜善回顧展の、最期の作品の目の前で。竜善は繭子に恋していた、命果てるまで繭子に会いたいと願っていたと知り、何故自分はあのような愚かなことをしてしまったのだろうと後悔の念が繭子を支配していくのです。繭子の心は竜善への懺悔で満たされ、一生その苦しみを背負って生きていく。何とも恐ろしい復讐です」


 槐は身震いした。唇を真一文字に閉じたまま、美咲は窓の外を眺めていた。


「これが私の推理です。いかがですか?」


 美咲の視線は槐に向けられた。それは、貴婦人の優雅なものではなく、ふとした瞬間に見せる冷徹なものだった。


「私からもひとつ、良いかしら?」

「何でしょう?」

「千寿菊の言い伝えをご存じかしら」


 槐は、先程学芸員が話していたことを思い返した。


「あの言い伝えの登場人物だったら、私は誰だと思う?」


槐は、考える仕草なのか、口元に指を軽く添えていた。暫しその体勢でいたが、


「妖精ですか?」


と述べた。美咲は、吹き出して豪快に、そして高らかに笑った。


「私はあの妖精のように、自分がしたことを悔いて花になんかならないわ」


 車は歩道に寄って止まり、槐側の扉が自動で開いた。


「まだまだね、探偵さん。楽しい話をありがとう。ここまでにしておきましょう。あなたの妄想話は退屈しのぎにちょうどよかったけれど、現実離れしすぎて私にはついていけなかったわ」


 去り際、槐に微笑みかけた。その笑みの裏で、勝ち誇ったような雰囲気を感じた。だが、ただの見間違いではなかったかと思い過ごしてしまう程一瞬の出来事だった。


「最後にこれだけは教えて下さい」


 閉まりかけたドアを抑え、槐が車内に顔だけ潜り込ませた。美咲は、手を差し出して槐の発言を待った。


「佐柄竜善を、愛していましたか?」


 美咲は、


「それを知ってどうするおつもり?」


と冷ややかに一瞥をくれると、ドアは強引に閉まり車は発進していった。


 去っていく高級車を眺め、槐は佇んでいた。美咲が竜善を愛していたのかなど、聞いてどうするつもりだったのだ、と自分でも謎だった。少なくとも竜善に対して愛情があったはずだ、という切なる願いだったのかもしれない。槐は、竜善最期の作品のお披露目という華やかな舞台に、美咲が黒ずくめの格好をしていたことが腑に落ちなかった。まるで、その服は喪服そのものに見えた。今日が竜善の命日で、今でも竜善を偲んでいるようにも思えたのだ。


 美咲は、槐の話は妄想だと笑ったが恐らく真実だったはずだ。だが、真実は彼女の中で永遠に閉ざされてしまうだろう。

 ひとつだけ確かなことは、竜善が描いた千寿菊は美しい、ということだった。

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