第2話

 面会を終えた私は、鳥肌の浮いた二の腕を擦った。寒い。この国はもちろん日本よりも緯度が高いのだが、夏でも朝晩は冷えるのは承知していたが、日中で凍えるような寒さを感じるとはいったいどういうことだろう。この刑務所がコンクリート詰めの建物であることを差し引いても──が言った通りの異様な寒さだった。


は一体何なのですか」


 私は刑務官に英語で尋ねた。事件が起きた地方の町ならともかく、ここなら英語が通じないということはない。多少癖はあるが、ゆっくり喋ってくれる分、日本人には聞き取りやすいくらいだった。


「分かりません。研究者が来たこともあるのですが、解明できませんでした」


 そうだろうな、と思う。真夏の屋内で、を中心に吹き荒れる凍てつく風は、どう考えても尋常な現象ではなかった。が呼んでいるのかを目掛けているのか──自身は全く気付いていないようだったのもその印象を補強する。


「でも、に心当たりがあるのでは? の話では住民は備えというか対策をしていたようでした」

「冬の夜に、夜の狩人の群れが訪れる──災厄を避けるために十字架をみっつ並べるのは広く伝わった伝承だと思います」

「その狩人は、人を狩りますか?」


 Do the hunters hunt human? そんな文章を作って問いかけるのは恥ずかしいような気さえした。使っている単語が初歩的なものの上に、あまりにも荒唐無稽で愚かしい質問に思えたから。でも、刑務官は笑わずにただ肩を竦めた。


「分かりませんが、出会うと死ぬとか悪いことが起きるとは言いますね。最近は大きな獲物が減ったのかも」

「では……がやったのではない可能性もあるのでは? は何も知らない、やっていないと主張していました」


 東欧の某国で、日本人が殺人を犯した──しかも、遺体の肉を食らった、とのニュースはセンセーショナルに報じられた。ただの大学生の観光客で、動機も、そんな犯行を実行できるだけの道具や技術もないことが明らかだったからなおのことだ。不当に拘留されている若者を救え、という運動は、しかし何度か起きては立ち消えている。その理由を薄々察しながら、私は一応食い下がってみた。すると、刑務官は今度こそうっすらと笑う。


「知っています、みんな」


 私の予感を裏付けて、刑務所の廊下を姿勢よく歩く彼は短く答えた。そう、この国の者なら、みんなよく知っていたのだろう。夜の狩人とやらが現れる兆候について。その被害を抑える術について。だから、言葉も通じない無謀な若者が迷い込んだのを見て、奇禍から匿おうとしてくれた。けれどにはその厚意は通じず、無知と恐怖は暴挙につながった。さらに間の悪いことに、夜の狩人たちはひと狩り終えた祝杯を挙げているところだった、のだろう。その町からは、ちょうど少年がひとり、行方知れずになっていた。そしてその少年は、が拘束された場所のすぐ近くで変わり果てた姿で発見された。公的な記録では、の犯行ということになっているが。


 私の沈黙を理解と取ったのだろう、刑務官はさらに続ける。


「狩人の手から逃れる術は十字架だけではありません。勇気を見せれば、むしろ認められて仲間に迎えられるとか」

「人肉のスープを平らげるとかは──」

「私にはわかりませんが、気に入られそうだな、とは思います」


 の裁判では、胃から遺体のDNAが検出されたことも決め手になったとは調査済みだった。狩人たちの言葉が分かるこの国の人間だったら、人肉を勧められたら──それ以前に、彼らの姿を目にしたら──怖気づいていたのだろうが。それはそれで獲物と見なされるのだったら、逃げ場がないということになるが。とにかく、この世の者ではない狩人たちに笑顔で近寄ったは、彼らには勇気ある若者に見えたのかもしれない。実際には、無謀とか蛮勇とか呼ぶべきものだったのだろうが。


 話すうちに、私たちは刑務所の出口に近付いていた。人を閉じ込めるための建物の中は息苦しく、の独房の冷気に真冬の伝承を聞かされたことも相まって、私はすっかり雪山で遭難した心地になっていた。だから数時間ぶりに見たこの国の夏空が目に染みる。日本の都市部よりも青く澄んで高く──は、今が夏だということにもきづいていなかった。彼の心と魂は、ずっと暗く寒い冬に囚われているかのようだ。独房の中にも吹きすさぶ寒風は、を呼んでいるのだろうか。あるいは、初めから彼は招かれていたのかもしれない。


 が蹲る建物をもう一度見返して佇む私に、刑務官は握手の手を差し出して、述べた。


「冬は毎年訪れる。狩人たちも、また。なので、が増えないことに越したことはないでしょう。少なくとも、その時はできるだけ遅らせたい」

が死ぬまで……? その後は、どうなりますか。日本に引き渡した方が……?」

を外に出す勇気を、誰も持てないでいます」


 同郷の若者のために食い下がろうとした私は、今こそ完全に沈黙した。を外に出す──飛行機に乗せる。日本に入国させる。そのいずれも恐ろしく耐えがたい想像だった。恐ろしいし、私には責任が持てない。はもう無知で無邪気な若者ではない。この世にいながらにして、あちら側のものになってしまっている。


「ごきげんよう。取材旅行が実りあるものでありますように」


 刑務官は、私がとのやり取りを発表しないのを確信しているようだった。同業者が何度も同じように訪ねては、「冤罪事件の被害者」の救出を断念しているのだから無理もない。ふがいないと憤りもした彼らが穏当な判断力を備えていることを、私はやっと理解した。


 はずっと酷寒の中で疑問に首を捻り続けるのだ。いったいどうしてこんなことになったのかと。そしてその疑問が解けることなく、いつの日か夜の狩人の軍団に東洋人の若者が加わるのだろう。

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分かんないけど 悠井すみれ @Veilchen

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