最終話 ありがとう

「ここまで、よく頑張ったもんな」

 前川はそんな相沢の姿が誇らしくあった。

 相沢が殺し屋だった時の事を語ることは、未だにない。だから、前川は殺人人形だったと言われた人物について何も知らなかった。しかし詮索するつもりはない。必要なのは過去ではないからだ。

殺し屋でない生活に、早く馴染んでもらいたい。前川の願いはそれだけだ。いつかまた、あの茶色いスーツの男が何かたくらんだとしても、それに対抗できるだけのものを身に着けてほしいと思う。

 そんな相沢が立つ前には、まだ新しい墓がある。

 そこに眠るのは、佐々木美咲ただ一人。

 そうしたのは米田だった。きっと、相沢はもう一度美咲に向き合うだろうと思ってのことだ。米田も結局のところ、大きく変化した相沢に戸惑い、そして最終的に一人の人間として受け入れた。だからこその措置だろう。それに美咲にしても、自分を利用した父と同じ墓では、ゆっくり眠れまい。

「美咲」

 ようやく何のわだかまりもなく呼べるのに、返る声はない。だが、相沢は涼しい声で続けた。

「僕の本当の名前は、相沢健一と言うんだ。嘘ついて、ごめん」

 名乗りたくても名乗れなかった、自分を指す名前。それを、どうしても伝えたかった。

 そしてそれは、不安ばかり抱いていた日々との決別だ。

 相沢健一として生きていく。

 周りが変わると、その気持ちは確かなものになった。殺し屋ではない自分を認めてくれる人たちがいる。それが、今の自分を支えてくれている。前を向かせてくれている。

 墓を見たまま、相沢はじっと黙った。言わなければいけないことが、他にもある。

 桜の花が、言葉を待つように静かに舞っている。

「それと、ありがとう」

 相沢はようやくその言葉を紡いだ。

 言われたことがない言葉は、同時に今まで本心から言ったことのない言葉だ。ようやく誰かに向けて発した感謝。変えてくれるきっかけを与えてくれた女性に最初に送りたかった言葉だ。

 できれば、生きている間に言えたらよかったな。そんな欲が生まれたのも、ここまで引っ張ってくれた前川のおかげだろう。そう思うと苦笑してしまう。しかも、ここまで引っ張ってくる原因となったのも美咲なのだから、本当に感謝してもしきれない。

 暖かな春風が、通り過ぎていく。

「また、来るよ」

 相沢はくるりと背を向けた。しかし、すぐに歩き出せない。

 こちらを見た相沢の目に涙が浮かんでいたのに気づいた前川は、すぐに視線を逸らした。

「大事な人だ。ゆっくりしていけよ」

 まだ自分の為に感情を発露しない相沢にとって、美咲のことを想って泣けることは大きな意味を持っている。しばらくは一人の時間を持たせてやるべきだろう。

 空を見上げると、晴れ渡った空に桜の花びらが舞い上がっていった。

「相沢はもう、大丈夫だよ」

 前川はもういない美咲に向けて呟いていた。君が守りたかった優しい少年は、ちゃんと自分の足で立って歩けるようになった。もう操り糸はないんだよと語りかける。

 暖かな日差しは、どこまでも優しかった。まるで美咲が微笑んでいるようで、前川も自然と頬を緩ませる。

 相沢はあの日あの男と決別を表明して以来、哀しい目をすることはなくなった。ずっと目に浮かんでいた哀しみの原因は、自分を騙していたからなのだろうか。それとも心を偽っていたせいか。

 本当に、普通で優しい少年なのだ。いまや警察官となり年齢も偽っているから青年と呼ぶべきか。どちらにしろ、彼はもう、自分の持つ優しさのせいで傷つくことはない。

「じゃあ、また」

 相沢はもう一度墓を振り返ったが、すぐに微笑んで歩き出した。

 その目には、初めて生きていく希望が輝いていた。


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殺し屋は果たして操り人形だろうか? 渋川宙 @sora-sibukawa

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