第45話 初めての日常
「相沢、行くぞ」
落ち着いた頃、前川は相沢を散歩に連れ出した。
いつの間にか、三月が終わろうとしている。あれほど寒かった風は、暖かく優しいものになっていた。着いたのは相沢と初めて向き合った、噴水のある公園だ。
「どうだ、何にもない日常っていうのは」
ベンチに座ると、前川は噴水を見つめる相沢に声を掛けた。
「慣れないです」
まだ迷いを含む涼しい声が、相沢の口から零れた。何もしない日々。それが休みというものだと理解しているが、どうしようもないもどかしさがある。こんな気持ちになるのは、入院していた時でもなかった。
「三月が、長かったしな」
この一か月で起こった事を思い出し、前川はぼやいた。あれだけのことがたった一か月の間にあっただなんて、だれが信じられるだろう。人生で最も濃密な一か月だった。人形として完璧に生きようとした少女から始まり、人形を育てることで権力を手に入れた米田、ずる賢く出し抜こうとした佐々木、さらには、今もなお人形として生き続ける男。普通に生きていればまず関わらなかった人たちばかりだ。
「何もない方が長いですよ」
相沢は暇になってからの一週間の方が長いとぼやく。それに前川は笑ってしまった。人生における初めての休みに戸惑う様子は、非常に相沢らしく感じた。
「これから、もっと色んなことがあるんだ。しっかり休めよ」
心は普通だが、それを生活で体験したことがない。これからは、その差を必死に埋めていかなければならないだろう。米田が刑事として生きろと道を用意した以上、殺しを当たり前にしてきた相沢にとって、カルチャーショックの日々のはずだ。
「前川さんもしっかり休んでますよね」
「うるせえ」
前川は、相沢の傷が治るまで有給休暇を取得していた。これは米田も承知している。というより、上でごたごたがあるからしばらく来るなと命じられてしまったのだ。ちなみに、前川の死亡届は取り下げられ、元の生活に戻れる算段は付いていた。
「長閑ですね」
昼間の日差しを、相沢はこんなにゆっくり感じたことがない。危険のない日常が、今あるのだ。相沢はそれが驚きであり、今もまだどこかで追手がかかるのではと思ってしまう。でも、長閑な日差しの前では、その懸念も長続きしない。
「だな」
前川はそっと相沢の横顔を見た。
その顔は、口で言うほど暗くはなかった。
「大丈夫みたいだな」
「えっ」
前川の呟きに、相沢は驚いたように振り向いた。その目にはもう、哀しみが浮かぶことはなかった。
四月に入ると、相沢健一としての生活が有無を言わさず本格的に始まっていた。傷が治った途端、米田が辞令を持ってやって、わざわざ前川の家まで来たためだ。
所属は米田が色々手を回して、警視庁捜査一課となった。躊躇っている暇はないと言いたげな米田は、不愛想なまま一着のスーツを寄越してきた。
「しばらくは前川と共に行動しろ。奴らがそう簡単に諦めるとは思えんからな。あの男はお前がギブアップして戻ってくることを待つつもりらしいし、気は抜けないぞ」
不器用な気遣いに、その時も一緒にいた前川は笑っていた。しかし、米田も一応は相沢が不通に生きていけるようになってほっとしているのは明らかだった。
そして、何事も起こらず基本的な仕事を覚え、刑事として形が出来てきた頃。
「一つ、お願いしてもいいですか」
相沢はようやく前川にそう切り出した。
「何だ、改まって」
いったい何を企んでいると、前川の声に僅かに緊張が走る。まさか刑事生活に慣れたというのに、余計なことをするつもりか。
「美咲の墓参りに。ちゃんと、伝えたいことがあるんです」
しかし、口から出てきたのは予想外の言葉だった。そして、それもそうかと前川は頷き、大きな事件もないことだから、どこかで休暇を取得して出掛けようと頷いた。
そして、晴れ渡ったある日。遅咲きの桜の花が静かに舞う墓地の一角に、相沢健一は一人立っていた。
ぱりっとしたスーツ姿だ。刑事になった姿を美咲に見せるため、あえて仕事着でやって来たのだ。そんな相沢のことを前川は遠くからその様子を見ていた。
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