後編
「ミナ、どうして」
「ごめんなさい」
僕の告白は、波に消えていった。
十月の風が震えている。季節外れの冷たさが、骨まで凍てつかせていく。
「アキラさんとは、もう会えないんです」
祖父の大切にしていた骨董品の一つを、誤って壊してしまった。
それが当人に知れ、激昂した末に倒れたという。彼女の母も患った脳梗塞だった。
発症した箇所が悪く全身のほとんどが麻痺し、退院した今でも自宅で寝たきりだ。
「祖父のことも看なければいけなくなってしまいました。今までのようには、来れません」
強さを増す風に消え入りそうなミナの声には、諦めと決別が滲んでいる。
「……もう、いいだろう。ミナは十分頑張ったよ」
「私の家族ですから、私が看ないと」
「どうしてミナばかりが不幸にならないといけないんだ!いくら家族だからって、そこまですることないじゃないか!」
「じゃあ、アキラさんが私の不幸を、背負ってくれますか」
もちろんだ。ミナのためなら。
喉まで出かかるが、しかしそこまでだった。
もしミナと結ばれたら、ミナの家族の介護を手伝わなくてはならないだろう。
でも、嫌いな会社を辞め、好きなミナと海がある大洗に引っ越す。
それなのに。僕は、決断できなかった。
今の仕事を辞めて、次の仕事が見つけられるのか。
もし、見つからなかったらどうしよう。
見つかったとして、今よりさらに状況の悪い職場だったらどうしよう。
怖くて、そして自分自身に驚いた。
嫌いな会社でも、間違いなく唯一の居場所だと確信していることに。
好きなもののために、嫌いなものを捨てることができない。酷く情けないのに。
僕は、何か大事なものさえ手に入れたような気分だった。
沈黙に刺さる、小さな小さなため息。
そこに含まれた感情が何なのか、今の僕には読み取ることができなかった。
「ごめんなさい。意地悪なことを」
ミナは続ける。
「黒に染まった私の世界は、今から他の色にはできないんです。私たちは、きっと出会うべきではなかった」
……でも。
「あなたとの一年は。本当に、ほんとうに楽しかった」
私に、外の世界を教えてくれて。
顔も見せない私と、一緒にいてくれて。
真っ直ぐな響きが、僕の心に刺さる。
「ミナ……、君は。本当にそれでいいのかい」
よくないはずだ。そんなこと、分かっている。
「君の人生は、誰のものなんだ」
返す波が石をさらい、がらがらと音をたて。
「……私のものです。だから」
一際大きく、打ち寄せる。
ミナの声は波に消え、それ以上僕の耳に届かなかった。
‡
十一月。
閉めるドアで切り裂かれた風が泣いている。
僕はそれを車の中に押し込んで、浜へと降りていく。
海岸線の遥か北に見える明かりが、今日はやけに眩しい。
結局僕は、僕がどうすべきなのかを決められていない。
ここに来れば、答えを見つけられるかも知れないと思っていたが。
ミナは、現れなかった。
歩き終えた後の石ばかりの浜辺も、一段と硬く冷たい。
ココアのペットボトルの一つを傍らに置き、もう一本を開ける。
気付けば風は止んでいて、同じリズムで繰り返される波の音だけが耳に届く。
まるで、時間が止まってしまったかのようだ。
前回まで拾えていたウラングラスの欠片も、今日は見つけることはできなかった。
得るものがないこの海は、こんなにも真っ黒で寂しいものなのか。
考えながらぼんやり口に含んだココアはもう、冷えている。
僕は空が朝に焼けるまで、闇を眺め続けた。
その翌日。
仕事から帰宅した僕はジャケットと鞄を放るままに、リビングのテーブルに崩れ落ちる。
茶色のレジ袋から牛丼を取り出して、半額シールの貼られたふやけたラップを破く。
まだ熱いそれをかき込みつつ、レジ袋から黒と銀でデザインされた五百ミリの缶を開けるが。
アルコールの誘惑より強く、二十二時のニュースの音声が僕の頭を掴む。
眼鏡を掛けた男性のアナウンサーが昨夜と切り出すのは、茨城県大洗町での住宅火災。
四人暮らしの木造住宅が全焼し、身体が不自由な祖父母と母の三人が亡くなったという。
とても、とてもミナに似た境遇だった。
昨日彼女に会えなかったことに、胸騒ぎを抑えられない。
もっと。もっと詳しく教えてくれ──。
「……なんだ、人違いか」
肺の中身が全て出る。
四十六歳の娘と連絡が取れていない。そうアナウンサーは告げた。
ミナは確か、二十六歳のはずだ。
彼女は僕と会ったときに、高校を卒業してから十年と言っていた。
しかし、こんなにも似た境遇の人がいることに憤りを覚える。
やはり日本はどうかしている。ただ死なないためだけに、若い命が浪費されて。なんて馬鹿馬鹿しい。
今まではただのBGMに過ぎなかったはずのニュースに、こんなにも感情を動かされたのはいつ振りだろう。
僕はミナに外の世界を見せてあげたいと思っていたのに。
なのに。
ミナが、僕に。
アルコールが、やり場のない憤りも、会えなかった寂しさも、喪失への悲しみも。
全てを、溶かしていった。
‡
僕はあれからも、新月の日には必ず二十五時に大洗海岸を訪れている。
しかしミナが海岸に姿を見せることはなく、ウラングラスの破片を見かけることもない。
僕は会社を辞めていない。
サービス残業は一秒だって減らないし、コーヒーの黒い缶は以前にも増して積み上がる一方だ。
しかしそれでも僕は、社会に僕だけの居場所を持っている。
ミナと出会えていなければ、きっと僕はその居場所をいずれ放棄していただろう。
彼女が僕を、繋ぎ止めてくれたんだ。
黒しかなくても、色も温度差もある世界に。
欠片一つが足りないティーカップは、今でも僕の部屋の奥にあって。
命をほんの僅かずつでも蝕むガンマ線を撒き散らしながら、黒い光を受けて鮮やかに輝き続けている。
ガンマ線 綺嬋 @Qichan
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