中編
十一月になった最初の週末。
今日は新月。一月振りにミナと会える日だ。
より早く明日を迎えようと早寝に努めたおかげか体調も良く、嵐のような労働に身を委ねているだけで一ヶ月はあっという間に過ぎた。
気づけば一円たりとも生まぬ残業ですら、苦にならなかった。
もうカーナビの案内がなくてもたどり着ける、海岸通り沿いの駐車場に車を停める。ミナは本当に待っているのだろうか。ドアがやたら重く感じるのは、吹きつける潮風のせいだけではない。
それでも、もしミナがいたらこんな寒空の下で一人で待たせてしまうわけにはいかない。一思いに降りて、後ろ手にドアを閉めた。
浜へと続く坂を降りていくと、今の時期には使われない、シャワーを備えたトイレがある。明かりもなく、誰もいないだろうと思っていたのだが。
「こんばんは、アキラさん」
陰から、長い髪を一つに結った影がゆっくりと現れる。
僕の不安は杞憂となった。
「待っていてくれてありがとう、ミナさん」
紫の光を頼りにして、足元を確かめながら下っていく。
岸から遠いところは砂浜になっていて、足をとられてしまいそうになる。ミナは平気だろうかと振り返るが、歩き慣れている軽い足取りだ。
「私のこと、気にしてくれるんですね。アキラさんは優しいひとです」
「いえ、僕だけが歩きづらそうにしていて、恥ずかしいですね」
「大丈夫です。きっとすぐに、慣れますよ」
ようやく足元が固い石で満たされると、僕は肩に掛けたバッグを胸に回してペットボトルのホットココアを差し出す。
「よかったらどうぞ。夜遅いので、カフェインが少ないものにしました」
近づく距離。恥ずかしがりな彼女を直視していないことをアピールするため、大袈裟な動きで海に視線を移す。
今夜も海は空と溶け合っている。見渡す限りの黒の中で、風と波だけがさざめている。
それは僕を歓迎しているようにも、拒むようにも聞こえた。
「ありがとうございます」
そんなことまで気遣ってくれて、嬉しいです。
ミナの言葉だけで、僕の冷えた左手は指の先まで熱くなる。
「いえ。これくらい、させていただかないと」
暗闇でよかった。
きっと、耳まで赤くなっているだろうから。
僕とミナと明かりの三角形が、波打ち際の少し外側を進んでいく。一ヶ月も経てば表にある石も入れ替わっているようだが、今日も見当たらない。
場所を変えたら、もうミナは来てくれないだろうか。
いや、来てくれる、なんて思うことがおかしい。まだミナとは二回会っただけだし、お互いの顔も知らないんだ。
そう思った矢先に。
あっ、とミナが声を上げる。
「アキラさん、あれは……」
それは、波の手がぎりぎり届かない位置で輝く黄緑色。
人の目には見えなくても大きなエネルギーを持つ紫外線を反射する、独特の光。
僕は片時も目を離さぬよう瞬きせずに駆け寄り、拾い上げる。
「間違い、ないです」
波打ち際からは距離のあるせいか、表面から水分は感じられない。
「ですが──」
表面の傷は少なく、蔦のような装飾は鮮明。縁もまだ鋭く、不用意に触れば切れてしまいそうだ。曲がり具合から、小ぶりな容器の一部だろうか。
「ごく最近のものだと思います。おそらく」
「……そうなんですね」
吐息に混じる青色。
「でも、もしかしたらずっと埋まってたものが波で表に出てきたのかも知れません。ミナさんがいなければ、見つかりませんでした。ありがとうございます」
「見つかって、よかったですね」
僕の示す可能性に、息をつくミナ。
確かに、最近割れたものを拾ったということであれば興醒めしてしまうのも分かる。
僕もそうでないと信じたい。
いや、信じよう。
「今日は本当に、ありがとうございました」
「いえ。見つかって、よかったですね」
「次もミナさんとなら、見つけられそうな気がします」
「ふふ。それなら、次も待っています」
帰路ではオーディオをミュートした車内に響くロードノイズに海を重ねて、先程までの出来事を振り返る。
今日はウラングラスの破片だけでなく、ミナの身の上話を持ち帰ることができた。
彼女はこの田舎町で、アルツハイマーになった祖母と、その介護中に脳梗塞を患った自身の母親の介護をしているという。
生活を支えているのは祖父母の貯蓄と年金で、デイサービスの利用や施設に住まわせるほどの余裕はない。
ミナは朝から晩まで二人をささえつつ、家事もこなしている。
深夜にこの海岸を訪れることが、家族が寝静まった後の、唯一の息抜きだった。
「高校を卒業してから、十年はこの生活です」
「大変、ですね」
正直なところ、僕が抱いたのは憐憫よりも安堵だった。
ミナは世間を知らない。
社会も人も、男もだ。彼女はまだ、無垢な女性なんだ。
それとともに感情を満たしたのは、優越感だった。
家に縛りつけられるだけで何もかもを生み出さないミナと比べれば、僕の人生もいくらかマシに見える。
学生の頃にはそれなりの青春を送り、大学を卒業し、一応は正社員として働いている。
時間は短くても、自由にここを訪れて、自由にミナと会っている。
「だから私は家とスーパーと、あと。この海しか知りません」
それでも、と続ける。
「黒一色の海ですけど、様々な顔を見せてくれるんですよ。穏やかな時。楽しげな時。怒っている時。悲しんでいる時。
黒には黒の違いがあって。私はこれしか知らないからこそ、それが分かるのかもしれません」
だから、不幸せではないんですよ。
その声音に虚勢は感じられない。
その気持ちは僕にも少しだけ分かる。
未だに顔を見せてくれないミナだけど、その声に乗せられた感情だけで、夜が色づいて見えるようになったから。
それからも僕とミナは、帰り際に次の新月の日を調べて、会う約束を交わした。
雪明りで白む冬には、二人の距離は少し遠く。
いつもより静かな夜に聞くミナの声は、優しい息遣いまで手に取れるようだった。
夜風が心地いい春には、花見はできないからと三色団子を二人で食べて。
僕が産まれる前の春の歌を楽しげに口ずさむ彼女は、穏やかな波と風そのものだった。
緑と海の香りが濃い夏には、線香花火とあらかじめ買った瓶ラムネの入ったクーラーボックスを助手席に座らせて走った。
ミナはずっと飲み終えた瓶を揺らしていて、離れて点けた線香花火が咲く音にビー玉が踊る二重奏は、その日の僕の夢にまで出てきた。
そして、僕のウラングラスは。
ミナと海岸を歩くたびに欠片一つだけ、でも必ず落ちていて。
夏に入る頃には、僕はあることに気付く。
破片は全て、一つのカップを形作っていたものなのだと。
僕は紫外線で硬化する接着剤を買った。ピースをパズルのように組み立てていくと、欠けたティーカップが姿を現す。
植物を象った紋様が、紫外線を返した蛍色の輝きで美しく浮かび上がった。紛れもない、骨董品。
九月に拾った破片を組み立てた時に、欠けた部分はついに一つ分ほどになった。
まだ、ミナには話していない。
完成させてから、見せてあげたいんだ。
これが僕らの、証なのだと。
ミナの顔を見たことはないし、一度も手も繋いだことすらない。
それでも構わなかった。
黒い世界は僕とミナだけのもので。
彼女との物理的な距離なんてものは、あったってなくったって、どうでもよかった。
いつからだろう、僕は。
田舎町に囚われた、かごの鳥を──ミナを、広い世界に自由に羽ばたかせたいと思うようになっていた。
いや。
その使命を帯びていると信じていた。
彼女にとっての運命の相手は、僕なのだと。
次でミナと会うのも十三回目──ちょうど、一年になる。
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