ガンマ線
綺嬋
前編
「落とし物、ですか」
生命を拒む夜の波音にも、どこにでも滑り込む風の囁きにも似た声だった。
新月が海と空を隔てる一糸すら取り払う、深夜二十五時。
大洗の浜辺で、背後から投げ掛けられた問い。
その主の興味をくすぐるために、僕は返す。
「──いえ。宝探しを」
こんな時間に、しかも女性から話し掛けられることなんて万に一つも考えてはいなかった。
不思議と驚きも恐怖もなかったのは、彼女がこの闇夜に寄り添う雰囲気だったからかも知れない。
「何が、あるんですか」
「ウラングラス──かつて、骨董品だったものです」
僕の右手の小振りな懐中電灯からは、鈍い紫色の光が浜に伸びている。紫外線を放つそれを彼女に向けないよう気を配りながら、振り返った。
ゴルフコースを背にした大洗海岸の夜は、黒そのものだ。
海岸線の遥か向こうの僅かな照明で確認できるのは、コートと思われる暗い色合いの服と風に靡く黒髪だけで。
くたびれたデニムから取り出したスマートフォンのライトを点けたが、その明かりが届くより先に彼女は後ずさってしまった。
「ごめんなさい。余所行きの格好でないので、止めていただけますか」
「すみません。それは失礼しました」
デリカシーがなかったな。取り出したばかりの端末をポケットへ捩じ込むと、風が頬を撫でていった。
「それで──ウラングラスって、何ですか」
夜の浜で、ブラックライトを受けて蛍色に光るシーグラス。きっかけは、SNSに投稿された一枚の写真だった。
その元々の姿は、着色料としてごく微量のウランを含んだ鮮やかな黄緑のガラス製品。
人体への影響はごくわずかとされているものの、本物のウランを使う故に現在では極めて生産数は少ない。
今出会えるものは、百年近くを遡った工芸品の成れの果てがほとんどだ。
その遥か昔のアンティークであったとほぼ確実に言えるものと、偶然に海岸で出会えることに不思議な魅力を覚えた僕は。
浜が撹拌されてビーチコーミングに適する台風明けになると、北関東自動車道を下ってこの近辺の海岸を度々訪れていた。
大洗海岸は砂浜が少なく、砂利や石に紛れたシーグラスが多いためすぐに見つかると楽観視していたのだが。
実のところ三度通ったにもかかわらず、まだただの一つも拾えてはいない。
しかしそれでも、僕にとって夜の海は特別だった。
──いい大学を出ればいい就職先にありつけて、いい人生を送れると思っていた。
しかしそれは、世間を知らぬ子どもの夢だったようで。
常に山積みの仕事。
毎日の上司からの叱責。
当たり前のサービス残業。
同僚のくだらないギャンブルの話。
パートのおばさん達の無意味な縄張り争い。
売上が伸びれば、運が良いだけだからもっと努力しろ。
悪ければ、もちろん僕の努力が足りないせい。
週に一度だけの休日では何をするにも足りず、疲れを取るだけ。
その間に一人、また一人と結婚していく友人たちの晴れの日を何度断っただろうか。
法律で使わないといけなくなった有給休暇でさえ、『使ったこと』にされただけだ。
こんな人生に。
こんな社会に。
一体なんの意味があるんだろうか。
僕はこの世が嫌いになった。
自分以外の全ては敵で。
会社での世間話も、テレビから流れるニュースも、全ては灰色のBGM。
僕が関わらない全ては、この世界には存在しない。
楽しみを、友達を、時間を奪われても。自分自身だけは壊されないように、目も耳も塞いで生きてきた。
それでも、毎日があまりに息苦し過ぎて。
こんな行為をしてまで生きていかないといけない世界なんて、ただ人類が滅ぶのを先延ばしにしているようなものではないか。
いつか間違いなく、破綻する。
でも、滅びを先伸ばしにすることの必要性も、僕は分かっている。
人間は正常な限りは、自ら死を選ぶことはできないからだ。こんなに辛くたって、死ぬのは怖くてたまらない。
だから、僕は夜の海が好きになったのかも知れない。
人も、光すらもない黒の前では全てが曖昧で、それは僕の人生さえも受け入れてくれているようだから。
海が『母』と称されることにも納得がいく──なんて感傷に浸りつつ、僕は彼女にウラングラスの説明を終えた。
「確かにそれはとても素敵です。持っているそれが、紫外線ライトなんですね」
興味を持ってくれているようだ。僕は慎重に言葉を選ぶ。
「僕のことはいないものと思っていただいて構いません。光の先を見ながら歩くだけでいいので、よろしければ、一緒に探しませんか」
深夜ですし、女性がおひとりなのは心配ですと付け加える。
風が凪ぐ。波が寄せ、返っていく音だけが耳を抜けていく。
それもそうだ、見ず知らずの男にこんな深夜に誘いを受けるのだから。
しかし、再び寄せる波と共に聞こえる彼女の言葉は、意外なまでに軽快だった。
「はい。是非、お願いします」
「僕が聞いておいてなんですけど、いいんですか?」
「私もこの海について、知らないことがまだあるんだなって思ったら。少し、悔しくなってしまって」
「ここにはよく、来るんですか……ええと」
すみません、まだ名乗っていませんでしたねと、平謝りする。
「僕はアキラ。高橋朗です」
「私はミナといいます」
「ミナさん……綺麗なお名前ですね」
じゃり、と波が石を揉む。
「ありがとうございます。自宅が近いのでここにはよく来るんです」
「実は僕、大洗には深夜にしか来たことなくて。地元のミナさんには申し訳ないですね。
よかったら今度、昼間に案内してくれませんか。美味しい海鮮丼とか、食べてみたいです」
「ふふ。地元の人間は別に食べないので、私も案内できませんよ」
僕たちはそれから一時間ほど、紫の明かりが仄かに照らす地面を見ながら歩き回った。
時折オレンジや青紫の光を返す物を見つけて駆け寄るものの、どれもこれも放置された釣り具や捨てられたゴミで。
その度に僕もミナも、期待と無念の息を繰り返した。
結局その日も、ウラングラスは見つからず。
でも、この暗い夜を一緒に笑いながら過ごしてくれる人がいて。
「アキラさん、今日は残念でしたね」
労わりの響きが、寄り添ってくれている。
僕も、気付けば二十八歳だ。
人並みと言えるのかは分からないが、恋愛経験もあるにはある。
尤も、それも学生時代の話ではあるが。
社会人になってからは彼女と会う時間も少なくなり、誰かに割ける心の余裕はなくなっていった。
そしていつしか、音信不通に。
今更連絡もできないし、するわけにもいかない。
所謂、自然消滅だ。元々そうある運命だったのかも知れない。
そう。運命。
こんな歳になっても、僕に運命の存在を信じさせてくれる相手に、出会えた気がしたのだ。
顔は見えなくても……いや、顔が見えないからこそ。
自分の気持ちが、ただの欲望でないと思えた。
収穫は、十分すぎた。
「いえ、こうしてミナさんと話せただけでも来た価値がありました。遅くまでありがとうございます」
意を決して、もう一歩を踏み込んでいる。
「もう遅いですし、車で送りますよ」
しかし寄せた波が返るより早く、聞こえる答えは。
「……ごめんなさい。きっと、音で家族が起きてしまうので」
でも。そう言ってついたひと息には、暖かさがあった。
「そのお気持ちは、本当に嬉しいです」
──なら。
「あの、ミナさん」
声をかけ、立ち止まる。
僕とミナと明かりが形作っていた正三角形が、一直線を描く。
「どうしました?」
震えそうになる声を腹筋で抑え込み、淀まぬように告げる。ここで怖じ気づいてはいけない。
「次の新月の日、今日と同じ二十五時に。
よかったら、またここで僕と会ってくれませんか」
波の音が。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
波が返した静寂に響く声は。
「はい──次は、お待ちしていますね」
‡
灯りも趣も少ない北関東自動車道も、今日だけはいつもより気持ちいい。普段は鬱陶しく感じていたマニュアルの車を楽しいと思ったのも、何年ぶりだろうか。
しかし、ふと思い出す。ミナはガラケーすらも持っていないらしい。
この現代に、果たして本当だろうか。
もしかしたら連絡先を教えるのが嫌だったのかも知れない。初対面だし、十分あり得る。
次の新月の日に、彼女は本当に来てくれるのだろうか。
心配と期待とが入り交じる。
その温度差すらどこか懐かしく、心地よかった。
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