第一話『照れさせられるちっちゃくてかわいい先輩と、喜ばせたい素直で不器用後輩』3
「それじゃあとりあえず発声練習をやってみよっか。教本があるから読んでみて」
「分かりました」
「あたしは他の仕事をしながら聞いてるから、何か分からないことがあったらいつでも
そう言うと、先輩はくるりと
それを横目に、
「あっ、えっ、いっ、う、えっ、おっ、あっ、おっ……」
発声練習は放送部員にとって基本となるものだ。
専門的な声の出し方から、よく知られているような早口言葉まで。
教本に載っているそれらを、滑舌に気を付けながら読み上げていく。
「かっ、けっ、きっ、くっ、けっ、こっ、かっ、こっ……かけけききくくけこかこ、かけきくけこかこ、かきくけこ……特許許可する東京特許許可局……」
油断すると舌を
と、そこで視界にあるものが入った。
「……ん、んんっ……」
「……」
「……む、む~……」
何だか挙動不審な先輩の姿だった。
放送室の隅にある戸棚の前で、右手を伸ばしながらウサギのようにぴょんぴょんと飛び跳ねている。
「……む~……ん~……あ、あと、ちょっと……っ……」
たぶん棚の一番上にある資料を取りたいのだろう。
だけど先輩の
一生懸命に飛び跳ねる度にふらふらと
見るからに危なっかしい。
このままでは転倒したりしてしまうのでは……と心配に思っていたら案の定、
「あっ……」
先輩が体勢を崩した。
宙を
「大丈夫ですか?」
「……っ……」
駆け寄ってすんでのところで受け止めることに成功した。
柔らかで軽やかな感触が
先輩の体勢を安定させて隣に立たせると、
「これですよね。どうぞ」
「……」
「先輩?」
「え? あ、う、うん、さんきゅ……」
バツが悪そうに先輩が下を向いてお礼を言う。
「危ないので届かない時は言ってください。取りますから」
「……」
「先輩?」
「あ、うん、
「?」
「
視線を
先輩はこういう人なのだ。
何だかんだで自分のことよりも他の人のことを第一に気にかけてくれている。
その心遣いは
代わりに、
「そんなこと気にしないでください。高いところにあるものを取るくらい何でもないですから」
「
「先輩のためならたとえ両手両足を骨折していたって、即座に駆け付けて取ってみせます」
「重いよ!?」
そう口では言うものの、そこはかとなく
(……よし)
これでツーアウトだ。
心の中で再度ガッツポーズをする。
先輩が喜んでくれた。
あと一回アウトを取れればスリーアウトチェンジ──すなわち今日の目標を達成することができる。
「ま、まあいいけど……それより練習はどう? うまくできないところとかない?」
こほんと
「そうですね。ここの滑舌がちょっと難しいかもしれません」
そう答えると、先輩は待ってましたとばかりに
「お、じゃああたしが手本を見せてあげよっか? ほらほら、やっぱりこういうのは実際にできる人が目の前で実践した方が分かりやすいと思うんだよね」
「はい、ぜひお願いします」
「うん、任せといて!」
ノリノリの様子で
そしてゆっくりと教本を読み始めた。
「生麦生米生卵、赤巻き紙青巻き紙黄巻き紙、今日のなまだらなままながつお──」
響き渡る、声。
さっきまでの鈴を鳴らしたようなかわいらしいものとは違う、どこまでもキレイで透明で、まるで水面にできた波紋が
そう、先輩には二つの声がある。
普段の素の先輩の声は、かわいらしい。
発声用に張られた先輩の声は、美しい。
それは本当に片方は天使で、片方は女神かというのがふさわしい天上の響きであって……
「先輩の声は本当にきれいですね。地上に舞い降りた女神みたいで、聞いているだけで心が洗われるような幸せな気持ちになってきます……」
思わず
「……っ……! と、隣の客はよく柿食う客にゃ……っ……!」
女神が
早口言葉のクライマックスのところで、盛大に
「……」
「……」
沈黙。
空手の師範が弟子に寸止めの見本を見せようとしたら失敗して見事に正拳突きを決めてしまった時のような何ともいえない微妙な空気が放送室の中を流れて、それに比例するように先輩の顔が
先輩が気まずい思いをしている。
恥ずかしさに耐えかねている。
ここは後輩として、先輩の笑顔を望む者として──フォローしなければ。
だけどどう声をかけるのが正解だろう。
野球部の練習中だったらこういう時にはドンマイと一言添えて肩を
三十秒ほど考えた後、
「先輩」
「な、何……?」
「大丈夫です。俺、猫好きですから」
「……っ……」
完璧なフォローのはずだった。
失敗からそれとなく論点をズラして、なおかつ語尾が「にゃ」になってしまったことを好ましく思っていることを伝える、最適解のはずだった。
だけど先輩は顔を真っ赤にさせたまま、スカートの裾をきゅっと握り締めながら全身をぷるぷるさせて、こう声を上げたのだった。
「そ、それはフォローじゃにゃい!」
さりげなくまた
……どうも、失敗したみたいだった。
……ううん、先輩のツボは分からない……
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