【from第二部】豚ロースのしそ巻き揚げ、厚揚げと茄子の含め煮、鰻ざく和え、豆腐とオクラの味噌汁(後編)


 俺は手を動かしながら、カクテル缶を持った手元を見つめている麗子をじっと見守った。

「……そう」麗子は小声で言った。

婚約指輪エンゲージリングは要らんって頑なに言うてたんはそのせいか。お母さんの指輪があるから」俺は言った。「あれをけたいって」

 麗子は頷いた。

 切った胡瓜をボウルに入れて塩を振った。それからミョウガだ。洗って半分に切り、こっちは千切りにして水にさらす。

 すると麗子は首を捻った。

「……厳密に言うと、ごく最初はほんとに、わざわざ必要ないって思ってた」

「ただの邪魔、やて?」

 俺はちょっと皮肉っぽく言った。かつて婚約指輪を贈ると言った俺に対して、麗子が最初に言った言葉だ。

「……まあ、そう。あくまで物理的な意味でね」麗子はカクテルを飲んだ。「それで、じゃあうちの母はどうしてたんだろうって思ったの。昔、父から贈られた婚約指輪を。思い出そうとした。でも、あたしはこんなタイプだから、人が身に着けている洋服やアクセサリーには基本興味を持たないし、ましてや親の前では自分のことで精一杯だったりして、何かの折にでも母が着けてたって印象がないの」

「……そんなもんなんかな」

 俺は合わせ酢を作りながら言った。たいていの子供は両親の結婚に関心など及ばない。自分が結婚するときになって初めて、そう言えばどうだったんだろうと思いつくくらいで、しかもそんなのごく少数派じゃないか。

 そう、とちょっと寂しそうに頷いて麗子はカクテルを飲んだ。「でね。父に訊いてみたのよ。お母さんの婚約指輪ってどうしたの、って」

 カウンターに置いた紙の包みを取って過剰とも思える包装を剥がし、パックを開けた。半切れサイズの鰻の蒲焼きだ。

「え、鰻だ」麗子は言った。「さっきから何となくそれっぽい匂いがするなって思ってたの、これだったんだ」

 俺は頷いた。「こんなサイズでも、国産はやっぱり高いな。しかも芦屋ここらへんで買うとなおさら」

 アルミホイルに鰻をのせ、上からも被せてオーブントースターに入れた。タイマーを二分に設定し、スイッチを入れる。

「それで、お母さんの婚約指輪は――」

 俺は麗子に話の続きを促した。

「この家にあったの。父が帰国したときに、ボストンから持ち帰ってたのよ。仏壇にしまってあった」

「それって――」

「そう。あたしに渡すつもりだったみたい。生前、母が言ってたそうなの。いつかあたしに譲るつもりだって」

「一人娘やからな。当然っちゃあ当然」

 シンク下の抽斗からフライ鍋とサラダ油を取り出してコンロに置き、鍋に油を注いで火を点け、温度を設定した。

 麗子は肩をすくめた。「どうなのかしらね。あたしはあまりにも無関心だったから、譲り甲斐が無い、って思ってたかも」

「そんなことないやろ」

 半玉のキャベツをさらに半分に切り、一つをラップに包んで冷蔵庫に戻した。残りを洗って千切りにしていく。オーブントースターが鳴って、上側のアルミホイルを外してさらに二分タイマーを回した。

「……それでね、思ったの。勝也の言うとおり、こんなあたしでも彼女にとってはたった一人の娘だから、結婚するときがきたら花嫁姿を見たかっただろうなって――見るつもりだっただろうなって。それがああいう形で突然逝っちゃったもんだから、さぞかし心残りだったろうなって」

 俺は黙って頷いた。否が応でも自分の母親と重ね合わせてしまう。遺された者の悲しみの深さは身をもって知っているが、遺して逝く者の無念さは、もしかするとその比ではないのかも知れない。

「それで着けようと思ったんやな。リメイクして」

 千切りにしたキャベツをざるに移す。「お母さんをすぐそばに感じられる」

 うん、と麗子は頷いた。「でもね。要らないって言った手前、勝也には言いにくくて――」

「言うてくれたら、俺かて同意したのに」

「だって『おまえが何と言おうと俺が買う!』って空気出してたでしょ」

「そうかな」

 胡瓜をさっと洗い、しっかり絞って合わせ酢と和えた。ちょうど鰻も温められたのでトースターから出し、細切りにして加えた。ざく和えの完成だ。 

「――で、そんなこと言う割に俺はどうせなかなか決められへんやろうから、東堂さんにリメイクを依頼しに行ったんやな」

「……まあ、そうね」麗子は苦笑した。「だって、何かを強く決心すると、その決心が強い分だけ、勝也は決まって迷いに迷うのよ」

 俺は俯いた。自分が関わっている大事な案件は、過剰に慎重になってしまう。と言ったら聞こえはいいが、要するに優柔不断なのだ。いつまで経っても治らない。

「実際そうだったでしょ?」

 麗子は穏やかに言った。俺は黙って頷く。そのタイミングで炊飯器が炊き上がりのアラーム音を鳴らした。

 麗子は立ち上がってダイニングテーブルに移動した。「テーブルの用意をするわ」

 適温表示に変わったフライ鍋に微量のパン粉を落とし、適度に弾けるのを確認すると豚肉を投入した。

「あのさ――」

 カラカラと耳触りの良い音を立てて泳ぐフライを動かしながら、俺は今日一番伝えたいと思っていたことを言おうとしてやめた。さすがにフライを揚げながらは無い。

「え、なに?」

 麗子はランチョンマットの上に箸置きと箸を並べながら訊いた。

「……いや、いい」

 揚がったフライを順に取り出し、キッチンペーパーの上に並べていく。薄切り肉と紫蘇の葉だから、そんなに時間はかからない。

「すっきりしないわね」と麗子は言った。「今日、来たときからずっとよ」

「いつものことや、て言いたいんやろ」

「そうね。この会話も含めて」麗子は呆れ気味に笑った。


 すべての料理が完成した。それぞれを器に盛りつける。フライは千切りキャベツを添え、ミョウガは茄子の煮物にトッピング。鰻ざく和え、味噌汁、それにご飯。がっつり系の和食が出来上がった。

「……どうだろ。ワインって感じでもなさそうだけど」

 テーブルに並んだ料理を見て麗子が言った。「日本酒、とか?」

「あるのか?」

「無い」

「じゃあ言うなよ」

 俺は肩を落とした。麗子はそんな俺を見てふふっと笑う。

「ここはストレートに、ビールでいいんじゃない?」

「そうやな」

 冷蔵庫から缶ビールを出してきて、グラスに注ぐ。互いに軽く合わせて、一気に飲み干した。一仕事終えた気分だ。そして麗子がフライを食べるのを見守った。

「うん、美味しい」

 麗子が満足気に頷くのを確認して、自分も頷いて味噌汁を啜った。

「――ごめんね。わがまま言って」

 麗子がぽつりと言った。

「何が」

「だから指輪。せっかくいろいろ悩んで買おうとしてくれてたのに」

「いや、かえってヤキモキさせるだけやった」俺は自嘲して笑った。「情けないな。我を通して贈るって言うたのに」

「そんな風に言わないでよ」

 麗子は困ったように首を傾げ、フライをかじった。

「――いいデザインやったな」

 ビールを注ぎながら俺は言った。

「そう思う?」

「うん。気に入った」

「……良かった。勝也が買おうとしてくれてるのに、それをやめさせてまで選んだ以上、気に入ってくれないと意味がないと思ってたの」

「ずっとこういうのを探してたんやと思った」

「ほんと?」麗子は顔を上げた。

「ああ。いろいろ迷ってたけど、やっと見つけたって」

 俺が今日一番伝えたかったのはこのことだ。

 すると麗子は眉を下げて微笑み、嬉しい、と呟くと俯いた。

「えっ、大丈夫」

 俺は思わず言った。女性の涙に対する極度の恐怖症で、泣かれるとこっちがヤバい。

「……大丈夫よ。分かってる」

「……ごめん」

 麗子は顔を上げ、目尻を指で押さえながら今度は困ったように笑って言った。「そろそろ治してもらわないと、あたし、結婚式で大号泣かもよ」

「そこは俺も心配してる」

「ま、分かっててどうにかなるものでもないんだろうけど」

「努力するよ」

「いいのよ。言ったあたしが悪かったの」

 そう言うと麗子は茄子の煮物を口に運んだ。「これも美味しい。味がよく染みてる」

「おふくろの味や」俺は言った。

「……そうなの?」

「ああ。これ全部。まだ元気な頃、しょっちゅう作ってくれた」

 そうなんだ、と言いながら麗子は料理を見渡した。そして鰻ざく和えを箸で摘んで食べると、味わうように小さく頷いた。

「ちゃんと受け継いでるのね」

「どうかな。ほぼ再現できてるとは思うけど」

「あなたの中にも、お母さまが生きてらっしゃるんだわ」

「麗子の中にもやろ」

「そうね」

 麗子ははにかんだように微笑んだ。


 そう言えば昔、友達に「おまえはちょっと特殊なマザコンだ」と言われたことがあったっけ。それはこういうこと――亡き母のレシピすべて習得していつても再現できる――を指していたのかも知れないな。


 確かに、なかなか気持ちの悪い話だぞ。



《recipe 3 おわり》


 ☆豚ロースのしそ巻き揚げ

 ☆厚揚げと茄子の含め煮

 ☆鰻ざく和え

 ☆豆腐とオクラの味噌汁

 ☆ごはん

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カレシのレシピ みはる @ninninhttr

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