もうひとつの相合傘
もうひとつの相合傘
少女には夢がなかった。このままいけば、きっと誰でもない誰かと恋のような何かに落ちて、何でもないような生活をするままにくたばってしまうのではないか。そんな懸念を抱かずにはいられない。夢は免許証のようなものでそれがあるからといって未来を保証するわけではないが、輝かしいその場所へ敷かれた道を進むためには必要なものだ。だから少女は夢が欲しい。しかし、夢を持つということは容易いものではない。計画や予定といった乾いた言葉にはない含蓄が夢という言葉にはあり、それだけに手にすることは難しいことが少女には痛いほど感じられる。青森の彼女は歌手を夢に見て、鹿児島の彼は陸上選手を目指す。そんな夢を抱く彼らと隣り合わせになってしまうのが現代の情報社会で、その縮図として存在する学校の中でも夢を持つことが求められる。
高校に上がってすぐに就職か進学かという希望を問われた少女は思わず面食らった。夢という名の武器を手にすることを求められていると思った。少女は平面的な町で平和に暮らし続けるのだと、根拠もなくそう考えていたのだ。だから同級生たちと仲良くなっていくうちに彼らが当たり前に進学を口にしたり、あるいは将来就きたい職業を表明したとき、少女は身を置く場所がないようないたたまれなさを感じた。少女はやはり思った。夢が欲しい。
それにしても、思い悩むのにも資本が要る。屋根のない場所で風雨に晒されながら磨かれる哲学というのもあるだろうが、結局それは大成しない。少女はいずれ何らかの才能を見つけるであろうが、そんな少女が少女として生きていられるのは、本人にとっては不本意であっても両親のおかげだった。両親が愛情を注いでくれているのは分かっている。しかし、両親とて同じ人間であるから間違っていることもあると、ここ数年のうちに少しずつ感じ始めていた。母や父というものが次第に人間として立ち上がってきたように感じられつつあるのだ。だからそこに生まれる諍いは親子喧嘩という枠で以て考えるのは適当ではないかもしれない。ところがここでもう一つ問題があって、それは少女もまた人間であるから間違っていることがあるということなのだ。多くの場合、その諍いの原因は少女のわがままにあった。どうしようもない冷戦状態に入るときも少なくはない。そんなとき、文字通り最後の砦として少女を守るものはこの家であった。狭い空間の中でぎすぎすとした空気を醸成するような愚を避けることができたのも、奥行きのあるこの家の構造によるものだし、間違っても両親の来ない縁の下を避難場所とできたのもこの家のおかげである。
そんな諍いのある家庭内の関係は、もちろん冷戦状態がいつも続いているわけではない。梅雨の前後のいつだったか、あるいは梅雨のど真ん中のことだったか、家族は庭に出て手花火を楽しんだことがある。それは強く印象に残っている風景だ。三人は庭先で何かを話し込むでもなく、手元で閃く一瞬一瞬の煌めきに魅入られていた。その煌めきが何かを象徴しているようで、つまり有り体に言えば、そこに自分たちの生と死を重ねていた。どう頑張っても最後には尽きてしまうその生命をじっと見つめる時間は、他には代えがたいかけがえのないものだった。
これはそのときのことだったかはっきりしないが、母が少女の産まれたときのことを回想してみせたことがある。何をどう語ったものかは覚えていないが、そのときに感じた母の生命に対する真摯な態度に、少女は胸を打たれた。どこの家庭でもそうあるのか、父は少し離れたところで、母と娘の話にわざと加わるまいとレンズ越しに手花火を見つめていた。少女が聞いたことよりも見たことに対して強い印象を抱き続けているのは、あるいは手花火の残像があまりにも眩しくて、見るもの全て、世界の全てが輝かしいものに思えたせいなのかもしれない。そしてその細かい部分を覚えていないのは、梅雨の大雨が手花火の残り香を消し去ってしまったせいなのだ。いつか胎内で聞いたことのあるような大雨がこうして、今も巡り巡って地面を濡らす。そしてその大雨から守ってくれるものはやはりこの家であり、またそこに住まう家族なのであった。
家族というものを思い描くとき、少女は必ずあの家族のことを想起する。今ではもう存在しない、しかし間違いなくこの場所に存在した家族。少女は自分なりの想像力を総動員して、あの写真のことを考える。思えば、あれは夫婦の姿だったのだ。相合傘をしながらこの家に越してきた夫婦は、相合傘をしながら去っていったのだと思う。この世を去った妻がどうしてあの写真に写っているのか、そして誰がどのようにしてあの写真を写しているものか、少女にはその点だけは分からない。いや、本当は何もかも分からない。それでも少女は、今この家に暮らすことが幸福であると思う。理屈を越えたものが、そこにはあるのだ。
相合傘 / もうひとつの相合傘 雨宮吾子 @Ako-Amamiya
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