傘の外

 あるとき、少女は縁の下の暗くじめじめとした場所で雨音を聴いていた。この場に隠れることを知り、そしてこの場に隠されていたものを知ってから、少女の心の有り様は少し変化している。あの大学ノートに記された四十年くらい前の家族の歴史は、少女が透明な涙を流すに相応しい純朴さで以て綴られていた。あれは遠い過去の、彼方にある出来事だ。では、と少女は考えを進める。今この場所で聴いている雨音はどうなのだろう。雨雲はいつもこの場所で停滞しているわけではなく、いずれ通り雨となって人々の予定を滅茶苦茶にしてしまうだろう。そこで起こる出来事は近い将来の、やはり彼方にある出来事だ。少女はここを原点として、物事を考え続ける。自分はここで彼方にある出来事を知った。そこで踵を返せば、そこにも広大な川が横たわっていて、その彼方にもまた何かしらの出来事が生まれつつある。過去と現在の間に流れる川と、それから現在と未来の間に流れる川。まるで二つの大河の間に立っているような気分だった。

 過去と未来とはどちらも流れを見極めるのは難しく、その間にあるこの大地も時に侵されることがある。今このときに訪れた魔の手は、両側からやって来た。

 少女はある都会に立っている。どこかの風景を継ぎ接ぎしたような、しかし違和を感じるほどではないその足元は、ひどく感触のない、つまりふわふわとしている訳でもはっきりとしている訳でもないのだが、とにかくそこに感触はなくて、けれどその地面の濡れた感じだけは視覚か聴覚かは分からないけれど、自分の身で感知することができる。ひょっとするとその自分というものすら感触がないのかもしれないが、それは我思う故に我在りではないけれどここで雨の上がった雰囲気を感じているのは誰かということになって、ひどくややこしい話になってしまうので避けることとして、とにかくその雨上がりの街はどこかよそよそしく少女の前に横たわっている。コンビニの前を通れば沢山のビニール傘が無造作に傘立ての中に放り込まれていて、使う者のない傘たちが焼却炉の悪夢を見ているかと思えば、商業ビルの玄関に捨て去られた傘袋がどこかの方角から流れてくる風に飛ばされて、通行人に踏みつけられ、また蹴られながら通路の脇に追いやられていくのを見た。雨が降り止んだことで街全体の気分が持ち上がっていくようで、少女は自分が見ている風景を何だか信じられないような気持ちで見ずにはいられない。人々は明らかに雨が止んだことを喜んでいて、それどころか明確に雨を嫌っている。雨に降られながら傘も差さず、高らかに歌声を上げたりだとか軽快に踊っていたりだとか、そういうことをしているべきだというわけではもちろんないのだけれど、あの縁の下――どの縁の下?――で想像したような静かな雨のその先というものは、どうやらこの地平には存在しないらしい。コーヒーチェーン店で雨宿りを終えて次々と外に出てくる人々のその口元に残っているドーナツの名残や、道路に面した高層マンションの窓ガラスを丁寧に拭き上げていく清掃員の慣れた手付きなどが、少女には何故かしら恨めしく感じられてくる。最終的に少女の心を癒やしたものは、建物と建物の隙間を流れる小さな川を下る茶色く濁った水の流れだった……。

 今、少女はここにいる。この縁の下に、少女はいる。過去と現在と未来とが入り混じった地平を見ていた。それが夢であったのかそれとも過去の再現であるのか未来の先取りであるのか、それは明瞭ではない。この縁の下に逃げ込んでいる間には決して現実に触れることのない、どこか不思議な感触が視線の先端に残っている。あるいは耳元の和毛に、指先の血管に。その世界は現実ではないという意味で心地良く、現実ではないという意味で恐ろしい場所であった。

 少女は浴室のタイルに敷いたマットの上で身を清め、和室の畳の上に敷いた布団の中で眠りたいと、ただそう思った。

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