第9話 ふたたび、鎌倉物語

 夕方4時の鎌倉駅。サンダル姿の海水浴帰りの若者たちが楽しそうに談笑している中、夕夏は一人、深々と帽子を被って江ノ電改札付近で玲子の帰りを待っていた。

 稲村ケ崎公園で時間を忘れてのんびり過ごした夕夏の肌は、少しだけ日に焼けたように感じた。

 ここから東京の自宅までは、1時間ちょっとかかる見込みである。そう考えると、これ以上到着が遅れると、夕飯の支度が間に合わないどころか、父親…つまりは玲子の夫よりも帰りが遅くなり、どこに行ってたんだ!?と勘繰られてしまう。


「遅いなあ。二人で昔の思い出に浸りながら旅するのはいいけど、夕食の支度があるから早く帰ってくるんじゃなかったっけ?」


 徐々に少し気持ちが焦り始めた夕夏の目に、カブに乗った二人組が近づいてきた。


「ああ……やっと帰って来たか。遅い!どこ行ってきたのよお!」


 夕夏がややヒステリックな声で叫ぶと、ヘルメットを外した玲子がにこやかな表情で夕夏の元へと近づいた。


「ごめん、すごく楽しくて、すっかり時間を忘れてたの。夕飯の支度があるから、早く帰らないとね」


 そういうと、玲子は横山の方を振り向いた。

 横山も、玲子との時間が楽しかったようで、目元が緩んでいるのが見て取れた。


「ありがとう、小百合さん。あっちこっちで撮影したけど、何だかあっという間の時間だったね」

「うん。私も楽しかったよ」

「それから、ごめんね。僕の家にも寄ってもらって。おふくろがさ、小百合さんにまた会いたいって、いつも煩い位に言ってるからさ」

「あはは。そう言ってもらえて嬉しいな。お母さんも元気だったね」

「うん。おふくろ、すごく喜んでたよ。でも、帰り際に、今度はいつ会えるんだ~?って言って泣き叫んでたけどね」


 横山が笑いながら言うと、玲子も掌を口に当て、声を上げて笑っていたが、やがて落ち着いた表情を浮かべながら、ゆっくりと言葉を発した。


「横山さん。最後に、いいかしら?私、あなたに謝らなくちゃいけないことがあるの

 」

「な、何でしょうか……」

「私はあの時、親や周囲の意見に背くことができなくて、自分の気持ちに嘘をついて、あなたを振って違う人と結婚した。それからずっと、あなたのことを忘れようとしてきたけど、やっぱり忘れられなかった」

「……」

「でも、あなたはずっと、私を忘れず待っててくれた。そのことは、私、今までの人生で一番後悔してるから」


 そういうと、玲子はヘルメットを横山に預け、手を振った。


「またいつか、私のことを撮影に連れてってね」

「は、はい!いつでも僕、この町で待ってますから!それまで僕は、ずっとこの町で細々とカメラマンを続けてるつもりですから」


 そういうと、横山は笑いながら敬礼のポーズを取ると、カブにまたがり、エンジンを回し始めた。

 玲子はその動きを見て、慌てて横山に背中越しに声をかけた。


「写真集、出来たら送ってね。私の娘から住所は聞いてるでしょ?」

「はい!」

「じゃあね。眞一郎さん」

「こちらこそ、いい思い出をありがとう。玲子さん」

「え?眞一郎さん、今、私の本名…言った?」


 玲子が横山の言葉に気づき、振り向いた時には、横山は後ろ向きに手を振り、加速しながら駅からはるか彼方へと走り去っていった。


「横山さん、ちゃんと覚えてたじゃん、お母さんの名前」

「そうね。けど、知ってるなら、いつもちゃんと本名で呼んでほしかったな」


 そういうと、玲子はバッグから「力餅家」の紙袋を取り出した。


「あ!こないだ私が買った所と同じ?」

「そうなの。眞一郎さんが買ってくれたの。私が好きなお店をちゃんと覚えててくれたんだ。帰ったらおやつタイムに食べようね。あ、そうそう、これも、眞一郎さんからもらっちゃった」


 そういうと、玲子は右手の薬指を夕夏に見せた。

 そこには、錆びついた年季の入った指輪がはめられていた。


「あ!こ、これって……横山さんが、お母さんにあげたいって言ってたやつじゃん」

「そうみたいね。こんなに錆びついて。歳をとったと言え、こんな錆びたものをよこすなんて、女心を馬鹿にしてるよねえ」


 そう言いながら、玲子は大笑いした。


「でも、すごく嬉しかった。だから、今日家に着くまでは、ずっとはめていようと思うんだ」


 そういうと、玲子は大事そうに指輪をもう片方の手で撫で回した。

 その時、横須賀線上り列車が間もなく到着するアナウンスが、駅構内に流れ出した。


『まもなく1番線ホームに、横須賀・総武線上り電車 成田空港行きが到着します。16時10分の発車です』


 夕夏はアナウンスを聞いた後、改札口の上に吊るされた電車の到着時間を知らせる電光掲示板を眺め、次の列車の到着時間を見て慌てふためきながら玲子の背中を叩いた。


「わ!やばい、これに乗らないと、次の電車まで15分も待たされるよ。お父さん、帰ってきちゃうから、急がないと!」

「そ、そうだね。早く夕飯作らないと、お父さんが帰ってくるし。あーあ、こうして現実に引き戻されるのか……」


 玲子は残念そうな表情をしていたが、心なしかちょっと満足げな感じも伝わってきた。


「あ、そうそう夕夏。今日のことは、お父さんには絶対内緒だよ。今日だけのロマンスなんだから」

「うん、わかった。でもさ……本心はどうなの?お父さんと、横山さん、どっちが好きなの?」


 夕夏は意地悪な質問をぶつけたが、玲子は「分かってるでしょ?」と小声でつぶやくと、それ以上は何も語らなかった。


 □□□□


 数日後、運送屋のトラックが夕夏の家の前に停まった。

 運送業者から荷物を受け取った夕夏が荷物のあて名を確認すると『原田玲子』、送り主は、『横山眞一郎』、中身は書籍となっていた。

 

 「お母さん、来たよ!横山さんからのプレゼント♪」

 「あ、もう来たんだ」


 玲子に荷物を渡すと、玲子は丁寧に封を解いた。

 その中には、B4サイズの写真集が入っていた。

 タイトルは『ふたたび、鎌倉物語』。

 ページを1枚ずつめくると、そこには、鎌倉の風景をバックに、物憂げな表情でたたずむ玲子の姿があった。


「アハハ、相変わらず私、笑顔を作るの下手だよね」

「そんな所が、横山さんに気に入られたんでしょ?」

「そうだけど、こうしてみてると、もう少し笑えって言いたくなる」


 玲子はページをめくるたびに何かと毒づいていたが、その横顔は、どことなく嬉しそうに感じた。


「ねえ、また横山さんに会いたい?」

「うん。またいつか、お父さんに隠れてこっそりと、ね」

「その時は……私も連れてってね。今度は私も撮影してほしいから。そして最後に、去来庵に連れてってもらいたいから」

「だーめ!お母さんは、眞一郎さんと2人だけの時間を楽しみたいんだから、ついてこないで」

「私は横山さんに撮影してもらった後、去来庵に連れてってもらいたいの!またビーフシチュー食べたいの~!」

「そんなの、自分で彼氏でも捕まえて、連れてってもらったら?眞一郎さんみたいな、素敵な人を捕まえなさいよ」

「イヤだ!それまで待ってられないわよ、今のところ全然見込みなしだから!」


 二人で言い争いながらページをめくるうちに、最後のページにたどり着いた。

 そこには、極楽寺坂のふもとの山門前で佇む玲子の写真と、横山の自筆のメッセージが入っていた。


「僕たちの鎌倉物語は、今ふたたび、始まった」

 


(鎌倉~思い出のフォトブック~おわり)



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