黒井瓶


 高木はなにものかの鳴き声で目を覚ました。鳥だろうか……と思ったが今は深夜だ。鳥が鳴くような時間ではない。ただ時計の針は正確にカチリカチリと空気を刻んでいる。

 背中の一点がじんじんと熱を帯びている。そしてそこから痛いようなむず痒いような感覚が同心円状に全身へと広がっていく。手で触ったら腫れているのがよく分かった。寝ているうちに虫にでも刺されたのか? 高木が不審に感じていると、ふいに背後から赤ん坊の泣き声が聞こえた。

 高木は振り返った。しかしそこに赤ん坊はいない。当然である。高木は独身のままこのアパートで一人暮らしをしているのだ。では隣室か? 高木はパジャマ姿のまま壁に耳を押し当てた。しかし物音は全く聞こえてこない。そもそも、隣室に赤ん坊や妊婦が出入りしているところなど今まで一度も見たことがない。静かな老夫婦が二人で暮らしているだけだ。では泣き声はどこから聞こえてきたのだろう?

 そのとき、高木の背後で再び泣き声が聞こえた。

 高木の脳裏に恐怖と不安が駆け巡った。幽霊だろうか? この部屋に住んで数年経つが、そういった現象に出くわしたことは一度もない。赤ん坊に祟られる謂れもない。ではなんだろうか……? 高木は嫌な想像をしながら背中の腫れをさすった。表面には柔らかい凹凸があり、熱を帯びている。

 高木は枕元のスマートフォンを手に取ると、カメラモードにしてゆっくり手を後ろに回した。「そんなわけないよな」と思いつつシャッターを切る。ピントのぼやけた写真を見た時、高木は自らの想像の的中を悟った。高木の背中には目のない赤子の鼻と口が浮かび上がっていたのだ。

 ああ、人面瘡か。高木はすんなりと理解しようとしたが、……いやあり得ないあり得ない。人面瘡なんて単なる妄想だ……しかし、それではなぜ単なる妄想が俺の背中に浮かび上がっているのだ? 俺は狂ったのか? それともこれは夢か?

 夢だろう。そう高木は結論付けると、寝ぼけまなこをこすって再び布団にもぐり込んだ。背中は未だに熱い疼痛を放っているが、だんだんとそれも気にならなくなっていった。高木はずるずると甘い惰眠へ沈んでいった。

 高木はけたたましい泣き声で起床した。寝不足で頭がぐわんぐわんと痛む。やはり人面瘡は現実だったのだ。むしろますます大きくなっている。痛みもひどい。

 しかし、いくら背中に目のない赤ん坊が浮かび出ようと仕事を休むわけにはいかない。高木は食パンを焼かずにそのまま齧ると、未だ泣き続ける人面瘡の口に大きめの絆創膏を貼った。赤ん坊の口なので少し良心も痛むが、どうせ俺の身体だ。俺の身体に俺が絆創膏を貼って何が悪い。口を塞がれた人面瘡はただ小さく呻るのみで声を発さなかった。高木はその上からさらに湿布を貼ると、スーツに着替えて家を出た。



 あくる日の夜明け前、高木はまたもや赤ん坊の泣き声で目を覚ました。

 湿布が剥がれたのか? 背中を手でさすったが、湿布は未だに人面瘡の上に貼り付いている。もっとも、腫れが治まる気配はない。今なお耳を澄ますと、湿布の裏からうんうんと呻る赤ん坊の声が聞こえる。高木はやや心苦しさを覚えた。

 さて、それでは先ほどの泣き声は? そう思った時、高木は先ほどの腫れよりも少し上の辺りから新しい疼痛を覚えた。さすると、人面瘡と同様に柔らかく腫れている。またもや背中を撮影してみると、悪い予感は的中。そこにはやはり目のない赤ん坊の顔が浮かび上がっていた。一番目が背中の中心だったのに対し、今回のそれは肩甲骨の間から浮き出ている。

 高木は心底うんざりしてしまった。絆創膏と湿布を貼って、もう勘弁してくれよと思いながら眠りにつく。背中に開いた二つの口は塞がれてなおうんうんと呻り続けている。畜生、赤ん坊の声というものは何故こんなにも心をかき乱すのか。眠りに集中できない。額に脂汗をしたたらせながら布団の中で踏ん張っているうちに、高木は再び眠りの中へと落ちていった。

 起きた時、背中の人面瘡はさらに増えていた。今度は腰の辺りだ。

 高木はすべての湿布と絆創膏を剥がすと、合わせ鏡の前に立って背中を眺めてみた。鼻が三つ口も三つ、合計九つの小さな孔が背骨に沿ってぽっかりと開いている。そのさまはまるでリコーダーかオカリナのようだった。今は落ち着いているのか、みな泣き出さずすやすやと呼吸音を立てている。

 高木は会社を休んだ。こんな状況では働いていられないと感じたのだ。また、これ以上背中に人面瘡が増えるのも嫌だった。どこかの病院に行かなければ……しかし、人面瘡を診られる医者などどこにいるのだろう?

 とりあえず、馴染みにしている内科に行ってみた。本来できものは皮膚科や外科の担当である。しかし高木はそういった病院を避けた。たとえ医者でも、知らない人間にはこの背中の有り様を見せたくなかったのだ。

 「別の病院に行くことをおすすめします」

馴染みの医者は高木の背中を一瞥するとそう言った。

「そんなあ。知らない人にこれ見せたくないんですよ」

そう高木が言うと、馴染みの医者は顔をずいと近づけた。

「治したくないのですか?」

「いいえ、治したいです」

そう言うと馴染みの医者は机に向かい、メモ用紙に何かをさらさらと書いた。

「高木さん、こちらが雲居病院の住所です。私からの紹介だと言えばすぐ通してもらえるはず。こういった事例には詳しい方なので、ぜひ」

そう言って馴染みの医者は病院の住所が書かれた紙を高木に突きつけた。



 雲居病院は高架の裏側にあった。コンクリートで出来た、病院というよりも地域の集会所に相応しい平屋。ガラスの扉の上には「雲居病院」と刻まれた木の板が掲げられている。たしかにここで間違いないよな、と思いながら中を覗くと老人と目が合ってしまった。老人はこちらに歩み寄ると、「先ほど連絡が入りましたよ。人面瘡の方でしょう」と言って高木を中に上がらせた。院内には香が焚かれ、曼荼羅や仏像や古い書物が所狭しと並べられている。老人は白衣を着ていない。ゴルフに行くときのような簡単なポロシャツ姿だ。東洋医学の病院なのだろうか……そう思いながら歩いていくと、レントゲン室に案内されたので高木は驚いた。

「レントゲンを撮りましょう。これで悩みの原因が分かるはずです」

そう言われたので高木は服を脱ぎ、金属を身体から外してカメラの前に立った。


 「ここをご覧ください」

雲居先生は指示棒でレントゲンに写る高木の背骨を指し示した。背骨の周りにびっしりと芽キャベツほどの大きさの瘤がへばりついている。

「先生、これはなんですか?」

「芽です」

「芽?」

高木がそう聞き返すと、雲居先生は深く頷いた。

「細胞とは実に奥深いものでしてね。本来、身体中の細胞は潜在的にあらゆる他の細胞になり得る能力を持っているんですよ。初期の胎児の細胞などにはその潜在能力がまだ多く残されています。成長するにつれてどの細胞も従順になっていくのですが……」

「従順、ですか」

「はい。中にはずっと反抗性を持ち続ける細胞もあるのです。特に神経細胞は、ことあるごとに脳になりたがります。そして高木さん、どうやらあなたの脊髄はあなたの脳から独立したがっているようですね」

そう言うと、雲居先生は書棚から一冊の分厚い本を取り出した。頁をめくり、一枚の図面を示す。そこには二つの顔を持つ異形の人物が描かれていた。

「昔の世界にはそのような反抗的細胞の持ち主がたくさんいました。こちらは古代日本にいたとされる人物なのですが、完全に脊髄が分枝しています」

「なるほど、人面瘡が大きくなるとこうなってしまうんですね」

高木はぞっとしたような表情でそう言った。すると、雲居先生は突如真剣な顔つきになって高木をしっかと見つめた。

「高木さん、そのような理解は正確ではありません。私やあなたの頭部とあなたの背中に湧き出した人面瘡との間には何の差もないのです。背中の頭部を人面瘡と呼ぶのであれば、私の頭もあなたの頭も人面瘡です。私たちの頭は、他の人面瘡を蹴落とすことによって身体を独占するに至った人面瘡なのです」

そう言うと雲居先生は再びレントゲンの一点を指し示した。

「芽をよくご覧ください。小さいですが、ちゃんと頭蓋骨の形をしているんですよ」

本当か? 高木は目を凝らした。すると、たしかに眼孔や顎骨が見て取れた。高木は悪寒を覚えた。また背中がじんじんと痛む。

「あなたは大輪の菊の花なのです。周りでは新しい花弁が開こうとしています。それらを開花させますか? それとも、自らの地位のためにそれらを剪定しますか?」

そう言って雲居先生は高木の目をじっと見た。

「剪定したいです」

「ああそうですか」雲居先生は少し残念そうな表情をした。

「すずなりの頭部も少し見たかったのですが、本人の意向ですから仕方ありませんね。ただ……」

雲居先生は高木に顔を近づけた。

「剪定と言っても簡単に切ることは出来ませんよ? 脊髄ですからね。長い時間とあなたの忍耐が必要になります。いいですね?」

そこから雲居先生は治療の具体的な説明を行なった。少し恐れもあったが、高木は腹をくくった。



 全身の節々がけだるい。起き上がることすら出来ない。雲居先生の持ってきた粥を飲み下すだけでも一苦労だ。

 この粥には微量の毒が混ぜられている。骨を溶かす毒だ。これを一日三回食べる。

「死ぬことはありませんがかなり衰弱するでしょう。しかし、あなたの衰弱は芽の衰弱でもあります。要するに消耗戦ですね。大丈夫、あなたの頭部は芽よりも丈夫だから」

そう雲居先生が言っていたのを高木は思い出した。

 背中の人面瘡はみなうんうんと苦しんでいる。湿布のせいで声は聞こえないが、キリキリという歯軋りが骨を通じて身体に響く。非常に不愉快だ。しかし耐えてみせる。この身体は俺の身体だ。お前らの身体ではない。高木はぐっと奥歯を噛みしめた。寝返りを打つたびにベッドは音を立てて軋む。

 三日目の夜、腰の人面瘡が呻かなくなった。四日目の朝には肩甲骨の人面瘡が、その晩には中心の人面瘡が静かになった。それでもなお毒粥を食べ続けていたら、六日目には腫れが完全に治まった。

 改めて撮ったレントゲンにも芽の影は写っていなかった。

 それから一日、高木は雲居病院で療養を行なった。雲居先生から高品質の滋養を頂いたおかげで衰弱した身体もすっかり回復した。

「ありがとうございました」

「いえいえ。また芽が出てきたらいつでも伺ってください」

そう笑顔で言うと雲居先生は高木を送り出した。平日の昼間、太陽がアスファルトをじりじりと焦がしている。ああ治ったんだ、と高木は安堵した。

 家に帰ると、高木は汗に濡れた身体を洗い流そうと服を脱いで風呂場へ向かった。彼の背中には、顔の形をした三つのかさぶたが未だに痕を残している。

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黒井瓶 @jaguchi975

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