月、悪魔、万年筆

 私は作家だ。


 作家と言ってもそう大仰なものではない。三十九年間で数十の本……いわゆる幻想文学を刊行して頂いたが、デビュウ作以来賞というものを一度として貰ったことがなく、原初の威光に縋って細々と筆を重ねてきたただの老いぼれだ。その威光も半ば縁故混じりの灰光であったが、好きなものを好きなように書いて暮らせるというのは、指先ひとつで断ち切られてしまうような生活であっても幸せなものだ。


 二ヶ月前に作品を書き終えた私は、もうじき次の話を書き進めねば、と思案していた。手元では久年寄り添った愛筆——ほんの少し褪せた万年筆を回し、目線は窓の外、とっぷりと降りた暗幕に浮かぶ満月に向いていた。


「次の題材は月にしよう。いやしかし、月は八作目で書いた憶えがある。うん、どう捻ったものかな」


 そうして十分程度頭を悩ませ、くる、くる、と万年筆を遊ばせた、その時だった。


 一際強く風が吹き、窓掛けがふわりと揺れた。



 浮いた布が寸刻月明を遮った。



 次に眼に入ったのは、白金の月ではなく、西洋の礼服を妖艶に纏った、珍妙な若女であった。



 私は暫し唖然とした。「やい、泥棒め」と若血を思い出し、窓枠に腰掛けるその娘につきかかっても良かったが、どうにもそういう気にはなれなかった。

 端的に言えば、見蕩れていたのだろう。


 七十に差し掛かろうとする老体が何を、と己の内でも叱咤したが、愛や恋やという薄桃の感情ではなく、古く懐かしい想いが胸にあったのだ。


「こんばんは、おじいさん」


 硬直して声を出さない私を見て、娘は優しい声音でそう言った。咄嗟に「こんばんは」と返すと、娘は「呑気なお方ね」と微笑んだ。


「そんなところで、何をしているんだい」

「あなたに良いお話があるのよ」

「お話とは」

「あなたの願いを叶えてあげる」


 私はまた硬直し、眼を点にした。

 これでは、まるで幻想文学そのままではないか。

 長年書いてきたからこそ、物語は「起こり得ない幻」だということは誰よりも知っている。これは何かのいたずらか、私の気疲れから来る妄想だろう。願いを叶えるもの、確か一作目、賞を頂いたときの作品がちょうどそんな題材だった。


 ランプに潜む悪魔が、欲深い人間に取り憑き、願いを言うがままに願いを叶えてやる。その代償に、悪魔は主の「最も大事なもの」を要求するのだ。


「じゃあ、君はさしずめ悪魔といったところかな」

「小馬鹿にした顔ね。そうよ、私は悪魔。あなたの大事なものと引き換えに、願いを一つ叶えてあげる」


 娘が身を捩って窓枠からこちらに降りると、黒い礼服がしゃらんと踊った。闇夜のような漆黒ではなく、少し色褪せた黒をしていたのが、一層私の心を昂らせた。


「君は一体、どこから生まれた悪魔なんだい。生憎うちにランプはないよ。湯沸かしポットならあるが」

「その万年筆から生まれたの」

「万年筆から。これはますます愉快だな」


 この万年筆は私が十八の頃、英国土産に購入したものだ。ドイル何某に憧れて現地で物書き気取りの品を買い、乱文を並び立てたのが小説家人生の始まりだった。以来、文を書くときはいつも万年筆を使っている。


「ちなみに、ぼくの大事なものとはなにかな」

「私に訊かれても。自分の胸に聞いてみなさい」

「小説の中で、主人公の一番大事なものは愛する彼女だった。けれど、ぼくには妻も愛人もいない。親族もいない。となると、持っていかれるものは?」


 なけなしの金だろうか。それとも小説家としての経歴か。唯一の賞状かもしれない。何であっても、代え難い経験になると思えば痛い出費でもない気がした。第一、悪魔などいるはずもない。


 願いも特にないのだが、強いて言うならば。


「それじゃあ、願いを言うよ」

「どうぞ」

「この万年筆を、一生壊れないようにしておくれ」


 そう口にすると、娘はただでさえ大きい瞳を一層見開いて、照れ臭そうに頬を掻いた。


「嬉しそうだね」

「依代というか、自分自身のようなものだから。言ったでしょう、私は万年筆から生まれたの」

「なら、君はこれから不老不死か」

「どうかしらね」


 娘はぶっきらぼうに言うと、私の持っていた万年筆に指先から粒子を浴びせかけた。例えるなら、ティンカア・ベルの不思議な粉といった具合だ。それに伴って筆の傷が消え失せ、同時に娘の身なりにも艶が増した。


「願いは叶えた。代償を払ってもらうわよ」


 静かに同意すると、娘は目を瞑り、先程の粒子を無造作に振り撒いた。これがどうなるのかと固唾を飲んでいると、どうしたことか粒子は私の万年筆に纏わり付き、音もなく取り上げてしまった。


 代償は万年筆自身、ということだった。


「そうなるか。まあ、妻のようなものだからね」

「どうしましょう」

「どうしましょう、とは」

「依代を渡されても困るのよ。これを消滅させようものなら私も消える。そもそも不壊のまじないもかけてしまったし、受け取ったところで何もできない」

「パラドクスというやつかい。私というやつは、そんな複雑なことを無意識に考えているのか」


 取り上げられた万年筆をじっと見つめながら、娘は気まずそうに眉を下げている。困り顔の内にもどこか隠しきれない喜悦が滲んでいるのは、手入れされた万年筆を好ましく思っているからだろうか。悪魔の精神性は分からないが、依代を愛されるというのもそう悪い気分ではないのかもしれない。


「それなら、返してくれないかな。仕事道具だからね。替えは効くだろうけど、思い入れもある」

「強欲なのね」

「こればっかりは。かえって幸運かな」


 私の描いたものとは遥かにかけ離れた結末だった。何も失わないどころか、有るものの永久を得ることになる。これで私が有名作家なら、相当の名品として死後も祀られそうなものだ。


 娘は当初の穏やかさを失い、顔を赤くして狼狽していた。何を照れることがあるのだろうか。

 暫くして、娘はようやっと平静を取り戻し、私に向けて恭しく万年筆を差し出した。受け取る側だというのに、なぜだか指輪の贈与が想起された。


「わかった。返すことにする」

「ありがとう。君はずっとこの中にいるのかい」

「そうね」

「じゃあ、たまに出てきておくれ。寂しさにはなれているが、話し相手も欲しいんだ」


 自分で言って、私は初めて納得した。

 悪魔の依代を側に置くということは、ややもすれば同居と言えるかもしれない。実年齢はどうあれ、娘の外見は二十かそこらの小娘だ。こんな翁に同居を迫られれば、狼狽もするというものだ。


 撤回しようかと気遣うまでもなく、娘は慎ましやかに了承した。「いいのかい」と問うと、「別に」と口にして、娘は霧のように消えてしまった。


「恩返しになるといいけれど」


最後に、そんな声が聞こえた気がした。


 気付くと、私は書斎に突っ伏していた。窓は開いたままだ。窓掛けが揺れている。満月の光がよく見えた。万年筆は手の中にあった。


「女に飢えているのかな。年甲斐もない。ともかく、濃い夢だった。次の題材は決まりだな」


 そうして私は大きく伸びをして、カートリッジを外した万年筆を優しく水に着けた。なんだか、いつもよりも愛おしい黒色だった。











 悪魔との問答が夢でも妄想でもないと気付いたのは、翌朝のことである。

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