東の三題噺
東 京介
雨宿り、興奮、透ける
とある田舎のどことも分からないオンボロ小屋は、一見ゴミ捨て場のようだが歴とした「バス停」であった。何年前に作られたか判別が付かないほど古びており、風が吹けば倒壊し、飛び蹴りでも喰らわせようものなら、それがたとえ幼い少女の蹴りでも粉微塵に弾けてしまうだろうオンボロっぷりだった。
その日——6月中旬、水曜の夕方は、季節染みた雨がしとしとと降り注いでいた。
別段突然降り出したわけでも雨宿りするほどの強さでもないのだが、
下着が透けるのは自明の理であろう。
「あ……」
視界に入ったものに、友里は思わず声を漏らした。恐怖だとか感慨だとかが諸々詰まった、もはや嘆声と言っても間違いではない声だった。
オンボロ小屋のオンボロベンチに、人影がある。初老の男性だ。微かに濡れたスーツを身につけ、股の間に傘を立てて俯いている。黒い傘が英国のステッキのようで、紳士然とした印象を受けた。
「どうも〜……降られちゃいましたね、えへ……」
男はそれこそ梅雨にふさわしいジメついた眼差しで友里を一瞥……否、一瞬のうちに全身を舐め回すような視線を滑らせると、「そうですなあ」と落ち着いた声を返した。
そこで会話は途切れた。互いに話を続ける気もなかった。
無言。
バスが来るまであと三十分あまり。田舎のバスというものは相当に間の悪いもので、彼女らのようにただただ待ちぼうけを食わされる者は往々にして存在した。
無言。
ぎし、と古木が鳴って、反射的に身を硬らせる。
背後から肩を掴まれ、しっとりとした感触がした。男の妙に荒い、それでいて老獪さを織り交ぜた息遣いが鼓膜を震わせた。
友里は生唾を飲み込んだ。
「お嬢さん……興奮してるね?」
「……う……」
「来た時から判っていたよ。怯えの中に確かな期待の篭った眼……私の大好物だ。ここが『名所』だと知っていたんだろう。……もし正解なら、こちらを向きなさい。愉しませてあげよう」
男に釣られるように、友里も呼吸を乱し、口元から艶かしい嘆息を吐いた。それを合図に振り向いた顔は形容し難い……敢えて例えるなら「フェロモン」の滲んだような、艶やかな表情だった。
「……優しく……してください」
そう呟いて目を瞑る姿を見て男は口角を上げ、友里の両肩を力強く引き寄せた。
その拍子に。
ぽとり、と。何かが地面に落ちた。
「……おっと。すまないね。学生証かな」
男は友里のカバンから転げたカード状のものを拾い上げると、少し気まずそうな顔をした。その内容を見たからではない。「そういうこと」の直前に邪魔が入れば、誰だって"そう"なるものだ。
内容。
内容。
拾い上げて、男は内容を見た。
「あ、ごめんなさい! ありがとうございます! ……? どうか、しましたか……?」
男は硬直していた。友里の声は聞こえていたが、それに反応する余力が無かった。いや、失っていた。
友里は紅潮していた頬を訝しげに震わせると、カードの裏面に目を通した。
友里は理解した。
学生証などではない。いや、友里にとってそれが学生証ではないことはわかりきっていた。それ以上に破滅的な代物だ。
「……1992年5月15日生まれ……」
男は呟いた。
カードの内容を読み上げた。
カードは、社員証であった。
学生であるものか。梅坂友里は28歳のOLである。オフィス・レディである。28歳独身である。男性経験は無い。無いからこそ「そういうこと」のためにこんなド田舎のオンボロバス停に訪れていた。ちなみに彼女の家から30kmは離れている。交通手段はパステルカラーの軽自動車である。
「……あんた……」
「はい……」
「平日の夕方からなにやってんだい」
「あなたにだけは言われたくないんですけど」
男女は心底冷めた、それこそ友里が残業終わりによくアオるキンキンに冷えた生ビールの如きヒエッヒエの視線を送り合った。色魔と色魔、方向性は違えど互いに相当に拗らせている。軽蔑すれどその軽蔑が自分に返ってくる奇妙な状況だった。
「……28歳?」
「……はい……」
「その……彼氏とか……」
「……」
端的に言って地獄であった。
「……制服はどこで?」
「高校時代のものを……」
なぜ互いに言葉を離れようとしないのか甚だ疑問ではあったが、名状し難いシンパシー染みた感情も宿っていたのだろう。
「……あなたは、おいくつですか」
「43歳」
「奥さんとかは……」
「四年前に亡くなってね……子供もいない」
「あー……ああ……」
雨が降っている。
さらさらと、降り注いでいる。
「何回成功しましたか、ここで」
「……今回が初挑戦、かな」
「……」
ゆらゆらと、木が揺れている。
そよ風に煽られて、バス停が揺らいでいる。
「……帰りますね」
「あ、そう。……私も帰るよ……バスで」
「私は車で……」
友里はバス停を離れ、駐車した田んぼの畦道まで歩いて行った。顔を両手で塞いで泣いていた。
男はバス停のオンボロベンチでうなだれて、ひたすらバスを待っていた。傘に両手でしがみつきながら泣いていた。
このバス停には二度と訪れない。
寂しさのあまり女子高生を食おうとした色魔と、寂しさのあまりもうなんでもいいから食われちゃえとやけっぱちを起こした色魔は、失敗を経て誓った。
吹けば飛びそうなオンボロ小屋は、ただでさえ少ない利用者が二人ほど減ったのを悲しむように、がたがた、がたがたと継ぎ目を揺らしていた。
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