ムカシノムサシノ

愛宕平九郎

ムカシノムサシノ

 ――『昔の武蔵野は萱原かやはらのはてなき光景をもって絶類の美を鳴らしていたようにいい伝えてあるが、今の武蔵野は林である』


 教室内の視線が一斉に林君へと集まった。彼の後ろの席で音読させられていた僕まで、思わず背筋をピンと伸ばしてしまった。

「スゲーな! 今の武蔵野は、お前なのか?」

「武蔵野が林じゃなく、林が武蔵野のボスってことだろ」

「どっちもチゲーし! それに林は俺だけじゃねーし!」

 室内がざわつき始めたところに「静かにしなさい!」と先生の一喝が飛んだ。クスクスと小さな笑いが残る中、先生は苦笑いを含みながら「林原君、続きを読んで」と催促した。国語の音読リレーというものは、時に残酷なものである。僕は林君のように神経が太くないので、冷静を装いながら続きを読み始めたら、いきなり声が裏返ってしまった――。


 放課後、僕と林君は真っ直ぐ帰宅せずに、駅へ向かうバス通りを歩いていた。二人とも学校に残って部活動に励む熱心な生徒ではなく、その時の気分次第で駅の近くや途中の公園でダラダラと過ごすのが好きだった。林君とは中学に入ってから知り合ったが、好きなアイドルや漫画、笑いのツボなど似ている点が多かったせいか妙に気が合った。林原と林っていう名字だけで、初対面の話題作りには困らなかったしね。

「昔は林原、今は林……しばらくはネタにされそうだよな」

「原作は林原じゃなくて萱原かやはらだよ。とは言っても、関係ないか」

「教科書的には、お前が見晴らしを良くしていたのに、俺が視界を遮った感じだな」

「成長して背が伸びたってイメージでもいいんじゃない?」

 と、互いに意味不明なことを言い合って歩いていると、ふと林君が足を止めて斜め上を見上げた。視線の先には、二年くらい前に新しく建ったマンションが西日を浴びて光り輝いている。「どうした?」と僕も足を止めて見上げてみたけれど、林君は黙ったまま暫く見上げたままだった。

も人工的に造られたものなんだよなぁ」

「何それ? そりゃそうでしょ。自然にマンションが生えてきたらホラーだよ……いや、違うな。ミステリーかな? オカルト? どれも違うなぁ」

 僕はイメージに合いそうな言葉を探し続けていたが、林君はマンションを見上げたまま「ホラーでいいんじゃね?」と苦笑いして話を続けた。

「林ってな、人工的に作られた樹木が集まったことを言うんだってさ」

「えっ、そうなの? 人が植えた木ってこと?」

「そうそう。俺さ、小学校の時に自分の名前が気になったから調べてみたんだよ。林と森の違いとかさ……お前は気になったことはないの? 林原って名前」

「無いよ」

 林君は、木が自然に生えて盛り上がっているように見えるところを森、人の手が介されて生えているところを林って言うんだと教えてくれた。ということは、僕の『林原』という名前は、人の手が介された木がズラーっと地の果てまで並び立っている感じ? 草原のようにオープンなイメージとは違って、林原の方こそ視界を遮っているような気がする。

「国木田独歩がいた時代の林は本当の木が並んでいてさ、今の俺たちがいる時代は鉄やコンクリートでできた林みたいなものが建ってるじゃん? この景色を国木田独歩が見たら、なんて思うのかなぁて感じたわけよ。文明の発達に感動するか、その逆でガッカリ――」

 林君がゾーンに入った。彼の妄想が僕を残して独り歩きし始めたと言い換えればいいか、独歩だけに……考え始めたら終わりが見えなくなる彼の妄想癖ゾーンは今に始まったことではないので慣れっこだけど、まさか「今の武蔵野は林である」という一文でスイッチが入るとは想定外だった。いつもならゲームやアイドルのジャンルで熱く語る奴なのに、あろうことか国語の授業で出てきたものに興味を持ち出すとはね。国木田独歩がマンションを見て何を思うかだと? もはや、その発想が国木田独歩よりスケールが大きいと感じる。

「――ってなったらさぁ、林の次は何だと思うよ?」

「今の武蔵野はマンションである! じゃないの?」

「ベタだな、林原。せめてコンクリートジャングルである! だろう」

 その後も「タワマン」とか「マンハッタン」とか、それっぽい単語を思いつきざまに出しながら歩いた――。


 最初は駅のマクドナルドで何か食おうかという流れだったが、林君の武蔵野ネタが湧きに湧き上がってしまったせいか、僕たちの足は自然と駅の近くにあるイチョウ公園へと向かっていた。この公園は道路に面してイチョウの木が並んでいることから名付けられたが、まぁまぁの敷地面積があり、イチョウの他にミカンやサクラやクヌギにケヤキなど四季折々が楽しめる木々が生えている。園内の一角には、ちょっとした池や東屋、子供用の遊具なんかもあって、市内の公園の中でも上位を争う人気のスポットだった。ちょうどブランコが空いていたので、僕と林君はそれぞれのブランコに座って横に並んだ。ゾーンに入っている林君は、まだ武蔵野の話題を止めない。

「なんかさぁ、ムカシノムサシノってラップで使えそうだよな」

「あっ、やっぱり思った? 同感、同感。いい感じで韻を踏んでるよね」

「テスト勉強で使えそうじゃね? ムカシノムサシノ独歩だヨゥ! ってな感じ」

「独歩カヤハラ、俺ハヤシバラ! 今はハヤシが天下だゼイ!」

「それは止めてくれ。林は俺だけじゃねーし」

「そう? クラスでウケそうだけど」

 僕は両手でブランコのチェーンを握り、後ろへ下がった。これ以上下がれないところで両足を突っ張り、椅子に寄り掛かったままの体勢で林君の言葉を待った。そろそろ林君の本音が出る頃合いだ。少しの沈黙の後、林君が気落ちしたトーンで「昨日な……」と言い出した。僕は無言で突っ張っていた足を滑らせ、ブランコを元の位置に戻した。

「姉ちゃんから聞いたんだけど……俺さぁ、理恵さんを嫌いになりそうだよ」

「はっ? 何それ? ずいぶん急だな」

 林君には高校生のお姉さんがいた。スポーツに強い女子高に通っていて、理恵さんは同じクラスの友達だと言っていた。林君は、その理恵さんに恋をしている。ここ最近は、くだらない話が一段落すると、彼の「理恵さん話」がセットとなっていた。実際に会ったことはなく、お姉さんが理恵さんと電話していた途中で少し話をしただけというレベルみたいなんだけどね。弟ネタで引っ張り出されたとかなんとか……しかし、そこで林君は理恵さんの声に惚れたらしい。別の日に、お姉さんから理恵さんが写っているものを見せてもらって、更に拍車がかかったとのことだった。以来、お姉さんから理恵さんの情報を仕入れては、大妄想という尾ひれを付けて僕に報告をしてくるようになっていた。

「らしくないじゃないか。理恵さんに直で何か言われたのか?」

「いや、それがさぁ、タムって言われたんだ」

「タム? ちょっと何言ってるかわからない……」

 軽く笑いながら突っ込んでみても、林君は無表情だった。

「田無をな、タムって言ってバカにするんだと」

「ほぅ、それは新鮮な呼び方だな。理恵さんって都内の人だっけ?」

「うん。六本木の方に住んでるらしくてさ、ウチに遊びに来るような話になって住所聞かれたみたいなんだよ。そしたら、どこそれ? 知らねーって。同じ東京なのに」

 僕と林君は、東京でも少し西側に位置する田無市というところに住んでいた。住み慣れていると普通に「し」と言葉に出るが、知らない人が見たら「し」と勘違いしてもおかしくない。理恵さんは「タム」と読んだだけでなく、田無という場所が相当の田舎と決めつけ、着くまでどれだけの時間がかかるのか、無事に帰ってこれるのかどうかの秘境扱いまでする始末だったとか。挙句の果てには「タムとかホヤとか、変な名前ばっかりだよね」と隣の保谷市までバカにしたらしい。これも林君が仕込んだ尾ひれ付きなのかな? 

「姉ちゃんもムカつくわぁって、俺に八つ当たりしてくるし、散々だよ」

「ホントかそれ? お姉さんと理恵さんって仲が良いじゃん。なんとなく、半分は冗談な気もするけど」

「まぁ、そうかもしんねーけどさぁ……」

 けどさぁ……って、それなら嫌いになるほどでもないだろうに。どことなく不完全燃焼な林君は、大きな溜息を吐いて「なんか悔しいじゃん」とこぼして、足元にあった石ころを蹴飛ばした……けど、小さすぎて石に当たらず空振りしてた。

「だぁ! くそっ!」

「しょうがないよ。六本木って行ったことないけど、大都会だろ」

「だからって、バカにすることはねーと思わない?」

「そうだなぁ。せめて市の名前は、ちゃんと読んで欲しいかな」

 日本全国、地名なんて読み方のわからないところばっかりだろうけど、やっぱり自分の住んでいるところは「し」と読んで欲しいかもしれない。ましてや、好きになった人からは、バカにされるんじゃなくて興味を持ってもらいたいものだよね。僕は林君の悔しさに同調しながら、今日の授業を思い出して呟いた。

「林君は、じつに武蔵野の代表といってよい」

「だから、林は俺だけじゃねーし。それに、武蔵野じゃなくて田無の代表だろ」

「おっ! 自分で言うかね? 将来は田無の市長だな」

 僕は改めてブランコを後ろに下げて、勢いをつけて漕ぎだした。ゾワゾワとお腹の辺りを刺激する浮遊感が心地良い。僕は林君を励ます気持ちで「ウェーイ!」と叫びながらブランコを加速させた――。


 数年後、田無市は隣の保谷市と合併して、新たに西東京市となった。合併して、もうすぐ二十年を迎えようとしている。昔は萱原、今は林、そしてマンションやら何やらと僕らに言われたこの地域も大きな変遷を遂げていた。僕は久しぶりにイチョウ公園へ足を運んだ。この場所は、今も色々な木々に囲まれ、あの頃と同じような時を刻んでいる。いつの間にか音信不通となってしまった林君は、今頃どこで何をしているだろうか。西東京市の市長や議員になっている噂は、僕の耳に全く入ってこなかったことは確かだった――。



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ムカシノムサシノ 愛宕平九郎 @hannbee_chan

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