黒の敵娼~あいかた
オボロツキーヨ
五日市の夜叉五倍子(ヤシャブシ)
(一)
これまで何千足の
時々道に迷うことがある。何しろ得意先は数百件。小金井あたりで近道をしようとしてクヌギとコナラの林へ入り、方角がわからなくなった。ちろちろと湧き水の音が響く。細い坂道の上り下りを繰り返す。頭上で木もれ
「妙だな。
「おい、出て来い。おれは石田村の薬売り土方歳三だ。二つ胴にしてやる」
獣の気配は消え、風に吹かれた緑の草木がざわざわ
「ちっ、狐の奴め。
もっとも背負っているのは薬箱。狐の好きな川魚や握り飯ではない。急に
不思議なことに、その後すぐに林から抜け出ることができた。しかし、どれだけ
「夏に雪とは、風流だな」
広い野原一面にふわりふわりと白い野の花が浮かぶ。
よく見ると、朽ち果てた小屋を隠すように月見草が生えている。
「ここはどこだ。
風に揺られて波うつ月見草の群生をかき分け、脇差の鉄の
竹筒の水をごくりと飲み、ほっと一息ついた。
「駄目だ、もう歩けねえ」
放ってあった
「そういや、前にもこんなことがあったな<あばらやに寝てひてさむし春の月>おれの句だ」
腹が減るやら人肌恋しいやらで情けなくなる。しばらく会っていないおれの江戸の
「ひぃぃぃぃ」と甘い悲鳴が聞こえてきた。黛太夫の
破れた戸口から差しこむ月明かりを眺めつつうつらうつら。夢の浮き橋を行く。
「ああ、おれは野原の月見草になっちまう」
薬箱を背負い、あちらこちらを歩き回って気づいたことがある。その土地に寄り、まるで草木のように人は色と匂いを持っている。そういうおれは一体どうだ。
(二)
祖父の代からの上得意客、
井上家は
「
「ははは、そりゃよかった。ここは名の通り戦国の昔から栄えている。毎月五の日に市が立つ。材木にする杉や
茶をすすり上機嫌で笑う。
「金持ちが欲しがる上等な品ばかりだ」
歳三は作り笑いを浮かべた。
「ところで、薬の手持ちはまだあるかね。この秋川沿いの先にひときわ大きな
「客を紹介していただけるとは、ありがたい」
頭を下げた。
初夏の秋川の浅瀬では、数人の百姓女たちが
「ほお、秋川の大根畑か」
歳三は思わず足を止めてつぶやく。
「あらまあ、いい男が来たと思ったら、石田村の薬屋さんだよ」
川から上がり、頭に被っていた手ぬぐいを取り足を拭く。他の女たちはその場で顔を上げて、もの珍しそうに若い
「石田散薬を持ってきました」
うわずった声で答えた。
女たちの好奇に満ちた
「それじゃ、あたしの家へ行きましょうか。薬代を払わないと。腰が痛くてね。石田散薬を井上屋さんにすすめられて飲んだら、痛みが
目尻には深い皺が刻まれているが、
「それは、ありがとうございます」
思わず口元がゆるむ。
「ところで、石田散薬にはどんな秘密があるの。飲むと頭がぼおっとして、すごく気分が良くなるわ。痛みも消える」
歩きながら、目を輝かせて歳三の顔をのぞき込む。
「うちの六代前の先祖が、玉川に住む
「え、そうなの。もしかしたら、あんたも河童かもね。ふふふふ」
「もっと効く方法がありますよ。石田散薬を
「それは、気持ちよくなりすぎて、翌日仕事ができなくなるわ」
流し目で妙に色っぽく笑う。
「ははは、そのへんは、ほどほどで」
後家の笑顔をうとましく感じて、顔を
通されたのは、大きな茅葺屋根の家の
「黒八丈が
指でつつく。
「八丈島の泥染めはシイの木の皮だってね。五日市は
髪の毛のような黒い
「触ってみて」
歳三は両手を差し出した。
「やわらかい絹糸だ。
「薬屋さんの家でも
「もちろん、屋根裏で姉が育てている」
「日野郷の石田村は
「美しくて良い品だから、みんなが欲しがる。黒八丈を」
「そうかな、ありがとう。そうだ、あんたも黒八丈で着物を作ったらいいわ。誰よりも、この黒が似会うと思う」
真っすぐに見つめられて、歳三は目を伏せる。
「まさか、冗談だろう。しがない薬売りに上等な絹の着物なんて」
「そう言わないで、いつかきっと、あたしの黒八丈を買ってよ。高いけどさ。少しだけ安くしてあげるから。約束よ」
糸束を持った歳三の手をぐいと引き、小指に自分の小指をそっと
桑の葉を食らう蚕を育て絹糸を
歳三は
(三)
元治元年京都。冷たい秋風が吹いても都の夕暮れ時は華やいでいる。武蔵国の秋のような寂しさは無い。
近藤勇が
「おや、近藤先生、これからどちらへお出かけですか」
目を伏せて小声で問う。男としては長い
「島原だ。ところで歳、いや副長、粋な黒羽織だな。まさか」
羽織の袖を撫でる。生娘の肌のように張りがあって、滑らかな感触だった。
「これは、五日市です」
「うーむ、やはりそうか。
「ふふ、いってらっしゃいませ」
ほんの一瞬、土方歳三が冷たい目で
昨年の池田屋の事件以来、歳はずいぶん変わったな。確かにおれたちは以前より、金回りも良くなったが、それだけじゃない。あの
近藤勇は島原の馴染みの店に登楼した。
「おや、この手触り」
押し倒した敵娼の足首を掴み、
「ほほほ、この帯は五日市どすえ」
片膝を立てて、白い太ももをほの暗い部屋に浮き上がらせた
近藤勇は頭を
武州多摩の田畑は今頃、何色に染まっているのだろうか。
多摩の百姓女たちの
そして、黒を纏い冷たく笑うあいつの顔がちらつく。
敵娼の腹に巻かれた黒い帯、五日市に頬ずりをした。
(了)
黒の敵娼~あいかた オボロツキーヨ @riwa
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