11 違約の代償

 買取屋は、約束どおり、午後三時ぴったりに俺の部屋を訪ねてきた。

 本は箱詰めしなくていいというから、てっきり何人かが段ボール箱を持って来るのかと思っていたが、玄関ドアを開けてみれば、そこに立っていたのは、銀色のアルミケースを提げた、葬式帰りのような黒ずくめの男一人だけだった。

 見た目は二十代半ば。体格は中肉中背で、俺と大して変わらなかったが、古本の買取ではなく貴金属の訪問販売に来たんじゃないかと疑いたくなるくらい、端整な顔立ちをしていた。


「改めまして、こんにちは。『ゆめまち書店』のもりと申します。いのうえきょういち様でいらっしゃいますか?」


 男――小森は、柔和な笑みを浮かべながら、よく響く美声で挨拶をした。ますます買取屋らしくないが、名乗られた店名も確認された名前も間違いはない。俺は「はい、そうです」と答えるしかなかった。


「それでは、さっそく拝見させていただきます。……あ、スリッパは持参しておりますので大丈夫ですよ」


 ひゃっきんで買ってきた赤いスリッパを床に置きかけたとき、小森はアルミケースの陰に隠れていた白いポリ袋から黒いスリッパを取り出し、さっさと履き替えた。靴下も黒かったが、両手にはめている手袋は目に眩しいほど白かった。


「買取希望は五六三冊とのことでしたが……ここに置いてあるのがそうですか?」


 俺が促すより先に、小森はすたすたとリビングに行き、薄汚れた灰色のカーペットの上に積み重ねておいた古本の山を感慨深げに眺めた。


「はい、そうです。何度も数え直したので、間違いはないと思います」

「そうですか。でもまあ、五百冊以上は確実にありますね。それでは先に、買取料をお支払いいたしましょう」


 小森はにっこり笑うと、スリッパを入れていたポリ袋から今度は茶封筒を取り出して、俺の前に突き出した。


「この中に買取同意書と、お約束の五万円が入っております。ご確認の上、ご納得いただけましたら、枠線内にご記入をお願いいたします」

「はあ……」


 まさか、先に金をもらえるとは思っていなかった。俺は少し戸惑ったが、封をされていない封筒を受け取って、慎重に中身を引き抜いた。

 小森が言っていたとおり、中には一万円札が五枚と、三つ折りにされた複写式の買取同意書が一組入っていた。

 保険の約款よりはましだが、一目見てうんざりするくらいには文章量がある。とにかく早く小森を帰したかった俺は、金を封筒に戻してから、部屋の隅に寄せていたコタツの上で、同意書にぐりぐりと必要事項を書きこんだ。


「……はい、確かに。ありがとうございます」


 俺が同意書を手渡すと、小森はすぐに書面に目を走らせて、満足げにうなずいた。

 普通だったらこういう場合、身分証明書の提示も求められる。俺はいつでも取り出せるよう、シャツの胸ポケットに運転免許証を入れていたのだが、小森は同意書の控を差し出しながら、まったく予想外のことを俺に要求してきた。


「それでは井上様。今から本を搬出いたします。あの冊数ですと、十五分くらいかかりますでしょうか。その間、別室に移動していただけますか?」

「は?」


 同意書を受け取った俺は、思わず小森の顔を凝視した。

 近くで見ても、やはり整った顔をしている。しかし、その顔は今、苦笑いを浮かべていた。


「ああ、同意書をよく読まれなかったんですね。でも、ここはワンルームですから……そうですね、作業終了までお風呂場にいてもらいましょうか」


 うなずく前に、俺はあわてて同意書を頭から読みはじめた。

 小森の言うとおり、売却主は本を搬出している間は別室に移動しなければならないという条件がつけられている。

 俺は頭を抱えたが、これはろくに読まずにサインした自分が百パーセント悪い。それに、貴重品やスマホを持って風呂場――トイレもあるユニットバス――に籠城すれば、仮にこの小森が〝悪党〟だったとしても、被害は最小限で済むはずだ。


「……わかりました。十五分ですね」


 俺はキッチンに行って安物のエコバッグを取ってくると、そこにスマホ以外の貴重品――財布、ノートパソコン、手帳、そして例の五万円が入った封筒――を詰めこみ、風呂場のドアの前に行った。

 もとより、この部屋に金目のものなどもうほとんどない。ないから、自分でもうさんくさいと思いつつ、ここにあの買取屋――小森を呼んだのだ。


「はい。必ず十五分以内に終了いたします。申し訳ありませんが、こちらからお声がけするまで、この中でお待ちください」


 俺の後を追ってきた小森は、相変わらず慇懃にそう言った。


「ただし、が作業している間は、決してここのドアを開けないように。……作業の邪魔になりますので」


 確かに、アパートの二階から五六三冊の本を持ち出す作業は容易ではないだろう。しかも、その五六三冊は段ボール箱に詰めこまれてもいなければ、紐で束ねられてもいないのだ。

 いったいどうやって持ち出すつもりなのか。一瞬、訊ねようかと思ったが、小森の笑っているようで笑っていない目を見て、迷わず風呂場のドアノブをつかんだ。


「わかりました、お願いします!」


 逃げるようにして中に入った俺は、こっそりドアの鍵をかけ、浴槽の縁に腰を下ろした。


 ***


 俺の趣味は「読書」

 しかし、実家を出て、大学に入学してからは、純粋に楽しむために読むことはほとんどなくなってしまった。大学で使うテキストはもちろん、小説やマンガといった娯楽本まで、自分が小説を書くための資料となってしまった。

 在学中に作家デビューすること。それが俺の入学前からの夢だった。

 だが、作家デビューどころか、公募は全部一次落ち。小説を書くのにかまけすぎて就活も失敗。卒業だけはかろうじてできたが、読書サークルで知り合った彼女にも振られ――彼女いわく、正社員になれない男に、つきあう価値は微塵もない――実家からの仕送りも打ち切られた。俺に残された頼みの綱は、古本も扱うリサイクルショップのバイトくらいしかなくなった。


 ――在学中は無理だったが、二十代のうちには必ずデビューしてやる。そして、俺を振ったあの女や、俺を馬鹿にしてきた家族を見返してやる。


 卒業後の俺は、バイトの時間を極限まで減らし、友達づきあいもいっさい断って、ひたすら執筆に没頭した。

 しかし、そうまでしてみても、公募は一次落ちか、たまに二次落ち。大学時代は眼中になかったウェブの投稿サイトにも投稿してみたが、原稿のバックアップ場所にしかならなかった。

 そして、大学を卒業してから丸一年が過ぎた頃。

 人を減らしたいからと、バイト先でクビを言い渡された。

 そのとき、俺の中で何かがプツンと切れた。アパートに帰ったと同時に、今まで書きためていた原稿やノートを燃えるゴミに出し、投稿サイトを退会して、リビングの半分以上を占領していた本を片っ端から売り払った。


 ――もういい。叶わない夢なんてもういらない。どんな会社でもいいから正社員になり、あの女よりもいい女と結婚して、まっとうな人生を送ろう。


 そのためには、やはり金だ。運よくすぐに就職できたとしても、給料はすぐにはもらえない。預金はまったくないわけでもないが、きっと三ヶ月は保たない。

 本以外でも、生活必需品を除いてほとんど売った。その結果、最後に残ったのは、一円にもならなかったクズ本の山――あの五六三冊だった。

 一応、元リサイクルショップ店員だから、あれらに値段がつかない理由はよくわかる。それでも、金を出して買ったものだ、ゴミとして捨てたくはない。

 ネットのオークションやフリマに出すか、でも、やりとりが面倒くさい……などと思いながら検索を続けていた数日前、「夢町書店」という古本屋のホームページを見つけた。

 素人が作ったと思しきダサいホームページだったが、そこに書かれていた内容は斬新だった。どんな本でも本の形態をしていれば百冊ごとに一万円で買い取る。しかも、売却主の家まで直接引き取りに来るというのだ。

 もちろん、怪しいとは思った。思ったが、あまりにも条件が魅力的すぎた。五万円もらえるとしたら、一冊あたり約八十八円。まあ、悪くはない。

 依頼の申し込みはメールのみだった。幸い、すぐに返信がきて、買取の日時もすんなり決まった。だが、まさかあんな黒ずくめの優男が一人で来て、作業中は別室にいろと風呂場に追い払われる羽目になるとは夢にも思わなかった。


 ***


 あれから十分が経過した。

 俺はスマホを持ったまま、ずっと聞き耳を立てているが、玄関ドアの開閉音は一度もしていない。

 一方、リビングのほうからも、これと言って物音は聞こえてこない。

 ――本当に、小森は搬出作業をしているのだろうか。

 今さらながら、そんな疑問が頭に浮かんだ。

 見られてまずいものも、リビングにはもう置いていない。さすがに衣類はそのままにしてきたが、俺の服など盗んだところでどこにも需要はないだろう。

 俺はエコバッグに突っこんでいた買取同意書を引っ張り出して、改めて読み返してみた。

 確かに、売却主は本を搬出している間は別室に移動しなければならない、とある。

 しかし、別室のドアを開けてはいけない、とはどこにも書かれていない。

 一瞬だ。一瞬だけ確認できればそれでいい。

 同意書をエコバッグに戻した俺は、それを便器の蓋の上に置くと、なるべく音がしないように風呂場のドアを解錠した。

 ゆっくりとドアを開け、片目だけでリビングを盗み見る。

 小森は、床に片膝をついて跪いていた。

 その前には全開にされたアルミケースが置いてあり、その中に一冊ずつ、まるで暖炉に薪をくべるように本を入れていた。

 あれだけあった本の山も、もう残りわずかになっている。あれなら約束どおり、十五分以内に〝作業〟は終わるだろう。

 だが――あのアルミケースの中にはいったい何があるのか?


「終わったら、こちらから声をかけると申し上げましたよね?」


 アルミケースに目を向けたまま、いきなり小森が口を開いた。

 驚いた俺は、ドアを閉めるどころか、逆に大きく開けてしまった。


「本当に、見るなと言っても見ますよね、人間は」


 俺の顔は見ないまま、小森は呆れ果てたように溜め息をついた。


「しかしまあ、ご覧になりたいのでしたら好きなだけどうぞ。お渡しした五万円も返せとは申しませんから」


 あれほど念を押していたのに、いったいどうした風の吹き回しか。

 訝しくは思ったが、五万円を返さずに済むのなら見てみたい。俺は風呂場から出ると、おそるおそる小森に近寄った。


「本の種類や状態を見るかぎり、これらはどこにも売れなかったのでしょうね」


 俺を一瞥することなく、小森はアルミケースの中に本を入れつづける。


「ですが、にとっては、読み物であればそれでいいのです」


 首を傾げながら、上からアルミケースを覗きこんだ俺は、思わず悲鳴を上げかけた。

 アルミケースの中には、毛足の長い赤い布が、布団のように敷きつめられていた。

 そして、その布の上には、何も書かれていない黄ばんだ大判の本が広げられていて――その本の中央には、丸い穴がぽっかりと開いていた。

 穴の中は暗くてまったく見えなかった。だが、その穴に小森が本を落とし入れると、穴はいったん閉じられ、すぐにまた開かれるのだった。


「彼女はね、質より量の食いしん坊さんなんです」


 本を与える手を休めずに、小森はいかにも愛しそうに目を細めた。

 その視線の先には、次から次へと本を呑みこんでいくあの本がある。


「そのおかげで助かっているところもありますが……たまには、おいしいものも食べさせてあげたいんですよね……」


 独り言のように小森が呟いたとき、カーペットの上に俺の本はもう一冊も残っていなかった。

 しかし、アルミケースの中の本は、まだ足りないとでも言いたげに、再び穴を開いた。

 小森は困ったように笑うと、まるで赤ん坊のように本をアルミケースの中から取り上げ、ゆっくりと立ち上がった。

 くすんだ緑色をした革張りの本。中と同様、表紙にも背表紙にも何も書かれていない。


「事実は小説より奇なりと言うでしょう?」


 風呂場を出てから、初めて小森がまともに俺を見た。

 相変わらず、その表情は穏やかだったが、俺の足は勝手に後ずさりをしていた。


「まさしくそのとおり。現実を生きる人間の人生に勝る読み物はありません」


 小森がそう言い終えたと同時。

 小森の手からあの緑色の本がふわりと浮き上がり、穴の開いた紙面を俺に向けて一直線に飛んできた。

 逃げる隙などなかった。例の穴は横長に広がり、俺の頭を――





「……お客様。お客様」


 耳触りのいい若い男の声がして、俺はあわてて瞼を開いた。

 喪服姿の眉目秀麗な男が、少しばかり呆れたような笑みを浮かべて立っている。

 確か――小森。今日、古本の買取に来た男だ。


「大変お待たせいたしました。本の搬出作業が終了いたしましたので、本日はこれにて失礼させていただきます」

「搬出……」


 呟いて、今の自分を確認すると、なんと風呂場のドアの前で体育座りをしていた。

 俺の左横には、スマホと中身の膨れたエコバッグが置いてある。

 どうやら待っている間に居眠りをしてしまったようだ。とたんに恥ずかしくなり、勢いよく立ち上がる。


「いえいえ、お気になさらず。お疲れだったのでしょう」


 小森はそう労うと、持参してきたスリッパをポリ袋の中に戻してから、床の上に置いていたアルミケースを持ち上げた。

 そういえば、帰りに渡してやろうと思って、緑茶缶を用意していたのだった。俺は冷蔵庫に向かいかけたが、その前に小森が「あ、そうそう」と思い出したように付け加えた。


「本の冊数ですが、五六三冊ではなく、五六四冊でしたよ」

「は?」

「つまり、一冊多かったわけですが……残念ながら、買取金額は変わりません」


 申し訳なさそうに小森は笑い、俺があっけにとられている間に、玄関ドアを開けて出ていってしまった。


「五六四冊……」


 なぜだろう。ここに小森を呼んだのは俺のはずなのに、いまいちピンと来ない。

 まだ寝ぼけているのだろうかと頭を叩いていると、流し台の上に紙切れが置いてあるのが目に入った。

 何となく手に取ってみれば、買取同意書とある。

 売却主の欄には、筆圧の高い汚い字で、「井上京一」と書いてあった。


「井上京一……?」


 俺は同意書を持ったまま、顔をしかめて首をひねった。

 井上京一。まったく知らない名前だ。だが、買取冊数は五六三冊から五六四冊に訂正印つきで訂正してある。ということは――

 そのとき、俺はもっと重大な事実に気がついて愕然とした。

 「井上京一」が誰でもいい。

 そう考えている、今の俺はいったい誰だ?

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【一応完結】世にも短いホラー話(仮) 邦幸恵紀 @tks_naiyo

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