初夏の光景 祠の脇で
冬野いろは
初夏の光景 祠の脇で
空を仰げば日差し高く。輪郭の曖昧な雲が清涼な青を流れていく。
頬を撫でる風は緩やかに。湿気を
水面に映える緑に目を移せば、傍らに
ただ幼い頃に、この木に括りつけられた事を思い出す。腰を荒いロープで縛られて、ロープの端を木に結びつけられた。
…何も悪い事をした訳じゃない。犬と同じ扱いをされただけ。あの頃の僕は妹よりもずっと小さかったから。幼い子供が、作業中に勝手にどこかに行かないように。道路に飛び出てヒキガエルになってしまうとか、水路に落ちて流されるだとか。そうならないための措置である。
今ではそんな事情もわかるけど。当時は「くっそ」としか感じていなかった。このご時世に同じシーンを見たら通報ものだろう。世知辛い世の中になったものだ。
とにかくあの頃は「動けねえ」としか思っていなかったから。あの祠に腰を掛けて、やはりこうして空を眺めて「ふざけんな」と思ったものである。
今も中身は知らないが。当時は祠という言葉すら知らなかったから、何とも罰当たりな真似をした。
…そんな昔の事を思い出していると、急に眩暈を覚えてしまい。
「ねえ、そこで何をしているの?」
暗くなりかけた頭が、鈴のような声に揺られて現世に戻る。
見れば祠の前に幼女が一人、立っていた。
彼女の事は知っている。
よくは知らないが、年の頃は七歳で。名前と素性だけは知っていた。
社の境内で。河原の脇で、街路の辻で。ささと駆け抜ける赤い姿を見かけるのだ。
人形のように端正な顔をした、少し不思議な女の子。
「何って言われても… うわっ!?」
少女の問いに返答しようとすると、妙な感覚に
今足をかすめて、何かが動いた?
「足下に何かいる」
「蛇ね」
「へび…?」
幼女の冷静な言葉に思わず聞き返してしまう。
「蛇。毒を持っていなければ良いけれど」
「毒って、なに。ガラガラヘビとか、マムシとか?」
マムシと聞いて、幼女はニタリと笑う。何が面白いのか知らないが、今はそれどころじゃあない。
「そんなに怖がらなくて大丈夫よ。たぶんヒバカリとか、シマヘビとか?」
「聞かれても蛇の種類は知らないけどさ。毒は持っていないんだね?」
「マムシやヤマカガシでなければ大丈夫よ。アオダイショウなら良いのにね」
「…アオダイショウなら、何が良いのさ」
「響きが良いわ」
もう幼女が何をいっているのかわからない。とにかくこの状況をどうにかしたい。
「…ねえ、助けをだれか、呼んでくれないかな」
「なぜ? 私がいるのに」
気持ちはとてもありがたいが、幼女にこの状況は打開できない。口先だけは大人っぽいのに、今一つ話が通じない子供に困り顔を向けると、しかし彼女は言葉を続けた。
「知ってるかしら。マムシって面白いのよ」
「…何が面白いの」
「蛇がどうやって生まれるか、知っている?」
爬虫類だから、たぶん卵からだろう。それくらいは知っているが。
「ところがマムシって、卵を胎内で
「本当の話? …それは全然知らなかったけど、どうしてそんなに詳しいの」
「ふひ。蛇は祈りの根源だから」
あ、またニタリと笑った。それも相当にいやらしい。さすがに少し怖いんですけど、なにこの子。
…まてよ。蛇といえば古事記で読んだ事がある。いやあれは日本書紀だっけ。蛇と、神様の話。
崇神天皇の御代のこと。
そこで不思議に思った彼女は懇願するのだ。朝になってもこの場に残り、ぜひお姿を見せて欲しいと。
――しかし翌朝。部屋にいたのは蛇だった。姫は驚き、神は恥じて三輪山へと戻ってしまわれる。だから今でも奈良の
…大樹の祠が何を祀っているか知らない。しかし僕は過日のように動けずに、そして足下には蛇がいる。これは… 何かの。罰なのか。
突然。ピシャリと鼓膜を打つ音がする。
パシャリ…。ペシャリ。見れば目の前の陽光に波紋が立っていた。
波紋は尾を引き、長く。長く。大きな蛇がゆらゆらと。
泳いでくる。迫り来る。僕に向けてゆらゆらと。
「アオダイショウ!」
突然の大声に体が跳ねた。小さな影が宙を飛び、水飛沫を上げる。
「………何?」
「ほら見て、立派。アオダイショウ」
幼女の両手にぬらぬらと
「…ああ、本当だ。大きなアオダイショウだよね」
本当にアオダイショウかどうかは知らないが。
泥に塗れて咲く笑顔の前に、僕はうなずく事しかできない。
「アンナちゃん… とお兄ちゃん。田んぼで何やってんの?」
コロコロとした声に振り向くと。目を真ん丸にさせた妹が、濡れた友人と僕を見比べて首を傾げていた。
「晩ごはん捕まえてるのよ」
「二人だけでずるい、カンナも遊ぶ!」
「あはははは。お水温い。気持ち悪い!」
「どっちが先に獲物を捕まえるか、きゃっちあんどりりーすよ」
「ねえ二人とも。お願いがあるんだけれど…」
ダメ元で僕は聞いた。
「……食べたい?」
「いらないけど。僕を引っ張ってくれないか。足が抜けなくて困っています」
「あれえ〜。カンナたちは動けるよ?」
それはそうだろう。体が軽ければそうそう泥に埋まることもない。
しかし早くどうにかして欲しい。初夏の太陽は思ったよりも凶悪なのだ。
…落ちたのが、田植え前の水田でよかった。でなければ今頃、三人揃って大目玉。
――小さな祠の正体は、かつて洪水によって流された
アオダイショウなら、美味しくいただいたわ。後に幼女はニタリと笑った。
初夏の光景 祠の脇で 冬野いろは @tonoiroha
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