独歩奇譚
分身
第1話
武蔵野は市街地化した現代では想像がつかぬ程広範囲な雑木林群であった。楢木等の群であるから雑木林と書いたが、実際は北海道の原生林と比肩する程の大林群であった。
秋に成ると楢木の間には萩や女郎花、荻や芒等が自生し、山鳩が飛び様々な虫の音が涼やかに鳴る自然林であった。そうした林の連なりが今で言う埼玉から東京をかすめ神奈川まで及んでいたのである。
万葉の古来から武蔵野は文化文芸に多種多様の趣向を提供してきた。あの藤原定家も
めぐりあはむ空行く月のゆく末も
まだはるかなる武蔵野の原
と詠んでいる。
また江戸時代には工芸品として「武蔵野図屏風」が一時盛んに製作された。全面に秋草を背景には富士山を配置した図屏風によって、秋の武蔵野のイメージは広く人口に膾炙し又愛されたのである。
此の様に武蔵野は人々にとって愛でる対象としての自然のイメージの源泉であった。そして近代に至りこのイメージを決定的に刷新する人物が登場する。
武蔵野を愛した文章家として良く知られているのが国木田独歩である。我々が武蔵野と聞いて想像する自然林のperspectiveは専ら彼の「武蔵野」の描写から想起されるイメージに依る。彼は
——武蔵野を除いて日本にこのやうな処がどこにあるか。北海道の原野にはむろんのこと、奈須野にもない、そのほかどこにあるか。
と断言するほど、これ武蔵野を愛して止まなかった。その愛情の結実が傑作「武蔵野」なのである。
これはその独歩の一綺譚である。
独歩が渋谷村に居を構えていた頃の話である。彼は武蔵野散策を日課としていた。その日も朝からステッキ片手に意気揚々と出掛けて行った。天気も上々秋の晴天で絶好の散歩日和である。何処へ行こうと気の向くままに暫く歩くと色とりどりの林が視界に入って来た。田んぼ道を歩むと農家の裏手に林の獣道が開いていた。ヒョイヒョイと軽い足取りで道を分け入ると、すぐに人里間近とは想えぬ程周りを林に囲まれている。しかし見上げると梢の隙間から光が差し込み、青空が垣間見え小鳥の囀りも耳に入る。
独歩はこの風景を見る度二葉亭が訳したツルゲーネフの「あひゞき」を想起する。あちらは白樺林だが、どうしても彼にはこの先で若い恋人同士がロマンスの逢瀬をしているような気がしてならない。
——出くわしたらどうしようか。
彼は想像を巡らした。
——ヤアこんにちはとでも言うかな。然し間抜け過ぎる。そうだ熊が出たと嘘をついてみよう。どう反応するだろうか。
散文家の常として彼は毒にも薬にも成らぬ罪の無い想像を膨らませるのを愉しんでいた。彼の想像力は彼を陽気にし快活にするような明るい性質のものであった。たわいも無い夢想をしながらステッキをくるくる振り回し、足取りも軽く歩を進めてみると三叉路にぶつかった。さてどの道を選ぶか。こういう時にはお決まりの策がある。ステッキを立て手を離すとステッキはパタリと倒れる。その倒れた方向が進むべき道である。今回は左側の道が当たったので、その道を進んで行くと今度は少し開けた所に着いた。どうやら杉か何かをを伐採した名残らしい。
——よしここらで一服しよう。
彼は切株を見つけるとその上に腰を据えた。秋風が火照った頬を撫でて気持ちがいい。
独歩は根っからのクリスチャンで目をつむり神に思い巡らせ冥想するのを好んでいた。深く息を吸う刹那彼は意識の奥底に沈殿していった。彼は思った。
——そこらかしこに団栗が落ちている。一体どうして掌の上に載る団栗があんな立派な楢木に育つのだろう。これは一考に値する。生命の神秘という奴だ。太陽が照らし雨が水を遣り団栗は芽を出し根を下ろす。当たり前の様でいて不思議に満ちている。団栗は何故育つのか。此処に恵みが有る。神の恩寵が有る。してみると武蔵野は奇跡の集合体と考えられる。ここには神秘が満ち溢れているのだ。
彼は嘆息した。
——ああ神は偉大なり。
目をつむったまま又暫く黙想に耽った。彼は自分がこの世に生まれた事の不思議をつらつらと考えた。
——一体俺は団栗より複雑ではないか。英文を読んだり小説を書いたり出来るじゃないか。団栗が不思議の種なら俺は奇跡の塊だ……。いや俺は自分を過大評価している。奇跡は神の方から来るもので自分が独占して良いものじゃあない。全ては神に栄光を帰す。これでなくてどうする。調子に乗ると足元をすくわれるぞ。
纏まりの無い思考が稲妻の様に閃く。どちらかいえば彼は思考より感覚の方が優れていた。だから瞑想にふけっても次第に様々な雑念が泉の如く湧き出て非常に忙しい。禅宗にいう無の境地とは真逆である。しかし当人はこれが瞑想だと信じてやまなかった。
目を閉じたまま耳を澄ますと涼やかな風に吹かれて木の葉がカサカサと音を立てる。息を吸い込むと新鮮な空気が体に染みわたる。いつしか彼は自分が森林の一部になったような神秘的な心持ちになっていた。
——ひょっとして、
感極まって彼は思った。
——ひょっとしてここでなら神に出会えるのではなかろうか。
その時とんッと何かが落ちる音がした。多分いが栗か何かが落ちたのだろう。しかし独歩には神が彼の望みに呼応して天啓を与えたもうが如くに感受させられた。それで彼はおそるおそる手を広げてこう祈った。
——天の父なる神よ。我に御姿を顕したまえ。
すると突然強い風がびゅうびゅうと吹きつけ落ち葉を巻き上げてまん幕のように彼の四方を取り囲んだ。そして遠くの方から何かが近づくような気配が感じられた。それが何かは分からないがその何かはゆっくりとこちらへ進んでくる。目をこらしても何の姿も認められない。しかし断然と謎の気配は近づいてくる。独歩は畏怖と驚愕のあまり腰を抜かしてしまった。それでも彼は必死で祈った。
——神よ。私は不遜な間違いを犯しました。どうか怒りをおおさめください。
すると何かが彼の頭上を通り越していった。独歩は地面に顔をうずめ額に大汗をかきながらがむしゃらに祈り続けた。するとようやく大風も止み森林に静寂が戻ったきた。そろそろと辺りを見渡してももはや何の気配も感じられなかった。独歩は恐怖から解放され祈りを止めるとぐったりと座りこんだ。
——何てことだ。あれが神の顕現か。もう少しで死ぬかと思ったぞ。本当に恐ろしいことだ。
彼は額の汗を手でぬぐった。
——このことは誰にも口外しないでおこう。言ったところで誰も信じてくれまいが。
何事もなかったように林にまた静寂が戻った。風も止みまるで時が永遠に止まったかのように静まり返った。しかしこの静寂は唐突なドンッという音で破られた。十二時のドンだ。独歩は生活音を聞き自分が異世界から無事帰還したことを悟りホッと安心した。
ところがその瞬間
——stand up!
という女児の声が耳元でささやいた。完全に虚を突かれた彼はギョッとして立ち上がり左右を見渡したが、悄然として立ち並ぶ楢木の群とその間に敷きつめられた落ち葉のじゅうたんの他何の姿も認められなかった。呆然と立ち尽くす彼の頬を涼やかな秋風が撫でていった。彼は空恐ろしく為って帰り支度をしようとステッキを探したが、最前まで傍らに在ったステッキが何処にも見当たらない。そんな筈はと躍起になって探してみても無い。散々探した挙げ句見つからなかったので、観念してすっぱり諦めた。
——ええいステッキなんぞ替わりは幾らでも有るさ。
独歩は無闇やたらと林の中へと突進した。
——早く帰ろう。神に会うなんて不敬な事を考えた罰だ。然しあの女児の声は一体何だ。神でないなら何だ。そうだ。あれは天使の声に違いない。それとも俺の頭が変になってしまったか。畜生何てことだ。
ザッザッと落ち葉を踏みしめながらほうほうの体で林を抜けると田畑が広がる穏やかな景色が目に入った。後ろを振り返ると鬱蒼とした林が静まり返っていた。
——恐ろしい恐ろしい。
彼は青ざめた顔をしてふらふらと歩み始めた。こうして家に帰るとまだ日は高いというのに布団にくるまって、家人が呼んでも起きてこなかった。
しばらくして顔見知りの農家の主人が林の中でステッキを見つけて届けてくれた。独歩が礼を言うとご主人はいたずらっぽく笑って
——先生何か恐ろしい目に遭わんかったかね。
と訊いてきた。驚いた独歩が返事に窮して
——なぜそんなことを訊くんだい。
と問い返すと
——あの辺はキツネが出るでね。
と言ってご主人は呵々大笑した。独歩も釣られて笑った。ひとしきり笑ったあと独歩は
——全く馬鹿馬鹿しい話だね。
とポツリと独り言を漏らした。
そしてしばらくすると又ステッキ片手に武蔵野散策へと繰り出すようになった。なんだかんだ言っても武蔵野を愛していたからである。
後に独歩はその体験を振り返って謎をかけるようにこう語った。
——ねえ君知ってるかい。武蔵野には神がいるんだよ。天使も無論いる。僕は天使の声を聞いたのだよ。
そしてにっこり笑ってこう付け足した。
——キツネもいるから気をつけたまえ。
独歩が体験したのは白昼夢であったか、はたまた本当にキツネに化かされたのかは今となっては分からない。ただ一つ言えるのは彼が非常に詩的感覚に富んだ人で、そのpoesyが彼をしてこのような体験を得させたのであり、それを可能にしたのは武蔵野の森林の霊性なのである。しかしその霊性も都市開発によって失われてしまったのはつくづく残念な話である。〈終〉
独歩奇譚 分身 @kazumasa7140
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