兄をだめにする妹

シオン

妹にダメにされている

 俺、早川行人の毎日はこの家で完結されている。


 俺は世間でいう引きこもりで基本的に妹の有希がいないとなにもできない。ご飯も掃除洗濯も全て妹任せだ。俺も25歳になるのでせめて働こうと思うのだが何故か雪に全力で止められる。有希曰く「お兄ちゃんは怒られるとそのうち自ら死を選びそうだからだめ」らしい。失敬な。そこまでナイーブではない。……多分。


 現在俺は妹と二人暮らしで妹はここから高校に通っている。俺も無職なので収入源は親の仕送りだけだ。当然両親はそれをよく思っていない。しかし有希の強い要望で今のところなんとかやっている。


 このままでは妹が就職したあと俺は社会復帰もできず両親にも見捨てられ孤独死を迎えてしまうので早急に妹離れがしたいのだが、当の有希は「お兄ちゃんは私が養うから大丈夫だよ」と言ってくるので全然離してくれない。ここまで世話してもらって失礼の極みだが、ここまでダメになったのは大体妹のせいではないだろうか?


 俺は妹にダメにされて、妹がいないと生きていけない人間になってしまった。その妹がそれをよしとしているのだから余計たちが悪い。



 転機は前触れもなく訪れた。


 それは家でやることもなくだらだらスマホをいじってたときだった。メールが着信されたので確認してみるとそれは昔仲の良かった女友達だった。その女友達の笹原佐紀とは今は疎遠になっていたが、久しぶりの連絡に戸惑いつつ密かな期待を胸にメールを開いた。


「早川君、元気?なんか妹ちゃんのヒモみたいになってるって聞いたけど」


 友人の悪気のない言葉がグサりと刺さり、思わず胸を手で押さえた。引きこもりになると言葉の耐性がなくなっていけない。


「元気だけど妹のヒモって。間違ってないから余計に心苦しい」


 そう笹原に返信すると間もなくメールが返ってきた。


「仕方ないわね。昔のよしみで仕事紹介してあげようか?」


 その言葉に少し躊躇いが生まれた。


 本音を言えばちゃんと働いて自立したいのだが、今世話をしてくれる有希はなんて言うだろうか?働くなって言うだろうか?しかしそれは俺の都合のいい願望ではないだろうか?


 しかし今まで有希に止められていたとはいえ、それでも自分の意志で行動に出たことがあっただろうか?健気に献身してくれる妹に甘えて今まで過ごしてきたのではないか?いくら妹が兄を思っていたとしても今の状況はお互いのためではないのは一目瞭然だ。やはり自分の食いぶちを得てこそ妹のためになるのではないか?


 そうして妹のため、自分のためと言い聞かせて笹原の提案を受けた。



「だめ、断って」


 その日の夕飯、仕事の紹介を受けることを有希に話すと予想通りというかダメ出しをくらった。


「有希、いつまでもこんな状態はよくないだろ」


「私が良いって言ってるんだからいいの」


 有希はこういうとき強情になる。てこの原理ですら動かないだろう。


 どうにか有希を説得できないだろうか?


「有希、今までいろいろ世話してくれるのは助かったけどやっぱりさせてもらうだけだと俺も心苦しいんだ。俺も早く一人前になって今までもらったものをお前に返したいんだ」


 俺がそれっぽいことを言うと有希はため息を吐いた。


「負い目に思わなくていいんだよ。お兄ちゃんのために生きることが嫌なわけじゃないんだし。それより私はお兄ちゃんが恐い人たちに傷つけられたり私から離れることが嫌なの。お兄ちゃんは私がいないと生きていけないっていうけど実は逆なの。私が、お兄ちゃんがいないと生きていけないの。私から生きる理由を奪わないでちょうだい」


 有希の言葉に絶句する。こいつ、兄をだめにする生き物だ。


「でもさ、俺が最後に仕事したの去年だっけか?そろそろ仕事したいなぁなんて」


「でも去年まで仕事辞めたいってぼやいてなかった?」


 そうでした。仕事辞めるまで毎日仕事行きたくないって愚痴をこぼしてたんだっけ。同僚ともそりが合わなくて上司には毎日怒られて仕事辞めたときはすごい喜んだ気がする。


「よかったね、仕事しない毎日が送れて」


 有希は心から嬉しそうに言うが俺には皮肉にしか聞こえない。本人にそのつもりがなくても。


「でも気が変わったしさ」


「お兄ちゃんには無理だよ」


 有希ははっきり言った。


「昔なら社会復帰できたかもしれないけど、毎日なにもしないで過ごして、私以外と言葉を交わすこともなくなって、人間としての能力が錆付いた今のお兄ちゃんはなにもできないんだよ」


 有希はまるで愛玩動物を見るかのように気味悪く笑った。


「私がそうさせたんだから」



 まあ実際は有希の意志を無視して結局笹原に会いに行ったわけだが。


 この状況を有希に見られたらどんな目にあうかわかったものじゃないが、いい加減妹に寄生して生きるのも嫌になったのが本音だ。最悪有希に愛想尽かされてもそれはそれで思う存分就職活動に踏み出せるものよ。


 待ち合わせの喫茶店に入ると奥のテーブルで女性がこちらに手を振っていた。笹原とは二年間会っていなかったが以前とは様変わりしていた。


 落ち着いた服装でそれでいておしゃれな感じで、まるで大人の女性みたいだ。


「早川君久しぶり」


 笹原が笑顔で挨拶した。俺はしばらく人と会ってないせいか上手く笑えなかった。


「友達から聞いたよ、今無職だって」


「ああ、恥ずかしい限りだな」


「ホントよ。そのうえ妹さんに世話になりっぱなしで将来妹のお金で生活するって聞いたときはこの世から抹殺してやろうかと思ったわよ」


「……なあ笹原、それどこから聞いたの?」


 誰にも言ってないはずなんだが。


「まあいいわ。今こうして来たってことは早川君にその意思はないってことだから」


「信用してくれて助かる」


 笹原は笑うとかばんからファイルを取り出しいくつかの書類を広げた。


「早川君は以前建築の設計事務所で働いていたよね?」


 俺は肯定の意を示す。


「実は知人の設計事務所が今人手が足りないらしくて今人を募集してるの。早川君今は働いてなくて暇だと思って今回その話をしているわけなんだけど」


「ああ、それなら大丈夫だ。むしろ慣れた仕事で助かるくらいだ」


「話が早くて助かるわ、それで詳しい話は____」


 と言いかけたところで横から手が差し込まれた。邪魔だなと思うその手の人物を見てみると


「話はそこまでよ」


 有希が心底不機嫌そうに笹原を睨んでいた。



 話は保留という形で収まった。


 その後俺は笹原にろくに挨拶もできないまま有希に手を引かれ家に帰ることになった。何故その場に有希がいたのか理解が追い付いていない。ただ、俺が黙って仕事の紹介を受けようと思っていたのはバレていたようだ。


「お兄ちゃん、なにか言うことはありませんか?」


 家に帰宅後、俺は正座で座らされていた。有希はご立腹といった具合でとても聞く耳を持っていないようだ。


「俺は……なにも悪いことはしていない」


 有希は表情を変えなかった。それがむしろ怖かった。


「お兄ちゃん、これは立派な裏切り行為だよ。私はお兄ちゃんのために頑張ってるのに、お兄ちゃんは私から離れようとするんだね」


 有希はずっと俺の目を見て俺を追い詰めている。目を背けると有希は近づいて至近距離で目を合わせてくる。


「お兄ちゃんもしかして私のこと嫌い?私のこと嫌いだから離れようとするの?」


「そうじゃない。ただ俺は、自分の力で生きたいだけなんだ」


「無理だよ」


 有希は切り捨てるように言う。


「さっきあの女と話してるところを眺めていたけどお兄ちゃんめちゃくちゃガチガチに緊張してたよ?目は泳いでるし声はボソボソだしあの女もずっと苦笑いだったよ?」


「え……」


 俺の反応を見た有希は気づいてなかったの?と言わんばかりの表情をした。


「お兄ちゃんはね、自分が思う以上に社会に適応できなくなってるの。もう自分の力で生きることなんてできないし、これから死ぬまで私に頼らないと生きることすらできないの」


「だ、だって、それは全部お前が」


 お前がだめにしたから……と言おうとしたら不意に抱き着かれた。


「そうだね、全部私がだめにした。だからお兄ちゃんは自力で生きたくてもできなくなった。だから私が責任を取らないといけないの。私が全部世話をして、お兄ちゃんが傷つかなくていいように私が守ってあげるの」


「そんなこと、お前にしてもらわなくたって」


「本当に?」


 有希は冷たい声で言った。


「本当はお兄ちゃんも望んでたんじゃないの?誰かに甘えたくて、誰かにすがりたくて仕方なかったよね?」


「私ならその相手になれるよ?存分に甘えていいし存分にすがっていい。私はお兄ちゃんがそうなってくれたらってずっと思ってた」


 俺は反論しようとして、でも反論できなくて、涙を流して妹の胸に顔を埋めた。


「俺は、そんなこと望んでなかったのに……」


「そうだね。お兄ちゃんはそんなこと望んでなかった。望んだのは私だもんね」


 有希はよしよしと頭を撫でた。不本意にも少し気持ちよかった。


「私は、お兄ちゃんが遠くに行くのが嫌だった。それに仕事で疲れて疲弊していくお兄ちゃんを見ているのが嫌だった。でもお兄ちゃんは人一倍頑張り屋だから言ったって休んでくれない。だから仕事を辞めたときチャンスだと思ったの。お兄ちゃんがだめになればもう私から離れなくなるって」


「お兄ちゃんをこの世の中から守りたいけど、それ以上に私の側にいてほしいの。だからなんの罪悪感も感じないで私に委ねて?」


 有希は優しく温かく、まるで母親みたいに俺を包み込んだ。


「……でも、もし有希が辛くなったらどうするんだ?」


「そうだね、私もどうなるかわからない。だからそのときはお兄ちゃんが私の支えになって?ずっと側にいて私を満たしてくれれば、私はなんでもできるから」


 もう有希には俺の言葉は届かないようだ。それに、俺にはもう有希無しではなにもできなくなっていた。


「さっきの仕事の紹介は私のほうから断っておくね?もうお兄ちゃんには必要のない話だから」


「待て、俺は」


妹を引きはがそうとして、引きはがせなかった。


「だから今は、お兄ちゃんの体温を感じさせてね」


 俺は意識とは反対に妹を求めていた。もう心の底では諦めてしまっていた。自力で生きることに。世間体とかプライドとか、人にとって大事なものが全部腐ってなくなっていた。


 きっと今に始まったことじゃないのだろう。仕事を辞めて妹の力を借りている内に気づかないくらいゆっくりゆっくり溶かされて、気づけば人間の成れの果てのような状態にまで腐りきっていた。


 だからこれからも有希がいないとなにもできないし、それで死ぬこともない。全部有希のせいなんだからなにも負い目に感じることはない。もういいじゃないか。なににこだわっている。


「うふふ、ふふふふふ」


 有希もこんなに嬉しそうだ。なら、それ以上はもう望まない。


 その代わり、もし有希がだめになったらそのときは一緒にだめになろう。ずっと側にいる。終わりの日までずっと。


ずっと




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