十二、終幕 水面ノ灯火
「雪、止んだか……」
俺は家に帰らずに、ずっと佳ノ湖の東屋でぼーっとしていた。
まだ、ふわふわしている。あれからどれくらいの時間が経っただろう。日が落ちて、辺りは暗くなっていた。降っていた雪は次第に弱くなり、今はもう止んでしまった。
思い出すのは、織恵のことばかり……。
俺がおかしいのか、この村がおかしいのか、この世界がおかしいのか……。
何がおかしくて、何がおかしくないのか分からなくなってしまった。東吾さんからは見透かされ、俺が楓先輩の二の舞にならないように釘をさされた。東吾さんと話さなければ、俺は狂気に染められていたかもしれない。けど、冷静に考えることが出来たのも事実だ。
俺にとって織恵は、感謝してもしきれない存在だ。もしも、人が蘇るなんていう儚い夢が幻想ではなく、伝承の儀式で起こりうるなら楓先輩のように人生を捧げるだろう。しかし、それは俺の独りよがりであることは先ほど思考したばかりだ。
『どんなに愛しても、どんなに想っても、人は蘇ったりしないんだよ……?』
あの時織恵は、確かにそう言った。
まだどんな実験でも、人はその境地まで達していない。だから儚いのだ。命の尊厳と、倫理を穢す覚悟が無ければ、そんな業の深いことには手を出せない。
それよりも、織恵が死んだなんて俺は思っていない。それを確かめるのは、姉さんの記憶の正体を知るよりも長い道のりになるかもしれない。ただ、俺がこの村に居る限り諦めるつもりもない。
織恵……。幼馴染で、物心ついた頃には隣に居た。
十五年前、俺たちがまだ小学生の頃。俺は一度錯乱したことがある。姉さんが居たはずなのに、父さんも母さんも知らないと言われ、村の人に聞きまわっても悪い夢を見たんじゃないかと笑われてしまった。
自分は知ってるのに他の誰も知らない気持ち悪さと、確かに居たという自信が嘲笑で踏み潰された悔しさで、俺は怒りともやるせなさともつかない感情をどこにぶつけていいか分からなかった。
だから俺は、神様に祈ることにした。神社に行ってお参りして、お小遣いの全部を賽銭箱に投げ入れた。お金で買えないなら、お金なんか要らない。全部あげるから、一つだけ願いを聞いて欲しい。そう祈って。
『何のお願いをしたの?』
太陽のように暖かい笑顔で俺の肩を叩いたその人は、サイズの合わない大きい巫女服を着て箒を持っていた。その頃はまだ、学校ですれ違う程度だった。クラスは別だったし、別段共通の趣味も持っていなかった。平たく言えば、接点などなく同じ村に住んでいるというだけで、親同士の交流は多少なりともあったようだが俺たちはそこまでお互いに興味を持つこともなかった。
それがあの日、神社で俺の願いを聞いた織恵は、ひどく哀しそうな顔をした。
『探さなきゃ駄目だよ! 行こう!』
俺の手を取って、村中を駆け回ってくれた。神社の裏側、建物の死角、資料館のプレハブ小屋、中央の倉庫。かくれんぼをしている訳ではないけれど、子供ながらに必死に考えて人が隠れていそうな場所をくまなく探してくれていた。
村の中を一通り探し終えると、今度は織水まで下りていって道行く人に声を掛けてくれた。さすがに村よりも広い織水の市外を片っ端から探すわけにはいかず、日も暮れだした頃合いを見て「もういいよ」と告げた。
そこまでしてくれただけで十分だったし、俺を笑うだけで何もしてくれなかった人たちのことを考えると、必死に探そうとしてくれただけでも嬉しかったんだ。そんな人が一人でもいてくれたんだと思えただけで、俺の心は少しだけ軽くなった気がした。
それから俺は、織恵とよく話すようになった。
学校でも顔を合わせると挨拶だけじゃなく、退屈な授業のことを愚痴ったり、テストでよく出来たところを自慢しあったりした。村に帰っても、たまに神社に遊びにいったり、織恵がうちの店に買い物にくるようにもなった。
元々社交的で、誰からも好かれている織恵にとっては一人友人が増えただけで特別何か変わったわけではなかったのだろう。それは俺にとって世界が表情を変えたというだけのこと。そんな平穏な毎日が続いて、俺も記憶に苛まれることも無くなっていったように思えた。
そんなある日、俺たちが高校に入学してすぐの頃、夢を見た。姉さんの記憶だったように思う。その頃は、環境の変化で気づかない疲労やストレスが溜まっていたのかもしれない。
このときばかりは、俺もよく覚えていないが夜中に錯乱して、花明家の商売道具であるノミを自分の身体に突き刺したらしい。ひどい出血を伴い緊急搬送されて、気がついたときには、翌朝の病院のベッドの上だった。
朝早く目が覚めた時、俺の腕には輸血用の管が繋がれていて、かなりヤバい状態だったことが窺える。その時、隣のベッドに織恵も寝ていた。小さな寝息を立てて眠っている織恵を見て、俺は織恵が何か病にかかってしまったのかと一瞬疑った。
しかし、後になって聞いてみるとどうやら織恵は俺が緊急搬送されたのを聞きつけて、早朝にもかかわらず血を提供してくれたそうなのだ。俺は稀血ではないから、織恵の血液はうまく適合して輸血を受けられた。織恵は早生まれだった為、ギリギリ献血を受けられる年齢だった。まだ若い年齢も加味して、織恵からは少量だったかもしれないが、両親からの輸血と合わせて、俺の意識が回復する為に尽力してくれたことに他ならない。
安心したように眠っている織恵の横顔を見て、俺は助けられたんだなと実感出来た。
それ以来、変な夢を時たま見るようになったが錯乱するようなことは無くなった。
相変わらず内容は覚えていないけれど、思い出して嫌な気分になるなら、気持ち悪さと引き換えにすっぱり割り切ったほうが良い。
そうしてあの日のような過ちは繰り返えさずに済んでいる。
誰に対しても一所懸命な織恵が、俺に身体を張って教えてくれたことはたくさんあった。
あの時もそうだ。佳ノ湖は冬の灯篭が有名になってしまって、夏の顔はイメージが薄くなってしまっているが、夏場はオアシスとしても使われている。
とはいえ、湖だからそれなりに深い。中央部に向かってどんどん深くなっていて、多くの人は湖の端で遊んでいることが多いが、怖いもの知らずな子供たちは湖佳橋から飛び込んでいたりする。佳ノ湖は緑色だが、中央の深い部分はさらに深緑になっていて何メートル下まであるかは分からない。
そんな所へ飛び込んだものだから、俺は不覚にも想像以上の深さにパニックになって足が攣ってしまったのだ。息も限界で意識も薄れていく中で、相当深く沈んでいった。
背中に何か硬いものが当たってそこで止まり、底についてしまったのかと思った時、まるで人魚のように滑らかな泳ぎで俺を引っ張り上げてくれたのが織恵だった。今でこそ大学では運動をやめてしまったが、高校までは水泳部で大会でも記録を収める程の実力者になった。
当時の織恵は、その片鱗を見せる勢いで無様な俺を湖面まで引き上げてくれたんだよな。本当に、助けられてばかりで俺は情けない。
まるで人魚のようとは言ったもので、その姿は湖佳橋の淵に腰掛けると、人魚姫が珊瑚礁に腰掛けている姿に似ていた。
そう、丁度あんな風に……。
「え……。嘘だろ……」
湖佳橋に目をやると、淵に腰掛けた女の子が空を眺めていた。その子の視線の先には、月が顔を出し、帰省してから初めて雲が晴れた夜だった。その月明かりにライトアップされた人魚姫は、果たして織恵ではなく……叶那だった。
「静木……?」
俺は無意識に立ち上がり、その横顔に吸い込まれるように近づいた。
「こんばんは、花明さん。月の綺麗な夜ですね」
叶那は俺に目もくれず、口だけが動く。視線はずっと月を見上げたままだ。
「静木叶那、だよな……?」
「はい」
無感情で無機質な返答。普段から快活な方ではなかったが、叶那もどこか変わってしまっている。
そこで初めて、叶那は俺の方を見た。
「楠木楓さんが、雛に記憶を食べられました」
「……ああ。人が変わったみたいだった」
昼間、東吾さんと話したことだった。俺はさして驚かずに返事をしてしまう。今の叶那の雰囲気が異質で、本来知るはずの無いことを知っていても妙に納得出来てしまったからだ。
「あの人は、伝承に飲み込まれた哀れな人。あの人は自らコインを裏側に向けた、だから記憶を食べられた」
「何か、知ってるのか? しず……叶那は昨日のことを、どこまで覚えてるんだ?」
叶那はそれには応えず、淡々と無感情に言葉を重ねた。
「天照大神の謎は、コインが表を向くこともあれば裏を見せることもある。また……駄目だった」
「また? またってどういうことなんだ? 叶那、お前は一体……」
「もうこうなってしまった以上、あなたに隠していても仕方ないかもしれない。……東吾のおっちゃんは、この村に縁もゆかりも無い人じゃないよ。そんな人があなたの味方になってくれたのは幸いかもしれない」
「東吾さんが? 民俗学を研究してる、普通の観光客じゃないってことか? どうして叶那がそんなことを……」
いよいよ訳が分からない。叶那は昨日までとは人が変わってしまったように見える。
やはり、昨日を境に多くのことが変わってしまっているのだ。俺はこの目の前にいる〝もう一人の人魚姫〟の言葉に釘付けにされていた。
「……これが何か、分かりますか?」
スカートのポケットから取り出したものを月に捧げるように持ち上げる。
何だ? 巻物……?
「これが本物の、天照大神の謎掛けです。数えて、八番目の謎……花鳥風月。別名〝月と太陽の絶望〟」
「絶望……」
「今日、あなたが小鳥居本家でマユラと話している時に忍び込みました。元は織恵さんの部屋だった場所は、すべてマユラの私物になっていました。でも、これだけは見落としたんでしょうね。ある引き出しに残ってました。これが何を意味するか、分かりますか?」
「も、もしかして……!」
「織恵さんが生きていた証。唯一にして、ようやく掴んだ奇跡」
「叶那、教えてくれ! お前は一体、何を知ってるんだ……?」
叶那は掛け軸を愛おしそうに抱くと、もう一度月を見上げて儚く目を細めた。
月明かりに照らされた湖佳橋は、人魚姫の加護を受けてこの世ならざる場所にいるかのようだった。
「始まりは十五年前……。あたしが生まれた日、そして……あなたのお姉さんが消えた年」
「な、んだって……」
叶那は姉さんのことを知ってるのか……?
すでに頭は興奮と混乱で情報を整理出来ていない。今はただ、この少女の一言一句を聞き漏らすまいと必死だった。
「あなたのお姉さんは、……生きてる」
「っ……!」
「すべては、〝水面ノ灯火〟が教えてくれた――」
俺はこの「叶那」という少女が分からなくなる。
十五歳の無邪気な、年相応に好奇心旺盛な女の子。それが今、目の前に居る少女は人魚のような神秘的な雰囲気を醸し出していて、理解の範疇を超えた言動を繰り返している。
一体、何者なんだ……?
俺はやがて知るだろう、叶那の言葉の意味を―――。
それがまた、来年なのか数年後になるかは分からない。
ただ今は、叶那という少女から目を離せないでいた……。
水面ノ灯火 吉田優蘭(ユーラ) @yuura6284
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