十一、記憶の代償

「ぁ……ぁあ……かっ……は……」

 湖佳橋の入り口に来たとき、猛烈な頭痛に襲われた。

 そして眼前に見えた映像は、ノイズもなく、まやかしなどでもなく、昨夜の出来事を逆再生しているかのように俺をその場に磔にした。

 既視感……。かつてこれほどまでにデジャヴを感じたことがあっただろうか。この角度、目線の高さ、そして動かない身体。逆再生が終わり、橋の上には楓先輩と織恵、マユラと魅月さんが残った。織恵が微笑んで何かを呟いたあと、先輩は能面を織恵に被せて、そして――。

「あぁ……ぁ……あぁああぁぁあぁあああ!!!」

 俺は絶叫した。周りに誰がいようと関係無かった。

 膝から崩れ落ち、地面を掻き毟る。呼吸が出来ない、瞬きも出来ない。俺は見てはいけないものを見てしまった。思い出してはいけないことを、思い出してしまったのかもしれない。

 心臓が破裂しそうなほど脈動し、それが轟音のように胸を叩く。脳が拒絶した悲鳴を上げて鼓膜をつんざいた。匂いなんてないはずなのに、赤く染まった橋から流れ伝う液体が、鉄の匂いを乗せて鼻孔を貫かれた気がした。

 苦しい。息が出来ない。過呼吸になってしまった俺は、唾液を垂れ流しながら嗚咽を漏らすしかなかった。口から、鼻から、目からも液体を流す。瞬きも出来ずに見開いた目は焦点が合わず平衡感覚すら失った。

「はっ……かぁっ……は……ぁ……」

 我が身に起きた出来事なのに、叫ぶ自分を呆然と遠巻きに見ている自分が居て、俺の脳はもう、麻痺してしまっているんだなと思った。しばらくうつ伏せてから、地面の砂利の固さと、口の中の鉄の味が認識できるようになってようやく自我を取り戻すことが出来た。

「思い……出した……」

 織恵は、楓先輩に……殺された。

 なのに、織恵の死体はなく皆は織恵のことを忘れていて、楓先輩は抜け殻のようになってしまっていた。

 俺が思い出した昨日の最後は、狂気だった。決して祝賀会で酔い潰れたなんてものではない。先輩がミヅキという女性をどれだけ愛していたのかも、その深さゆえ狂気に至ってしまったということも。織恵が導いた天照大神の謎の真相も、誰も救えない絶望の連鎖だったということも。全部、全部……。

 あまりにも情報量が多くて、頭がパンクしそうになりひどい頭痛をもよおした。しばらく起き上がれなくて、頭を抱えて掻き毟る。


 この感覚は、あの記憶に似ている。いや、そっくりだ。俺にまたしても同じことが起こったのか? 俺だけが覚えていて、村の人はおろか親すらもその存在を認知していない。二度もこんなことが起こりうるだろうか?

 しかし、今は違う。あの時は物心がつき間もない幼少だった。だから苦い溜飲を飲み込むことはかろうじて出来たかもしれない。だが、その胸のシコりは歳を取るにつれて大きくなり、今もう一度それを飲み込むことは出来ない。

 なぜなら……。織恵とはその時からずっと一緒にいた。あの日、俺を立ち直らせてくれた時からずっと一緒に居てくれて、一緒に成長に、一緒に歳を重ね、一緒に考え悩み、一緒に二十一年生きてきた。その記憶は、たとえ世界中の誰もが忘れてしまったとしても、俺だけは覚えている。

 織恵との記憶は、俺の人生そのものだ。抜け殻のようになってしまったが、昨夜の楓先輩の気持ちは、今なら分かる気がする……。

 このまま心を黒に染めてしまえば、俺だって織恵を生き返らせる為に伝承でも黒魔術でも信じるだろう。だが、先輩は失敗したのか、それとも飲み込まれたのか分からない。

 あのまま抜け殻の状態が続いたら、自失してしまってもおかしくはないだろう。

 この記憶の代償は、決して軽く無い……。

「大丈夫かい……? 愁次くん」

 優しく声を掛けられた。背中をさすられ高ぶっていた感情が、雪が地面に溶けていくように消えていく。

 その大きな手と、低く整った声で相手が誰なのか理解できた。

「東吾、さん……」

「ああ、ゆっくりでいい。急に立ち上がらなくていいぞ。まずは、深呼吸だ」

 東吾さんは俺のペースに合わせて立ち上がらせてくれた、すこしふらついてしまったので湖佳橋の手すりに体重を預けた。

「今年の佳ノ湖も見納めだと思って下りてきたら、君がうずくまってたから驚いたよ。昨日はステージも大盛況だったからね、疲れが残ってるのかな」

「はい、すいませんなんか……」

 どうやら俺が取り乱していた時には居合わせていなかったようだ。

 東吾さんは朗らかに昨日のことを話していた。東吾さんにとっても昨夜の出来事は村の人たちと祝賀会に参加して楽しかったという話らしく、あの惨状のことは覚えていないようだった。

 だから、そのまま聞き流そうかと思った。しかし……。

「何か、昨夜と変わったと思うことはないかい?」

「え、どういう意味ですか?」

「実は、僕がこの村に特に興味を持ったのは、三年前なんだよ。その時、ちょっと不思議な体験をしてね。それから通い詰めてるんだけど、去年と今年と僕には特に変なことは起こらなかった。でも君は、驚いた顔をした。君には〝何かが起こった〟んだね?」

「それは……」

 東吾さんが経験した不思議な体験というのは一体何なのだろう。記憶に関することなんだろうか。それとも、民俗学者としての血が騒いだだけなのだろうか。

「ああ、ごめん。僕から話そう。数年前から、噂に聞いていた湖の美しい神姫村にはずっと来たいと思っていたんだ。それで何度か神姫祭に訪れるようになったんだが、三年前の神姫祭の時は大学の講義やら資料作りやらで、こちらに到着するのが遅れてしまってね。前日入りするつもりだったんだが、どうしても間に合わなくて織水に宿を取ったんだ。今年も記帳したけど、神姫祭には必ず前日までに、記帳しなきゃいけないよね。参加者全員、村人も含めて。それが出来なかったんだ。当日、薄暗がりの夕方森を上っていった。もう殆ど真っ暗だったが、せめて雛灯篭だけは見て帰りたいと思って濃い霧の中を歩いていったよ。この地方はこの時期に、割と長い時間濃霧が立ち込めるっていうのは知ってたんだけど、夕闇も相まって視界は殆ど無かった。不思議なことに、いつまで経っても祭りのお囃子どころか村の明かりも見えてこなかったんだ。しかし、ある程度道は舗装されてるから、おそらく村に着いたんだ思う。村にも深い霧が立ち込めていて、とても祭りをやっているような雰囲気ではなかったね。けど、湖佳橋で淡く何かが光っていた。それが人だったのかどうかも分からないけれど……」

 そこまで語り終えて、東吾さんは一度空を見上げる。また思い出したようにぽつりと話し出した。

「気が付いたら僕は、織水の宿で目が覚めた。次の日の朝だった。昨晩、僕を運んでくれたのは叶那だったらしい。山の近くで倒れている僕を見て、大人を呼んでくれたらしいんだ。次の日、村を訪れてみると、みな平然と祭りの後片付けをしていた。僕はその時祭りに参加出来なかったから今回みたいに、村の中がどういう風になっていたか分からないんだけどね。それから神社に行き、ミヅキさんを訪ねると……魅月という僕の知らない女の子がいた。僕が知っているミヅキさんとは何度か話した程度だったけれど、もう少し背が高くて、容姿は魅月さんと同じように綺麗な子なんだが、顔が違ったんだ。狐に摘まれたような気分だったね。いや、ミヅキさんは違う人だといっても聞き入れてもらえなかった。その時思ったんだ、この村には何か得体の知れないものが眠っているのかもしれない、とね……。あの日、この村で何かが起きていた。だけれども、それが何なのか分からない。それから毎年この村を訪れて、去年と今年は遅刻せず祭りには参加できた。しかし、僕の記憶では何も起こらなかった……。でも君は、とても思い詰めたような顔をしていたね。良かったら、話してくれないかな」

 東吾さんは長い語りを終えて、俺に顔を向ける。

 ようやく足元がしっかりしてきたところで、手すりから離れて両足の踏みしめる感触を確かめた。

 そして、俺の主観で起こった事の顛末を東吾さんに話した。

 神姫祭の最後は祝賀会なんて開かれなかったこと、伝承になぞらえて楓先輩が狂気に走り、織恵が殺されてしまったこと、そして織恵が消え先輩が自失してしまったことなど、俺が分かる範囲で情報を共有した。


「どうして人は、誰かを想う時、どこまでもまっすぐになれるのだろうね……」


 それは東吾さんが俺に言ったのか、自分に言ったのか分からなかった。

 しかしその呟きは目を伏せた横顔を見ていると、何かを噛み締めているようにも見える。


「きっと楠木くんも美月さんのことを、大切に思っていた。……そうか、なるほど。確かにあの時、ミヅキという女性は存在していたんだ。それがなぜか、魅月という女性と入れ替わり、皆の記憶から消えていた。だが、楠木くんだけには残っていた。そして、伝承になぞらえて美月さんの復活を企てた……。しかし、皮肉なことに彼女は帰ってこなかった。それどころか、彼の大切な記憶さえも抜き取られてしまった。伝承のように言い方を変えれば、食べられてしまったということか……〝織恵という女性〟に……」

「織恵は、そんなつもりじゃ……」

 俺は否定したくて口を開いた。でも、その後に続く言葉を重ねられなかった。東吾さんの記憶からも織恵は消えてしまっていたから。愛称を付けて呼ぶ東吾さんと織恵は、馬が合う二人だった。それなのに、他人事のように呟いた言葉が俺の胸を抉ったのだ。

「愁次くんを、食べ損ねたのかもしれないね」

「え?」

「もし仮に、〝織恵さん〟が今回の雛なのだとしたら、君の記憶だけは食べられなかった……。いや、食べたくなかったのかもしれないね。何かを期待したのか、そう出来ない理由があったのかは分からないけれど。しかし、これではまた彼女が懸念していたように負の連鎖が起こってしまうね。今覚えているのは愁次くん、君だけだ。来年、もしくは数年後にまた君が織恵という女性の為に、同じことをしてしまうのではないかと僕は不安だよ」

「俺は……」

 東吾さんに指摘されるまでもなく、先ほど考えていた。俺が狂気に心を明け渡し、楓先輩の後を追うようなことがあれば、きっと末路は同じ。それでは織恵も浮かばれない。

 そもそも、織恵の導いた答えが事実として偽りの真実にされているような気もする。それが分からない限り、俺が取るべき方法ではないようにも思える。

「さしずめ、君が狂気の水になり、彼女を写し鏡として、誰かを月に選ぶ。それが、この謎に関わった人の末路で、永遠と繰り返されてきた〝終わらない業〟なのかもしれない」

 この村の歴史を紐解けば、それが伝承として受け継がれている以上、限りなく真実に近い神姫村の闇といえるだろう。

 ただ、それを真実とするか〝偽実〟とするかは俺たち人の手に委ねられているということか……。自分は手を汚さない所を見ると、裏で手を引いてるやつが居てもおかしくない。

 それは神か、鬼か、それとも俺の知らない闇なのか。先輩は狂気に取り憑かれて、村に宣戦布告した。でも、そいつを炙り出すことは叶わなかった。だから先輩は織恵を処すことで、美月という女性との邂逅を願ったんだ。

 俺は結局、この振り上げた拳をどこに下ろせばいいのか、分からない……。

「愁次くん、君はどうして大学に?」

 東吾さんは、気分転換とでもいうように話題を変えた。

「実は俺、今回が初めてじゃないんです。小さい頃、似たような記憶の食い違いがあって……。その正体を突き止めるために、人の記憶のことだったり心理的なことを勉強して、本当に俺の記憶がおかしいのかを確かめたくて、村を出ました」

「そうだったのか……」

「けど、三年も勉強して至った仮説が、自分の記憶や人に対してじゃなく村を疑うものになったんです。とんだ劣等生ですよね」

「村を疑う?」

「自分の生まれた村をこんな風に言うのも変ですけど、神姫村は異質です。この村が抱える大きな何かが人間の心理に作用して、結果村人の記憶に影響を及ぼしてるんじゃないかって。そんな風に思えてならないんです。記憶を知れば知るほど、整理の仕方や記憶力は十人十色ですが、忘れるという作業は自衛の為や精神の安定の為に無意識に行われる場合があります。だから、脳の働きとしては正常なんです。そう考えると外的要因があったんじゃないかって考える方が自然じゃないですか?」

「僕はそっちの専門ではないから分からないけど、確かに精神疾患で一時的な記憶喪失になるというのも聞いたことがある。ただ、これだけ多くの人数が一度に……と考えるのは、それだけじゃない要因がありそうだね」

「でも、それも分からなくなりました。村に限って言えば、集団心理に作用する何かがあるかもしれないと思ってたんですが……。さっき、大学に電話したら織恵なんて学生は居ないって言われたんです。そこにたまたま居合わせた、織恵と親しかった友人が居たんですが、彼女も織恵のことを覚えていませんでした。これが、どういうことか分かりますか?」

「……村人だけに留まらず、織恵さんが関わったすべての人に何かが作用した。転じて、内部の問題だけではないってことかな」

「はい。そんな大規模なカラクリ、プロパガンダでも起こして日本中に催眠術でも掛けない限り無理ですよ。とんだオカルトもいいところです。結果的に一番信憑性が高いのは、村の伝承によって雛が記憶を食べたから。というところに帰結してしまうんです。どちらも同じくらい、信じられないんですけどね」

「神姫村は、神と鬼が対立し伝承が蔓延る村だから、か……」

 俺は一体、何と戦っているんだろうな……。見えない何かに怯えて、記憶の代償に苛まれていく。誰かが消えたことを、誰も気づかずに……。


「ただ、俺には……織恵が言ったアレが真実だとは思えないんです」

「愁次くん……」

「もっと違う何かが、もっとおぞましい何かが、この村には潜んでる。けど、それを解く手掛かりもきっと、天照大神の謎に隠されているんじゃないかって思ってます」

「……それを聞いて、少し安心したよ。君が鬼に心を明け渡していたら、こうして話も出来なかったからね。相談ならいつでも乗るよ」

 そして東吾さんは、俺の肩を二回叩いて別れの挨拶を告げた。


 俺は湖面を見つめ、降り出した雪も構わずに全てが終わった佳ノ湖に告げた。


 織恵……俺は絶対、諦めないからな……。

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