十、消失

「かはッ! ……はぁっ、はぁっ、はぁ……はぁ……」

 息が荒い。呼吸が乱れている。心臓が破裂しそうだ。落ち着け……俺……。

 寝覚めが悪い。たまにあるとはいえ、こうも続くと寝るのが嫌になるな。

 部屋を見渡して懐かしい雰囲気を感じると、帰省していたことを思い出した。

「ふぅ。寒いな、今何時だ……?」

 部屋の時計は朝八時を回っていた。思いの他寝坊してしまっている。昨日は遅くまで祭で騒いでいたからな。疲れも溜まっていたんだろう。

 特に、魅月さんとマユラは出ずっぱりだったからな、俺の彫った面で本当に良く頑張っていた。今日会ったらちゃんと労ってやらないと。神楽舞は三年振りだったけど、やっぱり印象的だった。ずっと帰らなかった分、感動も大きくなっていたに違いない。

 それから雛灯篭も綺麗だった。神姫祭の華だよな、今年は観光客も多くて佳ノ湖は灯篭で埋まってるみたいだった。俺も順番に並んで、今回は魅月さんに灯篭にキスをしてもらったっけ。あの人は俺を見ていつも遊んでるよ、悪戯っぽい表情で茶化してくる。まぁ、それは茶目っ気があるってことで魅力ではあるんだが、ドキドキしてしまってやりづらい。

 それから、織恵のお母さんに火をつけてもらって浮かべたんだ。それで――。

「……あれ、その後何かあったような……」

 ん? おかしいな、よく思い出せない。みんなが灯篭を浮かべて、観光客たちも順番に浮かべていって、佳ノ湖は灯篭で一杯になった。綺麗だなって皆で言って、楓先輩が演説をして大盛況のうちに終わった……んだよな?

「なんか、違和感……。まぁ、気のせいか」

 今日はその灯篭の回収作業を手伝うことになっている。お祭りはみんなで楽しんだなら、みんなで片付けないといけない。それをしっかりやるから、佳ノ湖は今日まで綺麗な状態を保てているんだ。楽しませてもらった分、お返しをしないとな。

「よし、行くか」

 着替えをして、居間に降りることにした。


「おはよう、愁次。昨日はお疲れ様な。神楽舞で良い出来栄えなのが見てて分かったぞ。来年も任せたいんだがな」

「あ、ありがとう父さん。でもまだ来年は、ちょっと気が早いよ」

「愁次、おはよう。昨日お店に並べてた小物、大分売れたのよ。愁次が彫ったのも子供たちに人気でねぇ」

「そっか、良かった。売れなかったらどうしようかと思ったよ」

「愁次はお父さんよりデザインがいいからね。若い子たちに人気なんだよ」

「はは、父さんは父さんの味があるよ。俺のは、今の子たち向けっていうか」

「いいんよ。これからは愁次の時代さね。新しいもの作っていかんと」

 祭りでの出店はうちにとっても初めての試みだったが、俺が作ったものが並ぶというのも人生初だった。そろそろ世代交代とはいえ、やっぱり自分が彫ったものが売れるのは嬉しかった。来年もまた楓先輩が企画するなら、うちも出展することになるかもしれない。そうしたら、俺もまた新作を引っ下げて来ないといけないな。

「そうそう、まゆちゃんと魅月ちゃんも綺麗だったわ。水沢の咲ちゃんと笑ちゃんたちも来てくれたし、国中さんっていう方とも愁次、知り合いだったのよねぇ。ステージなんて神姫祭でやったことなかったけど、楓くんが企画したんでしょう? 若い子たちが頑張ってくれてこの村も、先が楽しみね」

「そうだな。しっかり次の世代に受け継いでいかんとな」

「あ、ああ……」

 父さんたちは昨日のことを楽しそうに振り返っている。けど、ちょっと変な感じがした。

 幼馴染で、俺の次にはいつも名前が出るようなやつで、小鳥居家とうちは良好な関係を築いているはずなんだが、織恵の名前が出てこない。

 それがなんだか気持ち悪くて、やや無理やりに言ってやった。

「お、織恵も来年は舞台に立たなきゃなって言ってたよ。神姫祭の準備も手伝わせちゃったし、後でお礼言わないと。はは……は……」

「おりえ……? どこの子だい、愁次。舞台には普通の家の子は上がれんよ」

「ど、どこの子って、織恵だよ。幼馴染の、小鳥居家の一人娘で、神社で巫女の手伝いもしてただろ?」

「ちょっと愁次、変な夢でも見たの? あ、ひょっとして大学で彼女でも出来たのかしら」

 ……な、何言ってるんだ? 織恵だぞ、ずっと一緒に遊んでた幼馴染の織恵。母さんたちもよく織恵の話をしてたじゃないか。

「いや、母さんたちこそ何言ってるんだよ……? 昨日だって俺と一緒に居たじゃないか、ステージで体験教室やってるときも居ただろ? 俺と織恵は神姫村の伝統を受け継ぐために、俺は彫り物を、織恵は和紙をちゃんと勉強してる。確かに、三年も家を開けてたけど、先週帰ってきたじゃないか」

「……ああ、愁次は確かに先週帰ってきたな。でも他に帰って来た子なんて居たかい?」

「いいえ、私は聞いてないわ。それに愁次、小鳥居さんのとこは子供が出来なかったのよ。忘れちゃったの? それでまゆちゃんを養子に迎えたんだから」

 ちょっと待て……ちょっと待て! 何を言い出すんだ? 訳が分からない。さも当然のように織恵の存在が抜け落ちている。

 俺は頭の中が混乱して、訳が分からなくなった。頭を掻き毟って、今何が起きているのか把握しようと努める。

 織恵が居ない……? 小鳥居家は子供が出来なくて、マユラが養子縁組になったって? おいおい……そんな馬鹿なことって。これじゃあまるで……あの時と一緒じゃないか、そんなことがあってたまるか! マユラが小鳥居家に入って育てられてきたなら、あいつの苗字は小鳥居なのか? いや、そんな話は聞いたことが無い。どこに住んでるかも知らないくらいだが、もともとマユラは小鳥居家が育ててたってことなのか?

 違う、マユラのことはいい。織恵だ。どうしていきなり織恵が居なくなってるんだ? 昨日の今日だぞ、大学でも三年間一緒に通ってたんだぞ。何が起こってるんだ……?


 嫌な想像が頭をもたげてくる。昨日を境に消えた織恵、昨日あったことと言えば何だ? 神姫祭……。変な伝承が言い伝えられてる。まさかそんなことあるわけないって思ってた、けど……。

 雛流し――。

「っ……!」

「あ、ちょっと愁次!」

 母さんが呼ぶ声に止まってなどいられない。確かめに行こうじゃないか、小鳥居神社に!

 俺は上着も羽織らずに玄関を飛び出して、太陽の見えない厚い雲の下で神社に走った。


 

 鳥居の前、昨日降った雪は綺麗に除雪され、石畳はいつものように綺麗になっていた。

 今日はもう除雪作業は終わったのだろう、すでに作業隊は佳ノ湖に下りて回収作業に入っているかもしれない。

 その前に、確かめなきゃ。この時間なら織恵は、境内で掃除をしているはず……。

「はっ、はっ……。あ、れは……」

 拝殿の舞台を見上げて佇んでいる後姿は、巫女服ではなく艶やかな着物だった。

 それだけで、誰が居たのかが分かる。

「魅月さん!」

「……愁次? どうし――」

「織恵は!? 織恵を見ませんでしたか!?」

 俺は勢い余って、魅月さんの両肩を掴んで揺さぶってしまう。

「痛っ。ど、どうしたの突然」

「あ、すいません。おかしいんです! 織恵を見ませんでした!?」

「落ち着いて! そんなに取り乱してたら分からないわ。誰の話をしているの?」

「だ、だから織恵ですよ! 小鳥居家の一人娘で、俺と同い年の! 今年、三年振りに――」

「落ち着きなさい!」

 パシン――。右頬をしたたかに叩かれた。

 それで俺の頭に上っていた血が急激に冷めていくが分かる。らしくも無く、大声を出してしまっていたようだ。弾かれた頬が、じんわりと熱を帯びる。

「……あなたが大声を出すなんて珍しい。何があったの? ちゃんと、ゆっくり説明して?」

 脱力して、一度深呼吸する。まだ頭の中が混乱していて、うまく言葉に出来そうにない。目が覚めたらいつもどおりの朝だったはずだ。なのに、誰も織恵のことを知らないなんて、どこの世界の話なんだよ。

 神姫祭を境に織恵の存在だけが、消えてしまった……?

「もう一回……聞いても、いいですか」

「うん」

「魅月さんは、織恵を……小鳥居織恵って知ってますか?」

「……残念だけど、心当たりが無いわ。小鳥居家にも、織恵という女性は居ないはずよ」

「っ……。どうして……。じゃあ昨日、神姫祭はありましたよね?」

「ええ、去年よりも多くの人が来てくれて、新しい試みも多かったけれど楽しいお祭りだったわ」

「ここで、神楽は踊りましたか?」

「ええ。あなたが彫ってくれた面の付け心地は悪くなかったわ。ありがとう」

「暗かったと思いますけど、俺たち前の方の席で見てました。気づきましたか?」

「目が合ったじゃない。しっかり見ててくれたでしょう? すぐ傍に咲と国中さんが居て、途中から笑も来たみたいね」

「……ステージで、観光客の人を巻き込んで体験教室をやりました。小鳥居家は誰がやってましたか?」

「夏織さんよ。アシスタントは繭だったわ。後半私と繭は舞台があったから、早めに抜けたけれど」

 織恵の場所に、マユラが収まっている。どこを探しても織恵がいない。

「マユラって、本名は何て言うんですか? 孤児ですよね?」

「愁次、あの子の前でそれは言っちゃ駄目よ? 小鳥居繭羅、十五年前に森で見つかった子。特徴的な赤い目と、出自の関係で神童扱いされているけれど、至って普通の女の子よ」

「……祭りの最後、雛灯篭はいつもどおり出来ましたっけ」

「今年は私がキスしてあげたのに、忘れちゃったの?」

「いや、そういうことじゃなくて……その後です」

「……ごめんなさい。茶化すところじゃなかったわね。そうね、皆が思い思いに浮かべて、今年も佳ノ湖は綺麗だったわ。その後は楠木くんが閉会宣言をして、祝賀会でみんな一緒にお酒を飲んだの。愁次は酔い潰れちゃってたけど」

「その、祝賀会の記憶がありません。そんなに飲んだかな……」

「ふふ、愁次はお酒が弱いのね。お父様は酒豪なのに」

 祝賀会なんて……無かった。俺は行った覚えがない。だって俺は――。


『ご――ね、――鳥ちゃん。僕は――』

『まる――、ここは、舞台――ね……』

『やめろッ――』


 なんだ、これ……。フラッシュバックのように、何かが脳裏に蘇る。

 それは確か、湖佳橋の上で繰り広げられた……。


「少しは落ち着いた? 愁次、まだちょっと顔色が良くないみたいだけど」

 魅月さんが顔を覗き込んでくる。目が合って咄嗟に一歩引いてしまう。

「正直、驚いたわ。あなたが何を言っているのか分からなかったけれど、その、織恵という人が居たのに目が覚めたら、そんな人は居ないって言われて動転してたのね。寝覚めが悪いのか、タチの悪い夢に浮かされちゃったのかしら。それとも……私は覚えていないけれど、もしもそんな小鳥が居たのなら青い鳥のように籠から出て行ってしまったのかも。仮にそうだとしたら、名前は〝おりえ〟じゃなくて〝〟ね」

 魅月さんが何を言わんとしているか理解出来ない。ただ、魅月さんが織恵のことを他人事のように呼んだことが辛かった。

「私も聞いていい? 大学にはすぐ戻るの? あと一年で卒業よね」

「……そうですね。もうすぐ、春休みも……あ、大学!」

 そうだ、大学だ。俺たちは一緒に大学に入学した。ここから離れた場所なら、織恵のことも……。

「俺もう行きます! すいません!」

「待って愁次!」

 魅月さんの制止も構わず、俺は公衆電話に向かった。

 公衆電話は何箇所かあるが、ここから一番近いのは中央だ。とにかく今は、早く確かめなければ気がすまない。逸る気持ちを抑え、それでも足は全力疾走で一分一秒が惜しくて駆けた。

 目当ての電話ボックスに到着し、扉を思い切り引く。

 お金を入れて番号を確認すると、受話器を持つ手が躊躇する。もし……もしも、学校まで織恵の存在が消えてしまっていたなら……俺は……。


「……もしもし、そちらの大学に在学中の、三年の花明愁次です」

 電話に出てくれたのは、講義を担当してくれている先生だった。名前を言っただけで、俺であることを理解してくれた。

「ああ、花明君。どうですか、久々の里帰りでしょう。ずっと帰られていなかったんですよね」

「はい。あの、早速ですいません。社会福祉学部の小鳥居織恵のことなんですけど……」

「小鳥居さん? 社会福祉学部の学生ですか? それなら、田中先生ですね。ちょっと待ってくださいね」

 それからしばらく保留音が流れる。それがじれったくて、台を拳で叩いてしまった。

「もしもし?」

 女性の声が聞こえた。おそらく、田中先生だ。

「あ、おはようございます。人間福祉学部三年の花明愁次です。そちらの学部に在籍している小鳥居織恵のことでお電話したんですけど」

「……小鳥居、織恵さん? そんな名前の学生さんいたかしら……。ちょっと待ってね、名簿見るから」

 おかしい……。この時点ですでに嫌な予感は的中していた。学生が多いとはいえ、織恵のような社交的な学生を先生が認知していないはずがない。ましてや織恵は、成績だって上位にいたはずだ。あまり交流をしない俺とは対照的に、織恵は先生が目を掛けたい学生の一人だろう。

 しかし……。

「もしもし、花明君? ごめんね、やっぱり小鳥居という名前の学生はウチには居ないみたいよ? 他の学部じゃないかしら」

「……」

 そんな、馬鹿な……。つい先週まで通ってたんだぞ……。

 これじゃ本当に初めから、織恵なんて人間は居なかったってことじゃないか。ここは本当に、今まで俺が生きてた世界なのか?

 昨日と今日でまったく別世界に来たような錯覚を覚える。俺が二十一年生きてきて、ずっと目の届く場所に居た織恵。地元の高校も一緒に卒業したし、色々あったけど大学も同じところに入学したし、それから三年間は別の学部だったけどたまに校舎ですれ違ったり、休みの日には飯だって食べにいったりしてたのに……。

「どうする? 他の先生に電話変わろうか?」

「いえ……ありがとうございました……」

「あ、古谷さん。……そう、別の学部の花明君から。あら、知り合いなの?」

 電話口で田中先生が、誰かと話している。古谷……。古谷佳苗か……?

 古谷といえば、織恵と良く話している一番仲の良いやつだ。俺も古谷のことは知っている。織恵と親しいあいつなら、覚えているはず!

「あ、先生! すいません、そこに古谷がいるんですか? ちょっと変わってもらえませんか!」

「ええ、いいけど。古谷さん、花明君が電話変わって欲しいって」

 すると間もなく、古谷が電話口に出た。織恵と馬が合う相手だ、負けず劣らずの明るい性格の持ち主だ。

「もしもしー? 愁次君? 今、里帰り中なんだってね。確か山の方だったっけ? 私には帰れる田舎が無いから羨ましいよ。そうだ! 今度連れてってよ!」

「あ、ああ……。それより古谷! 変なこと聞くようだけど、教えてくれ!」

「ん? どしたの?」

「織恵って知ってるよな? 同じ三年の、お前とよく一緒に居た、小鳥居織恵のこと……」

「……おりえー? 詩織じゃなくて?」

「織恵だよ! 底抜けに明るくて、先生の評判も良かったじゃないか、いつも話してたよな!?」

「ま、待って待って。何でそんなに怒ってんのさ。おりえなんて子、私知らないよ? 誰かと勘違いしてない?」

「そ、んな……」

「私がよく話してるのは詩織。ごめんけど、おりえって友達は居ないかな」

「覚えて……ないのか……?」

「覚えても何も、話したことあったっけ? うーん」

 そんな、古谷まで織恵のことを……。

「あ、ごめん。先生がそろそろ終われって。今度、連れてってね。かみ……かみひめ村、だっけ?」

 俺の耳にはもう古谷の声は届いていない。何かを聞かれてるような気がしたが、答える気力もなくなっていた。

 すぐに先生が電話口に出て、形式的な言葉を返した。

「はい。もしもし花明君? 長い春休みだけど、羽根を伸ばし過ぎないようにね。それじゃ」

 電話が切れた後のツーツーというビジートーンが鼓膜を叩く。

「嘘……だろ……」

 力なく受話器を戻し、その場にへたり込む。 

 昨日を境に、織恵の存在がこの世界から消えてしまった――。



 雪が降ってきた。

 神姫村に帰ってきてから、一度も太陽を見ていない気がする。この村には元々、太陽は居なかったんじゃないだろうか。ずっと白く重い雲だけが俺を見下ろしていた。

 雨が涙なら、雪は何だろう。さしずめ、記憶か……。雲に居たときはたくさんの思い出と、経験と、色んな懐かしいものがあったのに、雪になって落ちると溶けて消えてしまう。まるで、初めから無かったように。

 落ちた雪は水溜りを作るが、しばらくすると蒸発してその地面は濡れていたのか、雪が落ちていたのかすら分からなくなってしまう。

 俺がまだ物心つく前、姉さんの記憶がみんなから溶けて消えたように、織恵もまた俺から消えていくのか……。あの頃ならまだ、長い一日に起こった出来事の一つみたいに、時間が経ったら忘れてしまうように気のせいだったと思い直すことも出来た。

 けど、二十一年だぞ……どれだけ長い間織恵と過ごしてきたっていうんだ。こんな簡単に人が生きていた証が無くなってしまうなら、俺が今まで積み上げてきたものは一体何の意味があるというのだろう。このまま自ら生きることを放棄したって、同じなんじゃないか……?

 人の記憶ってのは、そんなに簡単に忘れられるものなのか? この三年間、記憶のメカニズムや、それぞれの器官の役割、シナプスの可塑性、シグナルの伝達経路。脳科学の分野まで勉強してきた。それに加えて、集団における心理効果や、習慣による不可逆性など人の心理面のことも考えてきた。

 なのに結局のところ俺は、人そのものに対してではなくこの村の歪んだ暗澹たる悪弊が、村人をそうさせてるんじゃないかと思い至った。とんだ劣等生だよ。

 人は業に生きてる。この村の人たちの記憶を疑うんじゃなく、俺も知らない業深き何かがこの村には潜んでいるのかもしれない。それが何なのか、今になっても分からない。織恵が消えた今、ごっそりみんなの記憶が無くなるなんて芸当を、人が出来るなんて信じられない。

 育ててくれた村に対して、村ぐるみで俺を落としいれようとしているんじゃないか。そしてそれは村人の総意ではなく、神姫村はもう俺の知っている村じゃなくなっているのかもしれない。そんなあやふやな仮説はもはや、仮説とも呼べない。

 神姫村内部だけの話なら、村中を駆け回って織恵の生きた痕跡を探して黒幕の首根っこを掴むことも出来たかもしれない。けど、遠い大学にまで織恵の存在がなかったことにされているなんて、何をどう説明すればいいんだ。

 俺は昨日までの行いが、何か間違っていたのだろうか……。

 何がいけなかったんだ? 本当に伝承どおり雛流しにされたのか、天照大神の謎が解けなかったから生贄にされたのか、もう訳が分からない。何なんだよ、それ……。

 雛流しは、誰かの罪を背負って生贄にされた少女が、その代償として「死ぬくらいならせめて、私のことなんか忘れてしまえ」と、記憶を食むというものだ。織恵は誰の、何の罪を背負わされたっていうんだよ。

 謎が解けなかったからだとしたら、それは自分の罪ということか?

 天照大神の謎も、確かにいわくつきなのは分かってた。けど、この現代で生贄なんてそんなことあるわけないって高を括っていた。織恵に頼られて、何とかしなきゃと思いつつも軽い謎解き遊びだと思っていたのかもしれない……。

 鏡水月の意味が分かって、なんとなく解けたような気がしていた。けど、その先を想像するのが怖くて、明言はさけて終わったんだ。あの後、織恵は核心に迫ったのだろうか……それで、消された?

 あれ、織恵は確かどこかで、答えに辿り着いていたような……。また変な感覚だ。

 俺はまだ織恵に、何一つ恩返しも出来ていないというのに――。

 姉さんも消えて、織恵も消えて、一体この村は俺から何を奪えば気が済むんだろうか……。


…………。


 電話ボックスの周りにはいつしか雪が積もり、短くない時間が経っていたことが分かった。

 もう、動きたくない。雪が溶けるまで、ここにいるか……。

「あれ? 花明せんぱーい。もしもーし?」

 電話ボックスを叩く音がする。

 目を開けると、そこには水沢姉妹が居た。俺の座り込んだ様子を見て、不思議そうに顔を見合わせている。

「あ、待って笑。私が開ける」

 咲は傘をたたむと、バッグから薄緑色のラインが入ったタオルを取り出した。電話ボックスを開けて、俺の前に差し出した。

「髪の毛濡れてますね、傘差さずに来ちゃったんですか? これ、使ってください」

 俺は咲からタオルを受け取り、ぼ~っと眺める。

「やっぱり花明先輩だ! 昨日は楽しかったですねぇ。そういえば、先輩が彫ったっていうの買ったんですよ、ほら!」

「私もです。可愛いから買ってしまいました。今度はお店にも遊びに行きますね」

「わたし常連になっちゃいそう。新しいの作ったらまた教えてくださいね!」

「……ああ」

 空返事を返してしまう。きっと二人も、織恵のことを忘れているんだろう。

「愁次さん、大丈夫です? 顔色が良くないですよ」

「……ああ」

「お、お疲れみたいですねぇ。伝統工芸の体験会、人たくさん来ましたから、一晩じゃ回復しないかな」

「お疲れ様です、愁次さん。でもこんな所じゃなく、お家で休んでくださいね」

「二人は……」

 未練だった。返事は分かりきっていたはずなのに、聞かなければ良かったのに、また傷口を広げようとしている。

「織恵と、会ったか?」

「え、誰です?」

「……笑は」

「おり……? んん~?」

「……」

 分かっていた。ここにはもう、織恵は居ないんだ……。

「悪い、一人にしてくれないか」

「……何か、お力になれなくてごめんなさい。せめて、中央で休んでくださいね。傘良かったら使ってください。いこ、笑」

「うん。花明先輩、よく分からないけど元気出してくださいね」

 咲は自分の傘を置いてしまったので、笑の傘に二人で入り仲良くこの場を去った。

 人が変わってしまったようだ、と思うのは二人からすれば俺のことだろう。咲とは良好な関係が築けていたと思う。笑とだって、何度も話しているし姉の友人として見てくれていた。それが、こんなぞんざいな対応をしてしまって印象を悪くしたに違いない。

 しかしそれも、どうでもよかった……。



 それからどれほどの時間放心していただろう。

 このままここに居ても何も変わらない。回収作業を手伝うことになっていたが、それも億劫になってしまった。

 駄目もとで、最後のピースに懸けてみよう。これが無くなったら、俺は認めざるを得なくなるに違いない。織恵が消えてしまった事実は、天寿を全うして生の幕を下ろしたのではなく、二十一年という織恵が生きた痕跡すらも無くなったことを意味する。

 それが分かったとして、俺はどうしたいのだろう。もうすでに、俺は混乱を通り越して考えることを拒否している。何を口走るかも分からない。

 そんな状態で、ふらふらと小鳥居本家へと向かった。


 見慣れた外装。懐かしさと同時に、静まり返った大きな庭はいつもと変わらない、織恵が駆け回っていた姿が目に浮かぶ。そこは雪の絨毯が敷かれていて、模様のような飛び石がかろうじて足場を残していた。

 右手には作業場、正面は玄関に通じる飛び石を無視して、俺は絨毯を踏んだ。

「いってらっしゃい、繭。足元滑らないようにね」

「はい。帰りは夕方になります。行ってきます」

 玄関から出てきたのは織恵の母さんと、マユラだった。こんな光景は初めて見る。

 本来ならば、そこから織恵が出てくるはずだ。しかし、普段見られる日常に織恵が居なくてマユラがいる。この矛盾を感じているのは、おそらくこの村で俺だけだろう。

「あら、愁次君? おはよう、昨日はお疲れ様。そんなところに立って誰かと待ち合わせ? あ、繭を迎えに来てくれたの?」

 言い慣れた言葉のようにマユラの名前を呼んでいる。


『親が自分の子のことを忘れるわけ無いだろ!』


 誰かが脳内で叫んでいる。しかしそれが相手に届くことは無い、俺はぼーっとマユラを見つめていた……。

「今日はお昼から天気崩れるみたいだから、二人とも足元気をつけてね」

 夏織さんは微笑んで家の中に戻っていった。変わりにマユラが俺の方に駆けてくる。

「愁次さん、おはようございます。昨日は楽しかったですね。愁次さんが彫ってくれたお面も最後まで息苦しく無かったです。ありがとうございました」

「ああ……」

「どうしました? まだ疲れてるみたいです」

「ああ、疲れちまったな……。マユラは、ずっとここに住んでるのか?」

「え? 急にどうしたんですか? ワタシはずっとここに居ますよ?」

「そう、だったな。はは……」

 乾いた笑いが込み上げてくる。自分でも頭で理解できる範疇を超えて投げやりになっているのが分かる。

「なんかさ、遠い昔。ここに幼馴染がいた気がするんだ。織恵っていうんだけどさ、底抜けに明るくて、社交的だから皆から好かれてて、そのくせ小さい事をくよくよ悩んで。落ち込みやすい所もあったけど、すぐに元気を取り戻して本当に忙しい奴だったよ」

「……」

「マユラに聞くのもおかしいんだけど、雛って本当に居るのかな。マユラは自分が神姫って言われるのは、嫌じゃないか?」

「ワタシは……この村が好きですから。でも、学校ではワタシの目のことをみんな怖がります。だから、ここに居るときだけはそう呼ばれるのも嫌いじゃ、ないです」

「そうか……」

 俺は何を言ってるんだろうな。マユラの目を見てると不思議と感傷的になってしまった。雪が本降りになる前に帰ろう。いや、その前に佳ノ湖に顔は出さないとまずいか。

「ごめんな。俺行くから」

「あ、愁次さん……」

 マユラのすがるような声から目を背けて、踵を返す。

「愁次さん! また来年もワタシのお面彫ってくださいね! 楽しみにしてますから!」

 気遣うようなマユラの声に、俺は振り返らずに片手を上げて応えた。織恵の居ない小鳥居家なんて、長い時間居られないな……。

 逃げるようにしてその場を離れた。マユラがまだ何か言っていたようだが、俺の耳には届かなかった。



 佳ノ湖には、もう殆ど灯篭は残っていなかった。

 大方取り終えてしまったのだろう、さすがに仕事が早い。出店やステージの撤収作業も進められていて、俺の出番はもう無いかもしれない。遅れてきたとはいえ、せめて残りの灯篭を……。

「やあ、シュウジ」

 気さくに声を掛けてきたのは楓先輩だった。いつもどおりのやわらかい笑顔で、手を振っている。

「楓、先輩……。あっ……」

 今度は脳裏じゃなく、目の前にノイズのように再生された映像。湖佳橋の上で、涙ながらに何かを訴えている先輩。そこに織恵がやってきて、その後――。

 駄目だ、ノイズがひどい。

「昨日はお疲れ様。シュウジのお陰で、観光客の人たちにもこの村の伝統文化に触れてもらうことが出来た。ありがとうね」

 先輩はいつもどおりだと思ったが、どこか様子がおかしい。うまくいえないけれど、覇気が無さ過ぎるというか……。

「ただ……僕は何か、大切ことを忘れてしまった気がしてならないんだ。どうして、あまぎり会なんかに入ろうと思ったんだろう。誰かの為だった気がするんだけど、思い出せなくて。初めて神姫祭を仕切って、僕なりによく出来たと思う。みんなの拍手も覚えているよ。なのに、昨日まで強い想いがあったはずなのにそれが何なのかわからないんだ。それを思い出せないことが、辛いんだ……」

「え、先輩それって……」

 楓先輩は織恵のことを忘れたけど、その自覚があるのだろうか。俺は思い切って、織恵の名前を出した。

「ひょっとして、織恵のことじゃないですか? 先輩は、織恵のこと覚えてないですか?」

「おりえ……いや、そういう名前の子じゃなかったと思う。なんだか、ぽっかり穴が開いちゃったみたいで、それがどうしようもなく辛いんだ。はは……僕はどうして、神姫祭の指揮なんか、取らなきゃいけなかったのかな……」

 その返答だけで分かった。先輩も織恵のことを覚えていない。

 先輩は、織恵じゃなく誰かのことを探している。名前は覚えていないけれど、先輩は昨日必死で何かを訴えていた。もしかしたら、その人のことかもしれない。

 涙を流して鬼気迫るものがあった。よほど強い想いがあったに違いない。

「この村には色んな伝承があるよね。神姫祭は特に、雛流しというのが伝わってる。もしかしたら僕は、その子に大事な記憶まで持っていかれちゃったのかな……。そんな風に思えてならないよ。僕はきっと、その子のことが好きだったんだ。まるで、転校でどこかに引っ越しちゃって、連絡も出来ずに、忘れてくれって言われたみたいな感じだよ」

 きついな……。楓先輩は、疲れではなく精神的にやつれてしまっている。極端に言えば、別人みたいに目が虚ろだ。

 俺も人のことを気にかけている余裕もないが、忘れたことを自覚していなかったらどんなに楽だっただろう。しかし、覚えている。俺は織恵のことを、覚えている。

 先輩は〝忘れてしまったこと〟を、覚えている。見えない雲を掴もうとしているようなものだ。それも精神を疲弊させるのだろう。

「あ、ごめんよ。変なことを言って。もうじき片付けは終わると思う。わざわざ来てくれてありがとうね」

 先輩は、無気力に手を上げてゆっくりとした足取りで去っていった。

 あんなに小さく肩を丸めた先輩を見てしまったら、何も言えなくなってしまった。先輩にあったら何か言わなきゃいけないことがあった気がするが、それも考えるのをやめた。


 本当に、一体この村はどうしてしまったんだ。俺は織恵のことを覚えていて、皆は忘れてしまっている。楓先輩は織恵とは違う、想い人のことを忘れてしまい自失してしまった。今年の神姫祭は、大盛況のうちに終わったんじゃなかったのか……。


 誰か、教えてくれ……!

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