九、神姫祭が終わる頃

 神姫祭かみきまつり――。

 年に一度だけしかないこの地方ならではの冬のお祭りである。

 風物詩は「雛灯篭」と呼ばれ、村の象徴ともいうべき佳ノ湖の湖面に灯篭を浮かべる催しだ。

 今年は例年より多くの観光客が訪れていた。宿泊施設はどこも満室、ホームステイとして受け入れている古民家の宿泊者数も増え、大勢の参列者たちが小鳥居神社へとやってきていた。

 神姫祭のメインイベントの一つ「飛騨ひだ守姫かみき神楽かぐら」が奉納されるのは、午後五時からとなっている。この人垣は別のものを目当てに集まっているのだ。

 時刻はまだ朝の十時過ぎ。午前中は出店の準備や佳ノ湖前の仮設ステージの調整、小鳥居神社では、婦人会のおば様方が炊き出しの準備をしている最中だった。お昼過ぎから出店も飲食が出来るようになり、同時に簡単なゲームなども出来るようになる。

 お腹も満たされた頃合を見計らって、午後二時頃から仮説ステージにて神姫村の伝統である小鳥和紙と、花明一刀彫の大規模体験会が行われる。その他にも様々なステージイベントが予定されていた。

夕方五時から薄暗がりの中、松明が焚かれた境内で神楽が催される。ここで一度、多くの人たちは境内に集まることになる。その間、仮設ステージでは雛灯篭のセレモニーの準備が開始される手はずとなっていた。

 そして夕刻六時。古くは逢魔ヶ時と呼ばれ、昼と夜が入れ替わる薄暗い中で魑魅魍魎たちが顔を見せる……そんな時間帯である。

 一人ずつ灯篭を取り出して湖佳橋の方へ向かい、飛び入り参加で持っていない人に限っては、仮設ステージより受け取ることになっていた。自分の灯篭を持った人は、今年あった嫌なことや辛かったことを念じ灯篭に吐き出す。それを、姫の二人が受け取って軽くキスをするのだ。そうすることで、灯篭には願いや想いといった言霊が溢れ、火が灯る。舞を踊った直後になる為、二人は少し移動が大変だろうが。

 そしていよいよ、湖佳橋からゆっくりと湖面に浮かべると、たくさんの灯篭が水面に浮かぶことになるのだ。その灯火は月の光を受けずとも淡い神秘的な光景となり、人々を魅了する。

 そうして、神姫祭は閉幕するのである……。


 これが今日一日の流れであり、楓が去年までとは違うタイムスケジュールを組んだことで、午前中や合間の準備が可能となり全体的にスムーズに進行させることが出来るようになった。

 花明家と小鳥居家の協力もあり、今年は初の仮設ステージを利用して伝統工芸の大規模体験会や、プレゼント企画などが開催される。これも若い世代たってのアイデアで、楓を含む次世代を担う若者たちの協力によって、愁次や織恵の負担も最小限に抑えられたのだ。

 これまでの祭りとは内容も、段取りも変わっている。お年寄りたちも感心しながら、楓の指揮に様々なアドバイスを掛けていた。これこそが、村一丸となって伝統を守り新しいものを作っていく姿勢であると、体現しているようだった。

 

 小鳥居神社前では、夏織や小野寺、織恵、アルバイトの巫女を含めた婦人会の人たちが大量の炊き出しの準備をしている中、愁次は花明家の出し物の準備をしていた。

 花明家は普段から自宅兼店舗で売っているが、楓の計らいで今回は出店の中に出展する枠が作られていた。誠一や美智代と共に、花明一刀彫作品の品並べを手伝っている。そこにはいつも店に並んでいる定番のものもあるが、愁次が彫った小物なども含まれていて、ある意味今日が愁次にとって、自分の作品が世に出る〝初お目見え〟の日でもあった。もちろん、花明家の親戚筋も出店している為、愁次の従兄妹たちの作る作品とも比べられることもあるかもしれない。

 そんなちょっとした緊張感もあってか、愁次の並べる手つきはどこかソワソワしているようにも見えた。

「これは素晴らしい彫刻ですね、さすが花明一刀彫の名品だ。おっと、挨拶が先でした。お早うございます、観光で来てる国中と申します」

「あ、東吾さん。おはようございます、早いですね。周りの出店はこれからなんで、もうちょっと後になりますよ」

「ああ、今年は少し時間が変更になっているようだね。何でも若い子が仕切ってるそうじゃないか」

「初めまして、ですな。愁次のお知り合いのようで。よろしかったら、お一ついかがですか?」

「ぜひ、買わせて頂きます! 一つと言わず、二つでも三つでも」

 東吾はここ数年、神姫祭に参加していたが店まで買いに行くことは無かった。こうして今年、出張という形で出店の並びに出たこともあり、また愁次とも知り合えたこともあったのだろう。気になっていた彫刻を二、三選んで購入していた。

「愁次、準備は大体終わったから、国中さんを少し案内してやりなさい。ついでにお店を見てまわるといい。二時ごろ戻ってきてくれればいいからな」

「分かった。ありがとう、父さん」

「織恵ちゃんも神社で炊き出ししてるだろうから、行ってあげなさいな」

 美智代はどこか嬉しそうに愁次たちを送り出した。東吾も根は低姿勢なのだろう、何度も頭を下げて愁次の両親に感謝を述べていた。

 

 佳ノ湖の周囲を囲うように出店が立ち並ぶ中、集会所へ向かう通りの前には仮設ステージが設けられていて、楓たち青年チームが機材や備品の確認をしているようだった。

 それを横目に愁次と東吾は神社へと向かう。道中、多くの観光客とすれ違った。夏祭りであれば浴衣にサンダル、手ぬぐいなどが定番だろうけれど、道行く人はコートにブーツ、マフラーに手袋といった装いもまた、冬を感じさせてくれるに相応しいものだ。

 しかしそこはお祭りに行くという気持ちでいる為、華やかな色合いのマフラーや手袋が提灯の赤と合わせて、絵画のようなコントラストを描いていた。

 境内に着いた愁次と東吾は、織恵の姿を探す。

 人垣を掻き分けていくと、本殿の方に行列が出来ているようだ。どうやら拝殿の前ではなく、本殿前の広いスペースで炊き出しが行われているらしい。その行列には並ばず、愁次たちは列の横を通りテントにいる織恵の所へ向かった。

「やあ、料理をしている姿も様になってるね、ワトソンくん」

「あ、国中さん。おはようございます……って、その呼び方なんとかなりませんか? 私は某探偵の助手じゃありませんから」

「いやぁはっはっは。一人くらい愛称があったほうが場も和むってもんだよ。しかし、それが嫌なら……そういえば、巷では君のことを〝小鳥ちゃん〟って」

「却下です! これ以上私をカゴで飼うのはやめてください!」

「なぁんだ、可愛くていい愛称じゃないか。何が気に入らないんだい?」

「普通に小鳥居でも、織恵でもいいですよ。むしろ、あの人が慕った彼に申し訳ないです」

「分かったよワトソンくん。報酬はスコットランド銀行に入れさせよう」

「だからー! もう、愁次も何とか言ってよ! このおじさん何とかしてー!」

「織恵って、東吾さん苦手なのな……」

 織恵がここまで振り回される相手も珍しい。東吾もノリが良い織恵についつい構ってしまうのだろう。見ていてテンポの良い二人ではある。

 愁次もどう対処してよいのか分からず、曖昧に笑ってはぐらかしていた。

「織恵ちゃんにそんなダンディなおじ様の知り合いが居たなんて、ちょっとビックリ」

 横から顔を出した小野寺は、なおも織恵をおちょくるように声を掛けた。

「皆さんおはようございます、いい匂いがしてたんで来ちゃいました。織恵さんの賑やかな声も聞こえましたし」

 微笑を浮かべながら声を掛けてきたのは、咲だった。赤い真っ赤な毛糸の帽子を被り、普段頭に乗っているお団子は毛玉に変わり、髪は両脇に下ろされていた。

 水沢家は今回調整が主な役割だったので、個々に咲だけが任されている仕事などはない。あるとすれば、泊まる人が多い旅館の手伝いくらいなものだった。それも、神姫祭の為に外出している客ばかりなので、すでに一仕事終えて手透きの状態である。

「あら、みんな織恵ちゃん目当てか。人気者だね。いいよ、大体仕込みは終わってるから、織恵ちゃんも少し回っておいで」

 小野寺はそういって、夏織の方へ戻っていった。織恵はこの後、午後から体験教室のアシスタントをしなければならなかった。メインは夏織がやることになっているが、炊き出しがなければそれまで自由に動ける。その後は拝殿で神楽があるので、また神社には戻ってくることになる。そのままの流れで雛灯篭となるのだ。

 それが織恵のスケジュールだった。

「そういえば、笑は一緒じゃないのか。珍しいな」

「はい。今日は叶那と見て回るって言ってました」

「あぁ、そういえばあの子もそんなことを言ってたよ。ずっとこの村で気の合う子を探していたからね。おっと、ワトソンくんのこともお気に入りみたいだから、安心していいよ」

「もういいですよ……」

「ワトソン?」

 咲は頭に疑問符を三つほど浮かべながら、織恵と東吾の顔を見比べていた。

 愁次は苦笑しつつも説明はせずに話題を変えた。

「せっかくだから、アレの続きをしないか? ずっと集まれなかったから、一先ず新しく分かったことを報告しよう」

「はい、望むところです! でも、ここじゃちょっと人が多いですね」

「いいね。そういうことなら、取って置きの場所があるよ。案内しよう」

 地元民ではない東吾が先陣を切って歩き出す。不思議な光景だが、東吾は意気揚々と歩き出したものだから、三人は自分の村を案内されるという不思議な感覚を覚えながらも東吾の後ろをついて行った。咲は面白いものを見るように嬉々としてスキップを踏んでいる。

 愁次と織恵は、また興奮した咲が熱弁を奮うのではないかと少しだけ懸念した。気の良い東吾のこと、咲とコンビを組んだなら手を付けられなくなるに違いない。今から心の準備をしておかなければと、愁次と織恵は身構えるのだった。


「ここって……。東吾さんって随分珍しい場所知ってるんですね。地元の私たちだってあまり来ない所です」

「時にはベーカーストリートを離れて、小道に逸れてみるのも面白いものだよ。新鮮な驚きと、新しい発見が待ってる。そうだろう? ワトソンくん」

「なるほど、そうして夜な夜な怪しい奇行に耽っているんですね〝ホームズさん〟?」

「お、織恵……?」

「何てことを言うんだい。僕が変質者でなくて、神姫村の住民は本当に幸せだよ」

「おやホームズさん、ここがどこだかお分かりでないようですね。昼間であれば、木々の間からあの建物も見えましょうが、夜では見えないのも致し方ないですが」

「あれは……幣殿ですか? 確かに夜だと、あそこまでは見えないですよね」

 東吾たちが訪れたのは、先日楓も来ていた場所だった。咲がおでこに手を当てて、遠くの方を眺める。織恵と東吾の茶番を、咲は華麗に流していた。

「いや、少し不思議な場所だなと思っていたんだけどね。ここはどういう場所なのかな」

 いつもの口調に戻って東吾は問いかける。それに対しては愁次が答えた。

 変形した木を前にして片膝をついて、神妙そうな顔で語る。

「これは、捻り木って言って昔の人たちの怒りとか、憎しみとかを封じ込めたっていわれています。やっぱり力の強い感情ですから、抑え切れなかったんでしょうね。内側から暴れるように飛び出していたり、変な方向に曲がっていたりして、初めて見た人はちょっと怖いイメージがあるかもです」

「そうですね、私も初めて見たとき怖かったです。なんだか、誰かの叫び声が聞こえてきそうで……」

 咲が縮こまり、自分の両腕を抱く仕草をする。そんな咲を後ろから抱き締めるように織恵は腕を回した。

「うん、でもねそういう感情ってすごく臆病なの。だから、こうして何人もいる時は毒気に当てられることもないんだよ。特に明るい内はお天道様も見ていらっしゃるし、幣殿のような神聖な場所は多くの神様が見守って下さってる。ただ、やっぱり夜に一人で来ることはちょっとお勧め出来ないかな。人気が無くなるっていうのもあるけど、色んな邪気が溜まり易い場所だからね」

「なるほど。肝に銘じておくよ、ワトソンくん」

「はいはい、そうしてくださいよ。ホームズさん」

 やや呆れ気味に織恵は肩を竦めた。咲はその様子に小さく笑っている。

「それより、こんなロケーションも用意してくれたことだし、早速始めようぜ」

「なんだか夏祭りの怪談みたいになってきましたね」

 咲が楽しそうに、冗談めかして笑った。吐く息が冬の怪談であることを教えてくれる。

「おかしいなー。神姫祭は冬祭りなんだけどなー、おかしいなー」

「織恵さん、早速分かってることを報告しましょう」

 頭を抱えてしゃがんでいる織恵の手を引いて、咲は笑いながら立ち上がらせた。


 それから四人は、今現在分かっていることを共有した。

 最初に集まった際に、方向性としてまずは「鏡水月」のそれぞれの意味を調べようということになっている。紆余曲折はあったが、こうして今その三つの意味が明らかとなった。


 曰く――。


 鏡は月を写し、水を弾く――。

 水は鏡を濡らし、月を取り込む――。

 月は水に惑わされ、鏡を満たす――。


 ここから推理していくことになる。

 織恵は、メモした紙を広げて皆に見えるようにした。左側は天照大神の謎、右側に鏡水月の意訳を。四人は交互に文章を見比べながら何か見えてこないかと考察する。

「本文にどう影響してくるか分からないけど、俺思ったんだ。なんかこの三文字って、相性みたいのがあるんじゃないか?」

 愁次は早速、三人に向けて話出した。両手を広げて率直な意見を告げる。

「私もそれは思いました。三つ巴……相互関係でありながら、三点の力関係を表しています」

「ふむ……。というと?」

 東吾が顎ひげを撫でながら、咲に問い掛ける。咲は待ってましたというように、コートのポケットから何やら眼鏡を取り出して、恭しく掛けた。

 一同が、咲の視力は悪かっただろうかと一瞬思ったが、それが伊達であることはすぐに分かった。

「ジャンケンで考えてみてください。鏡がパーで、水がグー、月がチョキです。拮抗した力関係は、相互であり相殺します」

「なるほど、三つの力は拮抗しながらもお互いに影響し合っているということだね」

 東吾は眉間に皺を寄せて腕を組んだ。織恵も唇に手を当てて考え込んでいる。

 三点はバランスとの取られた力関係という推論が出てきた。しかし、それがどう本文に影響してくるか分からない。しばらくの沈黙が流れる。

 愁次はもう一度、メモを見比べながら妙案が出ないかと難しい顔をしている。そこで咲は中指で眼鏡の中央を押し上げて言った。

「それでは、ここでパズル思考です。決められた三点の概念があったとき、よく使われるパターンは熟語の形成です。そこで、同じ音、同じ意味があればビンゴです」

「あ、鏡ならありそうだぞ。月鏡、水鏡、映し世の鏡……最後は少し毛色が違うな。鏡水月の力関係を考えるなら、最後の鏡は除外してもいいのか?」

 メモを睨めっこしていた愁次が最初に気がついた。織恵も近づいてメモを確認するとまだ他にもあることを告げる。

「待って、愁次。水も二つある。水面、水鏡……。月は、幻の月だけ……かな」

「おや、水鏡がダブったね。これは何か意味があるんだろうか」

「水鏡って一体何なんでしょう。水は鏡を濡らし月を取り込む、鏡は月を写し水を弾く……。水と鏡、力関係は鏡の方が強い」

 東吾の問いに対して、咲は唸る。二歩、三歩と歩いて思考する咲を横目に、心なしか東吾は何かに気がついているようにも見えた。会話の流れを東吾が誘導している。

「鏡の方の意味を使いなさいってことかな? この場合だと、月を写して水を弾くだから、水を無くして……揺れる鏡?」

「揺れる鏡……あ、そういえば小野寺さんから聞いた話なんだけど、鏡っていわくつきな物が多いみたいなんだ。うちの村で言えば佳ノ湖のことを鏡って言ってた時代があったらしい。湖なら揺れててもおかしくないだろ?」

「なるほど、〝揺れる鏡〟は佳ノ湖のことを指してると考えるのが妥当かもです」

 東吾はニヤリと含み笑いをし、織恵に向き直った。

「鋭いね、愁次くん。惜しかったね、ワトソンくん」

「茶々入れないでください。あなたこそ、自慢の閃きはまだ来ませんか? ホームズさん?」

 東吾は腕を組み直し、しばらく黙した。さながら、あの探偵がパイプ煙草を吸うように口元に手を持っていく。咥えられたのは、パイプではなく極一般的な煙草だった。パッケージは青く、マイルドセブンと書かれていた。

 この時代の探偵は時代の移り変わりと共に、嗜好品も変えているのかもしれない。中指と薬指の間に挟み、顔の半分を覆うように被せ深く吸い込む。その仕草は四十とはいえとても様になっていた。

 燻らせた紫煙は頭上に上り、まとまった思考を外に吐き出した。

「そうだね……。次は似た熟語の〝月鏡〟を読み解くのはどうだろう。パワーバランスは月が優勢だ」

「月は水に惑わされ、鏡を満たす……。魅月さんの話だと、雨霧さんの家系は鬼の一字を受け継いでいるんだそうです。そして鏡を満たすことは、みんなに認められてるってことなんだとも言ってました。魅月さんは努力家ですからね……もちろん人間ですから時には迷うこともあると思いますけど、そんな時こそ自分をしっかり持ちなさいって」

「そうか! 分かったぞ、ワトソンくん!」

 東吾は人差し指を立てて、閃きと共に前のめりになった。

「〝水面に映る月鏡〟とは即ち、雨霧魅月その人のことさ。僕たちは水に惑わされているんだよ。つまり鬼の一字に変えてやれば、鬼面に映る彼女のこと。皆が認め慕われているからこそ鬼姫と呼ばれている。神姫祭でこれから彼女が、鬼姫の面を被って舞を踊る。これ以上相応しい人物はいないだろう?」

「確かに……一理あります。ちょっと、飛躍している感は残りますが」

「発想の転換というのだよ。君はどう思う? ワトソンくん」

 あごひげを撫でながら勝ち誇ったように織恵に問い掛ける東吾。実に大人げない。

「んん……。言われてみれば、そうかも……。とりあえず、その線でいきます」

 織恵も渋々とではあったが、東吾の推理に一定の理解を示した。

「いい調子だな。一行目は、あと最後の〝幻の月〟になるけど、幻ってどういうことなんだろう?」

 愁次は言って、周りの言葉を待つが返事は返ってこない。またしばらくの沈黙が続いた。

 今度は咲が、愁次からメモを受け取って文字を凝視する。そんな真剣な咲の表情は伊達とはいえ眼鏡を掛けている為、普段とは少し印象が変わっている。落ち着いた大人しい女の子から、秀才の歴女のようである。獲物は歴史ではなく、歴史に隠されているかもしれない大いなる神が残した謎だ。

 そんな咲とは対照的に、出番が終わったとばかりに東吾はしゃがみ込み、捻り木を恐る恐る触りながら、興味の対象はそちらに移ってしまったようだ。

 やはり何かの糸口は咲からもたらされる。頭の回転が速い咲は、ぐるりと思考を巡らせてぽつりと呟いた。

「幻は、とてもあやふやな概念です。共鳴であり想念でもあります。幻想と置き換えたなら、見たい人に見えるのが夢という幻想、良いイメージで想念になります。でも、人を騙そう、取り込もうとして見せる夢は悪い幻想、共鳴になります」

「どっちにも取れる言葉、っていうことだね」

「けど月は、水に惑わされ鏡を満たすってことだよな、良し悪しで計れるものなんかな……」

 まず考えられる人のモノサシは、良し悪しの判断になるだろう。しかし、何かの言葉や行いに対しての判断は出来るが、この文章自体に善悪を見出すのは難しい。

 続けて愁次は、空を見上げながら何かを探すように視線を動かした。

「逆に考えるっていうのはどうだ? 水に惑わされず、鏡を満たさない……つまり、魅月さんとは逆の人、とか?」

「逆って……ひょっとして、魅月さんが鬼姫だとしたら、その対比で神姫のマユラってこと……?」

「もしそうだとしたら、魅月さんに……マユラに……佳ノ湖……何かを暗示しているのでしょうか」

「ふむ……。僕には雛灯篭が思い浮かぶよ」

 耳はこちらに向いていたらしい。東吾はまだ捻り木を見つめているが、立ち上がって煙草を燻らせた。

「あ、俺も思いました。そのロケーションで役者が二人なんだとしたら、神姫祭の雛灯篭以外にないと思う」

「雛灯篭で、何か起こるの……?」

 織恵の不安そうな声に、一同は口を噤んだ。誰も目を合わせようとせず文面をじっと睨むように硬直してしまっている。

 謎は一気に急転した。鏡水月の三文字が分解出来れば道は開けると皆が思っていたが、よもやここまで一気に進んでしまうとは思っていなかったようだ。そして、それ以上にこの謎が皆に縁ある名前に変換されたのと同時に、不穏な空気に変わったことを誰もが知覚していた。

 恐る恐る口を開いたのは咲だ。

「この先を読解していくのがちょっと怖いですね。ただ、こんな時に言うのは不謹慎かもしれないですが、〝〟という言葉は哀しい響きしか感じられません。言霊の最上位に位置するのは〝ありがとう〟という謝恩ですが、一番哀しい言霊とされているのが……〝〟……です」

 一同、さらに凍りつく。咲の言葉に対して、そして一番哀しい言葉とされている言霊に対して。この謎を最後まで解くことは、とても哀しい何かを解き明かしてしまうことになるのではないか、そんな懸念がありありと見て取れた。

「実は、僕が先日この謎のことを聞いたとき、漠然と思っていたことがあるんだよ。この手の話には代償が付きまとうはず。地域性でいえば各地に散らばる〝〟という現象も、鬼が出てくる悪い子はいねぇがーという風習も、元々は生贄という概念がありきなんだ。実際この村も色んな話が眠ってる。それは僕よりも君たちの方がよく知っていることなんじゃないかな。……あぁ、申し訳ない。怖がらせようというつもりは無いんだよ。ただ、僕の見地から言わせてもらうと伝承や古い言い伝えという類の関係は、報酬と生贄……朝食のパンとコーヒーみたいにセットなのさ」

 東吾が言い終わった途端、誰かの腹の虫が鳴った。皆黙って聞いていたので、東吾が話を終えたなら静寂そのもの。誤魔化しようがないくらい響き渡っていた。

「っ……」

 突然お腹を押さえたのは咲だ。みるみる顔が赤くなっていく。赤い毛糸の帽子と変わらないくらい頬を染めていた。帽子を両手で目深に降ろしながらどんどん小さくなって、しゃがみこんでしまった。

「ぁわ、ああぁあ。あーもう私ったら……どうしてこんな時に……。やだもう恥ずかしい……」

「ぷっ。あはは! ひょっとして咲、朝ごはん抜いてきた? 駄目だよ、朝はちゃんと食べないと」

「だって……今日はお祭りだし、お昼前に神社で織恵さんのお蕎麦食べられると思って……」

 先ほどまで凛々しい表情で推理に参加していた咲が、とても幼くなったように見えて愁次と東吾は苦笑していた。また一つ、咲の意外な一面が垣間見えた瞬間だった。

「境内に戻ろっか。すっかり話し込んじゃったね。もうすぐお昼だから、炊き出しも配ってる頃だと思うよ」

 今度は織恵が咲の手を取って立ち上がらせた。

「一緒にテントまで行こ。こっそり奥で食べさせてあげるから」

「素晴らしい提案だ。僕もご相伴に預かろう」

「男子厨房に立ち入らず! あなたは愁次と順番に並んで取りに来てくださいね、ホームズさん」

 織恵は、してやったりと言った表情でウィンクをして見せた。

 東吾は肩を竦めてお手上げのポーズをした。結局織恵もこの流れを気に入りつつあるのかもしれない。愁次は名前で呼ぶものだから、愛称を付けられるのは小鳥以外あまり経験がなかったのだろう。

 愁次たちは言われたとおり、駆けていった織恵たちを見送り拝殿の列に並ぶことにした。



 愁次と東吾が境内で炊き出しを食べ終わる頃には、時計は一時を回っていた。

 織恵と咲は露店巡りをしているようで、男二人組みもまだまだ腹三分目と言ったところだろう。早速合流して、様々なものを胃袋に収めていた。

 年長者の東吾は若者たちの恰好の的になっており、次第に財布に隙間風が通るようになっていく。叶那や笑も合流したものだから加速度的にお札が羽ばたいていったのは言うまでも無い。

 東吾は「探偵稼業も楽ではないな……」などと愚痴っていて、織恵とひと悶着していた。もちろん、東吾は民俗学者。趣味が高じたジョークということにしておこう。

 叶那は東吾のことを実の父親のように慕っていたため遠慮が無い。ぐるぐると連れ回しては食べ物やゲームをねだり、大変満足そうな表情をしていた。叶那の両親はこのことを知っているのかどうかはさておき、東吾も嫌な顔をしていなかったのでノリの良い笑を筆頭に、愁次たちも久々のお祭りを十二分に楽しんでいた。

 露天は夏祭りにあるようなものばかりだ。さすがにカキ氷などは出ていないが、その分温かいものは充実している。ゲームに関しては定番のものばかりだが、夏には無く年に一度のお祭りなので、大人も一緒に楽しんでいるところが印象的である。

 しかし、残念ながら戦果はキャラメルの箱多し。どうやら運も味方してはくれず、ことごとく撃沈していた。とはいえ、醍醐味は皆が集まって騒ぐこと、これに尽きる。精一杯楽しめたなら、それが戦果と言えるだろう。

 少しだけ華を添えるとしたら、初出展している愁次の工芸品や、織恵が手を掛けた和紙が使われた工芸品など、三年振りの主役が作ったものが皆の手に渡ったことかもしれない。何はともあれ、形ある思い出に水を差す人はいないように愁次や織恵も、自身が手掛けた作品が友人たちに喜んでもらえたことこそ、最高の褒美だったに違いない。

 

 楽しい時間は早いもので、二時からの大規模体験教室の時間がやってきた。

 一度解散の流れとなって、愁次と織恵もステージの上に登壇した。楓がマイクで進行を務める中、多くの観光客たちが参加して賑やかなステージとなっている。

 ややもすると、神姫村の人や織水の人も加わってステージ上だけでは収まらないくらいに溢れ返ってしまった。しかし、楓は用意周到でスタッフたちに迅速に指示を出し、ステージ下でも作業出来るようにスペースを作ったのだった。

 そこには水沢姉妹や東吾、魅月やマユラの姿もあった。姫の二人はこの後大一番があるというのに、随分と精力的である。

 花明家と小鳥居家が主導で、家族、親戚筋総出での体験教室は大好評だった。子供から大人まで幅広い世代の人たちを作品作りに没頭させ、大人たちは童心にかえる気持ちで夢中になって作業していた。自分の親が子供っぽく楽しんでいる姿を見た子たちの目には、一体どう映っているのだろう。

 世代を超えて没頭できるもの、時間、その成果。それは現代を生きる人たちに必要なものなのかもしれない。楓が作りたかったお祭りは、きっと、世代という垣根を壊した先にある〝〟だったのだ。それは田舎特有のものかもしれない、この日が終わればまた都会の忙しない生活があるかもしれない。しかし、たとえ一日限りでも、毎年続けていけば〝〟があると思えるのではないか。

 楓はステージ上でマイクを握りながら、純粋にこの先の神姫村の在り方を実感していたのだろう。少し濡れた瞳からは、憂いも感じさせるが穏やかな表情をしている。

 今だけは、ここに集まった人たちは〝〟といえるだろう。楓は大きな初舞台を見事に作り上げたのだった。


 ステージイベントも終盤を迎える頃。

 抽選のプレゼント大会がささやかに盛り上がる中、魅月とマユラは会場を後にしていた。メインイベントの一つ「飛騨守姫神楽」の準備をする為に神社へと向かったのだ。

 愁次たちも会場の片付けを手伝いながら、撤収作業に入っている。早めに神社に向かわなければ、前列の席を確保出来ないからだ。三年振りの神楽舞を愁次も楽しみにしていた。

 織恵は今回、巫女として登場はしない。夏織と小野寺、そしてベテランの佐々木がお囃子を奏でることになっていた。その為、織恵も最後まで片づけを手伝っている。

 楓がこのあとの流れを説明すると、一同は順番に境内へと向かう。残すイベントは神楽舞と雛灯篭のみとなっている。いよいよ千秋楽を迎える神姫祭も、微かな雪が落ちてきて提灯の灯りと相まって観光客たちの心を静かに躍らせた。

 しかし、この程度の雪では傘を差すほどではないだろう。提灯に小雪とは風情があると、冬のお祭りの景色を皆は楽しんでいた。子供たちはまだまだ元気に走り回っている。

 境内へ続く道はまるで、神輿が通った後を追いかける人たちの行列が出来ているようだった。観客は人だけではない、雪と提灯と、色取り取りの工芸品が盛り立てている。白い吐息が寒さを思い出させるが、子供たちが手袋を外して自分で作った作品を掲げているのを見ると、道幅に広がる賑やかな行列は冬空から降りてきた飛行機雲を連想させた。


 小鳥居神社の鳥居を潜って、境内に入ると拝殿の外舞台の前には多くの人が立ち並んでいた。その前方に愁次たちの姿が見える。どうやら陣取りはうまくいったようである。ご丁寧に来賓席が用意されていて、約束どおり楓が用意してくれた特等席だった。しかしよく見ると、笑と叶那の姿は無かった。居るのは愁次と織恵、咲、東吾の四人。

 咲は笑のことを心配しているようだが、おそらく叶那と共にそのうち来るだろうと考えていた。

「さすがに多いですね。笑、私たちの場所分かるでしょうか……」

「どうかな……。前の方にこられたのは良かったけど、逆に後から来たら入ってこられないかもね」

 咲と織恵は振り返り、後続の行列を見ながら心配そうに二人の姿を探していた。

「まぁ、残念だけどしょうがないよな。どこかではぐれたっていうよりも、二人してどっか行ったみたいだったし」

「あとは神楽と雛灯篭だけなんだけどね。まだ遊び足りずに、露店にでも戻ったのかな。今度はちゃんと自分のお金で遊ぶんだ、良いじゃないか。僕はもうこってり皆からたかられたからね」

「たかったなんて随分な言い方ですね。国中さんだって楽しんでたじゃないですかー」

「それは違うぞ、ワトソンくん。必要経費はあとでスコットランド銀行に振り込んでおいてくれたまえ。僕はそんなに裕福ではないのだよ」

「うわ、大人の風上にも置けない……」

「あはは。手数料やら何やらで、それだけでもすごそうですね」

 咲は何やら楽しそうである。

「お、巫女さんたちが出てきたぞ。静かにしよう」

 すり足で静かに登場したのは、巫女の三人だった。佐々木はお囃子で奏でる太鼓と笛を持ち、小野寺は小麻を、夏織は大麻を献上するように携えていた。


 舞台の端に三人が鎮座すると、いよいよお囃子が始まった。

 飛騨守姫神楽は、主に三部構成になっている。まず、第一幕は「姫ノ舞」。神姫と鬼姫が片方ずつ登場して、舞を踊るのだ。

 それは元々この土地に住まう神姫が五穀豊穣を願い、この村に加護を与える為に舞ったとされる神楽だった。そこに、鬼姫が訪れてなんと素晴らしい土地なのだろうと歓喜し、狂喜乱舞したといわれる神楽を舞う。第一幕はそうしたストーリーになっていて、厳かなお囃子が鳴り響くものとなっている。

 シナリオに逆らわず、先に登場したのはマユラだった。

 愁次の手掛けた能面は、全ての人を包み込むような穏やかな表情をしていて優しい印象を受ける。まだマユラの顔全体を覆ってはおらず、おでこから頭上に掛けて乗っていて本人の表情は窺えるようになっていた。

 その出で立ちは先日見た姿とは打って変わって、煌びやかな衣装を身にまとい緑を基調として内衣には橙の刺繍が見て取れる。その舞衣装はマユラの赤い眼差しと相まって、神姫の振袖として相応しいものとなっていた。

 マユラの身体の大きさに合わせた作りになっているようで、長すぎず短すぎない裾はマユラの動いた軌跡を羽衣のようになびかせている。

 小野寺の所までゆっくり歩いていくと、一礼して小麻を受け取った。そして、そっと口を寄せると、神木にキスをして一振り。紙垂の擦れる音が、空気を一瞬にして静寂に変えた。そうして厳かに始まったマユラの舞は、緊張した糸を薄く伸ばすように丁寧に撫で、表情は真剣そのもの。赤い視線が細められて右に左に動く様は、本当にかつての神姫が宿ったのではないかと思わせるほど神秘的な雰囲気を漂わせていた。

 お囃子の太鼓に笛の音が交ざりだすと、マユラの足元は軽やかになり、次第に動きも大きくなっていく。いつの間にか表情は弛緩して、まるで野原を駆け回る少女のようにステップを踏んでいる。マユラが踏んだ足跡から、草木や花が芽吹くような軽やかさで舞台全体を駆け回る頃には、見晴らしの良い草原にいるかのようだった。

 最後に舞台の端に立ち、観客たちに黙礼を捧げると静かな足取りで拝殿の袖へと消えていった。これにてマユラの豊穣の舞は終幕である。愁次たち観客は惜しみない拍手を送っていた。


 幕間では、太鼓と笛の音が続く。

 その調子が変わる頃、舞台袖から出てきたのは魅月――鬼姫だ。こちらの能面は顔の右半分にずらして付けられていて、魅月の表情も窺える。立ち止まった魅月の表情は流し目で、夏織を見やる。それは古風な日本女性の美人画を思わせた。普段から姿勢や仕草の洗練された魅月だからこそ、まだ二十代でありながら知的で妖艶な雰囲気を身にまとう。

 一方で鬼姫の面は大きく目を見開き、鋭く伸びた八重歯が印象的な般若のような出で立ちだ。角が伸び、神姫とは対照的に見たものを恐怖させるような邪気を放っていた。しかしそれは鬼の象徴とも言うべき特徴で、魅月の美しさと掛けて〝妖美〟という言葉が相応しかろう。

 衣装は紫を基調として黒の内衣は、魅月の長く深い藍色の髪と融和しお互いを惹き立てていた。小柄ながらも女性的な身体のラインが流れる髪を伝い、臀部まで艶かしく伸びていた。こちらも魅月の為だけに存在するかのような、相応しい鬼姫の振り袖となっている。

 歴代の鬼姫と比較は出来ないが、さぞ美麗な鬼姫と認められるだろう。

 夏織の所まで跳ねるように移動した魅月は、恭しく大麻を受け取り。その後の足取りも、ウサギが野を飛び回るような軽快さを保っている。腕を大きく広げ、漂う妖気のように袖をはためかせる。それはきっと、美しいこの土地を見つけたことに対する狂喜の表現なのだろう。

 二度足踏みしたかと思うと、舞台を駆け回るように全身で喜びを表現していた。

 そしてパタリと中央で止まった。大麻を大きく掲げ、持ち手の部分にキスをした。それは、ようやく探し求めていた場所へ辿り着けたという安堵と、この素晴らしい土地と巡り合わせてくれた因果に感謝するという意味が込められている。

 舞台中央で、大麻を一振り。そこから舞は一変して、静謐な様に変わる。前半の大きな動きとは対照的に、小さな仕草で移動して大麻の擦れる音だけが静寂な空気に波紋を揺らす。まるで何かを探しているかのような足取りで、儚い表情を携えながら舞台を移動する。

 最後はすり足になって舞台の端を歩き、雲で隠れて見えない月を見上げるように虚空を見つめ、片手を伸ばして月を掴もうとした。

 そうして鬼姫の狂喜の舞は終幕し、観客席に黙礼をしてマユラの消えたほうへと向かっていった。

 第一幕はお互いの姫の持つ、それぞれの美を表していた。

 それは文化であり、習慣であり、思想であり、異なる美でありながらお互いを尊重し合っているようにも見える。神聖性の象徴は、やはりキスにあるだろう。

 人が人にするキスだけでなく、それぞれの姫が神木にキスをするというのは一体どんな意味があるのだろう。それは観客、舞を見た人の捉え方に委ねられている。

 姫たちがそれぞれの舞を披露し、個々に確立されているように……。


 愁次たちは拍手をしながらも、放心気味に舞台を見上げていた。

「なんだろう、雰囲気変わったよな。魅月さんとマユラになったからかな。綺麗だって言うのも無粋なんじゃないかって思うくらい」

「私も見惚れちゃうなぁ。ホントなら私もそろそろ巫女として、あの舞台に座らないといけないんだけど、緊張するだろうなぁ」

「姫の二人も世代交代していますから、織恵さんもそういう時期ですよね。私は見させて貰っている立場ですけど、毎年見てても飽きないですよ。多分、少しずつ舞の内容が変わってるんだと思います。私にとっても魅月さんは憧れですから」

「そうだね。雨霧さんも、マユラも……本当に立派だ。あの子たちがもう少し歳を重ねたら一体どんな舞を見せてくれるんだろうね」

 東吾は、おちゃらける素振りは見せず姫の二人がいなくなった舞台を、さながら親鳥のような眼差しで見つめていた。

「そういえば、あの二人に舞を教えてるのは小野寺さんなんだよな。ひょっとして、元姫だったりするのかな」

「どうなんでしょう……。聞いたことなかったです。実際殆ど能面を被ってしまうので、このあとは顔見えないんですよね」

「うん、第二幕からはしっかり被るから顔は見えなくなるよ。ただ、今年はもうマユラと魅月さんって分かってるから、大体髪型とかで判断出来るんだけどね」

「はい、少なくともここ数年はあのお二方だったと思います。東吾さんは分かります?」

「いやいや、僕も神姫村に顔を出すようになったのは数年前からだからね。その時はもう、あの子たちだったよ」

「なるほど。……あれ、俺らが小さい頃は誰だったっけな」

「うーん、やっぱり覚えてないね。たはは……」

 何れにせよ、今の時代の神姫はマユラで、鬼姫は魅月である。東吾が言うように、過去よりも未来の話をした方がより建設的かもしれない。

「あ、そろそろ次が始まりますよ」

 咲が小声で呼んだ。舞台上には、巫女の三人が位置を変え、四隅に散って鎮座していた。

 第二幕は「狂気乱舞」。先ほどの鬼姫は狂喜していたが、今度は気が狂う方の狂気だ。二人が出会い、色々な価値観のズレから生じる摩擦を描いている。


 佐々木の太鼓から、小野寺の笛が始まり、さらには夏織の神楽歌が奏でられた。

 しかし、先日織恵が聞いた神楽歌とは似て非なるもののようだ。なればこそ、愁次たちは聞き取れるはずもない。ひょっとしたら神楽歌も、いくつか種類があるのかもしれない。奏でるお囃子もどこか切迫感のある速さで、これから始まる舞を鼓舞しているかのようだった。

 奥の間から先に出てきたのは鬼姫、続いて神姫が追いかけるように舞台に飛び出してきた。二人ともお面を深く被っており、表情は分からない。愁次の模った大きさは二人の顔に品良く収まっているようだ。

 神姫は時に地団駄を踏み、鬼姫を威圧するように追いかける。それを払い除けるように大きく両手を広げて走り回る鬼姫。自身と異なるものとは、得てして受け入れがたいものだ。二人は出会い、お互いの違いを認識してしまったが故に、自身が飲み込まれまいとして身体を誇示している。

 小麻が擦れ、大麻が振るわれ、舞台の上はさながら燃える炎が爆ぜるよう。燃やすのは心か、眼差しか、あるいか自分自身か。鬼姫の長い髪が扇状に広がる度に、その炎から逃れているようにも見える。

 刹那、神姫が鬼姫を捕まえた。後ろから抱き締めるように覆いかぶさる。しかし、ふわりと両腕を上げて解くと、鬼姫はくるりと回ってまた踊り出した。鬼の舞は香を振りまく、縦横無尽に舞台を駆け回るうちに、お香をたいたかのように芳しい匂いが薄く香り流れてくる。

 その匂いに誘われて、森に入ったらば二度と帰ってこなかったという逸話もあるらしい。魅月のような妖美な鬼姫が甘い香りで手招いていたのなら無理からぬことかもしれない。

 神姫はその移り香に気づき自身で両肩を抱いた。そして、今度は逆に神姫が逃げ出すようにさらに激しく飛び跳ねながら駆け回る。鬼姫は、その後ろを優雅に舞い踊りながら追いかけて、立場が逆転したようだった。

 次第に動きが穏やかになったところで、両姫は中央に舞い戻り手持ちの神木を掲げた。何かに取り憑かれたように一心不乱に小麻を、大麻を降り自身を、そして相手を払うかのように振り乱した。

 紙垂がさながら炎のように音が爆ぜ、お囃子も一層力のこもった演奏となっている。


 そして……。笛が鋭いひと吹きを放ち、空気がピンと張り詰めた時、両姫の動きが止まった。それから太鼓が、止まった空気を壊すように二度大きく鳴る。

 またゆっくりと時間が動き出し、神姫と鬼姫は操り糸が切れたように膝から崩れ落ちた。

 舞台の中央で得物を離し、横向きに倒れたその光景はまるで、遊び疲れた子供たちが野原に寝そべっているようにも見えた。

 神姫の面に倣うように、鬼姫の面が少しだけ穏やかになったように感じられた。

 しばらくすると二人は立ち上がり、また舞台袖までやってきて今度は二人並んで一礼した。肩で息しているのが分かるほど、その小さな肩が大きく揺れているのを見ると「狂気乱舞」の舞がいかに激しいものだったかが窺える。

 ましてや能面をした状態で、息苦しさもあっただろう。愁次の呼吸が楽になるようにと配慮していなければ、酸欠になっていてもおかしくないかもしれない。観客たちは先ほどよりも大きな拍手を送り、ぽつぽつと歓声も起こっていたほどだった。

 第二幕を演じきり、二人は仲良く手を繋いで舞台袖に消えていく。同じくして巫女三人も一度はけるようだ。第三幕を残して、一度舞台は無人になったのだった。

「すごかったね。あんな激しい踊りを長く続けるのは、もう僕の歳では無理だよ。本当によくやっているよ」

 東吾も惜しみない拍手を送っていた。

「俺も体育会系じゃないんで、二人に脱帽ですよ。今のはすごかったなー」

「私も文化部なので、あれだけ激しい踊りは厳しいですね……。でも二人とも、美しかったです。惚れ惚れしちゃいました」

「あー私もいつか、あの上にいくんだよね。踊る役ではないけど、空気がピリピリするのが分かるよー。ノミの心臓には応えるよー、たはは……」

 皆、感嘆の溜め息が漏れている。後ろに並ぶ多くの観客たちも拍手と共に、賛辞を口にしていた。

 しかし、あれだけの運動量だ。本人たちにも休憩の時間が必要だろう。第三幕が始まるまで数分の時間が空くようだった。


「織ちゃん……織ちゃん……」

 すると、人垣の中を掻き分けて笑が姿を見せた。小声で織恵を呼んでいる。振り返った織恵は声を出そうとすると、笑に制止された。人差し指を唇に当てて、内緒話をするように声を潜めている。

「あのね、ずっきが織ちゃんと二人っきりで話がしたいんだって。神楽見てる時にごめんね」

「……うん、叶那が? どうしたんだろう?」

「ひょっとしたら、愛の告白かも? ずっき、織ちゃんに憧れてるみたいだし、ロマンチックでいいですよね、雪が降る夕方って」

「な、何変なこと言ってるの、笑……。それで叶那はどこにいるの?」

「神社の入り口の鳥居の所で待ってるみたいです。あ、他の人には内緒でお願いしますね」

「ん? 織恵、どうした?」

 しゃがんで話す織恵に、愁次が怪訝そうに声を掛けた。

「あ、ううん。何でもないよ、ちょっとトイレ行ってくるね」

「おう、少し時間はあるだろうけど、第三幕までには戻ってこられるようにな」

「あー! 笑! そんな所にいたの?」

「お姉ちゃんやっほー。ふぅ、織ちゃんのとこ座っちゃおっと」

「おや、叶那は一緒じゃないのかい?」

「……はい、別行動ですよ」

「そうか。ご両親の所にでも戻ったかな」

 東吾は深く気にせず、舞台に向き直った。 

 笑は、すでに神楽舞が第二幕まで終わってしまっていることを聞いて肩を落としていた。咲が自業自得だと言うとその場は収まったが、これまでの美しい舞のことを細かく教えているところを見ると、咲らしい気遣いだった。


 飛騨守姫神楽の第三幕は「奉納演舞」。

 互いの価値観を摩り合わせるように、情熱的に舞った第二幕とは対照的に、厳かな舞になる。異なる文化が融和して、共に新しい文化を築こうという決意と、因果な巡り合わせの中で出会えたことに感謝して、八百万の神様に奉納するという意味が込められている。

 奥の間からゆっくりと出てきたのは、鬼姫と神姫。二人が手を取り合って舞台の中央までやってきた。そして、目立たぬようにすり足で巫女三人も登場した。

 姫の二人は衣装代えをして、純白の振り袖に赤い内衣をまとっている。そして天女を思わせる様な羽衣をなびかせて、いよいよ姫がこの世ならざる神の美しさを手に入れたのではないかと感じさせる。

 一時の間が静寂を作り、再び舞台が神聖性を宿した。羽衣を通して床が煌く様は、神の御前にいるかのような光を放っている。夏織がしっとりと唄いだした神楽歌。それはあの、花鳥風月の神楽歌であった。今年はあまり崩さずに歌詞を口ずさんでいるのかもしれない。

 お互いが持っていた神木……小麻と大麻を親交の証として交換してから始まる。

 そうして、最後の舞――奉納演舞の幕が上がった……。



 一方、叶那に呼び出された織恵の姿は、約束の場所である鳥居の下にあった。

 見つめる先には叶那の小さな背中が映る。織恵は声を掛けようとして、一瞬躊躇った。その背中が小刻みに震えていたからだ。

 すでに辺りは日が沈み、路肩の提灯がなければ足元も覚束なくなりそうな暗さである。

 傘を差すほどではなかったが、小雪がちらつく夜に寒さで震えていたのではないと察し、織恵はそっと両肩に手を置いた。

「どうしたの、叶那。もう、奉納演舞が始まっちゃうよ」

 努めて静かに、物語を語り聞かせるように優しい声音だった。織恵の感性は、母性的なものに影響を受けている。年下とはいえ、妹というよりは自身の子供をあやすような、心を落ち着かせる問いかけだった。

「……織恵さん。大事な、とても大事な話があります……」

「は、はい。こ、心の準備は出来てる、よ……」

 織恵は変な動揺をして、言葉が途切れ途切れになっている。聖母のような第一声はどこへ行ってしまったのだろう。暗がりで表情が見えにくいのが幸いしたのか、振り返った叶那は織恵の顔を見て不思議な顔を向けたが、一度鼻をすすって織恵の手を取った。

「ここでは、人が来ますから。移動しましょう。こっちです」

 拝殿を横目に、叶那は石畳を右に折れた。この方向へ進むと、迎えてくれるのはあの場所しかない。織恵も行き先はすぐに分かったが、黙して後についていった。


「すみません、大事な演舞の時に呼び出してしまって。でも、今しかなくて」

「うん、でもどうしたの? 何か悩み事?」

「……織恵さん、ここがどこか、分かりますか?」

 叶那はその建物を見上げた。声音はいつもよりも低い。心なしか掠れていて露天巡りをしていた時とはかけ離れていた。

「幣殿、だよね?」

「そうです、一週間前……。織恵さんが三年振りに帰ってきてくれた翌日、誰かが禁忌を犯して、侵入しました」

「っ……」

 叶那は何かを告げようとしている。しかし、核心は避けて発言しているところを見ると、どうやら意図は別にあるようだった。

「ここに入ったのは二人……。一人は、織恵さん……なんですよね?」

「ど、どうして……」

 織恵は動揺を隠せない。町会は誰が入ったかは把握していなかった。外部の人か内部の人かを測りかねて、村内の諍いに発展している。

 人気の無い幣殿の周り。居るのはただ、驚きで硬直している織恵と何かを思い詰めるような表情で淡々と話す叶那だけだった。誰にも聞かれてはいけない話を、奇しくも全てが始まった幣殿で語ろうとしている。

「安心してください。織恵さんが入ったことは、まだ町会は気づいていません。あたしが突き止めたのは、もう一人の方です。雨霧魅月さん……鬼姫です」

「え……魅月さん……?」

 意外な人物の名前が出てきて、織恵は戸惑う。叶那が何を言おうとしているのか分からず、言葉に詰まる。自身の記憶の中に、あの日魅月が居たことを探る織恵。

「あの日、境内に魅月さんが居たのを見たって、織恵さんのお母さんに聞きました。掃除に出ていたもう一人の巫女さんも見ていて、他に誰も見ていないそうです。きっと、魅月さんが幣殿に入って、祭具の小麻を持ち出した」

「ま、待って! ちょっと待って叶那。犯人が魅月さんって、いずれ祭具を持って舞を踊ることになるんだから、魅月さんがわざわざ幣殿に入る理由が無いよ。そもそも、祭りの日まで幣殿は鍵が掛かってて入れないんだよ? 鍵は、どうしてか分からないけど私が持ってたんだけど、私が行った時には空いてたの。その後、楠木先輩が入ってきちゃって……あっ」

 織恵は混乱から言葉を捲くし立てて、口を滑らせてしまう。

「楠木先輩って……あの今日を仕切ってる楠木さんのことですか? ということは少なくとも、幣殿には三人入ったってことですよね。いえ、それはともかく、鍵は織恵さんが持ってたのに、すでに開いてたんですか? どうして……」

「……分からない。でも先輩は興味本位で来ちゃったみたいだし、何かする時間は無かったと思う」

「予備の鍵ってあったりしますか?」

「無い……と思う。建物も古いし、私が小さい頃から大きな輪っかに、拝殿と本殿と幣殿の鍵が全部付いてて、どこかを開ける時はそのまま持っていってたから……。少なくとも私は、お父さんたちが違う鍵で幣殿とかを開けてるのを見た覚えは無いかな」

「そうですか。魅月さんはどうやって中に入ったんだろう……」

 二人は不可思議な侵入に頭を捻っている。しかし鍵は一つしかないことを考えると、それを証明する術は見えてこなかった。

「叶那……どうして、私が幣殿に入ったって分かったの……」

 織恵は恐る恐る声を出した。声色から、諦めや観念したというニュアンスが含まれている。

「あの日……佳ノ湖の東屋で、皆が集まって賑やかにしてましたよね。その時は、何かの小説のなぞなぞかなって思ってたんですけど……。話を聞いていたら、この村にまつわる謎らしいってことになって、薄々変だなって思ってたんです」

「変……?」

「実はあたし、三年前にも似たような謎を解いてるんだって言ってた人を知ってるってこの前、ちょっと言いましたよね」

「あ……」

「でも、顔を思い出そうとしても覚えていないんです。変ですよね、あたしの勘違いかなってずっと思ってました。でも、笑ちゃんと色々話してて、最近織恵さんが元気ないっていうのを聞きました。それで、よくよく聞いてみると何か隠し事があるみたいに、言えない事があるんじゃないかって笑ちゃんが言ってて……。それで、少しだけ思い出したんです。確かその人……たまたま入れた幣殿で、面白いなぞなぞを見つけたんだって。もしかしたらこれは〝天照大神の謎〟なんじゃないかって……!」

 天照大神の謎……。それは織恵がずっと決めあぐねていたことだった。叶那がおぼろげな記憶を頼りに導き出した中に、これほどまでに明言してしまった。かつて顔も思い出せない誰かが解いていた謎、それが天照大神のものである可能性が濃厚になってしまった。

「……天照大神の謎、か……まさか本物だったなんてね……。名前は分からないけど、その人が幣殿で見つけたって言ってたんだね」

「はい……。それで、もしかしたら織恵さんが解いてるのも、天照大神の謎なんじゃないかって思ったら、今騒いでる幣殿に入った人って織恵さんしか考えられなかったんです」

 そこで俯く叶那。織恵は一つため息をつくと、幣殿を見上げた。

 あの日、良かれと思ってここまで掃除にきて、何気なく見上げた幣殿の扉が開いていた。まさにそう、ここから見上げるようにして目に留まったのだ。気が付けば、おおごとになっていて、難解な謎を解くことになっていて、またこの場所に戻ってきている。それも、叶那に禁忌を犯したと、直接言われてしまったようなものだ。

 織恵の胸中は穏やかではない。目を閉じて、やるせない気持ちを悔いているように見えた。


「あっ、ひょっとして――」

 しばらく織恵は沈黙していたが、叶那が何かに気づいたように顔を上げた。

「織恵さん、こうは考えられないでしょうか。織恵さんが幣殿にくるのを見越して、何らかの方法で幣殿に入った。そして、小麻を天照大神の謎とすり替えたんです。その謎を、織恵さんに見つけさせる為に……」

「それは、魅月さんがこの謎のことを知ってたってこと? もしそうだとしたら、私は仕向けられたんだね、まるで道化みたい。三年前の誰かと、同じことを私がしてる」

「そう考えると、魅月さんが幣殿に入った理由になりませんか? 問題なのは、どうして鬼姫である魅月さんがそんなことをしたか、ですが……」

「同じことを、繰り返す……。同じこと……。それって……っ」

 織恵は半ば自暴自棄のようにうわ言を呟いていたが、突然メモ帳を取り出した。

「儚く、映し世の鏡は消えて溶け、言霊を濡らす……。ひょっとして、これって……あぁ」

 織恵は何かに気づき、脱力したように両手を降ろした。叶那に背を向けて、言葉だけで問い掛ける。

「叶那……教えて? 三年前、私と同じようにこの謎を解いていた人は、どうなったの? 謎は解けたのかな……」

「分かりません、覚えていないんです。ただ……」

「多分、この後何かが起こる。私、行かなくちゃ……ぁっ」

 後ろから叶那が抱きついた。お腹に手を回して、織恵を行かせまいとするように、震える手を誤魔化すように、叶那は織恵の身体にしがみ付いている。織恵は突然のことに驚いて、体勢を維持することで精一杯で後ろを振り返ることが出来ない。

 叶那は織恵の腰抱えるように自身の腕を掴んだ、すがるように額を背中に押し付ける。

「織恵さん、どうして……言ってくれなかったんですか……?」

「え? 叶那……?」

 織恵の背中に伝わる、涙声。嗚咽が混じり、次の言葉が続かないもどかしさを飲み込んで、叶那は堰を切ったように声を絞り出した。

「どうして、言って、くれなかったんですか? もっと早くに分かっていたら、きっと……。もっと……。あたしはまだ子供で、頼りないかもしれないけど、織恵さんの力になりたいんです。言って欲しかった。ずっと待ってたんです。三年間、ずっと……」

「叶那……」

 叶那の涙は止まらない。織恵の背中に悲しみが広がっても、抱き締める力にいくら想いを込めても、起こってしまったものは取り返しが付かない。

 織恵はこの三年で村のことを忘れたことは一度も無い。もっと勉強して、いつか村を変えたいという高い志を持っている。しかし、それを運命は弄び、誰かの因果に取り込もうとしていた。それを叶那は感じ取り、行かせまいと必死で織恵にしがみついているのだ。

 変えようの無い末路の入り口で、戻ること叶わぬ悲しい出口に恐怖して。

「やっと、帰って来てくれたのに……どうして織恵さんだったんですか? どうして……。あたし、織恵さんのこと……忘れたくないです……」

 織恵は回された腕を包み込むように手を重ねた。今はただ、叶那の慟哭が落ち着くのを待つしかなかった。

「あたしは、織恵さんのこと……大好きだったのに……」

 たとえ時間が止まらなくても、織恵はしばらく叶那の想いに寄り添うことにした。



「いよいよですよ、ひゃー。わたしこのシーン、ドキドキしちゃいます」

 笑は最後のシーンを前にして、少し興奮気味だった。

 舞台は大詰め。神姫と鬼姫が信愛の契りを交わす場面だ。それは、単にキスをするという意味だけではない。過去の諍いも禍根も忘れ、お互いの額にキスをすることで禊にする。そして、最後に唇を重ねるのは、伝統も文化も、人種も様々な価値観をも共有し、融和することを意味していた。

 〝〟の部分である奉納演舞が終わり、最後は中央で神姫と鬼姫が抱き合っている。

 神姫がそっと、鬼姫の面を外し床に置く。次に鬼姫が神姫の面を優しく外して床に置く。

 お互いの顔が露わになったとき、お囃子も鳴り止み、あとは二人のタイミングで契りを交わすのだ。

 まずはマユラが魅月の額に口付けた。こうして、神姫は鬼姫に心を捧げ、〝信愛の合図〟とした。この土地に住まうものが、新しき民を受け入れたということだ。

 続いて魅月が、マユラの額にキスをする。魅月もこの時ばかりは、目の前で瑞々しい薔薇のように輝くマユラの瞳に、うっとりと頬を染めていた。それを〝親愛の証〟として、巡り合いに感謝したということだ。

 最後にしばらく見詰め合った後、二人は淑やかに唇を重ねた。

 身も心も浄化され、純潔の契りはここに成った。神聖なる一夜に相応しい儀式として、美しく、上品で、清らかな行為である。

 ここにいる誰もが、その雅な姿に目を奪われていた。

 

 これにて、飛騨守姫神楽は閉幕した。

 愁次たちも惜しみない拍手を手向け、鳴り止まぬ賞賛に舞台の演者たちは深々と礼をして応えた。今年の舞台は、大成功だったと胸を張って言える出来栄えだっただろう。

 マユラと魅月も少しホッとした表情をしながら、観客に手を振っていた。

 舞台から演者たちがはけた後、楓のアナウンスによって佳ノ湖に移動する運びとなった。

 事前に灯篭を作っていた人も、大規模体験教室で作った人も、自慢の灯篭を取り出して今年は何を忘れようかと冗談交じりに談笑している。

 とある地方では、布団の綿で身体を清めて沢に流すという禊の方法があるが、やはり人にとって禊というものは得てして必要なのだ。

 年に一度だけでも、そういう機会があったなら多くの人が参列するだろう。


「そういえば、織恵がまだ帰ってこないな」

「もしかしたら、人が多くて戻ってこられないんじゃないでしょうか」

「それなら、先に佳ノ湖の方に行ってるかもしれないね。僕たちも降りてみよう」

「そうですねぇ、皆さん灯篭は忘れてませんか?」

 笑が問い掛けると、全員が灯篭を掲げた。準備は万端のようだった。

 いよいよ最後のメインイベント「雛灯篭」が執り行われる。愁次たちが佳ノ湖に着く頃には、すでに湖佳橋の前に人だかりが出来ていた。

 まだ両姫の姿はなく〝お色直し中〟なのかもしれない。

 時刻は逢魔ヶ時、すでに日は落ち、次第に雪も粒を増していた。本降りになる前に、灯篭の灯りを灯せたなら多少の雪被りは風情として見えるだろう。それもまた、冬のお祭りならではのハプニングだ。いや、裏の裏は真ならば予定調和なのだろうか。

 本来は雪の中で水面にたゆたう灯篭を眺めるのが、人々がが待ち望んでいた冬の風物詩なのだから。

 

 しばらくして、マユラと魅月がやってきた。

 袴姿の二人は姉妹のようで、これからどこかの式に参列するのではないかという華やな出で立ちである。マユラは花柄の明るい黄白色の羽織で、魅月は家紋のような模様が刺繍された藍色の羽織だった。今日は両姫とも、実に麗しい姿を披露してくれている。

 湖佳橋の入り口の両脇に二人が立ち、いよいよ楓のアナウンスによって雛灯篭が開始された。皆、自慢の灯篭を順番に渡して姫に禊のキスをしてもらう。それを再度受け取り、湖佳橋の上にいる巫女に火を灯してもらえば、いよいよ湖面に浮かべるのだ。

 それぞれの想いが詰まった灯篭が、次第に佳ノ湖に浮かべられていく。

 その数、数百を超え、佳ノ湖に灯篭の灯りが燈った。ステージの人工的なライトが消され、とうとう目に映る明かりは灯篭のみとなる。


 水面ノ灯火は、様々な想いを乗せて雛の禊を受け浄化されていった。


 

 そして、すべての人が禊を終えた頃……。

 湖佳橋の上には、マユラと魅月の二人だけとなった。まるで黄金の橋を歩いているようだ。佳ノ湖は鏡だと、誰かが言った。きっと今だけは、黄金の湖に姿を変えているのだろう。

 その舞台に、ゆらりと上がる人影がいる。


「……時間切れだね。小鳥ちゃん……」

 楓は、つと呟いて顔を上げた。振り返るマユラと魅月。

 雪が大きな結晶となって舞い落ちている。すでに橋の上は白い結晶の絨毯が敷かれ、それがまるで雲の上にあるかのように、佳ノ湖全体が空を模っていた。

 丁度、橋の真ん中で立ち止まった楓に魅月は鋭い視線を送る。マユラの手を取って、ぎゅっと握った。

 楓の澱んだ雰囲気を感じ取ったのだろう、表情を固くしている。

「皆さん! 今夜の神姫祭を楽しんで頂けたでしょうか? 不肖、楠木楓が念願だった神姫祭の総指揮を務めさせていただきました! 集まってくださった多くの方々に、少しでも思い出になるようなものに出来ていたなら幸いです。初めての大役でしたが、僕自身も大いに楽しませて頂きました! 神姫村の伝統、花明一刀彫と小鳥和紙がこれからも、ずっと先の未来まで受け継がれ、皆さんの心に残ることを祈ってます! そして、神姫祭が僕の孫の代も、そのまた孫の代も、ずっと開催されていくことを切に願っています! 今日は本当にありがとうざいました!」

 楓の舞台挨拶は多くの拍手を呼んだ。「また来年もがんばれ」「楽しかった」などと、歓声も上がって、その声を楓は目を瞑って噛み締める。

「最後に今日は、皆さんにお伝えしなければいけないことがあります」

 声の音量を落とした楓に、観客はすこしざわついた。

 楓の目が半眼になり遠くの誰かを見つめている。

「この村に神童として親しまれた女の子が居ます。それは誰ですか?」

「神童といやぁ、そこにいるマユラ様だでな」

 村長が一歩前に出て応える。

「マユラ、こっちにおいで」

「え……」

「来るんだ」

 魅月がマユラの手を掴んだので一瞬戸惑う表情をしたが、楓の語気に押されて魅月は手を離した。

「そう、神童はこのマユラです……。それは三年前の今日、変わったのです」

「な、何を言っとるんじゃ。最初から神童はマユラ様しかおらんで」

「……昔話をしましょう。三年前まで、僕と同じように歳を重ね、無邪気で誰からも慕われていて、容姿も美しい健気な女性が居ました。その人は四大名家の娘で、鬼姫として不思議な包容力があり、幼少の頃からあなた方お年寄りたちは神聖な子だと敬い大切に育ててくれました。いつしかその子は、〝神童〟と呼ばれるようになり学業も右に出る人はいないくらい才のある成績を修めました。この村では鬼姫として、毎年舞台に上がり人々を魅了し、ゆくゆくはこの村を担う一人になるはずでした」

「……」

 語りだした楓に、口を挟む者は居ない。魅月でさえ、黙して俯いている。

「名前は、ミヅキ……。美しい月と書いて、美月です。ここにいる鬼姫の〝魅月〟ではありません。だから、神童はマユラでもありません。今ここには居ない別の人が、美月が神童と言われていたんです」

「し、知らんよ、そんな子のことは。誰かと勘違いしとるんじゃないかい」

「そうです……。三年前の今日を境に、彼女は消えてしまいました。生きた痕跡も、生きた証も消えて、誰の記憶からも居なくなってしまったんです。どうしてか、分かりますか……? 彼女は神姫祭の数日前、禁忌を犯してしまいました。幣殿に入り神を冒涜したと思われたんでしょうね。だから神側の反感を買い、また鬼側の恥晒しだと罵られ生贄に選ばれてしまった。謝罪をしても許してもらえず、どんな気持ちで最後の舞台に上がっていたと思います? 被った面で彼女が流した涙はきっと見えていなかったでしょうね……」

 楓の悲痛な訴えは、どれだけ観客に届いているだろうか。ここにいる楓以外の人間は、美月のことを覚えていない。楓が世迷言を叫んでいるようにしか見えなかったに違いない。

 いつからそこにいたのだろう、織恵の姿が湖佳橋の入り口にあった。息が上がり走ってきたことが窺える。そのまま言葉を失っていた。

「でも、それを利用した人間がいる。伝承になぞらえて、美月を消そうと暗躍したやつがいる。雨霧家……お前たちが作った幻想は、生贄の美月を伝承になぞらえてみんなの記憶を食んだということにしたかったんだろう。でも違う! そんなまやかしに僕は騙されない! だから僕はこの三年間、あまぎり会に潜入して機を窺ってたんだ」

「楓、あなたは勘違いをしている。マユラを離して。美月なんて女性は……居ないわ……」

「そんな嘘はやめてくれよッ!! 君が実の姉のことを忘れるわけないだろ!? 親が自分の子を忘れるわけないだろ! なぁ村長! 本当は皆覚えてるんだろ……? シキタリは絶対だから逆らえないだけなんだろ? 何とか言ってくれよッ!!」

「姉、さん……。俺の姉さんも……」

 愁次が突然、胸を押さえてうずくまる。東吾がしゃがみ込み、肩を支えた。

「美月は天照大神の謎を解けなかった、だから消された! この村の悪しき伝承、雛流しによって……。だから僕も伝承に則り、あの文献に書いてあったことを実行することに決めたんだ。そうさ、この村では雛流しによって人を蘇らせることが出来るというじゃないか。それには生贄が必要……つまり、雛流しにする人を生贄として捧げて美月を蘇らせる。神姫村では毎年、生贄になる女性が必要だった。そのシキタリは絶対で、逆らったら殺される。見て見ぬ振りをするしかないんだ、でなきゃ次の年の生贄が自分の娘になってしまうから! ……でも、僕たちは覚えていないんだ。誰が消えたのか、誰が殺されたのか、覚えていないんだ。うまく出来てるよ、人の記憶なんて曖昧だからね……。ずっと昔から、続けられてきたんだろ? そんな時、幣殿の祭具を壊したバチ当たりな美月が都合良く見つかった。そして……消されたんだ。それをカモフラージュする為の儀式が、この神姫祭なんだ、そうだろう? 雨霧家ッ!」

「っ……」

 魅月は顔を伏せ、唇をきつく噛む。もう、楓の叫びは止まらない。魅月は自分が発言することで、楓の逆鱗に触れてしまうことが分かり声も出せない。溢れ出しそうな何かを必死で堪えているようでもある。

「な、何のことを言ってるのかさっぱりだよ楓くん。確かに大昔にはそんな言い伝えがあったらしいけど、もうそんな時代は終わったんだ。生贄なんてそんな大それたこと……」

 雨霧家の町会役員が、おろおろと否定している。それは楓の怒気に飲まれ、反論とはとても呼べるものではない。

「じゃあ、どうして美月は消えたんだ! どうして僕だけが覚えていて、皆忘れてるんだよ!? まだ死体が出てくれた方が良かった……。美月が生きてたことも、なかったことにするなんて、あんまりじゃないか……。美月が神童って言われて、僕も自分のことのように嬉しかった。何をやってもそつなくこなしてさ、皆から愛されてて、出来の悪い僕をいつも小突いて笑ってさ……。姉御肌で面倒見が良くて、少し褒めたら照れくさそうにはにかんで……。そんな美月が……僕は……好きだった……」

 楓の慟哭は、辺りに静寂を呼んだ。楓の哀しみを知っているのは水面ノ灯火だけかもしれない。

なぜならここにいる誰もが、美月のことを覚えていないのだから……。



「ぁ……あぁ……」

 湖佳橋に膝から崩れ落ちたのは、織恵だった。

「私、分かった……。そっか、そういうこと、だったんだね……」

 振り返った楓は、マユラの懐から能面を抜き取って開放した。

 そして、虚ろに呟く織恵に近づいていく。

「もう時間切れだけど、聞くよ。小鳥ちゃんが見つけた真実を……」

「これは、解けない謎……。解いてはいけない謎だったの。この謎には魔性の力が宿ってる……。誰かがこの謎を見つけると、誰かが生贄になる。そしてまた誰かが伝承を信じて、誰かを生き返らせようとする。その為に、誰かに謎を解かせて生贄にする……誰かが誰かを想う時、たとえ生贄にしてでも愛する人ともう一度会えるなら、狂気を内に宿す。たまたま今回私が生贄になっただけ、たまたま今回は、楠木先輩が美月さんを想っただけ。〝言霊を濡らす〟……今先輩が美月さんという人を愛して、涙を流しているように……」

 織恵は放心し、事の真相を語る。自身が開けてしまった扉は、連鎖の始まり……いや、ずっと昔から続く絶望の連鎖に飛び込んでしまったのだった。

「鏡は月を映し、水を弾く……これは、美月さんのことだったんですね。鏡っていうのは、かつて消えてしまった、誰かの想い人のことです。水は鏡を濡らし、月を取り込む……これは、先輩。あなたのことです。水は伝承を妄信して実行する為に、月を誑かす人のこと。そして月は水に惑わされ、鏡を満たす……。月は私のこと。かつての鏡の依り代であり、生贄です……」

「なるほどね……。それが小鳥ちゃんが導いた答えなんだね。でももう、どうでもいいんだ。舞台は整い、役者は揃った。伝承どおり、ここで君を生贄に捧げれば……美月は、美月の記憶が蘇る。負の連鎖に飲み込まれたとしても構わないよ。僕は美月を生き返らせるためなら、何だってする。三年も前に、そう誓ったんだ」

「舞台に必要だったのは、鬼姫と神姫。役者は私たち。そして、愁次が彫った能面と、生贄に捧げる側の依り代……小麻。先輩が持ってたんですね……」

 楓がどこかに隠し持っていたであろう小麻を無造作に放る。紙垂がなびいて、佳ノ湖の水面に落ち、沈んでいく。

「織恵……どうして……」

 愁次が立ち上がる。声無き声を織恵に目で訴えていた。織恵は愁次の視線に気づき、そっと微笑み返した。

「この謎は、解いちゃいけなかったの……ううん、解けないの。これじゃあ、誰も……救えないね。この謎を解けば、また共鳴にとり憑かれる人が生まれる。そして同じように〝〟が必要で……。愁次、巻き込んじゃって、ごめんね……ホントにごめんね……」

 織恵の右目から、悲痛な雫が滴る。織恵の笑顔の裏に隠された絶望に、愁次は言葉を掛けられない悔しさを滲ませていた。

 そして織恵は、舞台役者を演じるようにすらりと伸びた右手を上げて、楓の頬に添えた。

「人を蘇らせるという永遠の夢を見ながら生贄は湖に消え、世界に〝さよなら〟を告げるでしょう。今宵、ここに集まった人たちの、生贄となった私の魂と、思い出すことの出来ない追憶を食らって……」

 織恵のその言葉は、芝居がかったように普段の口調とはかけ離れていた。

「……それが、先輩が私に求めた〝役〟だったんですね……」

「ごめんね、小鳥ちゃん……。僕は君に嘘をついた。この謎は解けない。でも君がそれを見つけたことで、僕の目的はほぼ達成されてたんだ。……こうするしか、方法は無かった。美月の為に、死んでもらうよ……」

 織恵は全てを受け入れた。愁次の方を見て、もう一度微笑む。

「まるでここは、舞台だね……。姫にはなれなかったけど、私も舞台に上がれたんだなぁ……」

「織、恵……」

 織恵は小さく呟いた。声にならない掠れた息で。

「でもね先輩……どんなに愛しても、どんなに想っても、人は蘇ったりしないんだよ……?」

 楓は言葉を受け流すように、神姫の面を被せた。

 忍ばせていた鋭利な刃物を、織恵の首筋に当て、言った。

「美月……」

 まるで木彫り工芸を実演するような優雅さで得物を握り、思い切り横に払った。

「やめろッッッ!!」

 愁次の叫びが木霊する。


 おぼろげな灯篭の灯火と、無常な小雪の冷たさの狭間で朱が霧散した。

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