後半

 狂い始めたのは、それからだったと思う。当時の私にしてみればめでたく、私達は恋人としての日々を過ごし始めた。学校内での何かが変わることはなかったが、放課後は陽の家に行くことが多くなった。


「付き合ってなくても、こうしていて良かったんだよ」


 陽は時々そう言った。俺達は元々特別な関係で、それに彼氏彼女という名前を付けなくても同じだったのだと。それでも私達は名前のある関係を得ることで何かが変わったのだと、子供ながらに感じていた。

 陽の家は物に溢れており、私は様々なことを教わった。それは食事のマナーから陶磁器の知識、絵画の技法まで多岐に渡る。そしてあの日、私に写真を教えた。


「簡単なカメラを使うなら、接写が良いよ。これから高性能な機器が増えると思うけど、いつだって性能は技量に及ばない」


 見よう見まねで花を撮った。西洋の花、名前は覚えてない。バラ科だって聞いた。庭の花は祖母が手入れしていたらしいが、雑草が伸び始めていた。「おばあちゃんがいるんだ、いつか会ってみたいな」なんて言ったのは間違いで、生者ではないと知るのは一年以上後。何なら、陽がここに一人で住んでいることすら、ずっと気付かなかった。


「美華って良い名前だよな。華は簡単な字の花と違って、華やかとも読める。簡単な方は大人しい字だけど、こっちは明るい。そこに美しいなんて字まで付けるんだ、愛されてるんだな」

「そんなの陽だって、太陽の陽じゃない。華は太陽がないと咲かないんだよ」


 私なりに頭を使ったつもりだった。それがどう陽に響いたのかは今でも分からない。ただ陽はそれを聞いてから、私を寝室に連れて行った。いや、引っ張って行ったと言うべきだろうか。強く掴まれた手首は陽の形に赤くなっていた。


「美華は俺を彼氏にしたい、俺は美華を知りたい。それだけで良いのかもな」

「え、何?」


 当時の私はそういうことに疎く、陽が私を抱き締め、背を撫でていることを単なる愛情だと思って恥ずかしがっていた。ハグやキス、そういった恋愛らしいことへの憧れはあったし、陽もそれを望んでいるのだと思って嬉しさまで覚えていた。

 ただ、陽はその先まで望んだ。私は無知だった。陽はいつものように、毛筆を教えるように愛撫を教え、クラシックを覚えさせるように快楽を覚えさせた。 陽の話術はまるで詐欺師か、催眠術師か、あるいは教祖か、私に一切の疑念を抱かせなかった。そういうものなんだ、としか。

 陽は行為の最中、いや、何なら私との関わりにおいて一度も好きだとか愛してるだとか、そういう言葉を使わなかった。ただ彼の暗い目を見つめると、全てが正しいように思われた。胸を鷲掴みにするような恐怖さえ、愛おしいほど。


 陽とはその一週間後に別れた。理由なんて覚えてない。陽がずっと言うように、私達は付き合ってなくても何も変わらないのだと、信じることができたからだろう。

 事実、彼氏彼女の関係を辞めても私達の生活は何も変わらなかった。周りからの冷やかしは絶えなかったし、私が保健室にいると陽は顔を出しに来たし、私は放課後陽の家に行くし、陽は私の体を使い続けた。何も変わらない。


 その関係は中学に上がっても続いたし、高校に上がっても同じ。勿論、優子と再会した大学の今でさえ、何も変わらない。


 ***


 優子は件のラズベリーチョコフラペチーノを飲み終えて、先月の新作ほどじゃないかな、なんて言っている。


「陽とはいつから?」


 恐る恐る聞いた。何を恐れているのかと言うのは、別に優子との都合ではない。私が余計なことを言うと、陽の邪魔になるからだ。陽は私さえ何もしなければ、全て解決してくれる。きっと優子のことも上手にかわして、何もなかったかのように平和に過ごせるから。

 実際、陽が彼女を作ることは何度もあったし、私は口を出す権利もその必要もないと思い知った。


「恥ずかしいけどね、実は合コンなんだ。友達に誘われて行ったらさ、偶然陽もそこにいてね。ほら昔話って盛り上がるじゃん、気づいたらそのまま? みたいな」


 なるほどね、と返した。余計なことは言わない、思わない。

 随分と女の子らしい顔をするんだな、と思って優子を見ていると、不意にとんでもないことを言い出した。


「そうだ、これから陽に会いに行かない? 小学校以来じゃん、三人で話すの」


 これだから女は、なんて思った。お腹を撫でながら立ち上がると、会計は優子が気前よく済ませてくれた。こういう気の利かせ方は見習いたい。



 陽の家に入るのは三日振りだった。思わず自分用のスリッパを取り出しそうになったが、陽の視線を感じて思い止まる。別に私のスリッパがあっても、仲の良い友人としては不思議ではないだろうが、念のため。

 リビングに通されると、三人分の紅茶とお茶菓子。連絡をしてから今の間に準備していたのだろう、流石は陽。優子の気の利かせ方なんて、陽には程遠い。そもそも、私に気を遣うならこんなところに連れてこないだろう、なんて今さら気づいた。


「ねえ、陽。優子と付き合ったんだって?」

「そうだよ。優子は昔から魅力的でね、今さら思い出したんだ」


 上手だな、と思った。私の方を一切向かずに答えるのだ。丁寧に優子に視線を送り、口元の筋を弛緩させている。言葉は冷静でも、感情は思わず顔に出るのだと、嫌でも分かってしまう。勿論これら全ては陽の意識的な(あるいは無意識的かもしれないが)戦法だ。これに釣られる過去の女達を思うと、憐れとしか言えない。


「やだ陽ったら。美華の前なんだからさあ」

「駄目だったかい? そういう機微には疎くてね、慣れていないんだよ」


 私もこういう陽には慣れていない。かれこれ12人目の彼女(私を含めて)に当たるが、実際にその交際の様相を目にしたのは初めてだ。優子が私に見せ付けたいんじゃないか、くらいの洞察はしているが、どうでも良い。


「美華も何とか言ってよ、陽っていつもこんな感じなの?」

「えー、どうだろう。分かんないけど、いつもより楽しそう」


 紅茶は美味しい。フラペチーノみたいな雑な甘さは嫌になる。薫り高い甘さと品のある味わい、私と買いに行った茶葉だ。お茶菓子はクッキー。先月末に私が置いていったものだが、まだ食べていなかったらしい。

 美華は古風なものは好まないだろう、流行り好きな女なんてそんなものだ。それを分かっているだろうに、私向けにお茶を出してくれるのは嬉しい。


 小学生の頃の話から始まり、大学で私と優子が再会するまで、そして優子と陽の再会、口の止まらない女が過去を語り続けた。まるで喋るアルバム、愛すべき女。

 やがて語り終わると、優子のバイトの時間が迫っていた。早々と紅茶を飲み干される。


「今日はありがとうね。美華とも話せて良かった!」


 そういえば、私の男っぽさは陽のそれだ。なるほど、通りで優子が陽に惹かれるわけだ。走り去る背中は、なんとも幼く見えた。

 優子を見送ってから、私達は二人。庭の美しかった花々はもう一輪もない。ただ雑草という名に括られるような花が、いくらか顔を出すばかり。

 陽は私の手を引いて、何も言わずに玄関の向こう。扉を閉めると、口を重ねる。腰に回された手が、私の背徳。足に掛かる力が徐々に抜けて、陽の手に体を委ねる。少しずつ息がしづらくなり、意識が抜け始める。ぼんやりとした意識の中で、陽だけが私の全てだ。口を離すと、余韻のように唾液が糸を繋ぐ。呼吸が乱れたまま、寝室へと連れられた。

 こうして肌を重ねるのは何回目だろうか。かれこれ10年近い中で生理を除いて(稀にその最中にもしたが)毎週のようにしているから、もう数えるものではない。


「ねえ、首、絞めてほしい」

「美華が何か求めるのは珍しいな」

「私の命、預かってよ」


 陽の指が、繊細に私の血管を押さえた。意識が薄らぎ、死をすぐ隣に感じる。こんなこと、陽じゃなければ許せないだろう。私を殺して良いのは陽だけだから、きっと私達の愛はこういう形じゃないと表せない。 

 私の命を両手に抱きながら、陽は私を使った。感じるのは、やけに大きい自分の脈と、陽の手の形と、子宮に触れる命の種。陽の首に手を回して、そのまま抱き寄せるようにキス。私は陽の目の暗さに混ざるように、ふっと気を失った。




 目が覚めた後、首に残る感触を愛おしみながら服を着た。私はずっと陽が好きだ。お腹を撫でながら、さよなら、と呟いた。


「ねえ陽」

「何」

「妊娠してる」

「そうだろうね」

「どうしようか」

「どうしたいんだい」

「どうもしたくない」

「華は咲いたんだろう?」

「うん」

「じゃあ大丈夫だよ」

「分かった」

「ありがとう」

「初めて感謝された」

「そうだったかい」

「そうだよ」


 私は次の日、崖から飛び降りた。お腹を大切に抱えて、頭から。きっと美しい死に様だった。

 優子はきっと幸せになれるだろう。だって、誰よりも女なんだから。

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咲かない華と暗い目と 文月瑞姫 @HumidukiMiduki

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