九月/曼殊沙華
さて、ここに一本の
火花のようにひらいた朱色の花弁は、まだ朝露に濡れている。
天を仰いですっと伸びた立ちすがたから天蓋花、あるいは彼岸の時期に群れ咲くすがたから地獄花、さらには蜘蛛が脚をひらいたようなすがたから蜘蛛花と数多の異称をもつ花でもある。
その花の首に、花鋏をあてる。みずみずしさを感じながら、チョン、と切る。
そういう一連の動作を、
十六の、とりたてて特徴のない、咲くまえの水仙のように、しゅっと姿勢だけはよい少年だ。残暑が殿内に立ち込めているせいか、制服のシャツから伸びた腕はうっすら汗ばんでいる。花弁から音もなく落ちた朝露を払い、馨は鋏を置いた。
切られた花首から、微かに香気がたちのぼる。
瞬きをひとつすると、馨のまえに少女の花精が現れた。花精は尋ねる。
「未練をひとつ、話してもよいだろうか」
馨は目を伏せて、ただ耳を澄ませている。
「――はい」
ふっと笑みまじりの息をつき、花精がかたりだす。
・
・
わたしが仕えた男は、豊穣の海にひらけた国を治める王だった。
かれとわたしが出会ったのは、わたしが十五の頃。王宮に訪れた奴隷商から、かれは気まぐれにわたしを買った。わたしの背中から腰、胸元から四肢に至るまで、微細に彫られた青墨の刺青が気に入ったらしい。
たしかに、十五のわたしのうすっぺらな身体には、刺青の鑑賞物としての価値以外はなかった。膚は白磁。目の色は瑠璃。髪はぬばたまの黒。奴隷商は口上のように読み上げたけれど、目を惹く女に、興を引く品なら、ほかにも星の数ほどあった。
玉座からわたしを見下ろしていた男は、おもむろに立ち上がると、鷹が狙いを定めるようにわたしの顎をつかんだ。わたしは一糸もまとっていなかったが、長い黒髪は一部を結い、針を数本束ねた簪を挿していた。かれはめざとく、その簪にきづいたようだった。
異国のことばでかれが何かを言い、奴隷商が蒼褪めてぶるぶると首を振る。
これはなんだ、とそういう意味のことをかれは奴隷商に詰問したのだろう。
たかが細針が三本だが、ここは王宮で、かれはこの小国の王である。命を狙う者も少なくはない。
身の潔白を求められたわたしは、針のひとつを抜き払い、己の刺青のうえに、つ、と置いた。わたしの一族は先祖代々、彫りものをなりわいとする彫り師であった。簪に擬したこの針は、わたしが母から受け継いだ仕事道具である。神霊にも通じたわたしたちは、彫りものを通して、ときに祝福を与え、呪いをかけた。
わたしにとっては、命と同義である針のふちから、赤い血が滲んで伝い落ちる。針を握るわたしと、腰に佩いた太刀の柄に手をあてた男の視線が、つかの間交差する。互いの魂の色とかたちを探り合うように。
「 」
やがて、かれは太刀から手を離すと、異国のことばでなにかを言った。
そのときのわたしはかれのことばを解さなかった。だから、正しいところはわからなかったものの、かれの所望することは察した。
――おれにも刺青を彫れ、とかれは命じたのである。
色素を入れるための針を水で洗う。
わたしのまわりには、この三年でかれが集めさせた植物や鉱石からなる色粉が素焼きの皿にのせて、あまた置いてある。
わたしが故郷から持ち出したのは、刺青を彫るための術と、母から継いだこの針だけである。わたしの故郷はずいぶんまえに滅んで、逃れるために祖母とのった船ごと、わたしは遭難した。浜についたのは、わたしだけだった。
ただしく、わたしの持ち主であるかれは、草を編んでつくった敷物のうえに背をさらして寝転んでいる。
ここはかれの寝所で、布で仕切られた部屋は、陶器に火を入れた灯りでほのかに照らされていた。武人らしく、荒っぽい線を描く背のくぼみに、ひかりと陰がまだらに落ちている。
「よろしいですか」
儀礼としての断りを入れ、わたしは衣をさばき、かれのまえにかがんだ。
かれの広い背に落ちた、ひかりと陰。
その陰りに針を刺す。溶いた色粉を挿し入れ、えがく。昨夜の続きを。
わたしたちはことばを交わさない。彫りもののあいだ、宵闇にはわたしの立てる衣擦れの音と、針を置くときに鳴る微かな金属音、そして外の虫の声だけが響く。
針を刺した男の膚から、うっすら血のにおいが香った。
かれは今さら苦悶の声などあげないが、かれの肉体からは血と汗がにわかににじみだす。わたしは目を細め、湿らせた布でそれをふき取る。針を持つ白い指先で、つ、とかれの固い皮膚を押す。わたしの指先では、深く沈み込むことなどできない。力の差にひっそりと絶望をしながら、針を持ち替え、また色を入れていく。
勘の働くかれは、不埒なわたしのふるまいにきづいていることだろう。
わたしがかれの血の香に酔っていることも、おそらくは。
かような魔性に背を預け、まどろんでいられるかれを、わたしはおそろしい、と思う。力の差よりも、武器のあるなしよりも、かれの、すべてをのみこむような得体の知れない闇を、おそろしいと思う。
「そなたは寡黙だな」
今晩の彫りものが終わると、かれは緩やかに身を起こした。
下女たちがすばやく翡翠の硝子杯をふたつ、銀盆にのせて持ってくる。硝子杯にはどろりとした臭みのある酒が注がれていた。おいしいとは思えないそれをかれは水のようにのむ。
「彫るときには、なにを考えている?」
同じように杯を手に持ち、わたしはうすく口端を引き上げた。
「<おまえは、どのように死ぬのかと>」
かれに買われた身でありながら、わたしは故郷のことばを平然としゃべる。
かれはそれを解している。だから、おかしそうに咽喉を鳴らしてわらいだす。
「おれの<華>は今宵もつれないな」
わたしもそれを解している。
互いを理解しながら、おのれのことばを使い続けるわたしとかれは、けっして交わらぬといわれる天降り花の、花と茎のようだ。
「いつでも殺す機会はやっているだろう。夜ごと。千も」
「<敷物のしたに刀をしのばせているくせに、機会などと?>」
「頭をつかえ。毒を針にしみこませればよい」
「<もうやっている>」
「それは初耳だな。効かなかったのだろう? おれはこのとおり、不死身だから」
かれは機嫌よく目を伏せた。
豊穣の海にひらけた国に王子として生まれつき、わずか十七でかれは王位についた。以降十年。豊かなちいさき国を平らげようとする北の大国、南の大国相手にときにひらりと身をかわし、ときに計略のすえ大国同士をぶつけあい、ときに果敢に武器を取りながら、困難なかじ取りをこのうえなくうまくやっている。
わたしは南の大国の鄙びた村で生まれ育った。
両国の衝突に巻き込まれ、母はかれの国の兵に腹を割かれて死んだ。
母が遺したのは、脈々と血とともに受け継がれた彫りものの技法、そして針。
祝福をあたえ、呪いをかける。彫り師の命を削り、えがかれる刺青。
「<あの日、なぜわたしを買ったんだ>」
かれの手で囲われて三年が経ち、わたしは十八になった。
ぬばたまの黒髪と瑠璃の眸を持つ、しかれども精緻な刺青以外にはさしてみどころのない女である。かれは、わたしを彫り師、そして気まぐれに慰み者として扱った。それ以上の執着をかれがわたしに見せたことはなく、かれの正妃の顔をわたしは知らず、五人いる妃ですら、わたしには目を合わせることすら叶わぬ、遠い存在である。
「欲しいと思った」
かれは荒削りな氷のような声で言った。
「<なにを>」
「そなたの刺青がうつくしかったから。身体ごと、ひとそろえに並べたくなった」
怜悧な王の目に、魔ものが宿る。
わたしはくすっとわらい、翡翠の杯に目を落とした。
「悪趣味な男だ」
そして、わたしはしょうもない女だ。
「<たましいとくらい言え、口説くなら>」
「いれもののほうが、価値はあるよ」
「<どんな価値だ>」
「触れられるだろう?」
からに近い翡翠の杯を回して、かれは忍びわらう。
ふいに、わたしの胸にくるおしい痛みが駆け抜けた。
かれはその手で、わたしのたましいを乱雑にかき回していったのに、わたしはどれほど手を伸ばしても、かれの身体にしか触れられない。諦念と、同じだけの歓喜があった。かれの荒い線を描くその背に、これほどまでに微細に触れた女はわたしをおいてほかにいないだろう。これほどまでにかれの背のくぼみ、膚の湿度、傷痕のひとつひとつを知る女もいないはずだ。かれの妃のひとりすら。
「<華>」
かれはわたしの思考を断ち切るように、硬質な音をたてて翡翠の杯を置いた。
うちに魔のものを飼う眸が、甘やかすようにわらう。しどけない衣に、月のひかりが満ちる。
「おいで」
かれは、わたしに刺青を彫ること以外を命じたことはない。
わたしはだから、いつもわたしのほうから両手を伸ばして、かれの腕のなか、夜の檻へととらわれる。悪趣味な男で、そしてわたしはしょうもない女だった。
わたしが爪を立てた男の背では、赤の華が踊っている。
火花のようになにもかもを燃えつくす華。
彫り師の命を吸ってひらく、消ええぬ華。
この手がえがく、今生一輪きりの華だ。
・
・
「そうして彫師の娘は死に、かれは生きた。驚くほど長生きしたそうだよ。娘の故郷に残る伝承、祝福をあたえる刺青の名のとおりに」
ふしぎそうに瞬きをした馨に、少女は秘密めいた眼差しを向ける。
「さかさまだと、思っているな」
「すこし」
「娘にも、たぶんわからなかったのだと思うよ。己が彫り上げたものが、呪いなのか、祝福なのか。最期まで」
「かれは長生きをした」
「そうだ。長く、孤独にね」
ふっと息をつき、少女はしてやったりという顔をする。
「死に顔を見られなかったのは心残りだが、まあ、どうせ、あいつのことだ。ふてぶてしい顔をして死んだんだろう」
「あなたのように?」
「おもしろいことを言うな。――そうだよ」
その顔につかのま、御伽噺のなかの男のすがたが重なる。
確かにふてぶてしい。そういう顔をしていた。
やわらかな笑い声を立てて腰を浮かせると、花精は馨の指先に吐息をかけて消える。
あとはなにもいない。本殿に入る朝の陽射しに馨はつかの間目を細め、神前にそっと花を献じた。
/承前/
「それは愛だよ」
鹿乃子はなぜだか、今日のはなしがとくべつお気に召したらしい。
いつもより真剣な顔で、そんな風に言い切った。
台風が近づいているせいで、雨風が強い。バス停の屋根付きのベンチに並んで座り、鹿乃子と馨はバスを待っていた。夕暮れどきでただでさえ遅延しがちなバスは、予定時刻を大幅に過ぎている。屋根から滴り落ちる雨水を眺める鹿乃子の、ほのじろい横顔を見やり、馨は首を傾げた。
「愛かなあ」
「愛だよ」
振り返った鹿乃子が、横に置いた通学用の鞄からおもむろになにかを取り出した。勢いよく音を鳴らしてキャップを抜く。
「馨くん、手をだして」
乞われるままに右手を差し出すと、鹿乃子がマジックペンで、
『かのこ』
と書いた。
なんだこれ、と眉根を寄せた馨に、
「油性だから、しばらく消えないよ」
と鹿乃子が悪戯っぽくわらった。
一日一花。繰り返される、馨の日常である。
ここに、曼殊沙華がいた。燃やすように男を想う花だった。
九月/曼殊沙華(終)
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