花の声をきく

六月/マグノリア

 さて、ここに一枝のマグノリアがある。

 香気を秘めた花は、絹衣が重なるようにひらいている。

 水辺で機を織る乙女をおもわせる、きよらげな花だ。

 その花の首に、花鋏をあてる。みずみずしさを感じながら、チョン、と切る。

 そういう一連の動作を、かおるはよどみなくやる。

 十六の、とりたてて特徴のない、咲くまえの水仙のように、しゅっと姿勢だけはよい少年だ。この春、高校に進学したばかりの馨の制服は、ほんの少し彼の身の丈より大きい。糊の張ったシャツから伸びる腕は、日に焼けている。馨は鋏を置いた。

 切られた花首から、微かに香気がたちのぼる。

 瞬きをひとつすると、馨のまえに少女の花精が現れた。花精は尋ねる。


「未練をひとつ、話していいかしら」


 馨は目を伏せて、ただ耳を澄ませている。


「――はい」


 顔をほころばせて、花精がかたりだす。


 ・

 ・


 わたしのおとうとは、調香師でした。

 調香師というものをあなた、知っている? かれらは、あまたの香りを組み合わせて、あらたな香りを生み出すの。薔薇やすみれ、藤の花を模した香水瓶。ご維新を経てまだ五十年ばかり、往来に立ち並ぶ百貨店の化粧品売り場にそれらはとっておきの宝石みたいに置かれたのだというわ。

 わたし自身が実際に見たことはないのだけども。

 幼い頃から病がちで、十五になる頃には療養所サナトリウムの寝台に寝たきりになっていた。

 かれは、わたしの許嫁のおとうとだったの。おとうとだけども、年はかれのほうが十も上だった。それでも、わたしはかれを「藤次郎とうじろう」と呼び捨てにしたし、かれもわたしを「おねえさん」と呼んでいたわ。幼い頃から、たわむれのようにね。

 藤次郎は調香師だった。

 そういえば、少年と呼べる年のころから、ふしぎと香りに気がつくひとだった。わたしの寝台には、母や従姉妹、友人たちが、ひっきりなしにやってきては、花を置いていった。かれは、花が枯れ落ちたあとの窓辺に目を向けて、浅黄水仙フリージアですか、と言い当てたわ。花を見ていなくても、残り香から花影をかんじるのですって。

 そういうかれは、一度だって花を持ってはこなかった。

 なぜかしら。かれは、なにかをのこすということに、おびえがあるひとだった。わたしのまえでは、いつだって泰然といじわるくわらっているのだけども。藤次郎は、慇懃無礼だったから。品行方正を絵に描いたわたしの許嫁とはちがって。


「あなたはけっこう、ずけずけとものを言いますね。おねえさん」


 藤次郎はいつものようにわたしの寝台のまえに座り、手にした本をめくりながら、「慇懃無礼」と評したわたしに反撃する。

 三つ揃えのスーツの洋装は、藤次郎というおとこにしっくりとそぐわっている。組んだ足に肘をつくという、あまり上品でない仕草を、このうえなく上品にして、藤次郎はいじわるくほほえんだ。


「病身のご令嬢のくせに」

「病がちだと、おとなしいとだれが決めたの?」

「だれも決めていない。あなたはただしいですよ、おねえさん。僕は親戚一同から煙たがられている偏屈だからね」


 藤次郎が親戚からつまはじきになっているのは、偏屈だからではなく、調香師なんてハイカラな職業を選んだせいだ。女の香水なんぞつくって女々しい、と藤次郎の祖父をはじめ、父も叔父たちも、彼をきらっている。

 藤次郎は気にしていない。かれは、腕のいい調香師であったし、そういう自分に誇りを持っていた。なによりもかれの兄が――わたしの許嫁が、藤次郎の理解者だったから。


「あなたは、よい調香師だわ」

「ほかでもないおねえさんのお墨付きがもらえて、光栄ですよ」


 藤次郎は皮肉っぽく口端をあげた。


「もう。ほんとうなのに」

「わかってる。ありがとう」


 読みさしの本に藤次郎は革の栞をはさんだ。

 立ち上がって、半分ひらいた窓をとじる。午後になって、風が湿気をのせて冷えはじめたからだ。藤次郎は、香りに気づくのとおなじくらいの的確さで、わたしの体調を読む。一族のつまはじきもので、家には興味がないひとが、兄の許嫁のわたしを、十も年下のわたしを、真摯にかまう。藤次郎はとてもふしぎなおとこだ。


「ねえ、藤次郎」


 藤次郎の読みどおり、窓の外では雨が降り始めた。

 窓辺にかかった白蓮木マグノリアの花が、雨に打たれている。窓は閉じているはずなのに、秘めた香気がわたしの鼻先をかすめた。これも藤次郎のいう花影だろうか。

 白蓮木というのは、わたしのれんというなまえの由来でもあった。

 降り続く雨のなか、白蓮木がさやけく花ひらく頃にわたしは生まれたから。


「次はどんな香水をつくるの?」

「おんなに贈る香水」


 まあ、とわたしは頬を染めた。


椎一郎しいいちろうさんにせがまないと」

「完成させたら、にいさんの机に請求書をおいておきますよ」

「瓶はとびきりかわいいものにしてね。枕元に飾るから」

「若葉緑の色硝子に、蓋には花をあしらって?」

「首にリボンを結んだら、きっとかわいいわ」


 わたしの足元では、雨の翳りが敷布に青い波紋をつくっている。

 半身を起こしたわたしの手をとって、藤次郎が爪をみがく。

 爪のかたちをまるく整えて、淡いさくら色の艶出しエナメルをすっと刷く。藤次郎はこういう風に、気が向くと、わたしの爪や髪をととのえる。

 わたしにはもう、年頃の娘らしい頬のまるみも、髪の艶もない。痩せ細った身体は、羽のようにかるい。かれは、それでもわたしの身を整える。無意味だと、ひんしゅくを買っても。


「どんな香りにするの?」

「さあ、まだ考えている」

「夕暮れに、あなたのおじいさまがここに来るわよ。そのまえに帰ったほうがいいんじゃない?」

「へえ、おじいさまがね。それなら、寝台のしたにでも、隠れていようか」

「見つけたらびっくりして、発作を起こしてしまうわ」

「数年はやくに地獄に送ってさしあげるのも、孝行でしょう」

「ほんとうに、口がわるい」


 嘆息したわたしに、藤次郎はほほえんだ。

 小指をとって、刷毛にたっぷりつけた艶出しを塗る。くすぐったい、とわたしはわらい声を立てた。


「おじいさまは、こう思っているんだよ。藤次郎は、兄の許嫁に横恋慕してるって」

「おかしなことを考えるのね」

「でしょう?」

「藤次郎のことが、わたしはすきよ」

「はい、僕もおねえさんがすきですよ。おじいさまが言うような横恋慕ではないけどね」


 ふふっとわらいあう。

 わたしたちのあいだにあるものを、わたしたちだけは知っている。なまえをつけて説明することは、むずかしかったけれど。


「ねえ、どうして椎一郎さんはここに来ないのかしら」


 ふと、夢からさめたような心地でわたしはつぶやいた。

 刷毛を小瓶にしまった藤次郎は、わたしの痩せた手を握ったまま、わたしを見つめている。藤次郎の目は深い夜の底のようだ。「一度も」とわたしは重ねた。


「わたしがきらいになったのかしら」

「ちがいますよ、おねえさん」


 夜の底に、ほそい月が架かる。

 藤次郎がほほえんだのだとわかった。


「あのひとは、やさしくてよわいから。あなたとちがって」


 藤次郎の手が、塗りたての爪にふれないように注意深く、わたしの指に絡む。つめたくて、春の氷にも似た体温の五指だった。わたしのちいさな手は、藤次郎に覆われた。子どもの頃につくったかまくらをわたしは思い出した。


「うけとめきれないんだ、あなたを」

「わたしを?」

「あなたの、この手の力強さとかをね」


 ちからづよさと表現する。

 藤次郎は、ことばの選び方がうつくしいひとだとおもった。


「藤次郎はそうではないの?」

「僕はあいにく、やさしくないですからね。偏屈だし」


 自嘲を口の端にひっかけ、藤次郎はわたしを見つめた。


「だから、あなたの死に水もとってやれる」

「……あなたを許嫁にしたほうがよかったかしら」


 首を傾げたわたしに、「それはいやだな」と藤次郎はほんとうに嫌そうに言った。手のひらがほどける。春の氷、とおもった指先で、わたしの耳たぶを小鳥のようにくすぐり、かれは言った。


「兄の許嫁くらいで、ちょうどいいんです。僕とあなたは」

「そうかもしれない。あなたがすきよ、藤次郎」

「はい、僕もあなたがすきですよ、おねえさん」


 触れた指先から、つかのま香る。かれというおとこの、まごころ。

 しっているわ。あなたはいつも、静かに、むせかえるように、それでいて、ひめやかに、ひとをあいするのね。


「香水が完成したら、いちばんに教えてね」

「ええ、もちろん」

「なまえが知りたいわ」


 ほほえんだわたしに、ええ、とうなずき、藤次郎はわたしから手を離した。


 ・

 ・


「一年後、わたしは死んだわ。藤次郎の香水の完成を待たずに」


 かそけき息をついた花精を、馨はみつめた。


「未練が?」

「香水にどんな名前をつけたんだろうって。あなた、知ってる?」


 馨はすこし考えすえ、口をひらいた。


「知らないほうが、想像する楽しみがあるとおもう。たぶん」


 瞬きをしてから、「それもそうね」と花精はうなずく。


「あなたの言葉の選び方、わたし、すきだわ」

「それはよかった」

「ねえ、あなた、すきなひとはいる?」

「うん、いる」


 うなずいた馨に、花精はまあ、と頬を染めた。


「なら、謳歌して。聴いてくれてありがとう」


 腰を浮かせると、馨の指先に吐息をかけて消える。

 あとはなにもいない。本殿に入る朝の陽射しに馨はつかの間目を細め、神前にそっと花を献じた。




 /承前/


「香水のなまえは、マグノリアだとおもうなー」


 自転車を押す馨のまえを、鹿乃子かのこが閉じた傘を振りながら歩く。衣替えをしたばかりの夏服が目にまばゆい。鹿乃子は黒よりもすこし淡く見える猫っ毛をみつあみにしている。雨上がりのアスファルトにできた水たまりを鹿乃子がよけると、二本のみつあみがセーラーの背でぱたぱたと揺れた。

 馨は首をかしげた。


「どうしてそうおもうだよ?」

「そのひとは、蓮ってなまえだったんでしょう? じゃあ、白蓮木マグノリアだよ」

「だから、なんで?」

「そこは、すきなひとのなまえを書くところだからです」


 自信たっぷりに、鹿乃子がふりかえる。

 なんだか、えらそうだ。ふうん、とわかったようなわからないような返事をすると、馨は自転車を強く押して、少女に追いついた。

 傘を持っていないほうの手と手をつなぐ。


「あ」

「なに?」

「かのが香水つけてる」

「やっときづいたね」



 一日一花。繰り返される、馨の日常である。

 ここに、マグノリアがいた。たおやかなれど、ちからづよい花だった。



 六月/マグノリア(終)

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