八月/禊萩

 さて、ここに一本の禊萩ミソハギがある。

 盆花とも呼ばれる、宵空色の小花で、すっくと伸びた茎に花が集まるさまが愛らしい。水を浸して戸口を祓えば、祖霊をつつがなく迎え入れられるともいう。

 その花茎に、鋏をあてる。みずみずしさを感じながら、チョン、と切る。

 そういう一連の動作を、かおるはよどみなくやる。

 十六の、とりたてて特徴のない、咲くまえの水仙のように、しゅっと姿勢だけはよい少年だ。白い浄衣からのぞいた手だけが、少年らしい、というよりは、おとこらしい線でかたどられている。衣擦れの音ひとつ立てずに、馨は鋏を置いた。

 切られた花茎から、微かに香気がたちのぼる。

 瞬きをひとつすると、馨のまえに少女の花精が現れた。花精は口をひらく。


「未練はないけれど、話してよいでしょうか」


 馨は目を伏せて、ただ耳を澄ませている。


「――はい」


 ふわりと相好を崩して、花精がかたりだす。


 ・

 ・

 

 幸福な結婚を、わたくしはしました。

 幼い頃から、ずっと好いていたそのひとに乞われ、嫁ぐことができたのですから。

 過ぎ去りしあの日、川向こうから嫁いできたわたくしを、旦那さまはやさしく迎え入れてくださいました。小さなお屋敷には、宵空色の禊萩がそうそうと生い茂り、月の淡いひかりに波のように揺れていました。

 やっと嫁ぐことができたと喜ぶわたくしに、旦那さまは一本の赤い蝋燭を差し出しました。促されるまま火をつけて、部屋の外の吊り灯籠に入れる。


「この蝋燭が、溶けてなくなるまでのあいだですよ」


 旦那さまは、ささめきごとのように、わたくしの唇に指をあてました。


「わたしと貴女が過ごせるのはね。いいですか、奥さん」

「はい。わかっています。わたくしの旦那さま」


 相好を崩し、わたくしは自分から旦那さまの首に手を回しました。

 ひやりとつめたい、花氷に似た旦那さまの体温。

 子どもの頃からずっと、わたくしはこの方にこそ触れたかったのです。


 翡翠石のとれる清らかな川の、両岸でわたくしと旦那さまは生まれ育ちました。

 年の頃はそう変わらなかったはず。

 川を挟んだ両岸にはそれぞれ村があり、わたくしたちは、ただ朝と夕の水汲みのときにそっと視線を交わしあう、それだけの間柄でありました。うっすら緑がかって見える川は容易には渡れないほど広く、川向こうには声すら届きません。

 ですから、顔を合わせたときに交わす視線だけが、わたしたちのことばであり、心でした。眼差しというものは、だけども、雄弁です。ことば以上に、心を語る。

 わたくしは、ときに川岸に座り込んで亡き母を想って泣き、彼もまた川向こうに同じように座って、わたくしが泣き止むまでそばにいてくれました。彼の眼差しは、慈雨のようで、あたたかかった。わたくしを取り巻くなによりも。

 長じると、わたくしたちは愛をささやきあうようになりました。

 といっても、ことばを文に託すことはできません。

 代わりに、彼はあちらに咲く花桃の枝を手折って、わたくしのほうに流しました。ふしぎなことに、こちらの季節とあちらの季節はちぐはぐで、わたくしが白い息を吐きながら水汲みをするそのときに、川向こうの彼は満開の花桃のなかにおりました。そして、彼が手折った花桃の枝は、決して、川向こうのこちら側に届くことがなかったのです。


 十七になったわたくしのもとには、しばしば縁談が舞い込むようになりました。

 わたくしの義母は大喜びでした。なにしろ、わたくしときたら顔以外にとりえがない、というのがもっぱらの義母の評だったので、はやく手放したくてしかたがなかったのでしょう。縁談は、なぜか多額のお金が支度金として先方から支払われるようでした。もしかしたら、相手のおうちが望んでいるのは、妻ではなかったのかもしれません。

 わたくしは、拒みました。

 それまで一度として否やを言うことがなかったわたくしが、決して首を縦に振らないので、義母は烈火のごとく怒りました。そしてわたくしを眠らせて花嫁衣裳で飾りたてると、輿に押し込み、相手のおうちに送ってしまおうとしました。

 目を覚ますや、わたくしは逃げました。重たい白打掛をひるがえして宵どきの村を抜け、うっすら緑がかかったあの川のまえまでたどりつきました。

 禊萩がそうそうと揺れるなか、川向こうに彼はいました。

 わたくしはさけびました。彼に。なにかを。なにか、乞うようなことばを。

 もちろん、それは届きません。なにひとつ。わたくしと彼のあいだには、広くて深い川が横たわっており、容易には渡ることだってできない。だけども、そのときのわたくしは必死でした。わたくしは、白打掛をたくし上げると、はじめて川のなかに足を踏み入れました。

 彼ははじめ、止めるようなそぶりを見せました。

 だけども、わたくしの覚悟が定まったらしいことを悟ると、摘み取った禊萩をそっと川に浮かべました。おいで、と彼の眼差しが言っていた。わたくしはもう迷いませんでした。ぬるい羊水にも似た川を渡り、川岸の彼へと手を伸ばしました。


 こうして、わたくしは彼の妻になりました。

 彼との結婚生活に、苦悩や悲嘆といった陰りは、なにひとつありませんでした。生涯。わたくしは彼を愛し、彼はわたくしを真綿でくるむように大事にしてくださいました。ただ、


「この蝋燭が、溶けてなくなるまでのあいだ」


 嫁いだ初夜に交わしたこの約束だけは決してひるがえされることがありませんでした。

 夜、床に入る前に赤い蝋燭に火をつける。じりじりと蝋燭が溶ける微かな気配を感じながら、旦那さまとのぬくい夜を送る。蝋燭はたいてい、夜明け前に溶けてなくなりました。わたくしは、あかねに染まる山の端を眺めながら、蝋燭の消えた灯籠を下ろす。

 代わりに日のひかりが射し込む頃、旦那さまのすがたはするりとこの屋敷から消え去ります。夜のふちで眠る睡蓮のような、きぬぎぬの香りだけを残して。

 わたくしにはその意味がなんとはなしにわかっておりました。

 川向こうにある、わたくしの住む世界とうりふたつの村。異なる季節。そこに住むひとびと。

 川向こうへ渡るというその意味。

 きっと川向こうの、わたくしの家では、川を渡ろうとして力尽き、引き上げられたわたくしの身体がいまも褥のうえに寝かせられているのでしょう。息だけはしながら、めざめることはなく。ただ、ただ、生きた屍のように。


「一年に一度、両岸を隔てる川の水が減り、渡りやすくなる日がある」


 じりじりと蝋燭が溶けていく音を聞きながら、夜が白んでいくのを待つあいだ。

 旦那さまは、腕に頭をのせてまどろむわたくしの髪を梳きながら、そっとささめきました。花氷のような体温の旦那さまの指先は、つめたく、やさしく、安息の夜の気配をまとっていました。


「あちらに帰ることもできますよ。……貴女が望むならね」


 目をつむったまま、わたくしは旦那さまのつくる、夜の底のような薄闇に身をゆだねました。旦那さまはいつだって、わたくしを囲う腕をゆるく、ひらいていてくれたけれど。わたくしは一度も、その腕を抜け出て、川を渡ることはありませんでした。

 毎年一度。かならず、旦那さまは渡りやすくなった川のはなしをしてくれる。だけども、一度として、わたくしが川を渡ることはなかったのです。

 幸福な結婚を、わたくしはしました。

 幼い頃から、ずっと好いていたそのひとに乞われ、嫁ぐことができた。ほかに欲しいものなど、どこにあるのでしょうか。


 ・

 ・


「退屈なはなしになってしまったかしら」


 花精はすこし恥ずかしそうに頬を染めて、うつむいた。


「いいえ」


 と馨は首を振る。


「すてきでした」


 瞬きをした花精の眸が弓なりに細まる。

 ありがとう、と夜のふちで咲く花のように彼女はささやいた。


「未練はなにもありませんか」

「はい。たったひとつの未練は、こたび果たしました」


 花精はすっきりした面持ちでほほ笑んでいる。

 ふしぎそうに馨は花精を見たけれど、仔細を尋ねはしなかった。

 そうですか、と顎を引き、花器に生けた禊萩に目を向ける。宵空色の禊萩の花びらのうえで、朝露がひとつひかっていた。するん、と滑り、宙で花がひらくようにはじけた。


「これで、旦那さまのほんとうの花嫁になれます。蝋燭が溶けた、そのあとも」


 きよらげな白無垢をひるがえすと、花精は馨の指先に吐息をかけて消える。

 あとはなにもいない。本殿に入る朝の陽射しに馨はつかの間目を細め、神前にそっと花を献じた。



 /承前/


「そういえば、はす向かいの家のずぅっと眠っていたおばあさんが夜明け方に亡くなったって聞いたけれど」


 麦わら帽子をかぶった鹿乃子かのこはつばを押さえて、馨を振り返った。


「もしかして、その花嫁さんだったりしてね」

 

 白百合にブルースターをあわせた涼しげな花束を抱いて、鹿乃子は階段をのぼっている。鹿乃子の祖母は、この階段の先に広がる高台の桜の樹のしたで眠っているという。むらさきの禊萩がそうそうと揺れる見晴らしのよい丘からは、ゆるやかな川の浅瀬が見渡せた。昔、この川で翡翠が取れたというはなしは――……残念ながら聞かない。馨が寡聞なだけかもしれないけれど。


「俺、子どもの頃は夜の川を見ているのがこわかった。どこかに連れていかれちゃいそうで」

「馨くんは泣き虫だったからなあ」


 おねえさん面をして笑い、鹿乃子が空いているほうの手を差し出してきた。


「つないであげましょうか。わたし、おねえさんですし」

「ひと月な」

「……わあ」

「なに?」

「手おおきくなったね、馨くん」


 知っているはずのことをあらためて言う。

 馨にすれば、ちいさくなってしまった気もする女の子の手を、力を加減して握りかえす。もう片方の手に、水を入れた手桶を持ちながら。



 一日一花。繰り返される、馨の日常である。

 ここに、禊萩がいた。川向こうでしあわせな結婚を遂げた花だった。



 八月/禊萩(終)

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