四月/なもしらず
さて、ここに一粒の種がある。
つやりと輝く殻に覆われた種は、楕円のかたちをしており、まだ固く閉じいっている。なんの種か訊いたが、名は知らぬという。社殿の窓から射し込む朝陽を楚々と弾く、寡黙そうな種である。
その種がのった青磁の皿を、ひとりの青年が
齢にして十八か十九。蠱惑的な笑みをあかい唇に浮かべた、見目麗しい青年である。この時期にはまだ肌寒いようにも見えるシャツの襟からは、白い鎖骨がのぞいている。馨を見つめる双眸は澄んだ泉のようで、奥底まで見通せるのに、そこに揺らめく感情はまるでつかめない。
「こんなはなしを聞いたのだけど」
沈黙する種の代わりに青年が口をひらく。
馨は目を伏せて、ただ耳を澄ませている。
「――はい」
とろりと目を細め、青年がかたりだす。
・
・
ほう。最後の訪問客がおまえだとは思わなかったな。
どこへいっていたのだ? ずいぶん長い留守だったではないか。
あぁ、そうか。もう聞いたのだな。そのとおり、わたくしはあしたこの箱庭を去る。このうつくしくも忌まわしい、わたくしの箱庭を。
この箱庭がいつから存在しているか、おまえに話したことはあったかな。今から千年以上前、もとは大地を統べる女神の娘をときの帝がもらい受けたことから、この庭ははじまった。彼女はまだあどけなさが残る見た目の少女神であったそうだ。
彼女は女神の贈りもの、約束された豊穣のしるし。大地の支配者たる帝は、少女神のためにめずらしい花々を島国中から集めて、このうつくしい庭をつくりあげた。大地に深い縁がある少女神は、花をいたく好んだんだ。
帝が代替わりし、大地の支配者たる血統が何度か入れ替わっても、この箱庭は在りし日のまま保たれた。ただし、気まぐれな少女神はその頃には庭を去ってしまっていてね。代わりに人間の女童が連れてこられて、庭を統べるようになった。五歳から十五歳までの十年間。閉ざされた箱庭に囲われ、国の安寧を祈り、花を世話する。今となっては意味すら知らぬ者も多いが、数百年このならわしは続けられた。
わたくしはその末裔。もう何十代目かもわからない、この箱庭のぬし。
おまえにわたくしが出会ったのは、わたくしがここに連れてこられて一年ほどが経った真冬だった。雪がうすく積もったましろな庭に、軍人に連れられておまえはやってきた。箱庭は千年、変わることがなかったが、外の世界では支配者の血統は幾度も代わり、いまは東西の戦を収めた男が軍服を着た宰相として君臨していた。かれはわたくしには無関心であったものの、かれの部下あたりが気を利かせて、わたくしへの献上品を用意したのだろう。
はじめて出会ったおまえは、嗅ぎ慣れない潮のにおいをさせ、「プラントハンター」を名乗った。外つ国に海を越えて渡り、めずらしい植物を集めてくる、そんな生業をしているのだと。そして、ふしぎな箱庭の噂を聞きつけて、この場所をおとなったのだとも言った。
――はじめまして、御方様。
わたくしはこの庭を統べる者として、御方様と呼ばれている。
御簾のうちでちいさな身体をうずめるように単を重ねたわたくしに、おまえはそう呼びかけた。糊のはったシャツに鼠色のスラックス、切り揃えた黒髪がうなじにわずかにかかっている。まだ齢六つの幼子だったわたくしに対し、おまえは十八か十九歳――立派な大人に見えた。
――どんな花でもお持ちしましょう。憂世の慰めに。
どんなふうに取り入ったのかはわからないが、おまえはそれからたびたび献上品を持ってわたくしの前に現れた。
たびたび、といっても、海を渡り、帰ってくるにはそれなりに時間を要する。半年から一年に一度。おまえはわたくしのもとにやってきた。わたくしの知らない潮のにおいを引きつれ、見たことのない花苗をその手に抱いて。
そう、おまえはわたくしにとって外の世界そのものだった。
はじめの一年か二年は、御簾越しに献上された花苗に目を細めただけだった。
三年が経つようになると、おまえが話す外つ国のはなしにぽつぽつと言葉を返すようになった。
四年、五年。おまえとの会話の応酬がなによりも楽しくなった。
六年、七年が経つ頃には、おまえにもこの箱庭を見せてやりたくなった。十三歳。わたくしはもう出会った頃の幼子ではない。身の回りの世話をする侍女を言い含めて部屋から抜け出し、庭を閉ざす黒鉄の門扉に鍵を挿し込んだ。
かつてこの庭が信仰の対象そのものだった頃には、わたくしはその場で手打ちになっていただろう。けれど、今ではもう誰も、この庭にはさほど関心はない。警備は手薄で、わたくしに仕える侍女は仕事をしない者と、老いてどこからか下げ渡された者だけだった。
陽の光のしたであらためて眺めるおまえは、はじめて会ったときとおなじ、糊のはった清潔なシャツを着ていて、くつろげた襟元から微かな潮の香りがした。目線がだいぶ近くなっていることにきづく。わたくしの背が伸びたのか。しかし、おまえはまるで出会った頃と変わらない。うなじにかかる黒髪も、たたずまいも、年齢も、その泉のような目に沈めた憂いも。
「きれいだろう」
千年ものあいだ守られ続けた箱庭は、春のさかりだった。
数種の桜はまんかいで、ちらほらとうすべにの花弁が舞っている。地上を覆う芝桜、風に揺れるチューリップたち、藤棚はようよう蕾をつけ始め、小川のそばにはまだ花をつけていない菖蒲が群れている。高欄に立ち、自慢げに言ったわたくしに、「ええ」とおまえは顎を引いた。おまえが相槌を打つだけで、時を止めた庭に爽やかな潮風が駆け抜けた気がした。
「おまえが持ってきた花苗がつけた種も育てようとしたのだが――」
わたくしは庭の端に置いた花の鉢に目を落とす。
「なぜか、ひとつも根づかない。ここは彼女たちには窮屈すぎるのか……いつも花を咲かせたあとはそれきり。うんともすんとも言わない」
「そうでしたか」
残念がるかと思ったが、おまえは淡白にうなずいただけだった。
植物に詳しいおまえのことだ、根づかないとわかって持って帰ってきていたのかもしれない。ただわたくしの心を慰めて、咲いて散る花たち。意味はあるのか。いや、ない。わたくしとおなじように、この庭とおなじように、なんの意味もない。
命に意味を求めるのはひとだけだ。
「おまえはなぜ、わたくしに心を砕いてくれるのだろう」
高欄に手を置いたまま、わたくしは独り言のようにつぶやいた。
確かにわたくしに取り入ることには、まだわずかばかりの意味がある。死に体ではあるが、この国の千年の信仰の象徴。箱庭のぬし。この庭に出入りができるということはすなわち、この庭を管理する権力者とのつながりを持つということだ。しかし、おまえには野心がない。世事に疎いがゆえに、逆にわたくしにはわかってしまう。おまえもまた、世事に関心などない。
「御方様とわたしが似ているからですよ」
「似ている? おまえとわたくしが?」
わたくしはこの箱庭のぬし、そして虜囚。
おまえはちがう。どこへでもその足で歩いていける、さながら自由な鳥。
そう思っていた。
「御方様」
高欄に軽く腰を掛けたおまえは、陽を背にしてうっすら微笑んだ。
「わたしもまた、虜囚なのですよ。あなたとおなじように」
「……なにに囚われているというのだ」
「ひとは誰しも、物質としての身体からは逃れられない」
足元に伸びた影を見つめて、おまえはつぶやいた。
「ゆえに、虜囚では? わたしもあなたも、鳥も草木も」
「まるでとんちだ」
笑いながらそんな言葉を交わした、あれは二年前のことだ。
おまえがこの庭を発ってからの二年は、それなりにめまぐるしかった。
まず、この庭の廃止が決まった。手入れや保全にかける予算がなくなったのだそうだ。庭の外では、幾度も戦を繰り返している。子どもたちは米を口にすることもできないでいるのに花にかける金などは、という話らしい。
もとより女神への信仰はとっくに廃れている。女神の娘と箱庭の起源を今諳んじられる人間は限られているだろう。
わたくしは箱庭の最後のぬしとなった。
無論、いにしえのように庭のぬしの役目を終えたら殺す、だなんて野蛮なことは外の連中も考えていないようだ。わたくしはわたくしの生家へと戻される。五歳で差し出され、十年も帰っていなかった我が家へと。けれど、なあ、そこはほんとうにわたくしの「家」なのか?
わたくしもおまえが持ってきた花苗たちとおなじだ。
生まれ育った土地でしか生きられない。ほかの庭では根づけない。
この庭で芽吹き、育ってしまったわたくしに、今さらよその庭で生きよと?
……わたくしはね。わたくしはもう、おまえの言葉の意味を知っているよ。
遠い、遠い昔に箱庭を去った少女神。彼女は人間の男とのあいだに子どもを作って、幽世へと旅立った。おまえは少女神の血を引く数奇な子ども。わたくしとは異なる長い長い時を生きていくのだね。時を止めたその身体という牢獄のなかで。
ならば、わたくしはおまえという男の庭に根づきたい。長い憂世の、つかの間の慰めに。
・
・
「そうして箱庭から連れ出した女が死んだあと、墓のまえに名も知らぬ花が咲いた」
青磁の皿にころんと転がる種を馨は見つめる。
「この種が?」と尋ねたが、青年は謎めいた微笑を返すだけである。
いつからか、春のさかりの頃に、かれはこの場所にやってくる。いちばん古い記憶は、確か小学校に上がるまえだ。竹ぼうきでひとり境内の掃除をしていた馨のまえにかれは現れた。どこかおぼつかなげにあたりを見回す青年に声をかけると、「この庭のぬしか?」と訊かれた。
幼い馨は首を振った。
この土地のぬしは、大地を統べる女神の娘である。彼女を奉るのが馨の家であるのだと、神主をする母親から聞いた。だから、自分たちはこの庭を守っているのだと馨が告げると、青年は目をみひらいたあと、うれしそうに相好を崩した。
以来なぜかこの場所が気に入ったようすで、ときどきふらりと訪れる。あの頃、かれが長身を折ってかがまなければ、合わせることができなかった目線。馨は来月十七歳になる。彼との歳の差はもうすぐ埋まる。
「かおる」
かれが馨の名を呼んだ。
「物語ることの意味を考えたことはある?」
「……意味?」
いまひとつ真意がつかめず首を傾げた馨に、かれは続けた。
「それは託す、ということだよ」
かれの細い指先が青磁の皿のうえの種に触れる。硬い殻の凹凸をいとしげに撫ぜる。
「この種を芽吹かせておくれ、馨」
「いいの?」
「うん。託したよ」
「――はい」
そっと差し出された種を受け取る。青年の体温が移ったのか、花種はほのかにあたたかかった。それをおろしたてのハンカチに包む。
種をポケットにしまったとき、すでに青年はいなかった。あぁまたあのひとのなまえを訊くのを忘れてしまった、と馨は後悔する。
/承前/
プランターに鉢底石を敷き、園芸用の土を入れて、もらった種を埋める。
いったい何の花なのか、どのくらいの大きさに成長するのか、青年は教えてくれなかったので、とりあえず平均的なプランターを用意した。成長にあわせてまた植え替えていけばいい。
「馨くんちのお庭、いつ見てもきれいだねえ」
今日は高校の始業式だった。
帰宅するなりパーカーに着替えた馨とちがって、そのまま立ち寄った鹿乃子はブレザーの制服を着ている。今日からふたりは二年生になる。
「俺のひいひいじいちゃんの頃に買い取った由緒ある庭なんだって。もともとうちの家は、べつの土地の結構大きな神社の神主だったんだけど、この庭を守るために家を分けてひいばあちゃんが神主になったらしい」
「じゃあ、馨くんの家って分家なの?」
「そんなかんじかも」
普段はあまりつきあいがないが、本家筋の家に母と挨拶に行ったことがある。
山のふもとにひっそりとたたずみ、ちいさな社殿を有するだけのこの場所とは異なり、参拝客がひっきりなしにやってくる大きな神社だった。いいなあ、とつぶやいた幼い馨に、母親は眉根を寄せて、おなじだろう、と言った。
「お花、植えたの?」
馨のとなりにかがんで、鹿乃子が訊いた。近づくと、鹿乃子の石鹸みたいな香りがふわりと鼻先をかすめてくすぐったくなる。
「なんの花?」
「んー、わからない」
「ええ?」
「でもきっと、きれいに咲くよ」
種を埋めたプランターに如雨露で水をかける。射し込んだひかりがつかの間、七色の虹を生む。いつかかれがまたやってきたら、この花の名を訊こう、と馨は思う。
一日一花。繰り返される、馨の日常である。
ここに、ひとつの種がある。その花の名を馨はまだ知らない。
四月/なもしらず(終)
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