三月/桜
さて、ここに一枝の桜がある。
薄闇に溶けいりそうな黒い枝に、ひとつふたつとひらいた花と蕾がひそやかについている。朝陽のうちでは物知らぬ少女のようで、夜のふちではろうたけた艶女に変わる、変転の花である。
その枝に、花鋏をあてる。みずみずしさを感じながら、チョン、と切る。
そういう一連の動作を、
十六の、とりたてて特徴のない、咲くまえの水仙のように、しゅっと姿勢だけはよい少年だ。紺のブレザーの下のシャツは、いつもよりどことなくしゃっきりと糊が張っている。夜明けまえの寒さゆえか、ほのあかく染まった指先が花枝を盆に置くと、ひとひらの花びらが床に音もなく落ちた。
切られた枝から、微かに香気がたちのぼる。
目を細めた馨のまえに、春の花々が豪華絢爛に描かれた小袖をまとった花精が現れた。花精は尋ねる。
「未練をひとつ、話してもいいよいでしょうか」
馨は目を伏せて、ただ耳を澄ませている。
「――はい」
眉を下げて微笑むと、花精がかたりだす。
*
くちづけ、というものをしたことがあるかな、少年。
あぁその顔だと経験自体はあるようだ。きっといとしい娘となのだろう。
どうかそう警戒しないでおくれ。君の大事なひとについて、おれだって深くは詮索しないから。ひとには打ち明けられない、いっとう大事なひみつは、きっと誰の胸にだってあるもの。
おれはあまり長生きをしなかったけれど、生涯でくちづけをしたのはただ一度。まんかいの桜の樹の下で、行きずりの男とだった。
夜がさらさらと更けていく時刻で、春の雲がうっすらかかった空には下弦の月が架かっていた。そのときのおれは長い旅路にくたびれて、桜の老樹の根元で休んでいたんだ。まんかいの老樹は、春のつめたい夜風からおれを守ってくれたし、ふしぎと飢えた獣がちかづくこともなかった。
兄の形見の刀を抱いて、おれはまどろんでいた。
足元に花びらがすこしずつ積もって、瞼の裏でもやっぱりくるくると白い花びらが舞っていた。幹を挟んだ反対側に誰かが腰を下ろす気配がしたのは、まどろみ始めてすぐだったのか、しばらく経った頃だったのか、もう思い出すことはできない。
うすく目をひらくと、花絨毯には男の影が射していた。
「花見にふさわしい夜だね、お嬢さん」
背を預けた幹の向こうから響いたのは、眠気が覚めるような声だった。
おれは警戒した。君には想像もつかないだろうが、このときのおれは黒髪を少年のように高い位置でひとつにくくり、薄墨の小袖に薄墨の袴という男装をしていた。かつ、それは喪装でもある。おれが腕に抱いた刀には、仇討ちのしるしである木鈴が結んであって、おれはどこからどう見ても、仇討ちの旅をしている最中の少年であるはずだった。けれど、相手はおれをひと目で少女だと見抜いたわけだ。
「おまえはだれだ」
おれはできるだけ低い声で言った。相手におれのことをわからせるつもりで。
「旅の者だよ」
なのに相手は飄然とこたえた。
「長旅にくたびれて休んでる」
「おれとおなじか」
「この桜が故郷のものと似ていたんだ」
「……それもおれとおなじか」
「奇遇なことに」
ほのあかるい花闇にまぎれて、男がわらう気配がした。艶めいた切れ長の眼差しがゆるむさまがつかのま見えた気がした。
腹をくくって、おれは抱いていた刀を引き寄せた。黒漆塗りの鞘に結んだ木鈴がからんと澄んだ音色を立てる。
「よい音だ」と男が言った。
「よくはない」とおれは顔をしかめる。
故郷の桜を削ってこしらえた木鈴は、仇討のしるし。
死の音だ。盲執の音色だ。よいわけがない。
仇討というのはこの時代、おれの国で認められていた制度で、親兄弟が殺された場合、血筋の男子が殺した相手を追いかけて討ち取る。命を取っても罪には問われないし、仇討のしるしである木鈴をつけていれば、手形の代わりに関所を自由に通り抜けることができた。
おれの場合は兄の仇討ちだった。
三年前、おれがまだ十四だったとき、六つ年上の兄を
おれの家は、老いた両親に兄ひとり、おれと二つ下の
寒河庄を出て、もう三年が経つ。思いのほか長い旅になった。妹の卯子は冬に婿を迎えたらしい。おればかりがいつまでも果てが見えない旅の途中だ。
「お嬢さんは旅は長いの?」
男は懐から取り出した竹筒をおれのほうへ差し出した。
顔は見えない。ただ、藍縞の袖口から伸びた手首の白さが闇夜ゆえに際立った。ためらったすえに、おれは竹筒を受け取った。蓋をひねると、芳醇な米の香りが立ちのぼる。酒らしい。
「もう三年になる」
これは毒かもしれない。
そんな考えが頭をよぎったが、おれは竹筒に口をつけて酒をあおった。
もうどうにでもなれ、と思った。身体も心も今日はひどく疲れていた。故郷に咲いていたのと似た桜を見つけて、思わず腰を下ろしてしまうほどに。
「このままどこにもたどりつけずに老いていくのかもしれない。おればかりが。そう考えるとき、おそろしくなる」
「故郷には帰れないの? 家族は?」
「この旅は仇討ちの旅ゆえに、何もなさずに帰るわけにはいかない」
仇討ちとは過酷だ。一度しるしを掲げたら、仇を討ち取るまでは帰れない。あるいは仇に討たれるまでは。
「貴女が望んだ旅というわけでもないように見えるけれど」
もらった酒は水のようにするすると咽喉を伝い、そのくせ飲み終えたあとには酩酊しそうになった。蓋を閉め直した竹筒を反対の幹に腰掛ける男に返し、「おれの話をしてもよいだろうか」と尋ねた。
男が竹筒を受け取ったのを見て、続ける。
「おれは寒河庄の出身で、兄を殺した仇を探してもう三年旅を続けている。その仇というのはおれの兄の親友で、かつおれの許婚でもあった。十四歳と二十歳。あちらはおれのことは子どもと思っていただろうけれど、おれのほうは本気だった。本気で、恋をしていた。恋をしている男に嫁げるなんて幸福なことだと思っていた。あの日までは」
男は何も言わない。相槌すら打たない。
夜闇の向こうで、おそらくはただ、音もなく舞う花を目で追っている。
「罪を犯したのは、兄の親友だった男だと――いわれているが。実際はちがう。寒河庄の金に手をつけたのはおれの兄で、きづいて詰問したのが親友の……如月のほうだった。追い詰められた兄は自害した。おれは一部始終を、部屋の外で聞いてしまっていたんだ。すべてをつまびらかにすれば、皆から称えられただろうに、如月はなぜか庄の金に手をつけた罪をひっかぶって、自分が兄を殺したということにして庄から逃げた。如月の真意はわからないままだ」
如月にいさま、とあの頃のおれは如月をそう呼んで慕っていた。
如月にいさま。如月にいさま。
寒河庄の桜が、あの日はまんかいだった。夜明けまえ、庄から出ようとする如月を見つけて追いすがったおれの頭に如月が手を置いた。おれは泣いていたのかもしれない。花闇のせいか、如月の顔はよく見えなかった。如月は婚約のあかしに幼い頃おれにくれた簪を挿し抜くと、おれのまえから立ち去った。
真意もなにも告げずに。
「ほんとうに?」と男は問うた。
「ほんとうに、なにもわからない?」
「……わからないよ」
消え入りそうな声でつぶやいたおれに、男が苦笑する気配が返った。
ちがう。わかっている。ほんとうはわかっている。
おれがひとりで恋をしていたのではなくて、温度はちがうかもしれないけれど、如月もおなじ深さで想いを返してくれていたということを。わかっているのだ。如月はおれたち家族を守るために罪をかぶって寒河庄から去ったのだろうということを。でもわかりたくない。わかればわかるほど、如月をえいえんに失ったことに打ちのめされてしまうから。
「一生わかりたくないよ」
「――旅のお嬢さん」
風を断つような衣擦れの音が響き、男がその場から立ち上がったのがわかった。白い花絨毯に男の影が映っている。うなじのあたりに男の視線を感じる。おれは振り返ることができない。
「俺もひとつ聞きたいことがある。それでも、旅を続けるのはなぜ?」
「如月に会えるからだよ」
如月がいなくなったあと考えた。
おれはまだ十四だった。表向きは兄を殺した元許嫁を恨んでいる顔をして、一生、寒河庄で平穏に暮らしていくこともできる。そのうちよい縁談だって舞い込むはずだ。卯子のように、しあわせな花嫁になる道だってあった。けれど、どうしても選べなかった。そこには如月がいない。如月とは二度と会えない。
「如月に会えるからだよ、もう一度」
今より長かった髪を切り、薄墨の小袖に薄墨の袴を身に着けて、兄の仇をとりますと言ったおれに、両親と妹ははじめ驚き、さいごには折れた。庄の者たちはなんと兄想いの妹なのだろうとむしろ褒めたたえた。隠した恋は誰にも知られないままだ。
「
伏せがちだった目を上げる。三年ぶりに耳にする、それはわたくしの名だった。
地に落ちた花びらを踏みしだく音がして、月が潮を引くように影が重なる。
一度きり。その一度きりだった。わたくしと如月がただの男女になったのは。
唇が離れると花の香りがして、その香りに気を取られている隙に男は花闇にまぎれてしまった。
「道中に幸いあれ、旅の方。お互い少々、困難な旅路かもしれないけれど」
桜の樹の根元に置いていた編笠を拾い、男は足を返した。夜明けにはまだ早い。されど、男はもう旅立つことにしたようだ。
おれは尋ねた。
「あなたの旅も、長くなりそうなのか」
「さあ……長いほうがよいのか、短いほうがよいのか。見つからないほうがよいのか、はやく見つかったほうがしあわせなのか。俺にももうなにもわからない」
追いつ追われつ互いの人生を食いつぶし、その食いつぶした時の長さばかりが相手への想いのたけを告げる。だれにもわかるまい。おれたちがこの旅でなにを証明しようとしているかなど。
編笠をついと上げ、男は花天を見上げた。
「それでも旅の果てで待ってるよ。弥生」
なつかしいその声にじっと耳を澄ませていると、いっとう烈しい花吹雪が舞い、わたくしの如月はもうどこにもいなくなっていた。
・
・
「彼とはもう一度、会うことができたんですか」
尋ねた馨に、さて、と花精は肩をすくめる。
春らんまんの花々を描いた小袖をまとい、結った黒髪に鼈甲の簪を挿した少女は、春の花精そのもののようで、刀など持ったこともないように見える。
「見つけられたのかもしれないし、一生見つけられずに旅半ばで斃れたのかもしれない。きみの想像に任せるよ」
長生きをしなかったと、はじめに語っていた花精の言葉を馨は思い出した。
たった一度の邂逅ののち、彼女の旅はどれくらい続いたのだろう。
「それでも、未練など何ひとつなかったと答えるのが、わたくしの人生なのでしょう」
髪をくくり、男装をして生涯を過ごしただろう少女が、ただの少女のすがたで現れた理由。旅の果てで意中の男に会えたとしても、会えなかったのだとしても、彼女の魂はふたたび少女に戻っていったのだろう。
かける言葉を失くして、馨は目を伏せた。紺地のスラックスに丸い染みがひろがる。最近の馨はだめだ。ほんとうに、だめだ。前はもうすこし切り離して花精たちの話を聞いていられたのに、最近はよく泣く。すぐに泣く。
「少年は泣き虫なのかな」
くすっと愉快がるように口端を上げ、花精がつぶやいた。
「前はこうではなかったのだけど」と馨は言い訳する。
「最近、だめなんだ」
「そうか。けれど、わたくしはだめなほうのきみに会えてよかったよ」
透明な指先で馨の眦をぬぐうようにすると、花精は眉を下げて微笑んだ。
あえかな吐息をふっと涙に吹きかけて消える。
あとはなにもいない。名残のように頬を伝った涙を手の甲でぬぐうと、馨は神前にそっと花を献じた。
/承前/
「馨くん、実はわたし、大事なことにきづいてしまったんだけど」
いつもの待合室でバスを待っていると、鹿乃子が急に真剣な面持ちで口をひらいた。「え、なに?」と馨は訊き返す。
馨と鹿乃子はさっきまで年頃の彼氏彼女らしくいちゃいちゃしていた。詳細は省く。しかし待合室のそばにたたずむ桜の影が、まれに行き交う通行人からふたりを隠してくれるから、ほんのすこし、いつもよりいちゃいちゃしていた。生涯一度のくちづけの話をしていたら、なんだかそんな雰囲気になってしまったのだ。
鹿乃子の切り替えの早さに、馨は少々出遅れる。
「わたしたち、つきあって一年が経ってました」
「そうだっけ?」
「そうなのです。正確にいうと、一年と十日が過ぎてます」
「わすれてた……」
彼氏としてあらざることを素でこぼしてしまったが、鹿乃子のほうも怒るでもなく「ずっと一緒にいるから、新鮮味ないよねえ」とのんびりうなずいた。
馨と鹿乃子は家が近所の幼馴染なので、ほんとうに赤子の頃から一緒にいる。幼稚園も小学校も中学校も一緒だった。中学三年生の終わりに、馨から告白してつきあいだした。
「おばあちゃんの一回忌だったから思い出したの」
鹿乃子はなぜか自慢げに微笑んだ。「馨くんの渾身の告白」
馨としては早くこの話を終わらせたいので、「あー……」とうやむやな返事をして視線を逃がす。しかし鹿乃子はわかってやっているのか、ぜんぜん話をやめてくれない。
「あのとき、わんわん泣いているわたしに言ってくれたんだよね。『ばあちゃんが遠くにいっても、俺がずっとかのの――」
今度こそ馨は叫んだ。
「復唱するな、はずかしい」
えー、と言う鹿乃子はけろりとしている。
「じゃあ復唱はやめるけど、恥ずかしくはないよ。わたしの自慢の彼氏の悪口言わないでください」
瞬きをしたあと、こそばゆいのとうれしい気持ちがぎゅっとこみ上げてきて、馨は花の落ちたアスファルトに目を落とす。
まんかいの桜の下の待合室で、やがて少年少女のわらい声が上がった。
一日一花。繰り返される、馨の日常である。
ここに、桜がいた。生涯一度の恋がため咲いた花だった。
三月/桜(終)
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